【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第6回「流儀」──小池隆一と小甚ビルディング、そして「江上剛」「松尾邦弘」「小川薫」

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 小池隆一がメディアの取材に応じ、その発言が報じられたのは1997年の逮捕直前だった。

 具体的には産経新聞の3月26日朝刊になる。第1社会面に掲載された『野村証券利益供与事件 総会屋と一問一答』を見てみよう。

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【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【購読記事の文字数】8000字
【写真】野村・一勧事件で記者会見する第一勧業銀行の藤田一郎新頭取、近藤克彦頭取、奥田正司会長、摩尼義晴新会長(※右から=1997年05月23日、産経新聞社撮影)
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<親族企業に野村証券から利益供与を受けたとされる小池隆一代表は今月中旬、東京都内で産経新聞の取材に応じ、次のように話した。

 野村証券が利益供与を図ったとされることについて、「基本的には私の取引じゃないので、よく分からない。弟の会社の証券投資の一環で、私は株主でも役員でもない」とした。

 しかし、一任勘定取引については、「一任勘定取引を始めたのは平成元年くらいから、(弟が)個人の名前でやっていたときのことだろう。当時、(一任勘定取引は)違法という認識はまったくなかったし、すべてが一任勘定だったわけではない。独自の判断で売買したが、相場観が悪かったから損が出てきて、中には気の毒だからということで、一任勘定的なものもあったんだろう」と取引自体が過去あったことを認めた。

 野村証券との関係については、「商法改正前には確かに深い付き合いはあったが、改正後はほとんど出入りしていない」と発言、田淵節也顧問、田淵義久相談役との付き合いは「一切ない」としたが、総務担当の藤倉信孝前常務とは「一度くらいどこかで会ったことはあるだろう」と面識があることを認めた>

「一任勘定取引」とは耳慣れない言葉だ。しかし例えば98年に大きな話題となった、衆院議員、故・新井将敬(自民党→自由党→新進党→無所属・東京4区)の自殺事件も、この一任勘定取引が絡んでいたとされる。

 ちなみに新井の事件と野村証券は全く関係がなく、新井側の舞台は日興證券(現・SMBC日興証券)だ。同社からの利益供与疑惑など一連の証券スキャンダルが発覚。検察当局からの追及も受けていたという。自民党や新進党などで常に将来を嘱望されていた新井氏は潔白を主張しながら、東京・高輪のパンパシフィックホテルで首を吊った。

 この一任勘定とは、証券会社に預けた金での運用が前提なのは論を俟たないが、通常の取引と異なるのは「必ず収益を上げる」という〝暗黙のルール〟が存在したことだ。そのため仮に運用で損益が発生すれば、証券会社は「利益を付け替える」必要に迫られた。預ける側は「一切合切」を証券会社に任せるという意味もあって「一任」と表現されたわけだが、証券会社は政治家など大切な顧客の窓口として機能させてきたのだ。

 97年の野村証券事件や、あるいは98年の新井将敬自殺などが起きても、一任勘定取引という言葉は大手を振って表通りを闊歩していたわけではなかった。しかし証券会社の、特に「総務屋」と呼ばれる総務担当者の間では当然、知らぬ者はなかった。いや、もし知らない総務屋がいたのならモグリと言われかねない時代風潮が残っていた。

 小池が逮捕された野村証券や第一勧業銀行(現・みずほホールディングス)などの事件でも、企業側の逮捕者には「総務屋」が多く含まれていた。いや、経営トップ陣も含め、逮捕者の大半を総務屋が占めたとみるべきだろう。

■「総務屋絶頂期」の航空業界と小池の〝蜜月〟

 では「総会屋」ではなく、こうした「総務屋」は常々、どのような仕事を行っていたのだろうか。

 もちろん小池も、往時は総務屋と行動を共にしていた。

 例えば日航や全日空だ。格安航空会社が新規参入して競争が活発になってきた昨今では想像もつかないが、日本の航空業界における80〜90年代とは、国策会社に等しい日本航空が〝ガリバー〟として君臨し、それに挑む全日空も業績伸長を果たした時代、と見ることができる。

