2017年2月23日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第16回「記者と対峙」

sokai2017-02-22 14.03.51

(承前)千代田区長の石川雅己は都立大(現・首都大学東京)法経学部を経て、1963年に東京都庁に入庁した。そのため、石川と山田慶一は「都議会のドン」と呼ばれる内田茂と関係が深いとされている。

 現在は練馬区長である前川燿男も、山田が「顧問」の名刺を持つ大都市センターで代表取締役を務めていた。そもそも前川も元都知事本局長などを歴任した都職員。そして山田との繋がりは内田茂都議との縁だと仄めかしていた。

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【著者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】NEXCO東日本公式サイト『もっと知りたい高速道路図鑑』より
http://www.e-nexco.co.jp/csr/wakuwaku/
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 2012年秋、当時の石原慎太郎都知事が急遽、国政復帰を表明。それに伴い12月に都知事選が実施された時も、内田の前に自民党都議団は「沈黙」を余儀なくされた。

 なぜか。それは以下のような事情があったからだ。

 石原が後継として使命した、作家で都副知事だった猪瀬直樹を、内田茂は極めて嫌っていると言われたからだ。そのきっかけは、千代田区紀尾井町の参議院議員宿舎の移転問題だった。

 副知事に就任すると、猪瀬はメディアを引き連れ、宿舎の建て替え予定地を視察。結果、自然保護を理由に反対したのだ。

 これが虎の尾を踏む。移転を推進していた内田茂の怒りに触れたのだ。以来、内田は猪瀬を徹底的に嫌厭する。ために自民党都議団も、猪瀬との不仲を伝えられるようになった。

 その影響は、都知事選で露骨に現れる。自民都議団は猪瀬推薦を決定できず、最後の最後まで沈黙を守った。内田を慮ったと見られても仕方がなかった。対して選挙公示に先立って行われた自民党による世論調査では、猪瀬支持が40%超という結果が出た。猪瀬を容認できない自民都議団としては苦々しい展開に追い込まれていた。

 最後は都議団での意思決定は不可能となり、公示日の直前、態度未決のまま判断を自民党本部に預ける形となった。そして最終的には党本部の決定で「猪瀬支援」が決まり、他党も有力候補の猪瀬に相乗りすることとなり、蓋を明けてみれば430万票超という歴史的数字で当選を果たす。

 自民党都議の中にも、なぜこれほどまでに内田が猪瀬を嫌っているのか──参院宿舎の問題で猪瀬副知事が、内田都議の意向に反対したとはいえ──これほどまでに執拗に尾を引いているのか訝る向きもあった。

 その背景として、内田当人でさえ自覚していない可能性もあるが、猪瀬が道路公団改革で「道路族のドン」と徹底的に戦ったことは重要だろう。猪瀬は勝者となり、相手を追放してしまったのだ。

 猪瀬が引きずり下ろした相手は、元建設省事務次官で、元道路公団総裁の藤井治芳。そして藤井と内田茂の間は、やはり山田慶一が取り持っていた。

〝全知全能の神〟たる「道路族のドン」藤井治芳

 山田たちが赤坂の焼肉屋『牛村』で宴会を開いた場面を、この連載では何度も紹介している。

第8回「角栄」
http://www.yellow-journal.jp/series/yj-00000320/
第15回「人間不信」
http://www.yellow-journal.jp/series/yj-00000457/

 山田は、この会合の直後、藤井治芳の「直筆メッセージ」を自身のところに集う者たちに伝えた。それを道路のドンからのご託宣ととった者もいようし、はたまた、藤井からの直筆メッセージを得てくる山田という男の凄さを更に確信した者もいよう。

 内容は、経済談義の他愛のないものだ。しかし藤井の直筆メッセージであることが「山田慶一」という看板がなお求心力を得るための何よりも強いメッセージとなる。

「藤井所感」とでも戯れに名付けてみるが、ポイントは以下のようなものだった。

 経済再編に当たっての考え方
経済、特に金融・産業の国際化が一層重層化する中で、国際的なシステムへの参画がより弾力的に可能となるよう、努力すべき
例えば
○税制のあり方、その中でも関税のあり方
○国際企業へ成長していくための育成プログラムの見直し
○外圧を利用した国内企業へのバッシング(パシフィックコンサルタント)

 パシフィックコンサルタントがバッシングの一例として言及されているところが、いかにも山田らしい〝手配〟であるようにも見える。

 自身が逮捕直前まで追い込まれた──実際、無罪とはなった──ものの、東京地検特捜部が立件した事件が、元建設省の事務次官をして「外圧を利用したバッシング」の一例としてわざわざ持ちだしている。

 これこそが肝なのだ。山田の元へ参集する一流企業勤務の〝賢い紳士〟たちは、山田と藤井の「精神的な一体感」を見過ごすことなく、見事に嗅ぎ当てる。「山田劇場」で演じられる仕掛けは大胆かつ繊細。観客たちが〝見巧者〟ということもあり、芝居の意味を誰もが完璧に理解する。

 藤井所感はレポート用紙3枚。地域金融と国際化など、マクロからミクロまで目配りがきいていた。しかし意外にも、「都市計画における研ぎ澄まされた思想性」などといった、プロを唸らせる魅力に乏しかった。藤井の圧倒的なキャリアを重ね合わせれば、凡庸という評価が下ってもおかしくない。

 それは、日本社会を論じた次の一節からも伺えた。

 日本社会は、明治政府発足以来、国家の体制が、諸外国に対して、国を富ます、強くする視点から、中央の強化と国家の強化を同一視し、税制、財政、法制、行政等を含め、インフラ構築も特別扱いされてきた。

 国即ち中央と地方との関係は、廃藩置県、官制知事、地方への助成金システムといった視点でつくられてきた。

 このことが、日本では、東京と地方との関係が必要以上に〝格差〟の形で現在に至っている。

 全総計画で当初から〝一極集中是正〟が挙げられているのはその為である。

 しかし、江戸時代では日本の文化、知識層が300雄藩からなる地方社会に定着しており、江戸に一極集中するのでなく、ほどほどの強い中央(江戸)とそれなりに強い地方との連けい構造であった。

 日本社会が、住み易さ、文化、経済的強さを目ざして、新たな地域社会構築(地方分権)を考えるためには、最近の諸々の情報及び情報発信のあり方が極めて重要になる。

 東京という大都市社会の国民である東京の発注情報をもって、日本の情報と誤解されないよう注意する必要がある。(東京人が日本人という誤解、東京人は日本人の一部にしか過ぎないという認識をあらためて思う必要がある)

 藤井所感のキーワードに「全総計画」がある。この全国総合開発計画こそは、まさに戦後自民党の55年体制を裏支えした国土開発計画といえる。

 目的は日本のグランドデザインを描くというものだ。当初は高度経済成長期にその事務局は旧通産省の外局である経済企画庁に置かれていた。それが橋本行革を経て、国土審議会を所管する旧建設省がその所掌を獲得した。

 各年次の予算獲得が各論だとすれば、全総は、いわば総論にあたる。そして、仮に各論が総論を超え得ないものだと考えれば、全総は「日本国デザイン」の設計思想ともいえる。更に踏み込んで表現すれば、日本国開発計画の「チャーター」──憲章、綱領、宣言などと訳される──とでもいうべきものだ。

 旧建設省の事務次官・藤井治芳が道路族のドンとして君臨できた背景の1つは、国土交通省が土建行政の元締だからというだけではなく、日本国土の設計思想さえもデザインする組織であったからだ。

 山田は、その「全総」を築いてきた藤井のメモを、つまりは「ドンの心情」を〝代読〟できる存在なのだ。山田こそは「日本開発のドン」の〝使用人〟であるという空気を醸し出していく。

〝道路利権〟を巡る通産省と建設省の暗闘

 現在、旧建設省=国土交通省が所管する全総は、そもそも旧通産省=経済産業省が担当していたことは、専門家の間でも、あまり知られていないようだ。

 先述した通り、全総は日本のグランドデザインを描く総論にあたる。当初は経済企画庁が所管し、経企庁は内閣府の外局として設置された。しかし、設置時にプロパー職員の存在しない官庁は、既存組織によって所掌争いの草刈場と化す。

 経企庁を巡るヘゲモニー闘争に、当然ながら旧建設省も〝参戦〟している。建設省は霞が関の中でも「隠れた名門」という個性を持っていた。藤井治芳のように、技官でも事務次官に上り詰めることができる技術官庁として知られるが、その出自は戦前の旧内務省に遡る。

 戦後GHQにより、内務省は自治省、厚生省、警察庁などに分割されたが、こうした旧内務省系の省庁は現在でも〝選民意識〟が高い。省庁の垣根を横断し、「旧内務省関係者」の名簿を作成するなど、自らを「ノーブル」な存在だと任じている。

 日本の省庁はエリート組織と見なされるが、1府13省庁の中で更に上位と位置付けられる役所を「五大省庁」と呼ぶ。内訳は①財務省、②外務省、③経済産業省、④警察庁、⑤総務省自治分野──となるが、この中で経産省=旧通産省は戦前、商工省と呼ばれ、決して一流官庁ではなかった。通産省が一流官庁として台頭してきたのは復興と経済立国が成功した戦後からになる。

 そして1950年に誕生した経済企画庁は当初、通産省に〝占拠〟される。歴代の事務次官を見れば、当初は商工・通算官僚の名ばかりが連なる。経企庁プロパーのトップ人事が行われたのは何と1989年。星野進保・事務次官の登場まで待たなければならず、実に設立から30年が経過していた。

 だが、名門建設省が、通産省の勝ちっぱなしを許すはずもない。最重要の仕事であるかのように暗闘が続き、遂に2001年の橋本行革による省庁再編で、全総の所管は通産省の手から建設省の手に移る。

 この全総が描く、全国道路ネットワークの下積み作業に関わり、役人人生を全うしたのが藤井治芳である。1936年生まれ。東京大学工学部土木工学科、同大学院工学研究科を経て62年に建設省入省。

 通産省=経産省は例えば、都市整備機構を所掌し、絶対に離さない。だが、道路で結ばれていない「単独の街」などあり得ない。都市を発展させるためには、必ず道路が必要だ。だからこそ藤井は戦後日本で行われた開発の全てを担ったと言っていい。生き字引だからこそのドンだったのだ。

 そして山田慶一は自民党田中派・田中政権が生んだロビイストだ。田中派が持つ権力、その源泉の1つが道路だったことは言うまでもない。山田も、この藤井の影をちらつかせることで、企業の求心力と、自身の命脈をつないでいた。

 ここで、少し重要な寄り道をさせて頂きたい。少なくとも、わが国日本において、民間が仕事をしようとすれば、必ず役所の「ルール」にぶつかるわけだが、そもそも、なぜ省庁の所掌が拡大し続けるのだろうか。更に、そうした指向の源泉はどこにあるのだろうか。この問いに、さる経産省の人間は、次のように答えてくれた。

「すべては法律。役所の権限はすべて法律が根拠になっているんだから。法律、政令、省令とね。役所は法律がなければ何もできないでしょ。だから、法律を作らなければどうにもならないわけだ。施策にはすべて法律が絡んでくる」

 なるほど。省庁は法律を作れども、棄てないのには訳があったのだ。

「年間、おおよそで100本くらいの法律が成立しますが、廃止というのはほとんどないですね。廃止の場合でも、法律の一部を廃止することはあっても、法律そのものの廃止というのはまずない。改正、改正でやっていきますからね」(内閣法制局)

 そして、経産省の人間はこう付け加える。

「法律を廃止するときはね、それは何を意味するかわかるかい? それは、新しい法律を作るときだよ」

 法律を永遠に作り続けるのだから、所掌が拡大することはあっても、縮小することはない。そこに、商機ならぬ〝省機〟拡大の芽もあろう。

 更に、省機拡大のときこそ、民間の思惑も潜り込む〝好機〟到来なのだ。1990年の橋本行革。その中の省庁再編とはまさに、バブル崩壊後の「失われた20年」の始まりであり、変革期特有の微妙な歪みが、ロビイストに付け込む余地を生んだのかもしれない。

 更に言えば、田中角栄と、越山会の女王、佐藤昭を後ろ盾にする自民党の生んだロビイスト、山田慶一の生き残る余地を……。

山田慶一と対峙した東洋経済新報社記者の岡田広行

 藤井治芳と全総計画。それは字義通り、開発そのものを意味した。

 開発計画に関する情報を、いち早く入手することは、企業にとってはどこよりも早く「ツバを付ける」すなわち、カネを注ぎこめることを意味した。

 使途秘匿金のニーズと、それが生きる余地がそこに生じるのだ。ちなみに使途秘匿金については、この連載の第13回で焦点を当てた。

【会員無料】『哀しき総会屋・小池隆一』第13回「千代田&練馬区長」の〝過去〟
http://www.yellow-journal.jp/series/yj-00000444/

