【無料記事】戦後政治秘話──熱海と「岸信介別邸」が知る「日本密室政治」の時代

kishi2017-03-02 11.21.46

 2007年、静岡県熱海市梅園町で、さる料理屋が人知れず暖簾を下ろした。贔屓客には、脚本家の橋田壽賀子や、梅宮辰夫・アンナ父娘など、舌の肥えた有名人も名を連ねていた。

 今日、料理屋の閉店など珍しくも何ともない。実際に大した話題にもならなかったわけだが、この料理屋はかつて〝昭和の妖怪〟岸信介の別邸だったと明かせば、興味を持つ方もあるだろうか。

 因縁話ではある。07年といえば、9月に岸の孫たる安倍晋三首相が突然の辞任を発表した時だ。国民の多くが唖然、憮然とする中、12月に岸の別邸と謳っていた料理屋が店を閉じたことになる。

 だが「岸の孫」たる安倍晋三は12年、総理の座に返り咲く。一方、岸の別邸は彷徨を余儀なくされている。

 熱海の岸別邸。そこは実に興味深いエピソードを纏った、戦後政治の鬼門とさえ呼べる場所だ。しかしながら現在まで、安倍総理が別邸を訪れた形跡はないという。

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【写真】静岡県御殿場市の「東山旧岸邸」は一般に公開されている
https://www.kyu-kishitei.jp/
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 旧熱海市若林が、現在の梅園町だ。地名の通り熱海梅園に近く、眺望も抜群。別荘地の中の別荘地といえる。そこに岸信介は1600㎡に及ぶ敷地を持ち、屋敷を構えていた。

 岸は当時、東京都渋谷区南平台で「うなぎの巣」と呼ばれた細長く奥へと延びる邸宅に住み、首相私邸としていた。それはちょうど道玄坂を上がり、現在の国道246号線に面した養命酒ビルの裏手にあった。

 その南平台の邸宅とともに、熱海のほうを別邸とし、ときに財界人や旧知の政治家を招いては鳩首会談よろしく政治談議に花を咲かせていたのだ。その熱海別邸で、戦後政治の密談史に名を残す事件が起きた。

 安保条約の改定に政治生命を賭ける岸が、絶体絶命の状況にあったときのこと。

「やがて警職法の審議が国会で行きづまり、安保条約改定の時期尚早論も出て、岸政権は危機に瀕し、岸信介は三十四年一月二十四日に総裁公選をくりあげておこなうのだが、このとき熱海会談というのがあった。同年の一月早々に、岸は反対勢力の領袖である大野伴睦、河野一郎の両実力者を別荘に招き、岸政権への協力を依頼する」(岩川隆『巨魁 岸信介研究』ちくま文庫)

 警職法の改正は、岸が安保改定とともに進めていた、内閣の2大課題の1つだった。

 つまり政局は次のような次第だった。安保条約の改定という最大の政治課題に向け、行き詰まった状況を打開するために岸が熱海の別荘に有力者を集めた。

 そして、総理のイスを大野に〝禅譲〟することと引き換えに、安保改定への協力を取りつけたのだ。

「『自分のあとの総裁は、ぜひあなたに』と暗示しつつ頼むと、大野は、『佐藤栄作くんさえ、今後の言動に気をつけてくれれば……』と淡泊にこたえたという。」(『巨魁』)

 しかし岸は結局、この約束を反故にし、大野は総理の座に着くことなく世を去り、その政治生命を終える。

 ところで、熱海会談のこの逸話には、単なる昔話には留まらない意味があった。安倍総理は43歳のとき、こんなことを書き記している。

「例えば、安保を成立させるために大野伴睦さんを説得した。その中で、大野さんに次の政権を渡す念書を書き、大野さんを騙したと世間的にはいわれていました。そこで、その念書の件は本当なんですかということを、ある時、私と祖父と私の伯父とで昼飯を食べている時に、伯父が聞いたんです」(安倍晋三・栗本慎一郎・衛藤晟一『「保守革命」宣言―アンチ・リベラルへの選択』現代書林)