 航空業界全体のパイが拡大していく。このような時期こそ、総会屋と総務屋の出番だ。企業がイケイケドンドンで伸び盛りの時に総務屋の役目は重要性を増す。

 もともと総会屋と総務屋は心理的に一体化しやすい。与党総会屋と総務屋のコンビを見ればすぐ分かる。だが、それだけでなく、高度経済成長を経て日本経済が急伸し、企業が成長していく過程で、むしろ「総務屋=企業側」が総会屋を必要とした面もある。こうした〝時代ニーズ〟が存在した点は絶対に忘れてはならない。

 特に当時の日航は小池に限らず、多くの総会屋を世界規模のネットワークを活かして接待した。こうなると全日空は分が悪い。何しろ日航は世界中の名所へファーストクラスを使って接待したのだ。

 ヨーロッパを小池と回った際、ノルウェーのフィヨルドがとりわけ印象深かったと振り返ったことがある。

「一体どうして、あんな地形ができるのかと思うくらいなんですよ。地形が凹凸して入り組んでいて、そこに海の水が入っているんだけれども、船で奥まで入っていけるんですね。上をみると、もうほとんどが切り立った崖にしか見えないくらい鋭く削られていてね。昔の氷河で削られたそうなんですけど、こんなに鋭く抉れるものかというくらいね。それで崖の下まで船で行けるんだけれども、船の縁から下を覗き込むと、これがまた波一つない水がどこまでも澄んでいて、どこまでも下が見えるんですよ。まるで水面がないみたいに透明でね。崖がずーとずーっと下まで、どこまでも切り立って落ちて行くのが、どこまでも見えるんですよ。もう怖いくらいにね。空から落ちて行くみたいな感覚になるんですよ」

 今は世界遺産でも、風光明媚なリゾート地でも日本人で溢れている。退職金を手にした元サラリーマンと、その妻という2人組が一般的だろうか。

 しかし小池がフィヨルドを自分の眼で見たのは、誰でも、どこでも手軽に旅行ができる時代より、ずっと前のことだ。その頃にフィヨルドの光景を語ることができたのは、よほど辺境に惹かれた商社の駐在員か外交官かという話である。

 総務屋も総会屋も、こんな鷹揚な時代が未来永劫に続くとは、さすがに思っていなかったかもしれない。だが、終焉は予想より早く訪れたというのは本音だった可能性はある。この後、小池自身を含め、彼らを取り巻く状況はまさに乱世となる。時代が急速に「鷹揚さ」を許さなくなっていくのだ。

■いまだに残る謎──総会屋と第一勧業銀行の「たすき掛け人事」の関係

 週刊誌『AERA』(朝日新聞出版)97年6月16日号に掲載された『抗争に総会屋使う第一勧業の過去 総務担当役員ら逮捕』の記事は非常に興味深い。

 記事には署名があり、「尾木和晴」となっている。後にAERA編集長を務めた尾木和晴が執筆したものだと分かる。

 それはともかく、記事のリードは次のような具合だ。

<一勧は総会屋や右翼の子弟まで「預金」している。総会屋は「人事介入」を担保に、子弟の採用を利息として、トップとのなれ合いを深めた>

 続く書き出しを見てみよう。

<第一勧業銀行の総務部関係者四人が逮捕された五日、ある行員は複雑な心境だったろう。行員の父親は、名前の知れた右翼団体の代表者。かつて同行総務部には足繁く通っていた。この行員は、有名私大を卒業後、一九八八年に入行。支店を経て現在は本店で勤務している。同僚の一人は、「これも人事的な利益供与ですよ。これまでにも、総会屋の娘を採用したり、ウチではいままでにいくらでもあった」と指摘している。こうした指摘に当人は、「生保や銀行という金融機関を中心に就職活動をした。父親が右翼だといって、私はコネ入社ではないと信じている。他の都銀にも総会屋の子弟はいますよ」と反論する。第一勧銀広報部では、「この件でコメントは一切できません」と拒否しているが、このような採用の例は、他の企業にも多いことが分かった。第一勧銀や野村証券に大きな影響力を持った総会屋の木島力也氏(故人)の長男は現在、神戸製鋼所に勤務していることが分かっている。また長女は九一年まで、三菱地所に勤務していた。総会屋の小池隆一容疑者(五四)と野村証券の武士二郎元常務、広域暴力団幹部が住んでいる都内の億ションは、三菱地所が分譲した。三菱地所の高木丈太郎会長は、かつて総務部長を経験し、木島氏とも親しかったといわれている>