 ゼネコン業界にとっては、いわゆる「前捌き金」といわれる、優に億単位にのぼるカネが動くことになる。事業関係者を飲食で接待するカネに使われるのみならず、現ナマを〝握らせる〟ためのシステムといえた。

 あそこにビルが立つ、向こうの駅前が整理される、といった計画が発表された段階で動いても、もう企業の事業は成り立たない。計画段階からカネを注ぎ、計画そのものを時には動かし、原案に食い込み、素案に意志を反映させる。そんな時にこそ「前捌き金」は大きな力を発揮する。

 藤井治芳という〝神〟の思想が、山田という〝口〟を通じ、ゼネコン業界と、その周辺に現実的なメッセージを伝える。すると、そこに集い、行動を開始する者たちが現れる。

 しかし、それが現在進行形として立ち現れる時、あまりに生々しく、醜悪な姿態を曝すことにもなる。東京都千代田区紀尾井町・清水谷参議院議員宿舎の老朽化にともなう移転・建て替え計画もまた、実はそんな壮大な思惑の一端にしか過ぎないのかもしれない。

 それにしても、この山田慶一という一般には耳慣れない無名の人物になぜ、これほど多くの人間が〝惹かれ〟、そして〝恃み〟とするのか。山田の素姓についてはほとんど活字になったことはないが、その山田を長く〝監視〟し続けてきた記者がいる。

 東洋経済新報社の岡田広行だ。その岡田が書いた次の記事が、これまでにもっとも深く、その山田を追ったものといえる。

 岡田がかつて取材した段階では読み解けなかった部分に、その後、私の取材で新たに読み解ける部分を加えて補完しながら、引用してみたい。

山田慶一氏。

「業務屋」と呼ばれる建設談合の世界に身を置く人間であれば、一度ならず彼の名前を耳にしたことがあるはずだ。

 昨年2月、公正取引委員会に一通の〝告発文〟が持ち込まれた。

 表題は「独占禁止法四五条一項に基づく申告」。差出人は平島栄・西松建設相談役(当時)。近畿二府四県の建設談合を取り仕切ってきた実力者が、部下の談合屋の造反に激怒して、前代未聞の行為に及んだのだ

〝談合のドン〟、平島のこの暴挙ともとれる行為は、当時、ゼネコン業界にとどまらず、それを持ちこまれた役所側にも衝撃を与えた。このスキームを描いたのが山田である。

 その平島氏が「すべてを明るみに出す」と息巻いていたさなか、談合の実態に詳しい準大手ゼネコンの幹部がポツリと漏らした。

「平島さんの背後で、『山田慶一』が動いている。話がややこしくなってきた」

 山田氏は、経歴、生年月日、出身地とも不詳。

 過去の事業歴を調べるには、法務局に眠る膨大な閉鎖謄本を丹念にめくる以外にない。しかも、一三年前に遡らなければならない。当時、山田氏は、「ケイヨウエンジニアリング」(本社・港区)なる企業の代表取締役を務めており、同社が二度目の不渡りを出す四カ月前に代表の座を退いている。以来、なぜか世間の表舞台に出ることを避け続けてきた

 山田の経歴はたしかに、表向き不詳である。当人が語らないのみならず、当人に訊くことさえ憚られる、強い威圧感を放っているからである。

 あるいは、誰もが知る「在日」という素姓ゆえに、山田を知る人間に自発的な抑制を強いているのかもしれない。

 だが、警視庁のファイルによれば、山田の経歴については次のように記録されている。

 山田慶一はもちろん、日本でのいわゆる日本人的な〝通名〟であるが、この通名もかつては慶一ではなく、初男で通っていたとされる。

 山田初男は、山口県出身とされる。それも、九州にもっとも近く、関門海峡をのぞむ下関市という。

 山田の学歴もこれまた表向きには、日本大学中退とも、東京理科大中退とも、他称されているが、これは、山田がこれら2つの巨大な学校法人を巻きこんだ巨大な都市計画プロジェクトに参画する折々にどこからともなく囁かれた話であり、事業の展開に有利に働くとみるや、それぞれの局面で都合のいいほうにあえて〝流している〟気配が強い。

 警察当局は、山田の最終学歴を「日本不動産専門学校」と見ている。同名の専門学校は現在も福岡市内に存在するが、山田が幼少期から青年期にかけて下関で過ごしたとすれば、福岡の専門学校に通っていたとしても不思議はない。

 下関と福岡とは、関門海峡という海を挟んではいるが、〝通勤圏〟である。

 この後、山田が警察当局に補足されるのは、「林一家」の構成員としてである。林一家とは聞き慣れないが、それも無理はない。かつて横須賀界隈を拠点として展開した林喜一郎率いる任侠グループで、林は稲川会最高顧問であった。この林一家の若い衆として、山田は初めて警察当局に補足されるのだ。

 この林一家の領袖、林喜一郎が死去した1985年以降、「山田初男」は表から姿を消した。

 そして、いつしか立ち現れたのが「山田慶一」である。山田の朝鮮名は朴慶鎬。おそらく、新しい通名に、「慶」の一文字を入れたのであろう。在日の人間が日本語の通名を創る場合に、当然、本名とのつながりをどこかに残す作法にもかなっている。

 この山田初男が構成員として認知されていた林喜一郎一家だが、林一家は、いわゆる〝経済ヤクザ〟のパイオニアといわれ、単なる任侠道から、現在につながる事業性へシフトする先鞭をつけたことでも知られている。

 山田初男が日本不動産専門学校で身につけた不動産取引の知識が、そうした事業性を追求する林一家で重宝された場面もあったのかもしれない。

 さらに、岡田が突き止めた「ケイヨウエンジニアリング」における山田の役員歴は貴重といえた。山田は現在まで種々に顧問の名刺を持つものの、ある時期以降、法人の役員登記欄には一切、名前を出さないからである。

 山田が〝自分の会社〟といいながら、「経営者」として正式に名前を表すのは、これまでに知られているところでは、このケイヨウエンジニアリングと、そしてもうひとつ、かつて赤坂にあった料亭・鶴仲くらいである。その他は、オーナー然とした振舞いをしながらも、決して役員欄には登場しない。

「山田は不動産には長けているが、株などの数字はまったくわからない」(小池隆一)といわれるそのあたりの偏りも、あるいはそのキャリアに由来しているのではないかとさえ思わせる。

 実際、自身にまつわる不動産の抵当のつけかたと、その転がし方、つまり不動産を、売買を経ずしてカネにする作法には山田は実に長けていて、自信を見せる。

 そして、その人脈は確かで、彩り鮮やかである。

 反面、政官財の人脈は多彩だ。

「越山会の女王」の異名を持つ佐藤昭子女史(政経調査会)、佐藤茂・川崎定徳前社長(故人)、加藤六月・衆議院議員、藤井富雄・公明元代表(東京都議)の長男・練和氏、そして葉山莞児・大成建設副社長等々。

 主催するパーティーもスケールがでかい。毎年暮れになるとホテルの大広間を借り切り、ゼネコン幹部数百人を招待して忘年会を催すという。出席者は互いに顔を見合わせ、「どんな人がよく知らないが、すごい人脈を持つ人らしい」と囁きあう。パーティーの費用の捻出方法も不明である

 だがバブルが崩壊し、自民党による圧倒的な利権政治と土建体質も多少の変革も迫られてきた昨今は、山田自身の経済状況も下降の一途を辿っているようだ。

「かつてのような神通力はもう失われつつある」(山田と20年来の知人)との声もあり、近年は赤坂の元クラブの焼肉屋の奥座敷で粛々と行われているにすぎない。

 しかし、そのスケールは異なれども、互いを知らぬ多彩な人脈こそが自身に対する求心力につながることを知悉し、そのための演出を躊躇なく駆使するあたりは、過去から現在に至るまで一貫している。

 本誌は山田氏の事業を二年以上にわたって追い続けてきた。山田氏が関与したプロジェクトの多くが不良債権と化しており、少なからぬ事業で「疑惑「の存在が囁かれてきたからだ。

 

 今年度末にかけて、銀行の不良債権処理に六兆円の公的資金が投入される。不良債権を作った責任は厳しく問われねばならない。だからこそ、山田氏には事業が頓挫したいきさつを聞きたかった。

 

 すると、思いがけないことに希望がかなった。文化学園の不祥事を取材するさなか、本人から「会ってもいい」と連絡が入ったのだ。この間、電話での取材依頼は優に一〇回を超えていた。山田氏が手掛けた東京・日の出町の山林開発の取材を始めた時から、すでに二年の歳月が経過していた。

 

 11月半ば、本誌記者は山田氏が主宰する団体の事務所におもむいた。千代田区一番町。日本交通の子会社が所有する真新しいビルの八階に山田氏は本拠を構えていた。中では七、八人の中高年の男女が働いているが、仕事の内容ははた目には分からない。

 

「環境計画研究会 山田慶一」

 

 差し出された名刺は、シンプルなものだった。ちなみに「環境計画研究会」は法人登記がされていない私的な集まりである。ただ、三年前に東京都に提出された宅地建物取引業者の資料の中に、次のような記載があった。

 

「本来、林野庁の遊休化した土地の再開発をするために(株)リスト内に設置された勉強会であり、目的を達成した現在も、ゼネコンその他不動産間連業者を集めて勉強会を開催しています」

 

 ちなみに、「リスト」の関山靖人社長は、右翼団体の「輿論社」に勤務していた経歴を持つ実業家で、山田氏の最も緊密なパートナーの一人とされる。リストと環境計画研究会は、同じビルの一室に事務所を構えていたこともある

 山田はしかし、この関山とのトラブルを抱える。これが、記事中でも言及されている東京西部の日の出町の開発を目論んだ、西東京開発をめぐる案件で、このときの反動も大きく影響したのか、ゼネコン大手の青木建設の倒産にも一役買った。西東京開発については岡田が記事中で後述する。

 山田氏の名前は、意外なところでも登場した。大沼淳・文化学園理事長の娘婿だったのだ。だからこそ、山田氏は本誌記者の動向に神経をとがらせていたのだ

 山田が子どもをもうけた〝妻〟はこれまでに都合6人に上ると見られている。

 この数は2007年、山田の実母が亡くなった葬儀の席で、初めて参列者らの目に触れ、明らかになった。

 文化学園理事長の娘は、このうちの1人で、山田はやはり子を1人設けている。だが、戸籍上の理由からか、山田は「これまで一度も結婚歴はない」と親しい者に喧伝している。つまるところ、籍を入れたことはないというのが実態のようだが、大沼の娘婿であった一時期、山田をマークするもうひとつの眼があった。

 当時の写真週刊誌『FOCUS』(新潮社・休刊)編集部である。所属記者やカメラマンは山田を追い、数々の写真を収めている。編集部が山田をマークしたのは、やはり平島栄による談合告発事件が契機だった。地下に潜っていた「初男」が「慶一」としてメディアに注視されるようになったのは、やはり平島栄事件が転機とみていいだろう。

 西松建設の平島栄、そして文化学園理事長の大沼と、常に大きな図体の後ろに身を隠すかのような生き方をしながら、徐々にその防御装置が完全には機能しなくなる。

 それは、関わる事業の大きさというよりはむしろ、自民党による圧倒的で絶対的な支配構造がほころびを見せ始める、時代構造と社会情勢の変化に曝されていたと読むほうが自然なのかもしれない。

 だが、自民党を背景に、山田らは「日本」を掘り起こし続けようとした。そこに、実はもっとも大きな落とし穴が待っていた。そして、その穴の底には亀裂が見えていた……。

 週刊東洋経済の岡田はついにその山田と対面する。

 山田氏に聞きたいことは山ほどあった。まず第一に「平島事件」の真相。次に、三〇〇億円が注ぎ込まれた東京・日の出町の山林開発事業の挫折の軌跡。そして、汐留地区での再開発事業の行方。そして文化学園の一件である。

 

「私の周りをあれこれお調べのようですね。私に何を聞きたいんですか」

 

 山田氏は、一瞬当惑した表情を浮かべながら切り出した。そしてすぐさま苦言を呈した。
「あなた方は以前、私が関係する『西東京開発』に七〇億円の使途不明金があると書きましたね。そんなカネは一銭もありません。きちんと調べてください」