「伯父」とは、おそらく岸の長男である岸信和を指す。熱海の別邸は岸の死後長く、この信和が所有していた。

 この信和の問いかけに、岸はこう応える。

「『あれは、確か書いたなあ』と祖父はいいました。……祖父は食べながらちょっと考えていた。そして、『あれを書かなければ、安保はどうなっただろうか』と言ったんです。」(前掲書)

 その岸の話を聞いた晋三は急転直下、それをみずからの政治信条に引き付け、こう結論付けたのだ。

「例えば、当時の大野派の協力が得られない。党内もうまく行かない。よって安保条約も成立しない。とすると、人間の普通の社会での道徳は完うできるけれども、政治家としての本来の使命は完うできないでしょう。だとすれば、日本の運命はどうなるのか。だから、政治家は『結果責任』をより厳しく問われなければならないのではないか、とその時私は漠然と感じたわけです。」(同)

 この本が出版されたのは96年のことだ。しかし、文中にある「結果責任」を放棄したかたちで、岸の孫が政権を投げたのが07年9月。まるでその後を追うかのように、熱海の岸別邸もまた幕を下したのだから、皮肉な符号といえた。

 岸はこの現代政治史に刻印される華麗なまでの寝技で安保改定を実現させ、歴史にその名を刻んだ。その舞台が熱海だったということも、更に興趣が尽きない。遡ること1881(明治14)年にも、熱海では国会の運命を決定付ける歴史的な会談が行われてもいた。

 伊藤博文、大隈重信、井上馨の3人が集結して国会開設について話しあった、元祖「熱海会議」である。

 ところが、国会設置という日本の歴史上最大のドラマにも関わらず、この熱海会議の記録は一切残っていない。

 もちろん、記録が残っていない会談がそもそもあったかといえるのか、という疑問がある。それは、1881年10月14日付けで福沢諭吉から出された伊藤博文と井上馨の両氏に宛てて送られた手紙にそれが記されているだけなのだ。

 先に岸別邸を「戦後政治の鬼門」と形容したが、それは熱海という土地にも当てはまる。日本の政治史上において、驚くほど節目節目の舞台となってきた。特に戦後における「密室政治」の本丸だったことを考えれば、熱海こそが我々有権者にとっての鬼門だったことになるわけだ。

 話を元に戻そう。先に見た岸信介・大野伴睦の熱海会談だが、その場には児玉誉志夫も同席していた。元毎日新聞記者の大森実は児玉との対談を行った際、この真相を問い詰めている。74年5月25日「事件の真相が聞きたい」という大森の問いかけに、児玉は応える。

「…大野さんが『約束が違う。岸はおれを第一番にするといったじゃないか』というから『それは先生悪いぞ、この条件ができたときは、大野と河野が両輪のようになって岸を守る、盛りたてるという約束じゃなかったか。それを大野先生、あなたがコトを急いで、岸が最後の断末魔のとき、入閣してくれというのに、あなたは入閣されなかったじゃないか』と。…『岸内閣をつぶしたのはあなただ、はっきりいえば。だから、これはあなたがいう権利がないんだ。』」(大森実『戦後秘史』シリーズ・講談社)

 今となっては証言者のないこの権謀術数の宴に〝立ち会った〟のが、熱海市梅園町の旧岸邸だった。

 料理屋として使われている間も、居間に加えて寝室も当時のまま。熱海の急峻な斜面に建つその広大な庭からは、空気の澄んだ冬の朝、正面には熱海湾に浮ぶ初島が望め、右手には熱海城が間近に迫る。そんな景色を眼下に、魑魅魍魎たちが繰り広げた政の舞台がまた1つ、姿を消そうとしている。

 残念ながら「場所が梅園のそばなので、買い取るという可能性もゼロではないが、今のところは買い上げる予定はない」(熱海市緑農水課)とか。
 
(無料記事・了)