 木島力也──小池の実質的な師匠にあたる人物である。

 この第一勧銀事件では、ノンバンクを迂回して小池に融資された約110億円が利益供与の商法違反にあたるとし、当時の担当常務と総務部長、そして2人の総務部副部長が東京地検に逮捕されている。

 逮捕された彼らが「総務屋」であることは明白だが、AERAの記事は彼ら4人を引き立てたのは木島だったと指摘している。それほどの影響力を行使できたのは、何が原点だったのか。更に記事を見てみよう。

<木島氏が第一勧銀に関わったのは七一年、第一銀行と日本勧業銀行の合併時にさかのぼる。合併時に第一銀行の井上馨会長が総務部長だった頃、木島氏との交流が始まったといわれている。

 第一銀行は日本勧銀との合併前、三菱銀行との合併話があった。だが、当時の長谷川重三郎頭取が進めていた話に井上会長が猛然と反対した。

 戦前、第一銀行は三井銀行と一緒になって帝国銀行となっていた。戦後、財閥系の三井側とうまくいかず、分裂した経緯があったため、財閥系の三菱銀行との合併は懸念していたといわれている。

 総会屋によれば、井上側についた木島氏は、激しく長谷川頭取をはじめとする合併推進派を攻撃するようになる。

 井上会長は、「相手のプラス情報などいらない。マイナス材料があればすぐに持ってこい」と木島氏に限らず、嶋崎栄治氏(故人)など出入りしていた総会屋に檄を飛ばしたという。

 結局、三菱銀行との合併はご破算になり、財閥色の薄い日本勧銀との合併となる。井上会長は、頭取に復帰して、合併推進派の役員を事実上、解任するという強硬策に出た>

 確かに、これだけの恩義があれば、頭は上がらないに違いない。記事によると、当時の第一勧銀は例えば、取締役候補の選考にも、総会屋の評価が反映されることがあったのだという。さすがに未来の頭取候補に威光を発揮させることはなかったが、<ボーダーライン上>の場合は生殺与奪の権を握るケースもあったようだ。

 70年代後半の都銀は、数千人の総会屋、右翼などを出入りさせ、毎月1億円の賛助金を払っていたという。「使途秘匿金」といった裏金ではなく、帳簿に顕れる立派な表の金だ。

 ところが78年、第一勧銀は総会屋に「絶縁宣言」を通告する。賛助金のカットを表明したのだ。AERAの記事によると、第一勧銀が総会屋との縁を絶ちきろうとしたのは、やはり株主総会が原因だったようだ。同年6月の総会で与党側であるはずの総会屋が立ちあがって演説を始めたのだ。

 内容に攻撃性はなく、混乱は起きなかった。それでも第一勧銀の「総務屋」たちは「与党でも、やはり総会屋は何をするか分からない」とショックを受けたという。

 それでも結局、真の忠誠を誓う総会屋とは結びつきを深めたというのだから、本当の意味での絶縁ではなかった。AERAは第一勧業銀行の合併母体である「第一」と「勧銀」の出身者が会長と頭取を交互に務める「たすき掛け人事」が<必要以上に総会屋からの攻撃材料を気にする>ようにさせたと指摘している。そこに<木島氏やその後の小池氏がうまく食い込んでいった素地>があったという。

 確かに「素地」の1つであったことは間違いない。だが、それが総会屋側から見て、どれだけ旨みのある〝隙〟でありえたのかは、実のところ未だに判然とはしていない。事実として断言できるのは、そのたすき掛け人事が繰り返された果てに、小池が逮捕されたということだけだ。