 

「西東京開発」とは、東京・日の出町の山林開発を目的に設立されたプロジェクト会社である。青木建設、熊谷組、ハザマ、五洋建設などゼネコン六社が三〇〇億円近い債務を連帯保証したものの、事業は行き詰まった(本誌『96年10月5日号』参照)。

「そんなはずないでしょう。こちらも関係者を取材しています」

 

 記者が食い下がると、山田氏は興味深い発言をした。

「使途不明金はないのです。(住宅・都市整備公団出身の)元社長が目的外の事業に使ったカネが約三〇億円ありましたがね。原宿で土地建物を買ったんです」

 

 記者は思わず息を呑んだ。

 

「ですが、すでに時効です」

 

 山田氏はこう締めくくった

 山田の口からいみじくも洩れた「時効」という言葉。山田がしばしば表舞台から姿を消す時、民法上の時効がつきまとう。

 それが果して「時効成立」を待つための意図した行為なのかどうかはわからないが、山田が看板を下ろして、あるいは息を潜めている間に、しばしば多くの「時効」が成立し、関係者らは路頭に迷う。

 小池隆一もまた、山田の時効主張を目撃したことがある。関係者が歯ぎしりしたときにはすでに時効は成立し、そして刑法上の訴追を受けることもまずない。そうした関係者らの心理には、山田との〝共益関係を築かされてしまったのではないか〟という一抹にして大きな不安が必ず植え付けられているからである。

「山田の手口には、そうした共犯心理を共有させるところにひとつの特徴がある」(小池)のだ。それを、しかし、商売上手と呼ぶには、いささか無邪気が過ぎるだろう。山田以外の周辺関係者はそれによって、事業、そして企業、そして詰まるところは個人の生活が破綻するなどして、決定的な犠牲を生むからだ。

 山田がしかし、偶然ではなく、「時効」という概念をしっかり認識していることの言質をとった岡田との対峙は続く。

(第17回につづく)

2017年2月16日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第15回「人間不信」

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(承前)「貧乏の極にある」「奈落の底に落ち込むようでした」

 こうした小池の言葉は決して、貸した金を返してもらうためのハッタリや演技ではなかった。山田慶一に繰り返し金を貸し続け、返済の埒が空かないことが判明しても、小池は山田を責め立て、追い込むようなことはしなかった。

 山田にも真摯な部分があるはずだと一縷の望みをつなぎ、自分の生活費をやりくりするため、郷里・新潟県加茂市の土地などを売り払った。

 だが遂に「貧乏の極みに達し」てしまったのだった。手紙の引用を続けよう。

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【著者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】2007年10月、家宅捜索のため、「パシフィックコンサルタンツインターナショナル」のグループ企業が入るビルに入る東京地検の係官ら(撮影 共同通信)
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 「山田には連絡は付きません。」との事でしたので、霧島さんに事情を話したところ、霧島さんは「私が車を運転して羽田飛行場まで迎えに行って、お二人を病院までお届け致しますし、山田には私の方から、ちゃんと報告しますので、必ず責任を持って病院までお届けします。」と言って下さったので、私は霧島さんに甘えてお願いを致しました。

 その日の夕方、貴殿から電話があり、私は霧島さんにお世話になったことを報告し、貴殿に連絡が付かないまま、つまり、貴殿の了解無しに勝手に霧島さんに物事を頼み、車と時間を使わせて拘束してしまったことをお詫び申し上げ、感謝の言葉を貴殿に申し述べました。 

 これに対して貴殿の方からは、この霧島さんを勝手に使ったことを心良く了解する言葉と、病院の費用の工面をもう少し待ってくれという短いお話しがありましたので、私としては、霧島さんとの事が有った話しの後なので「解りました、お待ちしますので宜しくお願い致します。」としか答えられませんでした

 不義理の限りを尽くす相手、その運転手の善意に対して、誠心誠意の謝罪と感謝の言葉を書き連ねる。そんな小池を笑う人もいるだろう。だが、いくら嘲笑されようと、小池とはそんな男なのだ。だからこそ、小池と付き合った企業の総務担当者に、事件後も小池を慕う者がいるのも納得がいく。

 相手を決して不愉快にさせない。そのためには細心の気配りを行う。そんな小池の態度を計略的、作為的と見る者もいる。確かに、様々な経験を通して後天的に獲得した作法かもしれないが、それを死ぬまで貫けば、そうした性格は「天賦」のものだと言えるのではないだろうか。

「深い人間不信」に陥る小池隆一

 小池の記憶は驚くほど細部まで鮮明だ。そして恐ろしいほど几帳面な性格が、それを強化している。山田との一件だけでなく、自身が関わったこと、自身の耳に入ってきた情報は会話も含めて極めて細かく整理し、メモを作成している。

 その積み重ねは、取材を生業とする新聞記者や週刊誌記者、編集者などのノートやメモでさえも敵わないほど、詳細で丁寧なのだ。 

 しかもメモは、やりとりが行われたり、場面を見聞したりした直後にファイリングされている。正確性は極めて高く、録音に等しいレベルだ。

 だからこそ小池の回想は、思い込みや勘違いが非常に少なく、再現性と信憑性が高いように思えるのだ。

 山田に送った手紙にも含まれているが、場面の再現が非常に細かい。なるほど、小池らしい正確性なのだ。だからこそ一層、小池が追い詰められた状況は不憫に思える。自身の記憶を手紙に記すという作業は、辛い内容ならば残酷なものに違いない。

 小池は鈍感ではない。手紙を書くことが、身を切るように辛い記憶を鮮明に蘇らせることを充分に理解してもなお、手紙をしたためようとしたのだ。そこには「哀願」より、強い怒りがあっただろう。静かなる怒りが、遂に小池を動かしたのだ。

 この直筆の内容証明郵便が18枚にも及んでいるという分量にも、そうした「気」が現れているし、書き綴った内容には「覚悟」が満ちている。

 手紙はさらに、切実さを増す。

ところが、その翌日十六日朝、貴殿の方から電話があり「持って来る事になっている人が後から来るから、今日の三時過ぎには連絡します。遅くとも夕方までには連絡しますのでお待ち下さい。」と短い話しで電話が切れました。

 私は正直のところ、助かった、これで何とかなると素直に嬉しかったです。

 ところが、夕方を過ぎても電話が無いので、少々遅くまで何回も何回も私の方から貴殿の携帯電話に連絡をしましたが、何時も留守番電話になっていました。もちろんメッセージは「電話連絡をお待ちしています。」と吹き込んでおきました。

 そして翌二月十七日には、貴殿の方から前日十六日と同じように「昨日は連絡できなくてすみませんでした。今日もう一日待ってて下さい。夕方には連絡しますから、いまチョットお客さんでバタバタしているから」と言って電話が切れました。

 それ以後十八日の土曜日から二十三日の木曜日まで毎日毎日、何回も何回も携帯電話に連絡しても、銀座の事務所に連絡しても、自宅に連絡しても、一切連絡が取れないということで、互いの会話が成り立ちません。

 もちろん貴殿の携帯の留守番電話には「お電話下さい。お待ち致しております。」とメッセージを入れておりますし、二十二日には、「本日、胃癌の手術が終って、現在ICUに入っています。」という事も吹き込んでおります。

 そして、私としては、もう「これは駄目なのかな」という深い人間不信に落ち込んでしまいそうになった、そのとき、二月二十四日金曜日、午前十時三十一分に貴殿の携帯電話から電話があり、「何回も電話を頂いていたことは承知していましたが、電話できなくて済みません。いまお客さんなので三時過ぎにもう一度電話します。」と言って切れました。しかし例によって、それ以後、全く電話は有りません。

 この時、私が思ったことは、何時も「現在バタバタしているから後で電話を架け直すから」とか「いまお客さんなので後程電話します」とか「いま電車の中だから後程もう一度電話するから」等々、色々な場面を口実に何時も電話で話し合う姿勢が全く無く、直ぐに切られてしまうことばかりだなという事です。

 当然、私は貴殿のお仕事の邪魔をしてはイケナイとか、お話しできない状況であれば仕方のない事として、直ちに「それでは後程、電話をお待ちしています」「後程とは何時頃でしょうか?」と確認したり、「ではお待ちしますので夜中でも朝方でも一日二十四時間、何時でも、御都合の良い時にお電話を下さい。ですから必ず下さいョ。」と念を押したり致しますが、それでも、ほとんどお約束した筈の後程の電話はありません。

 しかし、このような、貴殿の方から電話を架けて寄越しながら「いまお客さんだから」とか「いまバタバタしているから」いう科白でサッサと電話を切ってしまい、架けた相手、つまり私に話しをする余裕も時間も与えず、極く短時間で電話を切り上げるという事は、私にとって甚だ失礼な電話であると存じます。日頃から、私は貴殿には「夜中でも朝方でも一日二十四時間、何時でも都合の良い時に、十分に話しができる時に電話を下さい。」と昔から言い続けております。貴殿は私のそうした姿勢・考え方を十分に承知しているにも拘らず、それが実行されることは、ほとんど有りません

実は「詐欺師」への免疫が存在しなかった小池隆一

 山田から希望を繋ぐ言葉だけであしらわれている最中に──さすがに極度の不安が募っていたのだろう──私の携帯に小池からの着信回数が増えた。

 意外に思われるかもしれないが、小池は「明白な虚偽」に対しては免疫に乏しかった。総会屋も、それこそ任侠の世界でも、一般社会と異なる内容かもしれないが、「質実と信頼」で成り立っているのだ。

 約束は守る。義理は果たす。この掟を破った者は信用を失い、世界で〝抹殺〟される。それが小池の前半生を占める世界の作法だった。まして、虚言を弄して相手を窮地に陥れ、それに頬っ被りするなどという人間は企業社会を含め、これまで小池が渡り合ってきた人間の中には皆無に近かった。

 もちろん任侠社会で約束を守らなければ、相応の痛手や報復が待っている。企業社会でも同様のことをすれば、経営者は自らの地位を失う危険性がある。手形が代表的だが、何よりも信用で成り立っている世界なのだ。

 ある種の盲点だったのかもしれない。「後程電話します」「夕方までには用意できます」などと嘘を言い、延々とシラを切ることができる人間。そんな相手と小池は取引を行ったことがなかった。

 鹿児島で山田からの連絡を、ひたすら必死に待ち続けている間、小池は1本の記事を目にする。

在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)は20日、中央常任委員会議長の徐萬述(ソ・マンスル)氏が19日に心不全のため自宅で死去したと発表した。84歳だった。25日午前11時から東京都千代田区富士見2の14の15の朝鮮会館で朝鮮総連葬を行う。葬儀委員長は許宗萬(ホ・ジョンマン)・朝鮮総連中央常任委員会責任副議長。

 ここ数年は病気のため、自宅で療養していたという。韓国慶尚北道出身で、1941年に日本に入国。総連幹部の人事などを扱う旧組織局などで活躍。2001年5月に第1副議長から議長に昇格。小泉純一郎元首相と故金正日(キム・ジョンイル)総書記による2度にわたる日朝首脳会談の実現や「在日本大韓民国民団」(民団)との一時的な和解などに関与した。

 許責任副議長が政策決定などに影響力をふるう一方、徐氏は今年1月、北朝鮮の金永南(キム・ヨンナム)最高人民会議常任委員長からの新年の祝電を受け取るなど、対外的な窓口役を務めてきた。総連内部では、議長席は当面空席になるとの観測が出ている。

 徐氏は、北朝鮮の国会議員にあたる最高人民会議代議員も務めた。日本政府は対北朝鮮制裁の一環として、代議員が北朝鮮に渡航した場合、日本への再入国を認めない措置を取っている。日本政府関係者によれば、徐氏は昨年12月に金正日総書記が死去した際に訪朝を希望したが、制裁措置のため断念したという
(2012年2月20日付朝日新聞デジタル版より)

 新聞記事をベタ記事に至るまで隅から隅まで目を通す小池は、この記事に目を留めた。

 うんともすんとも連絡してこない山田の行方について様々に頭を巡らせていたのだろう。なおも、決定的に山田に〝騙された〟とは思いたくはない。むしろ、すでにそれで済む状況ではない。妻と義理の母はすでに手術のために東京に行き、入院している。当座、その支払いが確実に迫って来ていた。

 もとより、形ばかりは山田にお金の工面を〝哀願〟するかのようにへりくだってはいるが、むしろ山田にこれまで工面してきたのは小池の側だった。しかし、そうした立場を決して振り回さないのが小池の作法である。

