【連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第8回「角栄」──〝田中派ロビイスト〟に襲いかかった「角栄引退」

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 2010年の晩冬、赤坂の焼肉屋『牛村』に樽床伸二が現れた。当時は民主党政権で、樽床は与党議員。ちなみに2年後の12年、野田内閣の時に樽床は沖縄・北方担当大臣に就任した。

 春は近いとはいえ、夜の赤坂はまだ寒かった。その焼肉屋には山田慶一と数人の男たちが奥座敷で会合に臨んでおり、そこに遅れて樽床が駆けつけたのだ。
 
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【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】Amazon著者ページ「佐藤昭子」より
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 この焼肉屋『牛村』だが、以前は韓国人のママが仕切る『クラブ華』という店だった。奥座敷が2つ。襖で仕切れば2部屋になる。手前はクラブ時代の名残だろう。およそ焼肉店には似合わない湾曲したバーカウンターと、駅前の安蕎麦屋のようなテーブル席が詰めるようにして置かれている。テーブルの間を仕切るのは、天上まで届く青く半濁したガラスだ。

 中途半端にクラブ風の造りが残っている。不景気となり急遽、クラブから焼肉屋に宗旨替えしたようだ。いや、焼肉屋が駄目になれば、いつでもクラブに戻せるよう、あえて中途半端な内装にしているのかもしれない。

 いずれにせよ、この牛村で奥座敷の壁が仕切られることはなく、いつも開け放たれていた。しかし、この日は襖が仕切られ、密室には声が篭もっていた。中で謀議が開かれていたのだ。

 数人の男たちは、山田に懇願するような目を向け、小声で会話する。そこへ「遅れてすいません」と腰低く1人の男が現れた。これが樽床だった。すかさず、山田慶一が声を響かせる。

「民主党の総理候補ナンバーワンですからっ」

 樽床は12年12月の衆院選で落選の憂き目に遭うのだが、この頃は直前の参院選で返り咲いたばかりだった。

 肩書は衆院環境委員長。「選挙に弱い」との評判通り、樽床は当選と落選を繰り返していた。山田の「総理候補ナンバーワン」は相当に仰々しいとはいえ、民主党内での人気は悪くなかった。若手の次期総理候補として推す声はあり、結局はその後の民主党代表選にも出馬、健闘を示す。

 この日、山田慶一と樽床の他に集まったのは、新日本製鐵(現・新日鐵住金)プロジェクト開発部開発室長、新日本製鐵八幡製鉄所総務部開発企画グループマネジャーの2人。彼らを引き連れてきたのは、港湾土木に強いマリコン・東亜建設工業建築事業本部副本部長である。(※筆者註:肩書などはいずれも2010年当時)

 東亜建設工業の副本部長は、旧知の山田慶一に新日鐵の社員を紹介し、彼らは樽床に陳情を行う、というのがこの夜の算段だった。

 現職の環境委員長が登場すると、新日鐵の社員らはいささか緊張した面持ちとなった。対する山田は、時には樽床と親しげな素振りも見せた。しかし、いつもの遠慮深さは絶対に忘れない。とにかく腰が低い。人によっては「慎み深い」と感心しただろう。であれば新日鐵の社員らは、山田と樽床は極めて親しい間柄なのだと受け止めたに違いない。

■「架空の城塞」に出入りする下地幹郎、亀岡偉民、石川雅己、そして小澤忠

 これより1年前の2009年、樽床は溜池のインターコンチネンタルでパーティーを開くが、その直前に山田慶一の事務所を訪れている。この頃は虎ノ門にあったのだが、樽床は入ると山田の目の前で両手を合わせ、頭を机に伏せた。〝政治資金をお願い〟と、そんな合図だったのだろう。

 すると山田は「分かってまーす」と陽気というのか、軽いというのか、そんな態度で承諾した。政治家に限らず、山田は気軽な返答を常としていて、だからこそ相手の気分を害さない。

 山田慶一に長らく寄り添う側近中の側近がいるのだが、彼も「たいしたもんですよ。身内にはともかく、外に対しては絶対に不快な思いをさせない」と感心するわけだが、一方で山田の言葉がどこまで誠実なもので、どこまで真実が含まれているかは、もちろん別の話だった。

 山田の嘘を思い知らされ、骨の髄まで懲りた人間たちは、山田から離れていく。こうした離合集散は常に繰り返された。だが、山田慶一の元から人が去って行くだけでなく、それと同じぐらいの新しい人間が──山田がどんな状況に置かれていようとも──必ず集まってくるのだから不思議だった。それはつまり「新しい人間=企業の担当者」が、それだけ切迫した思惑を持っていることを意味した。