■建物として存在しているわけではなかった「小甚ビルディング」

 この第一勧業事件で、銀行の危機的状況を救うべく、世直しならぬ「企業直し」を前面に押しだした「4人組」が登場する。広報部を中心としたメンバーで、いずれも当時は中堅の行員に過ぎなかった。その中には作家に転身した江上剛と、西武ホールディングスのトップに就いた後藤高志がいる。

 後に江上剛は、月刊誌の『文藝春秋』に当時を振り返った原稿を寄稿したことがあった。それを目にした小池は、こう言った。

「私が現役の頃、もちろん小畠さん(註:江上剛氏の本名)の名前は聞いたことがありませんでしたね。だって小畠という方は、広報の人でしょ。私らは広報と付き合っていたわけではないから。それに寄稿では『小甚ビルディングに担保以上の過剰融資をした』ことが問題だ、みたいな書かれ方をしていたけれども、だって、過剰融資も何も、そもそも小甚ビルなんていうビルも建物も、そんなものもないんですよ。いわゆる担保価値以上に貸し付けるオーバーローンみたいな指摘だけれども、でも、そこからして間違っていますよ。そもそも担保なんてないんだから」

 これに続く小池の説明には、目から鱗どころか、いかに世に定着した逸話なるものが信用ならないかという驚きを禁じ得なかった。小池が逮捕された時に事件の〝舞台〟とされた「小甚ビルディング」は、あくまでも法人名であり、あるいはその不動産物件そのものを喚起させうる名前のビルは存在しなかったのだ。

 念のため、それなりの配慮を示した記事を引用しておこう。99年9月8日の朝日新聞夕刊に掲載された『利益供与で一勧元会長に有罪判決 東京地裁「最も重い役割」指摘』の記事だ。ここに、

<判決によると、奥田元会長は他の元幹部らと共謀して九四年七月から九六年九月にかけ、同行の株主である小池元代表の親族企業「小甚ビルディング」あてに、系列ノンバンクを通じて総額百十七億八千二百万円をう回融資し、利益を提供した>

 とある。あくまで「小甚ビルディング」は「企業」と記述されているのだ。

 だが、企業犯罪を追及する側から見れば、そのために一層、性質の悪い総会屋と映ったかもしれない。何しろ、わざわざ企業名に「ビル」などという言葉を付けているのだ。単なる法人名を、あたかも現実に存在するかのような不動産に偽装した、と判断されても仕方ないだろう。

 そして、この「小甚ビルディング」という法人名が、その後の小池に、どれほどの影響を与えただろうか。これまで小池は事件の舞台裏などをメディアに語ることは一切なく、ひたすら記者たちとの接触を断って生きてきた。

 事件の本筋は当然ながら、枝葉のエピソードに至るまで、自分からは何も明かさない。検察が作成し、小池が納得した調書が裁判所に提出されただけだ。それは公判維持に大きく寄与しただけでなく、数多の企業関係者を救ってもいた。何しろ企業側の「言い分」を小池は一切否定せず、全てを追認・黙認したからだ。

 そもそも小池は逮捕当初から、全く抗弁しない覚悟を決めていた。2004年から06年まで検事総長を務めた松尾邦弘は、小池の取り調べ時は東京地検の次席検事だった。

 小池の公判が始まる頃だ、ある人間を通じて小池の元に〝松尾検事からのメッセージ〟が届いた。

「小池さん、次席から『喋らないでくれ』って頼まれました」

 勘の早い小池は、その一言で了解した。

「分かってるよ、と伝えておいてくれ」

 小池は、もともと政治力の高い野村証券との付き合いが長い。そういう意味では鍛えられていた。検察側の立件に向けた捜査で小池は自分の調書について、野村の逮捕者が認めた〝筋書き〟に沿ったものだけに了解を与えていた。

 結局、商法違反で実刑を食らっても、最高刑で懲役9か月に過ぎない。詐欺罪の懲役10年などに比べれば、ごく僅かな時間を凌げばいいだけなのだ。ちなみに99年4月、1審出小池は懲役9か月、追徴金約6億9300万円の実刑判決を受けた。すぐに控訴権放棄の手続きを取り、検察も上訴を放棄した。