 記事を見て、小池はこう考え、私に告げた。

「記事を見て気付いたんだけど、朝鮮総連の最高幹部が亡くなったって出てる。だとすると、山田さんは今、電話をかけたくともかけられない状況にあるんじゃないかと思うんだ。最高幹部が亡くなったんだから、おそらく市ヶ谷の朝鮮総連の本部にぐーっと詰めてるんじゃないかな」

 私は、その時ばかりは小池に無情な応答をしてしまった。恐らく、小池自身が自分でも疑問に思いながら、それでも一縷の望みを繋ぐために話していたのだろう。同じ立場に直面すれば、誰でもそうなるに違いない。だが私は小池の希望を立ち切ろうとした。

「小池さん、それはないと思いますね。確かに彼は在日で、警察当局もその金の流れを追いかけ続けています。仮に在日であり、北系であったとしても、とりわけ警察の眼だけはことごとく嫌って、足のつくことだけは避けて生きてきた人間が、今、公安当局の監視が一層厳重になっているはずの総連本部に出入りして、ましてやそこに詰めているなんていうのはちょっと考えにくいですよ。それに……もし仮に詰めていたとしても、一本の電話もできない状況というのはありうるのでしょうか」

 こう告げると、小池はちょっと間をおいて、「それはそうだな……」と呟いた。

 小池は、私が言ったような「常識的な言葉」を求めているはずもなかった。少しでも長く、自身に希望があるという可能性を、自分で鼓舞したかっただけなのだ。小池の呟きを聞いた瞬間、私は「しまった」と思った。小池を更に落ち込ませてしまう、無神経な言葉を吐いてしまった。申し訳ないことをしたと反省した。

 小池は内容証明に自身で記している通り、昼夜を問わず、電話がかかってくれば、よほどのことが無い限り自分の都合を押してでも、相手の気持ちと言葉に誠実に向き合う。後述するが、2007年暮れにかけて山田が東京地検特捜部の連日の聴取を受け、まもなく〝完落ち〟寸前になりかけたときでさえ、山田を救ったのは、弁護士の内野経一郎ではなく、自身も逮捕という憂き目に遭い、そして特捜部の捜査を受けた経験のある小池であったのかもしれない。

 だからこそ、弁護士である内野でさえ、最後は「小池さん、あんたから山田さんに話をしてやってくれないか」と小池を恃んできたのでもあろう。だが、その時とて、小池は結果的には裏切られていた。

東京地検特捜部VS山田慶一「攻防戦」での「助け船」

 山田は特捜部が睨む、パシコン側から山田にカネが流れたのではないかという点については、毎日、朝晩の電話で心を預けて見せた小池に対してさえ完全に否定してみせ、小池も、山田が「善意の第三者である」と思えばこそ、山田からの相談に、昼夜を問わずに乗ってきた。

 しかし後に、追究の意志を固め、検察側の冒頭陳述書を入手した小池は、山田がパシコン側からカネを受け取っていたことを知る。さらに、それは1回ならず、継続して受け取り続けていたことを知るのだった。

 小池がその「欺瞞」を知るのは、2012年夏のことであり、山田が「電話をする」と言いながら、小池を翻弄し続けていた12年2月からさらに半年後のことであった。

 だが、内容証明をしたためた2月の時点でも、小池のなかには当然、これまでの山田の〝恃み〟に対して自分は精いっぱい応えてきたという感覚は当然にあった。それをあたかも愚弄するかのごとき、不誠実な対応が小池にはさっぱり理解できない。

<私に言わせれば、お客さんが居る時やバタバタしている時に、何故電話をしてくるのでしょうか?しかも私の方に貴殿に大切な、重要なお話しが有ることを承知していながら、さらには、私が貴殿に重要な用件をお伝えしており、その答えを首を長くして待っている私の心情を十分に承知していながら、何時も会話を十分にできない極く極く短時間で電話を切られるのか非常に疑問に思っております。

 しかし一方で、貴殿は時々、私の携帯電話に電話を架けてきて、「携帯電話では、盗聴されると困るので私も私の固定電話から小池さんの固定電話の方へ架け直しますから、何番の方へ架けたらいいでしょうか?」と言ってきて、架け直された固定電話での話しは、なるほど、これは他人様には、とりわけ捜査当局には聞かれたくない話しだなという内容の話しを長々とされて、私に意見を求めたり、判断を求めたり、知恵を絞らせたり、アイディアを出させたりしたことがしばしば有りましたが、貴殿は御自分の大切な話しは時間に関係なく、盗聴を警戒しながら長時間話されることも、ちゃんと実行されてるくせに、他人つまり私の大切な話しは、聞きたくない、結論を出したくない、返事をハッキリと言葉で伝えたくない、放って置けというかの如き電話の対応ではありませんか?

 こうした事は、今回に限らず、ここ三~四年前から特に顕著な貴殿の対応スタイルで、貴殿の電話の際の方程式のようなパターンです。

 それでも私は今日まで貴殿を信じて疑わずに、自分の信念をブレることなく今日まで頑張って参りました>

 12年4月26日付で内容証明郵便で送付されたこの手紙に対して、山田は回答してくることはなかった。たまりかねて電話をかけた小池に山田はこう言い放つ。

「そんなもの、読んでませんよ」

 そして、回答を拒絶したともとれる山田の電話からほどなく、小池のところに珍しい電話が入った。弁護士の内野経一郎だった。小池は不穏なものを感じ取った。

「小池さん、最近はね、暴対法の改正だとか、条例の強化だとかで、暴力団が表の世界からは消えていくように見えるけれども、それは結局、うまくかたちを変えて一般の企業にむしろ潜りこんでいるような状況なんだな」

 小池には、唐突とも思えるその内野の言葉を瞬時に理解した。

「なるほど、小池、おまえもすねに傷があるんだろう。だったらあまり騒がずに静かにしておれよと、そういうことを匂わせているんだなと思いましたよ。内野先生は頭がいいですからね」

 そして、次の言葉が小池のなかに決定的に突き刺さる。

「小池さん、あんたは私のホワイトナイト(救援者)になってくれる人だと思ってたんだけどなあ」

 それを聞いて、小池はこう確信した。

「小池よ、おまえあまり山田に触るなよ、と、まあ、そういうことでしょう」

 しかし、小池の腹は決まっていた。

「世の理というものはね、軽い木の葉が水に浮かんで、重い石は沈んでしまうんですね。でもね、今、私が陥った状況は、何にも悪いことをしていない私という木の葉が沈んで、むしろ私を食い物にした石が浮かんでしまっている状況です。木の葉を沈めて石が浮かび続けて延命するなんていうのは道理に反する。石が浮かんで木の葉が沈むという不条理を私は見過ごしませんよ。たとえ、あの小池が、と言われようとも、私はそれを見過ごしません。そんな不条理がまかり通れば、社会はおかしいことになる」

 石が浮かんで木の葉が沈む――。小池は2012年、自身、70歳になろうとする瞬間、そんな過酷さのなかにいた。

8億円を運んだ男と、中曽根の秘書と、そして千代田区長と

「あの、わたし、8億円を運んだことありますがね、運べるものですね。キャスター付きのバッグに入れて。東京駅前をですね。運べるものですね。重いです。重いですけど、運べるものです」

 並大抵のことでは驚かないであろう、居並ぶ紳士たちも、酔狂の言葉だけとも思えないその情景のリアリティーに、さすがに固唾を呑んだ。

 民主党の樽床伸二を招いての一席が設けられる以前の09年12月、東京・赤坂の焼肉料理屋・牛村の奥の座敷で、参集した紳士らを前に、こんな話が繰り広げられる。かつて名だたる企業のトップを務めた者たちばかりの席だ。しかし、だからこそ、億単位の現金に自ら手を下した経験などないのかもしれない。

「えー、8億ってバッグに入るの?」

 形を変えた追従さながらに、親しげに驚きの声をあげてへりくだってみせる紳士らがいる。

「えー、入ります」

 身振り手振りで、1億はこれくらい、8億はこんなものと、腕を広げてみせる。

 そこに1人の男が現れる。地下1階のその店に入るのにはいささか難儀であったかもしれない。杖をつき、弱った脚を庇っている。

 しかし、そのがっしりした肩幅だけではなく、男がまとう空気は、柔らかくとも、どこか強さに満ちている。

 男は名刺を取り出して、初対面の者たちに名刺を差し出す。決して大仰にではなく、さりげなくスマートに、かつ嫌みなく。そこには、男の自信と、そして長いキャリアが顕れて見える。

『劇団四季 顧問 筑比地康夫』──。

 とっさに、〝8億をキャスターで運んだ男〟が、名刺交換した紳士らに紹介する。

「中曽根さんの元秘書よ」

「浅利慶太の劇団四季」に留めておいては、その男を登場させた〝8億をキャスターで運んだ男〟、山田慶一の面目が立たないとでもいうように、山田はすぐに、元首相、中曽根康弘の名前を上げる。

 あっ、という声にならない声とともに再びツバを吞む紳士らがそこにはいる。

 あの中曽根元総理の側近がいる。会に呼ばれた者がそう思った瞬間、山田を知らぬ者は一瞬にして山田の〝凄さ〟を知る。そんな仕掛けなのかもしれない。他人の信用で自身の信用を創る。そんな手腕で叩き上げ、這い上がってきた人間らしい振舞いであり、作法であろう。

 時折、カウンターの奥から隙なく細く黒いアイラインを引いたママが顕れ、会の主宰者であろう、山田に話しかける。韓国語だ……。

 しかし、山田は一切、そのママとは目を合わせようとしない。それどころか、話しかけているママのほうに顔を傾けようとさえしない。まるで自身の横には誰もいないかのように、である。

 そして、その山田の異変にようやく気付いたのか。ママの口から耳慣れた言葉が洩れた。

「……持って来ましょうか」

 初めて山田は頷いた。山田が朝鮮人であることは、おそらく居並ぶ紳士らで知らぬ者はいないであろう。すでにその名はウェブサイト上にも溢れ、本名である朝鮮名も〝報道〟されている。しかし、本人が在日であることをあえて語らない以上、山田と相対する者たちがそれをあえて言葉にする必要はない。

 その店のママは、かつて山田の〝これ〟だったと、小指を立てて教える者があった。
 
 ママは山田との間では、いつもの朝鮮語で話しかけてしまったのだろう。しかし、それに朝鮮語で応じることは、山田にとっては恥をかかせられるようなものだったのかもしれない。

 ようやく日本語で何事かを話すやいなや、ママが素早くその場を去ったのと同時に、山田が大きな声で参集した一同に再び話しかけた。

「さあ、皆さん、冷めちゃいますよ。そっち、お酒、足りてますか。お肉、とる? なんでも言ってくださいね」

 韓国語で話しかけるママの横でこわばった顔を崩さなかった山田に再び愛想が戻り、相好を崩す。
 
そこへ、店の従業員だろう、10代に見えなくもない若い女性が慣れない手つきで、盆に水割り用の氷を載せて山田の脇に滑り込む。先ほどまで、ママの語りかけを執拗に無視していた山田のもとにあてがわれたかの如き、うら若い女性の登場に、山田は打って変わって舐めるような視線を注いだ。

 そしてこう言った。

「かわいいねえ―」

 首をかしげてもう一言。

「かわいいねえー」

 若い女性もやはり朝鮮の女性だろうか。細面で脚は長く、すらっとしたその姿は、いかにも日本人離れした美しさに見える。若さだけではない、伝統的な美形を醸している。

 盆から渡した氷受けを受け取り、その場を去ろうとする背中を、山田の視線はまだ追っていた。

 女もあまりの直截的な眼差しに照れたのだろうか。カウンターに走り戻ると、カウンターの内側にいた若い男と朝鮮語で二言、三言、笑いながら言葉を交わした。

 その日、山田が常々付き合いがある者を集めて忘年会を開くとの情報を得ていた捜査筋の男女2人は、開け放った座敷から僅かの距離にあるテーブル席で、飛び込み客などほとんどいないであろうその店の一隅に交代に飛び込み、この宴に参集する人間たちの様子を伺っていた。

 山田たちはすっかり出来あがり、そこに自分たちを監視する者がいることにはまったく気付いていないようだった。

 座敷2つをつなげられた宴会は続く。若い従業員にねっとりした視線を送っていたのに気付いたのだろうか。初老の紳士の声が響いた。

「山ちゃんは、奥さんがいっぱいいるからなあー」と、ひときわ親しげな声が上がる。

 東京都千代田区の区長、石川雅巳だ。

(第16回につづく)