 山田の事務所には当時、やはり民主党政権で連立を組んでいた国民新党の幹事長・下地幹夫や、自民党の亀岡偉民らも馳せ参じていた。更には千代田区長の石川雅己が、この山田詣での常連として顔を見せていた。

 その山田慶一の事務所は「架空の城塞」と言った趣を持つ。山田の情勢に応じて半蔵門日本交通ビルなどを転々とするからだが、どんな場所に構えられても、決して外されることのない〝看板〟がある。

 元警視庁2課の捜査員で、退庁後は司法書士に転じた小澤忠の机である。山田の事務所は、どこに移転しても必ず小沢忠の事務所を兼ねているのだ。

 司法書士といえども、などと書けば本職の方々に失礼だが、ご寛恕をお願いしたい。小澤はディズニーランドを経営するオリエンタルランド(千葉県浦安市舞浜)の顧問などを務めている。要するに司法書士というよりは「警視庁に顔の利く1人」なのだ。

 かねてから山田を〝監視〟する者たちは、小澤の役割を「門番」とか「露払い」、あるいは「用心棒」として置いていると見ていた。例えば小澤は週刊誌などメディア業界にも顔が広い。山田の事務所にある小澤の机には、週刊現代(講談社)編集部などからの支払い調書が届いていたのを目撃されている。おそらく、知り合いの編集部員が払った取材謝礼だろう。つまり小澤をネタ元としているメディアの人間がいるのだ。

■「表舞台」から必ず姿を消す山田慶一

 今回、山田に仕事を依頼したのは新日本製鐵だった。国土交通省が進めているスーパー港湾計画に関する新日鐵の意向を内々に伝えるという内容だった。

 日本の港湾には、海外から輸入する鉄鉱石などを積んだ巨大タンカーが接岸できる場所が極めて限られている。そうしたタンカーが停泊できる「スーパー港湾」を整備することが日本の基礎素材産業である鉄鋼メーカーにとって大きな意味を持ってくる。

 山田から紹介された樽床は話を聞き、翌日の打ち合わせに入った。樽床は新日鐵に対し、ある人物を引き合わせるつもりだった。

 そして翌日の早朝、衆院議員会館の地下にある会合用の部屋に通された新日鐵の男たちの前に樽床が現れ、更に腰を折った小柄な男も現れた。国土交通省総括審議官の内田要である。

 内田と樽床は互いに、新日鐵の正面を譲り合う。「いやいや、委員長、委員長、こちらに」と、いかにも慇懃な腰遣いで内田は樽床を立てるが、樽床も「いやいやいやいや」と謙遜してみせる。大げさな所作は歌舞伎を彷彿とさせるが、そんな所作を見せつけられながらも、新日鐵の和田は緊張しているのか、ひたすら押し黙っていた。

 この内田だが、後に国交省の土地・水資源局長を経て、都市再生機構(UR)の副理事長として転出するが、当時は総括審議官として施策調整に当たっていた。

 樽床は新日鐵の陳情を、審議官の内田に振ったわけだ。新日鐵の和田たちは用意してきたカラーの説明書を渡しながら、いかにスーパー港湾の整備が日本の国土振興にとって必要か力説する。それを内田は、なるほど、なるほど、と繰り返し頷いてみせた。ありがちな陳情の場面だが、1つだけ異例だったことがある。その瞬間、肝心の山田が席を外してしまったことだ。

 山田は「表舞台」には近づく素振りさえ見せない。自分自身が口利きを仕掛ける場合でも、人目に付く場所は慎重に避ける。身分証明書などの提示が求められる場面では、慎重に同行者を選ぶ。それは恐らく山田が在日であること、つまり外国籍であることが表面化する状況を避けているとも思われていた。

 例えば以前、山田は海外に向かう時、成田空港で同行する日本人をよそに、出国手続きの入管ゲートで列を離れたことがあった。

「私、ちょっと……。後からいきまーす」

 言いながら、山田は外国人用の出国書類を取りに、脇に逸れたのである。同行した日本人らは、それを見て、山田は言い伝えられているように在日であるというのは本当で、さらに、いまだ日本国籍を取得していないことを知る。

 山田には6人とも言われる妻がいるが、自身で「1度も籍を入れたことがない」と公言しているのは、つまり外国籍であるが故だったのかもしれない。更に2001年にアメリカで9・11テロが発生すると、議員会館や省庁などでは格段に入館手続きが厳しくなった。こうした場所にも、山田は極力近づかない──ように映っていた。

■陳情を処理できなかった民主党政権

 話を元に戻そう。山田は肝心の場面で姿を消したとは言え、新日鐵社員の目の前で樽床を「次の総理候補ナンバーワン」と評し──少なくとも当時は、お世辞ではなかった──その樽床が国交省への水先案内人を買って出てくれた。「山田さんはやっぱり凄い」と思わせても不思議はないだろう。