 そもそも小池は逮捕当初から何も喋るつもりはなかったのだ。だが企業側は違った。危機感を募らせたはずだと小池は考えている。

「公判で小池が何を喋るか、皆が注目している。企業にとっては逮捕者が出ただけでも〝十二分〟な痛手なのに、小池が腹いせに全てをぶちまけるようなことをされたらたまらないという思いがあったんでしょう」

 そして松尾から「沈黙要請」が届いたわけだが、恐らく小池は不満もあったに違いない。彼の性格からいって、「黙っている自分に疑心を抱くのは、これまでの信頼を裏切るようなものだ」という怒りを抱くことはない。

 単純に「小池が喋りかねない」と思われた時点で納得がいかないのだ。それほど小池隆一という男は利得より自身の美学を優先させる。実際のところ、そうした性格が仇となってしまい、今日の顛末に繋がっているとも言える。

■小池が小川薫の〝腹心〟になった瞬間──

 小池の口の堅さ、重さは筋金入りである。作家の大下英治は、さるエピソードを拾っている。

 ちなみに、このエピソードは、小池が前半生のピークへ向かう時期のものだ。登山で言えば「全国5000人を越える総会屋」の中から、アタック隊=ごく僅かなトップグループに入るきっかけとなっているように伺える。

 それは小池の認識とは大いに異なる。あくまで〝外側〟から見たエピソードなのだ。しかし、外側からの見方も、1つの見方であることは間違いない。

 1982(昭和57)年、総会屋潰しとも言われた商法改正が施行され、その僅か2週間後、大物総会屋である小川薫が見せしめさながらに恐喝容疑で逮捕。結局、実刑が確定して翌83(昭和58)年8月に栃木県の黒羽刑務所で服役することとなった。

 小池隆一が小川薫の右腕格だったことは前に触れた。例えば71(昭和46)年11月末、王子製紙の乱闘事件で逮捕されても、小池は小川薫の関与を一切認めず、いわゆる「男を上げた」と評判になる。

 この小川グループに、玉田大成という男がいた。玉田は小川薫の妹と結婚していた。この小川薫の義弟は、早稲田大学のボクシング部と関係があり、その人脈で三菱電機に務めている仲間がいた。

 ある時、この仲間の男から「三菱電機が3月決算を前に、架空売上を計上している」との情報が入った。玉田と小池は共に三菱電機のトイレに身を隠した。社員たちが帰った頃を見計らってトイレから出ると、架空売上の書類を見つけて持ち去った。少なくとも当時は、どこの企業も決算前には、こんなことをしていたものだ。玉田は三菱電機を脅すつもりはなかった。しかし小池は三菱電機に電話を入れた。

「こんな書類がある。粉飾決算をしているんじゃないか。こっそり、取りに来い!」

 小川薫は三菱電機と親しかった。特に総務部長と懇意にしていた。当然ながら小川は、小池と玉田の恐喝に烈火のごとく怒った。

「おどれら、何をしとるんなら。出入り禁止じゃッ!」

 とはいえ、玉田は小川の義弟である。さすがに出入禁止にはできなかったが、小池の方となると、さすがに同じようにはいかない。

 その頃、小池は郷里・新潟の味噌を『論談同友会』の会長、正木龍樹にも送っていた。小池は正木に言った。

「よく、正木さんに似ているといわれるんです、自分」

 うまく正木の心もくすぐっているうちに、あちこちの総会で1人活発に発言している小池の活躍は、小川の耳にも届いていく。だが用心深い小池は、虎の尾を踏むようなことはしない。小川らが押さえている銀行や証券会社には手を出さなかった。その代わり、日本セメントをはじめとするセメント業界など、総会屋があまり狙わない企業を狙った。

 遂に、小川が言った。

「小池を、呼んでみいー」

 それから小川は、小池を連れて発言するようになる。ただ小池は新潟出身ということもあるために、広島出身者ばかりの事務所にいても話が合わない。回りも小池を冷ややかな眼で見ていた。

「このあいだまで、玉田の下にいた人間が、三菱電機の泥棒ではい上がってから、最近は社長としゃべらせてもらうようになったけぇの」

(第7回につづく)