2017年2月9日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第14回「小池の手紙」

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(承前)2012年7月、株式会社大都市政策研究センターがある東京都中央区銀座2丁目10番18号の東京都中小企業会館と同じ所在地と、約款もほとんど変更されず、新しい「株式会社大都市政策研究センター」が設立された。

 なぜ、こんな〝トリッキー〟なことが行われたのか。銀行マンが「考えられる可能性」を解説する。

「1つは、例えば旧・大都市センターの代表取締役を辞めさせると、不都合が生じる場合です。具体的には大都市センター名義で借入金があり、代取の金子清志氏が返済の個人保証を行っている、といったケースが考えられます。旧・大都市センターでは金子清志、前川燿男の2人が代取でした。仮に金子氏が代取を辞職すると、前川氏が借入金の個人保証を行わなければなりません。それが嫌で新しい法人を作ったという経緯です」

 この分析が事実だった場合、当然ながら旧・大都市センターは、借金まみれということになる。

 私の取材に対し、大都市センターの代表取締役を務めていた前川──ご存じの通り、現在は練馬区長──は、

「あそこの従業員からクレームが多くてね。金子が支払いばかりをこっちにまわしてくるとかね。それで、仕方なくね、会社を移したんだ」

と答えた。これに銀行マンは着目する。

「もし『支払いばかりが押し付けられて』という話が本当なのであれば、もともと旧・大都市センターは損失の受け皿にするために設立したのかもしれません。負債を押し付けるペーパーカンパニーは実のところ、かなり多数存在しています」

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【著者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】東京都都市整備局『東京都市白書 CITY VIEW TOKYO』より
http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/topics/h28/topi002_01.html
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 損失だけを引き受ける会社を作ることは、違法とは断言できないそうだ。そもそも銀行は捜査権がないため見抜けない。仮に国税の査察が入っても、帳簿上に取引記録が書かれてあれば、脱法行為と認定するのも難しい。こうした理由から、「損失専門会社」の実態を監視することは事実上、不可能なのだという。

「この旧・大都市センターの法人口座を、新・大都市センターが継続して利用している可能性も考えられます。そもそも、旧法人の名称を変更し、同じ所在地で、同じ名称の新法人を登記するというのは異常です。そこまでして表向きは同じ法人であるように見せかける必要があったわけですが、法人口座の問題は動機になり得るでしょう」

 会社の設立は比較的容易だが、法人口座の開設はマネーロンダリングの観点から現在、極めて審査が厳しくなっている。

「新会社の法人口座を作るのは簡単ではないので、旧・大都市センターと同じ名称とせざるを得なかったかもしれません。あるいは、旧センターの口座で運用中の取引が存在するため、どうしても口座だけは新法人でも引き継がなければならなかった可能性も考えられます」

 興味深いことに、2012年8月頃、東京都中小企業会館の大都市センターの事務所では、こんな場面が目撃されている。山田と金子が「社判」をめぐって諍いを展開していたのだ。

「代表印を渡すのならば、代取はおろさせてもらわなければなりません」

 文面だけでも、金子の強い決意が伝わってくる。実際、相当な剣幕だったという証言もある。さすがの山田もたじろいでいたという。「異常」は言い過ぎでも、「異様」な場面なのは間違いない。

「ただし、旧法人の法人口座を、全く別の新法人で使用する場合、銀行は絶対に問題視します。また口座の譲渡が法規に触れる可能性もあります」(同・銀行マン)

 旧・大都市センターの役員たちは一部を除き、この名称変更など「法人移行」の動きをまったく知らされていなかったのだ。

 一連のトリックを見抜いたのは、小池である。それを知った私は、眼光紙背に徹すが如き目力と、追い込まれた時の執念に驚かされた。

「法人番号が変わっている。これは新しい会社だ。企業がこういうことをするときには必ずただならぬ事情がある。そして、悪事がそこには必ずある」

 自らをしゃぶりつくした山田の身辺を、小池は執念で追っていた。

 

「他人の信頼を勝ち取る方法」を知り抜く山田慶一

 
 旧・大都市センターの役員ですら「そもそも会社設立以来、株主総会はおろか、役員会が開かれたこともない」と証言する。これが事実だとすれば、センターの異様さは一層増してくる。

 だが、大都市センターが新旧移行する中で、唯一、業態が一貫している存在がある。それが山田慶一だ。

 山田の机と事務所は、一貫して大都市センター内にあり、多くの企業関係者が呼ばれる場所も、面会する場所も、東京都中小企業会館内のこの事務所だ。

 第13回で、机の上に3億円が積まれた場面を紹介したが、その〝現場〟も、このセンターにある山田の机だった。

『【会員無料】『哀しき総会屋・小池隆一』第13回「千代田&練馬区長」の〝過去〟』
http://www.yellow-journal.jp/series/yj-00000444/

 小池が三菱商事の三桝素生、そして金子、山田との面会に指定されたのも、この東京都中小企業会館の事務所である。

 前川は、自身が代取を務める法人で、まさに社内で行われてきた策動の数々を、まったく知らないと言う。だが、その回答には決して逃げを打つだけだとは思えない信憑性が感じられた。

 実際、山田と金子が大都市センターを舞台に展開させる〝プロジェクト〟の数々は決して、思惑とスキームの全貌が他者に明かされることはないからだ。関係者は、ごく一部の事実しか明かされず、基本的には善意を悪用されて手伝うはめになる。

 もちろん、何もかもが善意を動機としているわけでもない。「山田と金子に寄り添っていれば、きっといいことがあるに違いない」「経済的なリターンも、いつかは得られる」──こんな下心も、もちろんある。

 だが恐ろしいのは、山田は言質を与えることなく、そうした善意と下心を他人から引き出すところだ。そんなマジックに、センターという〝舞台装置〟も、相当な寄与を果たしているのかもしれない。

 センターにおいて、山田はさながら最高の演出家というわけだ。さらに言えば、金子は〝出し物〟の手配師といったところだろう。

 そのひとつが連載第2回で触れた、ベトナムでの発電所入札事業という、三菱商事が関係する〝出し物〟だ。

『【連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第2回「陰謀」──ODA・ベトナム火力発電所建設入札で〝暗躍〟した「伊藤忠」「三菱重工」「三菱商事」の抱えた「あまりにも深い闇」』
http://www.yellow-journal.jp/series/yj-00000248/

 山田は「ファイナンスはぜんぶ任せようと思ってまーす」と言ってはさらなる出資者を募り、あるいは「もうすぐこれでまとまったお金が入って来るので、そこから1億円をお支払いできます」と、さらなる金集めに励むのだ。

 だが、これだけなら、世の中に多数転がっている、月並みな「事業家」の──その別名は詐欺師だが──1人に過ぎない。

 山田たちが凡庸ではない点は、検察、警察、国税といった、捜査当局の介入をすんでのところで回避し、組織崩壊を防いできたところにある。彼らを支えたのは自民党一党支配という社会体制であり、更に田中角栄「越山会の女王」佐藤昭の影があった。

 とはいえ、これだけでも、彼らの評価には足りない。決定的な凄みは、後ろ盾が時代の移り変りで衰退していったにもかかわらず、現在に至るまで他人の信頼を勝ち取っているという点にある。信頼される方法を山田は知り抜いている。1番重要なのは誰もが理解しているように「絶対的な政治力」だが、2番を把握している者は少ない。それは「公的な存在」というカードだ。

 実際、山田にとって最大の後ろ盾だった佐藤昭は、大都市センターを設立してほどなく、2010年に鬼籍に入る。衰退どころか、消滅してしまったのだ。

 1番だけの男なら、同じ道を辿っただろう。しかし、山田には2番も知り抜いていた。

 だからこそ「都庁OBを受け入れる会社」との目的を掲げ、東京都人事の天皇と呼ばれた小豆畑を納得させることができたのだ。加えて代表取締役に元知事本局長の前川を据えさせ、いわば〝山田劇団〟の信頼性を確保した。

 東京都という「公的な存在」の価値は重い。日本では単なる地方自治体のレベルに留まらない。予算規模はアジア諸国の国家予算を遥かに凌ぎ、オーストラリアと同規模というレベルに達する。

 東京都庁の元知事本局長とは「一国の主」に匹敵し、東京都中小企業会館とは「城」に等しいだろう。山田慶一は「一国一城の主」を神輿に担ぐことで、自身に関する青天井の信頼性を手に入れたわけだ。

 ここにおいて「大都市政策研究センター」という、株式会社というよりは、むしろシンクタンクを連想させる社名が効いてくる。誰もが「よい方向に」誤解してくれるのだ。

 前川は株式会社の代表取締役だったにもかかわらず、名刺には「理事長」と記されていた。当然ながら、公益法人か財団法人という印象の強い肩書だ。そして金子は「理事」の名刺を持っていた。

 その大都市センターに積まれる3億円もの札束は、果たしてどこから来て、どこへ消えていったのか――前川は自身が知る限り、大都市センター名義で受注したのは、「杉並区からの調査委託事業だけしかない」という。

 区が発注する委託事業の予算規模は、もっと常識的な額だ。3億円もの額が机の上に無造作に積まれうるはずもない。というより、そもそも億単位の現金を積むという状況は、金よりも重要な思惑があることを示唆している。

 

「戦中生まれ世代」に属する小池隆一と「団塊の世代」の違い

 ヨーロッパ旅行から帰国直後、小池が口惜しそうに電話をしてきたことがあった。聞けば、鹿児島駅前の大型スーパー・ダイエーで、小池の長男が事故に遭ったという。

 エスカレーターの上で転落し、意識を失ったそうだ。

 一緒にいた弟が助けたが、上下の歯をひどくぶつけたらしく、ボロボロに折れてしまった。更に心肺停止状態に陥ったのだが、たまたま居合わせた女性が人工呼吸で蘇生させてくれた。長男が一命を取り留めて安堵すると同時に、小池には忸怩たる想いが沸き上がった。

「その時、ダイエーは何もしなかったんですよ。文句の一つも言いたいけれど、そうすると『あの小池が……』と非難される。でも、これも報いです。『大難を小難に、小難を無難に』という言葉があって、その通りだな、と考えました」

 元総会屋と知らぬ者が相対していれば、小池を哲学者と考える人間もいるのではないだろうか。それほど小池はストイックというか、求道者のような雰囲気を滲みだしている。

 それは見かけだけの話ではない。語る内容も語彙も実に多岐にわたる。引退した者にありがちな自慢話どころか、思い出話さえ滅多なことでは口にしない。

 小池は昭和18(1943)年の生れだ。第1次ベビーブームは昭和22〜24(47〜49)のため、いわゆる「団塊の世代」よりは数年、年長だ。世代論的には極めて似通っていても、小池たちは「戦中」に出生し、ベビーブーマーは「戦後」生まれという違いは大きいだろう。

 かつて昭和16(1941)年から、21(46)年までに生まれた世代を「戦中生まれ世代」と呼ぶ動きもあったようだ。初耳の人が多いはずで、定着しなかったことが簡単に分かる。

 とはいえ、第2次ベビーブーマー世代に属する私からすると、この「戦中生まれ世代」のキーワードは「忍耐」と「体験の捉え方」だと考える。つまり小池のように「戦中」を知る者と、「戦後」しか知らぬ者を比較すれば、危機に直面した時の粘りが全く異なるように思えるのだ。

 例えば日本国憲法の公布は昭和21(46)年だから小池は生まれているが、団塊の世代は誕生していない。朝鮮戦争は昭和25(50)年で小池は7歳だが、ベビーブーマーは3〜1歳ということになる。

 確かに団塊の世代も、戦争の記憶を鮮明に引き継いではいる。とはいえ、戦後の混乱期に数歳の差は大きい。何より小池たちの親は、空襲の中で乳呑み児を育てたのだ。一応は平和の中で養育した団塊の世代の親たちと最も違うところだろう。

 やはり団塊の世代は、終戦直後の空気を肌で知るには若すぎる。物心つき、多感な青年期に差し掛かった頃には昭和39(64)年の東京オリンピックを迎えた。経済白書が『もはや戦後ではない』と記述したのは昭和31(56)年のことだ。

 つまり第1次=団塊の世代と、第2次=団塊ジュニアの両ベビーブーマーは、いずれも戦後経験しかないというところは同じだ。戦中を知る者からすれば「いい時代しか知らない」世代とも言える。