 しかし皮肉なことに、2009年に民主党政権が誕生したために、山田商法とも呼ばれるロビー活動と、巨額の利益を生むコンサルタントビジネスの「実効力」が決定的に削がれてしまっていた。

 自民党は国会内に設置される各委員会と、そこに集まる族議員によって権益プロセスを構築し、いわゆる55年体制下で長く固定化してきた。それを「政治主導」の名の下に民主党政権が奪い去ったのだ。

 よく知られているように族議員の力の源泉は、官庁権益などキャリア官僚の利害関係と阿吽の呼吸で裏取引を行うところにあった。官僚側は法案を通し、施策を実現したい思惑を持つ。政治家は陳情の実現化させ、施策を展開させることによって、自身の職業政治家としての安定を確保し、ついでにレピュテーションマインド(尊厳欲)も満たす。互いが利益を得られるWin-Winの互恵関係が成立していた。

 ところが民主党政権は基本的に、族議員が存在しなかった。そのため官僚サイドは、どのラインに権益プロセスが存在するのか見極めることだけでも往生するようになった。

 この変化は、当時の法案成立数が端的に示している。09年から12年まで、3年間の民主党政権で最終的な法案成立率は67.7%だ。自民党政権が常に80%台を維持してきたのと比べると雲泥の差と言っていい。

 省庁の権限、所掌は法律が全てだ。法律が存在することで、政令や省令などの細かい規則を定めることができる。そうして官僚は実社会に対する指導権を表現するわけだが、となれば法律を通せない政治家など全く魅力がないことになる。

 樽床も自分自身で国交省の総括審議官たる内田を紹介したわけだが、これは自民党時代では考えられないプロセスだった。本物の族議員なら民間サイドと官僚サイドの両方から陳情が議員会館に届く。それを揉みながら、官僚との裏交渉を重ねていくわけだ。

 だが樽床には、そんな能力も権限も、何より経験がなかった。だから陳情を役所に丸投げしてしまう。極めて皮肉なことに、「政治主導」を謳う民主党政権は、陳情における民間と官僚の線を〝一本化〟してしまったのだ。正真正銘の「官僚制」を実現してしまったとも言える。

 それと同時に山田慶一という自民党族議員の権益プロセスを体現し、その一角を占めることで権勢を誇ってきたロビイストにとって、この変化は死活問題に直結した。文字通り「おまんまの食い上げ」の危機を迎えたのだ。

 加えて、樽床に役所への水先案内を頼んだ頃、山田は別件の大問題を抱えていた。ひょっとすると新日鐵の陳情など、どうでもよかったかもしれない。

■バブル崩壊まで脈々と生き続けた「角栄の金脈」

 2010年3月11日、1人の女が、その生涯を閉じた。

 名は佐藤昭、もしくは昭子──。田中角栄の側近中の側近。自民党の若手代議士から、こぞって「ママ」と呼ばれた。後援会組織・越山会の「金庫番」や「女王」と形容されたこともある。

 かつて山田は、小池隆一に以下のようなことを語ったことがある。多少、自慢めいた口調で、いささかの高揚感も含んだ山田の声音を、小池は鮮明に憶えているという。

 山田は、こう言ったのだ。

「確か25歳とか、26歳とかだったんですが、僕は田中角栄の謦咳に接し、その時の若さで色々な教えを受けたことが、その後の大きな仕事につながったんですね」

 その時小池は、常に腰の低い、いつもの山田とは異なる側面を見たようだ。

「その若さで、と謙遜するんだけど、半分は自慢なんだよね。田中角栄の謦咳に接したというのが本当なのか嘘なのかは分からない。けれども、佐藤昭子と仲が良かったのは間違いない」

 佐藤昭子は毎日毎晩のように麻雀に明け暮れたが、そこには必ずと言っていいほど山田も加わっていた。そして卓を囲むのだが、牌を打つのは辺りのサラリーマンではない。自民党全盛期の国会議員たちだ。おまけに最大派閥を誇る田中派が少なくないのは、佐藤昭子の役割からして当然だろう。

 山田は現在60代。25歳頃と言えば、1977年前後になるだろうか。74年には月刊誌『文藝春秋』11月号で立花隆の『田中角栄研究─その金脈と人脈』と、児玉隆也『寂しき越山会の女王』の2記事が同時掲載されて話題となり、76年にはロッキード事件が発覚する。

