無料連載『不惑のインターネット』①西村博之氏・第1回 | イエロージャーナル

 日本における「インターネット元年」は1995年との定義がある。だとすれば、わが国のネットは21歳。既に成人しているわけだ。

 当時は18歳だった関係者も、今は38歳と「不惑」が目前。いや、世界レベルの「ネット元年」は82年だともいう。するとネット自体が30歳を過ぎている。立派な中年ではないか。

 かつて、インターネットどころか、パソコン通信が「ニューメディア」と呼ばれた時代があった。それが今、ネットに「ニュー」の要素は乏しい。電気や水道、ガスと同じように「公共インフラ」と見なされている。

 存在して当り前というわけだが、それは同時にネットの「オールドメディア化」が進んでいることも意味するだろう。

 意外にもネットは高齢化している。ならば改めて、この20年を振り返ってみると、何が見えてくるのだろうか。

 それも、ありきたりの関係者ではなく、どちらかと言えば、少し〝ブラック〟な才人たちに回顧してもらえば、現状の理解、未来の予測が深まるに違いない──。

 こんな企画趣旨で、我々は『不惑のインターネット』の連載を開始してみる。第1回のゲストは、2ちゃんねるの開設者、西村博之氏だ。

 西村氏にインタビューを行って頂いたのが、暴力団や薬物などの取材で知られる、フリーライターの花田庚彦(歳彦)氏と、老舗サイト『激裏情報』の代表・本堂まさや氏だ。

 このお三方、実は昔に座談会に出席されたという縁もあり、久し振りの再会となった。では、前置きはこの程度にして、さっそく鼎談を開始しよう。

■―――――――――――――――――――― 【写真】対談中の西村博之氏

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花田庚彦氏(以下、花田) 2ちゃんねるの創設は何年だっけ?

西村博之氏(以下、西村) 1999年です。でも、そう答えているのを覚えているだけで、いつから始めたかというのは、実感のレベルでは全く記憶に残っていないですね。

花田 以前、ムック『ザ・ブラックマーケット (2)』(ワニマガジン社)で、座談会のようなものを開いたじゃない。新宿のロフトプラスワンで激裏とか色んなトークライブもやったけど、ムックの座談会では『2ちゃんねるは要するにアングラサイトの入口だ』という指摘が出て、ひろゆきは思い切り否定したよね。あの気持ちは、いまだに変わってない?

西村 変わっていないのではないでしょうか、もう、その時に何を言ったのか覚えていないですけれど(笑)

花田 とりあえず、編集部から聞きたいことを進めてもらえますか。

編集部(以下、編)いきなりで申し訳ないんですが、今でも覚えている、最も幼かった時の記憶は、何になられますか?

西村 多分、3歳ぐらいの時の記憶だと思います。玄関のドアを開けたところに棚があって、そこに洗面器などが置かれていたような気がするんですが、それが本当にそうなのかも覚えていませんね。

編 今されている仕事の原点を辿っていくと、何歳ぐらいの頃に行き着きますか? 例えばインタビュー集『就職しない生き方 ネットで「好き」を仕事にする10人の方法』(インプレス)で西村さんは、

<小学生のときに、MSXでBASICプログラミングをやったりしてたんですけど、そのあと古いPC−98をゲームソフトといっしょにもらって、ちょっとやって>

と答えておられますが、この時期にまで遡られるのでしょうか?

西村 基本的に行き当りばったりですから、「これをやったから、これを生かそう」という考えで生きてきた実感は持っていません。

 また、「自分が持っているスキルはこうだから、これをしよう」という思考も、今のところはあまり持っていませんね。

編 この『就職しない生き方〜』のインタビューを拝読して……

西村 何を喋ったのか、覚えていないんですけれども(笑)

花田 そのスタイル、本当に変わってないなあ(笑)

西村 変わる必要がなかったせいだと思います。例えば戦争に直面すれば、考え方は変わるはずですが、特にそういうこともなく、だらだらと楽しく生きてしまいましたから。よくないと思うこともあるんですが……。

花田 メディア側からすると、ひろゆきは色んな意味で映えるだよね。だから大手でも取り上げやすいわけだけど、例えば堀江貴文さんと一緒にテレビに出たりしたじゃない。ああいうのは自分が求めていたことなの?

西村 求めていたということはないですね。単に頼まれたから出演しているだけです。

花田 求めているのは視聴者と制作会社ということ?

西村 いえいえ、視聴者は関係ありません。制作会社などの発注側です。

編 すいません、先の『就職しない生き方〜』を、また引用させて頂きたいんですが、

<高校から大学までぱったりパソコンにさわらなくなって、遊んでばかりいました(略)同じ学校の友だちの中に、親が帰ってこない家があった。鍵をかけてなくて、そこに行くといつも友だちがいたんですね。そこでいつも集まって……ゲームしてました(笑)>

という箇所がありますけど、当時のゲーム機はスーパーファミコンですか?

西村 スーファミです。『ファイナルファンタジーⅥ』をやったりしていましたね。

編 いまだに強烈な印象に残っているゲームソフト、というものはありますか?

西村 いいえ、全然記憶にないです。

花田 ひろゆきは、そこは適当だよね(笑)

西村 僕は基本的に記憶力が悪いんです。言われて出てくるものはあるんですけど、引出しの中から探すということができない。

編 大学時代については、

<HTMLを覚えてホームページが作れるようになったんで、バイトがわりに仲間とホームページ制作の会社をやってみようと。注文が来たらやろうか、と言っていたら、ほんとに注文が来た>

ということですが、この時に設立されたのが、合資会社東京アクセスですね?

西村 そうです。東京アクセスはまだ、一応は存続していますね。

(第2回につづく)