 更に第1次世代は高度経済成長の波を受け、バブルという再び訪れることのない波にも乗った。その恩恵を受けて第2次ベビーブーマーも成長してきた。

 その団塊の世代が大量に退職したとき、各地の公民館は彼らで溢れ、その在勤中の苦労話こそが、あちらこちらで、憚られることない直截的な言葉で華を咲かせることになる。

 だが、小池もそうだが、戦前生まれの人間からは、問われるきっかけでもなければ、いかに自身が苦労したかという話は自然に発生しない。空襲にしても、戦中のひもじさにしても、そうした抗い得ない宿命としての体験が、死をも間近に感じさせる体験が、避けて通ることのできない局面が人生にはありうるのだということを肌で知っているからなのではないか。

 優劣を問うものではない。ただ、団塊世代の苦労と、戦前生まれのそれとでは、死線を彷徨うという決定的な質の断絶ではないのかと思えた。

 そんな時代背景が、小池隆一という人間の背中の片隅にもやはり漂っているような気がした。だからこそ、小池が2012年8月に送った手紙は、他の誰でもない、小池本人がこれまでにない屈辱に耐えて書きしたためたに違いないと思わせるものがあった。

 

経済的な破綻に追い詰められていく小池隆一

 
これから小池の手紙を紹介する。明確な誤字は修正したほか、文中には私の註釈が存在する。

被通知人 山田慶一 殿

 

 

 いつも貴殿とは東京でお会いしておりましたが、私はとうとう貧乏の極に達し、飛行機代もホテル代も無い状態で、もはや気軽に東京へ行けなくなりました。止むを得ず、用件は電話による会話がほとんどとなってしまいましたが、平成二十四年の新年を迎えた一月以降、貴殿とは会話らしい会話はほとんど行っておりません。

 

 

 思い起こして、振り返ってみても、真面目な、誠実な、真剣な会話は、ここ二~三年間を考えてみても、全く無かったように考えております。

 

 今回、この通知書を出さざるを得なくなったことにしても、この一週間というもの毎日毎日、何回も何回も貴殿の携帯電話に連絡をしても、何時も何時も留守番電話になっており、必ず「お電話を下さい」とメッセージを入れているにも拘らず、全く連絡が無い日が続いておりました。

 

 もちろん貴殿の銀座の事務所の方にも電話を入れましたが、女性事務員さんの対応は「私も連絡をしているのですが、全く連絡がつきません。連絡がつきしだい小池さんの方へ電話を入れさせます。」というお返事が十六日から二十三日までの六日間も続いておりました。

 

 そこで私は女性事務員さんに「こんなに事務所の方に連絡が来ない、事務所の方から連絡を入れても連絡が取れない等という事は、およそ有り得ない、考えられない話しでしょう。何か事故とか病気とか警察にでも捕っているかでなければ有り得ない事でしょう。とにかく電話を頂きたい事をお伝えしてください」と言って電話を切るより仕方ありませんでした。

 

 しかし、考えてみれば、こうして連絡が取れない状況は、この六日間に限らず、その以前からの事ではありました。

 小池【註:筆者判断で、小池氏妻の名前を削除】のお母さんが、胃癌と肺癌の二カ所が発見されて、鹿児島の方の国立南九州病院で色々と検査をしたが肺の方は難しいような印象のお話しを医師がされるので、やはり、もっと医療レベルの高い東京の病院で手術をやって貰わなければならないことになったので、どうしても入院・治療費及び【同】さんが付き添いのために料金の安いホテルに滞在しなければならないので、その費用等を見積ると、かなりの金額になるので、その費用の方を何とかして欲しい」と電話でお願いをしたことから貴殿との電話連絡が途絶えがちになりました

 小池はすでに、この山田にずいぶんなお金を貸しこんでいた。

 だが、一向に返済されないどころか、さらには貸し込んでいるお金を返してもらうためにさらに貸し込まなければならない展開に持ち込まれ、ついに、この「通知書」で悲痛な心境をさらけ出す。

 小池にすれば、何とか、こちらの心中を、その切迫した心中を相手に理解してほしかったに違いない。

 この通知書の発送後、小池は幾度となく私の携帯電話を鳴らし、この山田が現在、どのような状況にあるのかについて自身の推論を話して聞かせたが、小池はこの時点でもなおも、この男の誠実な対応を心のどこかで一縷の望みをつないでいた。

 だが、小池が相対する山田という男は非情だった。手紙の引用を続ける。

 

 二月の始めに入院・治療費でお金が必用になったことの説明と同時に平成二十一年三月三十一日に小池【同】さん自身が貴殿の口座に振り込み送金をして緊急に融資をしたお金壱阡萬円を返金して欲しいという催告を込めた電話を私が貴殿に入れた時の会話では、貴殿は「何とかしなければならないですネ」「どの位の費用がかかるのですか?」と私に質問をしてきました。

 

 私は「さあー。どの位かかるのでしょうか?胃癌の手術と肺癌の手術を二度手術するわけですが一回で二度の手術をするわけにはいかないそうです。まず、どちらかの手術を先に行って、様子を見たうえで、もう一方の方の手術をすることになると聞いております。

 そのうえ、鹿児島から出たことの無い八十五歳のお婆ちゃんで、鹿児島弁が凄いので、一般病棟では過ごせないと思うので、個室に入って貰わないといけないのですが、その個室が最低料金の部屋で一日二万九千五百円、約三万円なのだそうですが、それは絶えず満室で、なかなか空かないのだそうです。

 空き待ち順も数多くエントリーしているとも聞いております。その上のクラスの個室だと一日四万円台で、その上はいくらでも高い部屋が有るようです。しかも実際に入院をして検査をして、手術をしてみないと、一カ月で退院できるのか? 二カ月で退院できるのか? あるいは三カ月も四カ月もかかるものなのか私には解りません。

 ですから費用はいくらかかるかと聞かれても、現在の段階では、ちょっと判りませんが」と説明をしている話しの途中で、貴殿の方から「病気の事や個室の事を話しされても、私には解らないから、もう解りました。何とかしないといけないですネ。二~三日内に連絡します」と言って電話を切られましたので、貴殿の方から連絡が来るものと思って、電話をお待ち致しておりましたが、貴殿が言われた二~三日が過ぎても、四~五日が過ぎても電話が来ないので、私の方から電話を入れても入れても連絡がつかない日が続いておりました。

 

 そして、それこそ、たまたまつながった時には「いまバタバタしているので後程電話します」とか「いまお客さんがいるので後で架け直します」とかと言って切られてしまいます。

 しかし、その後では、ほとんどのケースが電話はかかって来ません。何と不誠実な対応なんだろう。何と無責任な対応なんだろうと率直に思いました。

 

 そんな日々が二月の始めから続いているうちに二月十五日の入院日を迎えてしまいました。おばあちゃんと【同】さんは二人で飛行機で東京へ発ちました。十分なお金の手配ができていない状況ではありますが、二人に不安な思いをさせるわけにはいかないので、「お金の手配はできているので数日中には届けることができるから安心して下さい」と、【同】さんには言い聞かせて送り出しました。

 

 ところが、その日二月十五日、羽田空港に到着した【同】さんから電話が有り、「いま羽田空港に居るんだけれど、お婆ちゃんが疲れたのか少々具合が悪くなって、椅子で休んでいる状態なんだけど、お金が無いのでタクシーには乗れない。モノレールや京浜急行電車では具合が悪化したら困るので、リムジンバスが病院の近くのホテルに行く便があるので、それに乗ってホテルまで行って、ホテルからならタクシーが安く済むので、リムジンバスの切符を買ったところです。ところが、そのリムジンの出発時刻まで二時間以上待たなければならない状況で、ほとほと困っている。

 

 しかも病院の方には昼までには到着する予定だと先生にも言っているけれど、これでは大幅に遅くなってしまうので、病院の方に連絡して欲しい」という電話が来たので、私はビックリ仰天しました。

 

 飛行機は順調に午前11時頃には到着しているのに、午後1時過ぎに電話がきて、まだ飛行場に居て、さらにはタクシー代が無いのでリムジンバスを待っている状況で、そのリムジンバスの発車時刻が、これから2時間以上も後になるけど、それを待っているということですので、私が貧乏の極にあるが故に、ここまで苦労をさせてしまうのか、と、本当に情けない気持ちになり気分が奈落の底に落ち込むようでした。

 

 しかし、困り果てている二人を、そのままにするわけにはいかないので、貴殿携帯、銀座の事務所に連絡を取っても、全く取れないので困り果てましたが、このような午後を過ぎているけれど、おられるわけは無いのだがと思い乍らも、御自宅の方に電話を入れてみたところ、神様のお手配なのでしょうか?偶然にも霧島さんが電話を取り上げたのです

 霧島とは、山田が個人で雇っている運転手で、山田は周囲にはこの霧島は、鹿児島の霧島神宮の宮司の直系であると紹介し続けていたが、霧島神宮の宮司家は「霧島家」ではない。

 小さな嘘の積み重ねは大きな嘘になり、それを信じる人間は、最後には〝大きく〟裏切られることになる。それが信頼関係の破綻に留まるのならば、それはまだ傷が浅いのかもしれない。小池は山田によって、経済的な破綻に追い込まれつつあった。

(第15回につづく)

2017年2月2日

【会員無料】『哀しき総会屋・小池隆一』第13回「千代田・練馬」

tiyoda2017-02-02 12.55.54

(承前)2009年の3月下旬か、4月のことだったと小池隆一は記憶している。当時は港区・虎ノ門交差点そばの晩翠軒ビルに入居していた山田慶一の事務所に呼ばれた小池は、こう告げられた。

「千代田区長が困っているので助け舟が欲しい」

 そして、一通の〝怪文書〟を渡された。そこには、<千代田区自民党区議団の正念場>と書かれてあった。小池が振り返る。

「怪文書には当時、千代田区議だった男性を誹謗中傷する文章が書かれていました。山田は、その怪文書を見せながら『石川雅己・千代田区長自ら直接に相談されたのだが、この怪文書を配布してほしい』と頼んできたんです」
※この記事は会員の方は無料です。会員ではない方は、登録をお願いします。
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【著者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】千代田区公式サイト『ちよだ写真館』より
https://www.city.chiyoda.lg.jp/pg
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2017年1月23日

千代田区長選で「石川雅己区長」の「黒い人脈」再噴出

tiyoda2017-01-22 21.08.08

 弊誌はジャーナリストの田中広美氏の『哀しき総会屋・小池隆一』を連載している。

 小池隆一氏といえば、あの「総会屋利益供与事件」(1997年)の主役である。野村証券、第一勧業銀行という一流企業から引き出したカネは「100億以上」とも「270億円」とも言われる。

 そして田中氏の連載は、都庁・都議会の〝闇〟にも焦点を合わせている。興味のある方は、ぜひ第1回を拝読頂きたい。

『【初回完全無料】『哀しき総会屋・小池隆一』第1回「漂着」』
http://www.yellow-journal.jp/series/yj-00000232/

 この連載で、石川雅己区長も既に登場している。そのため弊誌は千代田区長選が近付いてきたため、田中氏に特別原稿を依頼した。田中氏の厚い取材から紡がれる「千代田区長選の真相」は、多くの人が驚くに違いない。

 マスコミの小池VS内田という図式が馬鹿らしく思えるほど、様々な魑魅魍魎が跋扈しており、千代田区長も全くの「ブラック政治家」なのだから。

■田中広美氏・特別原稿

 小池百合子・東京都知事VS自民党守旧派の代理戦争となっている千代田区長選。だが都知事にとって、現職の石川雅己・区長との〝共闘〟は本意ではなく、実は頭を痛めている。

 石川区長は2017年1月8日、5選を目指して無所属で立候補することと、小池知事の支援を受けることを明らかにした。

 自ら都庁へ出向き、小池知事の応援を取りつけたと言い、知事との2ショットが映るポスターを持参。知事について「応援のアクションを期待しているし、多分、応援してもらえると思う」とアピールした。

 だが、前々回まで支援を受けていた内田茂・都議について記者団が問うと、その口は相当に重かった。「内田氏と議論したことはないが、既成概念、既得権という意味で楔を打たれるのは嫌なのかも分かりません」と全面的な批判は差し控えた。

 こうしてマスコミが「代理戦争」と夢中で報じるわけだが、石川区長も決してクリーンな政治家ではない。都庁担当記者は知って無視したか、あるいは本当に把握できなかったのか、2016年の都知事選に前後して、千代田区庁舎(東京都千代田区九段南)に右翼が街宣をかけたことは全く報じられていない。