 後の歴史から見れば、この時期を前後として「田中軍団」とも呼ばれた田中派の趨勢は転換期に差し掛かってはいた。しかしながら竹下登らが田中派を割って創政会を旗揚げするのは85年まで待たなければならない。ロッキード事件が発覚しても、依然として田中角栄という人間は圧倒的な強さを誇っていた。

 山田は、この時期の田中角栄と接していたと振り返ったが、それはあり得ない話ではない。そうでもなければ、佐藤昭子が山田に雀卓を囲むことを許さなかっただろう。

 最も羽振りの良かった一時期、山田はホテルの宴会場で自分自身が主催するパーティーを開いたことがあった。ゼネコンを初めとする多くの関係者が詰めかける中、山田の傍らには佐藤昭子が寄り添っていた。その一体感は、出席者を畏敬させるのに充分だった。

 企業と、その担当者たちは、山田慶一の背後に佐藤昭子を見てとった。それはすなわち田中角栄の影を意識することになる。それが山田の政治力の源泉だったことは間違いないだろう。

 ところが政権交代が実現し、民主党政権が誕生した。山田にコンサルティングを依頼する場合は「前捌き金」が必要なのだが、これに対して大手の企業ほど、より慎重になったところはある。商社にしても、ゼネコンにしても、歴史がある企業ほど、その費用対効果の算出には手抜かりがないものだ。

 自民党が下野してからも山田の元に集まる人間とは、歴史が浅く、とにかく既存の力にあやかろうとする企業や担当者だ。そして山田は、そういう人間が現れれば、その魅力で虜にしてしまう。

 かつて岸信介時代の自民党には、院外団とも呼ばれる、党外の「加護組織」があった。自民党のために手足となって苦労することを厭わない人間であり、自民党もそういう者を手厚く遇してきた。かの児玉誉士夫なども、人生の一時期を院外団の活動に奉じていたこともあったのだ。

 もし山田がそんな時代に間に合っていれば、院外団の1人としてカウントされたかもしれない。しかし山田が台頭してきた70年代後半から80年代前半という時代は、すでに院外団が跋扈するには時代が進み過ぎていた。非合法組織然としたものが総会屋同様に、排除される時代風潮にあった。

 ところが次にやって来たのは、ロビイストという青天井のコンサルタント料で動く横文字の〝活動家〟がぴったりはまる時代だった。山田慶一は自民党の勢力と共に、そこにすっぽりと収まった……。

 かつて山田が半蔵門に事務所を構えていた頃には、現役の代議士だった山口敏夫が〝常駐〟していた。山田は小池に「佐藤昭子の門番をしている」と語ることもあったが、その山田の門番は自民党の現職議員だったわけだ。当然ながら企業も担当者も、山田を畏怖するようになっていく。

 そんな山田が恃みにした佐藤昭は生前、大下英治とのインタビューでこう語っていた。

<政治には優しさも必要だけど、同時に威厳も持っていないと駄目です。松下政経塾は、松下幸之助さんが資金を出して作ったのがようやく実ってきて、国会議員のバッチをつけるようになった。しかし、弁舌はたつけれど、昔の選挙のやり方を知りません。風が去ったら、当選できません>(『角栄とともに生きた女』講談社+α文庫)

 あの樽床伸二も松下政経塾の出身だ。そして2012年末、民主党に対する強い向かい風と化した衆院選で落選する。あたかも佐藤の予言通りであった。だが、それは〝次期総理候補〟の凋落だけを意味したわけではなかった。自民党から民主党に乗り換えようとしても果たせなかった、山田慶一という自民党=田中角栄体制に巣くってきた「ロビイスト」の凋落も象徴した。

<「オヤジは、天才だ。おれたちは足元にもおよばない」と言っていた。田中の事務所に遊びにきて、政治の話から雑談しているうちにも、いろいろ勉強になったと思いますよ>(同『角栄とともに生きた女』)

 今も小池の耳朶に残る山田慶一の言葉は「25、6歳の若輩者として田中角栄の謦咳に接し」たが故に、「大きな仕事につながった」と振り返っている。

 大きな仕事……。それは田中角栄が死してなお、その〝威光〟を最大限に活用し、そこに日本の企業がカネを積んだのだとすれば、田中金脈とは田中角栄も佐藤昭子も与り知らぬ形で、バブルが崩壊した90年代以降もなお、その命脈を保っていたのかもしれない。

 田中角栄が政界を引退したのは1990年。バブル崩壊に関しては「91年から93年の景気後退期」との定義もある。いずれにしても、90年代前半とはバブル景気の限界が見え始め、嗅覚に優れた者たちには、その終焉の兆しを随所で感じ取っていた時期にあたる。それは「表稼業」から遠い人間であればあるほど、転機を強いる季節でもあった。

(第9回に続く)