 右翼がやり玉に挙げたのは、石川区長の「黒い人脈」だ。
■――――――――――――――――――――
【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【記事の文字数】2700字
【写真】千代田区公式サイト『2月5日は千代田区長選挙の投票日です』より
https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kurashi/senkyo/kucho/tohyobi.html
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2016年11月10日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第12回「麹町五丁目計画」

soukai122016-10-21-16-21-19

 山田と極めて近しい東京・千代田区長の石川雅己が、しばしば衆前で山田を評する言葉は、実に空々しい。
「やまちゃんはさあー、みんなひとのために使っちゃうからなあー」
 仮に、その言葉に偽りがないにしても、どこかの「ひとのため」に石井や小池といった〝犠牲者〟が生まれていいはずもない。そんなことは許されない。
 むしろ、山田と数十年来の付き合いがある人物の次の言葉のほうがより現実味がある。
「あの人は本当に、ファミリーだけ。自分のカネは隠しておいて、カネ回りが悪くなると、じーっと亀みたいに頭も手も引っ込めて、石みたいにじーっとしてるわけ。それで、すべてが通り過ぎるのをじーっと待ってるんだよ。あの辺の感覚は尋常じゃないよ。やっぱり日本人じゃないから、日本人からどれだけ取っても平気でいられるっていう感覚はあるんじゃないかな。日本人だったら世間体とかいろいろあるから、なかなか平気ではいられない状況でも、あの人は平気だから。それで、守るのはやっぱりファミリーだけだからね」
 山田慶一の生態と感覚は「居留民」と同根だと指摘する声がある。長年、山田の傍で多くを見てきただけはあろう。「すべてが通り過ぎるのをじーっと待」った末に、石井の債権の請求権は時効を迎えていたのであった。

■――――――――――――――――――――
【著者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】『ちよだ区議会だより』より
https://kugikai.city.chiyoda.tokyo.jp/dayori/no229/pdf/229_P1.pdf
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 7000万円も貸しながら、債権者が返済を「お願い」するという本末転倒。だが、その原因を作った男に擦り寄り、近寄ろうとする人間は後を絶たない。魔力の如き魅力は恐らく、多少のいかがわしさには目をつぶっても、利益を得られる場面に遭遇することを望む人間にとっては、リスクを考慮しても、なお輝きを放って見えるのだろう。

■日大総長選挙騒動における山田慶一と小池隆一

 東京・銀座の昭和通りから通りを1歩入ったところに「東京都中小企業会館」なるビルがあり、その中に山田慶一の〝架空の城砦〟がある。「株式会社大都市政策研究センター」だ。以下からは「大都市センター」と省略させて頂く。
 山田らは2008年、虎ノ門交差点脇の晩翠軒ビルから銀座に拠点を移して事務所を構え、シンクタンク風の名前をつけて新たな法人を登記した。この大都市センターこそが、冒頭で挙げたベトナムでの受注工作の舞台となった。その1室では夕方になると、大企業の関係者らが三々五々集まって来る。
 山田は焼酎の一升瓶を片手にコップに水割りをつくり、やんや、やんやと、四方山話に花開かせる。その1室の笑い声の渦のなかには、山田が口にした数多のプロジェクトで泣きを見た者たちは、むろん入っていない。
 そこに集えるのは、山田の悪しき実態を踏まえたうえで、自分だけは山田と付き合えるという自負と実績に満ちた者だけなのだ。奇妙な矜持に満ちた笑いの宴には、常に不穏な通告も届いているのだが、それを気に留める者はいない。決して懲りるという内省を知らないため、千代田区に大きな拠点を構える日本大学でも大きな火種となった。
 ここに1冊の本がある。2005年8月に新装版として発刊されることになった折、小池は日大による発禁工作の実行者として、その名前を晒されてしまう。

<驚くまいことか、最後に接触してきたのは右翼団体元総会屋小池隆一である。なぜこの大物が出現したのか。おもしろそうなので話を聞くことにした。彼はあの児玉誉士夫の配下ととも(原文ママ)小川薫の門下生ともいわれる人物である。
「私は日大関係者のある人物に世話になっている。日大のために役に立ちたい。私個人の一存できた。版権を買い取りたい。」
 という申し出だった。
 私が断ると、
「警視庁捜査二課が動いている。」
 と脅された。
 私は平成一七年四月一八日付けで内容証明書を送付してこの申し出を正式に断った。
『暗黒の日大王国』の出版を目指してからもう六年になる。本が完成してからでも、一年近く経ってしまった。だが、その間にこんな知られざる水面下の攻防があったのである>(坂口義弘著『暗黒の日大王国─新装版─』スポーツサポートシステム)

 このとき、小池が著者の坂口に接触したのは事実だ。それは山田からのたっての頼みであったからだった。この発刊を前後して、日本大学では総長レースで人間関係が沸き立っていた。
 1996年から2005年まで日大総長は瀬在幸安。内容証明が送付された平成17年は2005年。『暗黒の日大王国』では瀬在と暴力団に癒着があったとし、大学運営の細部をレポートしたものだ。
 出版されれば瀬在の総長留任が厳しくなる、そう危機感を覚える者がいてもおかしくない。実際に阻止しようと動いたのは山田と、日大卒で共同通信出身の広報担当理事(当時)だった石井宏だった。
 山田と石井は日大による御茶ノ水周辺の校舎を含めた再開発を、当時まだ山田と蜜月だったパシフィックコンサルタンツに業務委託させるなど、日大の開発に一枚も二枚も噛んでいたのだ。
 しかし、当の瀬在の総長留任の雲行きが怪しくなったためか、工作に借り出された小池は、交渉の梯子をはずされたかたちとなり、坂口に対しても不義理な状況に追い込まれる。その結果が、右の記述となって現れたのだ。
 こうしたことから分かるのは、小池は既に山田の術中にはまっていたということだ。山田は小池の心理をうまく読んでいたのだろう。「こんな目先のカネで貸し渋って人間関係を壊してしまうより、ここはひとまず相手の顔を立ててやり、より大きなものにつなげた方がいい」──小池に限らず、山田は意識しているのかしていないのか、こうした人間社会における「大人の心理」を常に、実に巧みに利用していた。
 人心収攬術と呼ぶのであれば、間違いなくそうであろう。確かなことは、しかし、プロジェクトは常に完全な創作ではなく、ましてや架空のものなど1つもなく、どこかに必ず、その痕跡が傍目にも分かるようになっているということだ。幽霊話ではなく、ちゃんと脚も足も見えている。
 問題は、そうしたプロジェクトは、必ずしも山田の案件ではないところにある。「あいつは自分が見聞きしたものは全部、自分がやってる案件だって言っちゃう」(小池)なのだから手に負えない。
 山田に食い下がるのは、大人であればあるほど、不可能となっていく。なぜならば、もし万に一つ、山田の機嫌を損ねれば、「本当」のプロジェクトへの参加権を失いかねないという絶対的な恐怖が存在するからだ。
 そのためにも、山田側には絶対に欠かせないことがある。プロジェクトのメニューだけは手元に豊富に取りそろえておかなければならないのだ。ロビー活動を展開するコンサルティング業者に、そうしたプロジェクトが数多く揃うという下地を作ったのは、いわゆる55年体制、自民党体制であったことは間違いない。
 2009年に政権交代が実現してもなお、与党民主党はミニ自民党の如く振る舞った。そのために下地が決定的に崩れることはなかった。与野党が入れ替わっても、日本の国土は掘り返され続けていくのだ、と漠然とした期待があったのだろう。
 だからこそ山田慶一は、まるで夜光虫のように「期待」という名の光を放ち、一流企業と呼ばれる法人や、そこで働くエリートサラリーマンという組織人を魅了して止まないのかもしれない。
 それは決して山田慶一のみの「悪」ではない。彼ら組織人が自主的に集うという、自身の「意志」がある限り、山田慶一が持っているものは「悪」ではなく「魅力」なのだ。だから根本的な問題は、山田に魅力を感じる組織人たちの心の内側にも存在した。
 組織人から放たれる魅惑の眼差し。それを山田は間違いなく捕まえ、決して放さない。これこそが「ロビイスト」という職業に必須の条件なのだとすれば、間違いなく山田はバブル崩壊後最大の、55年体制末期が生んだ最も魅力的なロビイストだといえた。
「お金ある? あればすぐできるよ」
 そんな山田の掛け声に、人々は率先して金を出していった。山田という政治への、自民党への扉を開くための、金こそは何にも勝る通行手形であったのだ。

■区長と〝コンサルタント〟が絵図を描いた麹町五丁目計画

 銀行関係者をも驚かせる、業務委託契約書がある。不動産の第三者への売却コンサルティング業務の契約書だ。2008(平成20)年4月10日付の契約書の第6条には次のようなに記されている。
<甲は、本契約締結時に着手金として、金150000000円(消費税及び地方消費税)を支払うものとし、本委託業務完了時に成功報酬として、本不動産の売却価格の3%に消費税及び地方消費税を加算した金額から着手金を控除した金額を支払うものとする>

 念のため、金額は1億5000万円だ。甲欄には、株式会社アーバンコーポレーション代表取締役の房園博行の名と社判、乙は環境計画研究会代表の山田慶一の名と社判がそれぞれ置かれている。
 その日からわずか4ヵ月後の8月13日、甲であるアーバン社は東京地裁に民事再生手続き開始の申し立てを行う。つまり、アーバン社は実質的に倒産したのだ。
「時期的には4ヵ月前となると、すでに企業としては民事再生の手続きに入っていてもおかしくない時期です。その時期に、不確定要素の強い不動産売買を見越して1億5千万円もの手付金を払うというのは聞いたことはありません」(銀行法人営業部関係者)
 一方で、不動産の業界に詳しい人間はこういう。
「80年代のバブルの頃にはよくありましたよ、こういうの。倒産を見越してね、あるいは経営者個人に対するキックバックのために、現金が必要になるとこんな業務契約書をよく巻いたものですよ」
 後者の〝見立て″も現実味はある。この契約書と平行して作成された、63枚にのぼるカラ―の冊子がある。その表紙にはこう書かれている。
 麹町五丁目計画マスタープラン案――。
 日付は2008年2月12日、アーバン社と山田とが業務委託契約を結ぶわずか2ヵ月前のことだ。東京都内の大手建築設計事務所によって、麹町5丁目界隈の開発計画を取りまとめたもので、紀尾井町TBRビルの跡地を中心に、四ツ谷駅に近い新宿通りの現・鉄道弘済会館までをつないで開発する計画だ。そこには、住宅とホテルのタワー棟複数と、商業施設、さらに中低層の住宅施設を建築する計画が示されている。
 この東京のみならず、日本における一等地中の一等地で、山田たちは開発に着手していた。この建築設計事務所が作成した「マスタープラン案」を山田は持ち歩き、実際に永田町の弁護士事務所で広げて見せている。
 わざわざ第三者の弁護士にこのマスタープランを渡さなければならなかった事情は後述するが、山田はこのマスタープランを任されているのでカネが入るとして、このプラン案が記された冊子を提示していた。
 このプラン案の策定を前後して、この計画地周辺で、奇妙な動きがあったのが、表沙汰になったのは、山田らが業務委託契約を結んでから2年後のことだ。2010年9月16日、東京・千代田区の共産党区議、木村正明が質疑に立った。

<区政運営の公平性・透明性の確保について、端的に2点伺います。1つ目。区役所の移転に当たって、全体のマネジメントを民間企業にゆだねました。その企業の選定に当たり、プロポーザル方式を採用しましたが、選定委員はすべて区の内部職員でありました。『千代田区プロポーザル方式業者選定実施要綱』では、選定委員に原則として『学識経験者を入れる』となっています。なぜ内部職員だけで選定したのか、答弁を求めます。
 2つ目。2008年12月に都市計画決定された『麹町地区の地区計画』では、D地区、いわゆる上智大や鉄道弘済会館や駐車場などがある地区ですが、ここだけが高さと壁面の位置の制限が定められていません。D地区だけルール化を避けた、どんな特別な理由があったのでしょうか>

 鉄道弘済会館、そして「駐車場」こそが、山田らが持ち歩いた麹町プロジェクトの開発区域に当たる。
 いわゆる高さ制限がこの「D地区」の一角だけ設けられていなかった。そこに〝恣意性〟をかぎ取ったであろう木村は、質疑に取りあげた。むろん裏では、何かと区政で話題の尽きなかった、区長の石川雅巳の影を睨んでいたことは間違いない。しかし共産党の木村だけでなく、区議会側もこの段階では、このD地区で具体的な開発計画が進行中であることは知らなかった節がある。答弁に立ったまちづくり推進部長は朗々と読み上げた。

<麹町地区の地区計画は、幹線道路沿道において良好なまち並みを形成することにより、幹線道路における緩衝帯として、後背地の環境保全につなげることを目的としております。D地区におきましては、大規模敷地が多く、不整形な大規模街区となっております。こうした大規模敷地、大規模街区の建てかえにつきましては、一律に高さや壁面後退距離を制限するのではなく、ほかの都市計画手法も視野に入れながら、広場や道路等の空間―都市の空間ですね、そのとり方や、建物、それから機能の配置等、一体的検討が必要であると考えております。このため、地区計画の中では具体的な高さを定めませんでしたが、具体的な建築計画の機会をとらえ、地域の課題解決に向けた効果的な計画誘導を行えるよう、今回は方針のみとさせていただいたところでございます>

 一般論に終始しようとする答弁に、木村がさらに突っ込む。

<それから、麹町地区のD地区だけ、高さ制限、あるいは壁面後退のルールをかけなかったという問題であります。
 今の土地が不整形であるとか、あるいは大規模街区というご説明でしたけれども、そういうところだからこそ、高さ制限や一定のルールを課すことが重要なんじゃないですか。どういうところが開発をするのか、わからないわけだから。
 これまでも区は、地区計画について、その実現に向けて、都市計画に――地区の目指すべき将来図を設定してまちづくりを進めていくんだと。あるいは、将来像をその地区の人々が共有することで、地区としてのまとまり、一体感を持ったまちづくりを進めることができるんだと、こう述べています。つまり、その地区の地権者の皆さん、住民の皆さんがまちの将来像を共有して、そして一歩一歩、良好な住環境をつくっていくんだと。これが地区計画でしょう。何で一定の割合だけ、住民とは別のところで、区が独自にそういったところは別の手法で誘導していくというような例外措置を設けたのか。これは極めて疑問ですよ。
 これについては、特別にこのエリアを外せという働きかけだとか、そういう声がかかりましたか。その点だけ、確認しておきます>

 区議会も知らなかっただろうが、この時点で既にマスタープラン案は計画敷地面積として実に1万8198㎡を予定しており、そこに36階建てのタワー2棟を建設する計画が進行していたのだ。
 当初、この敷地を所有していたアーバンが倒産前に描いていた開発計画とはいえ、建築設計事務所側の青図では新宿副都心、表参道、東京ミッドタウン、六本木ヒルズ、丸の内仲通り、カレッタ汐留、そして銀座に並ぶ都内の一大開発となりうるものだった。
 山田と区長の石川とは極めて近しい間柄だ。山田の持ち歩く〝思惑〟と、そして石川ら千代田区の「部分的な例外措置」によって重なった部分、それが、「D地区」であり、「麹町五丁目計画」として表に現れたのだ。木村の「働きかけだとか、そういう声がかかりましたか」という直接的な問いかけに、役所側の答えはもはや見えていた。

<木村議員の再質問にお答えいたします。まず最初に、どちらかからいろんな要請があったか、高さを決めるなという要請があったかという話でございますが、それはございません>

 しかし、この答弁から遡ること2年前、2008年2月の段階、つまり千代田区が高さ制限を部分的に外すことを決めた時期までに、もう業者による青図は完璧にできあがっていた。これに対して、千代田区のまちづくり部長の答弁は、役所答弁としてはひな形通りのものだといえる。

<このまちについては、道路の舗装のあり方とか、いろんなことをやってきた経緯もありまして、一定の、余り高さに不そろいのないように、結果的には敷地の大きさによって高さも変わってくるわけでございますけれども、それでも、この辺を考えましょうという、70メーター、80メーターという数字が出てきましたし、それとともにあわせて出てきたのが、麹町大通りの、やはり色とか形態について、いろいろ、議論があった記憶がございます。
 そういう点でいきますと、先ほどのA地区におきましても、そういった敷地が道路に面しているところについては、一定の高さ、先ほど申し上げました70メーター、80メーターを設定していますが、その裏敷地においては、先ほども申し上げましたように、大きな街区それから公共施設、都市施設の整備状況がやはりここは不十分であるという観点からそういうふうな議論をして、そこの部分については、今回定めないで方針だけにしておきましょうと。方針の中で、やはり一体のまちであるということを書き込もうということで、そういうふうなことになった経緯がございます>

 実は、この共産党区議の質問から遡ることおよそ1年前、1通の怪文書が流れた。
(第13回につづく)

2016年10月27日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第11回「騙された小池」

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 最後の総会屋・小池隆一は、コンサルタントを称する山田慶一に騙された。

 その事実だけでも驚愕だが、詐欺を仕掛けたタイミングが常軌を逸している。山田は小池から金を借りており、その返済についての覚書を作成しているその最中、更に山田は小池に金の無心を行ったのだ。

 山田は小池に「麹町五丁目計画」と抱きあわせて「渋谷区代々木三丁目計画」なるものを持ち出したことがあった。都内の開発プロジェクトを軒並み舐めつくさんばかりの勢いだが、借りた金の返済について覚書を交わそうという弁護士事務所。その廊下で山田は小池に対して、以下のような説明を行った。

■――――――――――――――――――――
【著者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】文化学園大学公式サイト「学内施設」より
http://bwu.bunka.ac.jp/campus-life/facility.php
■――――――――――――――――――――

「文化学園大学の大沼理事長の税金を自分が支払ってあげないといけないのだが、それが今日明日中でないと困ったことになる。もし、これができないと、大沼理事長、文化学園大学の方から、この開発プロジェクトから外されてしまうかも知れない。そうなると、こうして覚書を交わしても支払いが難しくなるかもしれない」

 山田の説明によると「麹町五丁目計画」は約3000億円という大規模開発プロジェクトであり、3〜5%のコンサルタント料を得る契約書は交わしているという。しかも既に1億5000万円の着手金は貰っており、このプロジェクトが潰れることはない。

 3000億円の3%なら90億円、5%では150億円。早ければ9月末、遅くとも暮れまでには動く。一度に全額は入らないだろうが、進捗状況に応じて、それなりのコンサルタント料が手に入る……。そして山田は更に言葉を継いでいく。

「今月締結する覚書の支払いは間違いなく、問題なく返済、支払いできるのだけれど、こっちの代々木三丁目の方は分かるでしょう……? お義父さんの税金を支払ってやるぐらいのサービスをしておかないと、山田は何も出来ない奴だとなると、この文化学園大学の所有している土地と、大蔵省の所有する土地をあわせて開発する案件から外されれば、いろんなゼネコンからの信用もなくなりかねないので……」

 繰り返すが、自身の借金を返済する覚書をまとめる場所で、山田は小池に懇願したのだ。

「何とか1000万円を今日明日中に都合してもらえませんか? 一応返済は1、2か月後ということでお願いします」

 法律事務所の廊下は、実に静謐な空間だった。山田は小声で訴える。小池が仰天したのは無理もない。覚書を作りに来たら、カネの無心をされるなど、さすがに経験したこともない。しかも山田には既に多額のカネを貸していたのだ。

 2001年2月14日付で5000万円。同年10月12日付で2000万円。合計7000万円にのぼる資金援助に対して、山田の返済は未だに1銭もなかった。ようやく支払いの覚書を結ぼうという場所で、更に1000万円の要求である。

 後に分かったことだが、こうしたプロジェクトに関して山田が「コンサル契約を結んでいる」と説明していたアーバンコーポレーションが東京地裁に民事再生を申請して破綻したのは2008年8月。小池が山田と覚書を結んだのは2009年3月31日付けだ。

 つまり既に潰れていたアーバン社と「麹町五丁目計画」に関してコンサル料を得られるとし、プロジェクトは間もなく始まるのだと強弁していたのだ。恐るべき厚顔だが、小池が山田に貸し付けた7000万円は自分の金ではなかった。別に調達してくれた人物がいたのだが、その人物は山田のことを疑っていた。

「山田さんに貸した7000万円は東郷神社のプロジェクト開発資金に使うという目的だったはずなのに、使われた様子がまったくないのはおかしい。山田さんは大成建設に預けているというが、ならば大成建設の伊藤専務から返してもらって、私が貸した金は返してほしい」

 つまり小池は責められていたのだ。

「伊藤専務から返してもらって、こちらに返済してくれと話したら、預けている伊藤専務が病気で入院したので、今は話ができないのでちょっと待って下さいと言われたよ」

 当然ながら、調達者の疑念は膨らむ一方だ。

「入院話以降は、色々なプロジェクト、開発案件、工事受注話が、報告としてというか、言い訳としてというか、とにかく借りている金は返すから、ちょっと待ってほしいという話にしかならない。このプロジェクトが、この案件がまとまれば金が入る、それまで待ってほしいと言うんだが、真実なのか嘘なのか、全く判断がつかない」

 山田は新たな借り入れを行うたび、あるいは返済を迫られるたび、今関わっていると言うプロジェクトについての書類をちらちらと見せはするものの、いざ関係者が具体的に検討しようとすると、守秘義務を楯にコピーすることを拒絶するのだった。

 それでも、と小池は考えた。山田は確かに文化学園大学、旧文化服装学園の理事長たる大沼淳の娘との間に子供をもうけている。山田にとって理事長は岳父だ。身内までも欺罔することはないだろう……。

 小池は、そんな人間関係を顧慮したうえで、大沼が経営する大学所有地の開発案件ならば、山田が多くを語りながらも、1つとして実現しなかった他の案件とは異なり、それは現実化しうるのだろうと考えた。小池は再び、山田の請願に応じた。すぐに手配した。振込記録のみが手元に残っている。やはり2009年3月31日、弁護士事務所の廊下で懇請されたその日、である。

<三井住友銀行麹町支店 環境計画研究会 山田慶一 普通口座0232013>

 もちろん現在まで、小池のもとに山田から返済された金は1円1銭さえない。

「まったく義理も人情も正義も道理もない。これでは木の葉が沈んで、石が浮いている状態で、道理が通りません」

 小池は嘆いた。それにしても山田という男は誰であっても相手を籠絡し、最後は馬鹿にしたように放り捨てる。小池が騙された一部始終も正直なところ、現実のものだと受け止めるのはかなり難しい。とりわけ借入金の返済の根拠として、既に破綻していた会社の名前を持ち出したり、そのコンサルタント案件やプロジェクトがすぐに動き出すと明言したりした上で、更に借金を頼んでくるのだ。常人の発想は越えてしまっているし、詐欺師としても珍しい類型だろう。

 小池は「紛れもない詐欺であり、詐欺以外ではない」と憤る。これまで小池の人生で企業社会はもちろん、垣間見た任侠世界の人間との付き合いでも、ここまで明々白々な欺きに直面したことはなかった。それを知ってか知らずか、山田は小池と知人らを、まさに手玉に取ったのである。

 なお、山田が口にした「東郷神社の開発プロジェクト」とは東京・原宿の東郷神社周辺の開発計画を指すわけだが、そこを山田が取り仕切ったという形跡はない。神社の開発は既に工事も終わり、プロジェクトと称するものの名残など全くない。極めて綺麗なのだ。確かに有象無象の人間たちが出入りを重ね、警視庁も動向を注視した時期もあったが、結局何も起きなかったのだ。

 これまでにも他人の看板で自身の信用を創ることに長けた山田が、その人生の中で「日本における日本人」としての信頼を得ることに成功したのが、小池を騙した文化服装学院という看板だったのは確かだろう。

 山田慶一はまさに、日本最大規模の私学といえる文化服装学院=文化学園大学という「力」を、理事長の娘との間に婚姻関係を結んだことで、手に入れることができた。小池が「大沼理事長のために使う目的で金を貸してくれというからには、絶対に不義理しないだろう」と信じたのも無理はなかった。

 しかしながら山田が小声で無心した額は「1000万円」である。山田は「大沼理事長の税金立て替え費用」と説明したが、それは限りなく怪しい。そもそも高額納税者であるはずの文化服装学園の理事長の税金が「1000万円」で済むはずもない。仮に1000万円だったとしても、その支払いに滞る状況は想像しにくい。

 1人の老夫が書き送った次の内容証明郵便を読み、複雑な心境になった。「お言付け」と題されたそこに記されているのは、その人物が至った現在の心労に加え、その内容が再び孕む現実の仕組みに唖然とさせられたからでもあった。

<『お言付け』
 糸山英太郎氏が学長であり、経営者であった神奈川県の湘南工科大学の売却依頼と、合わせて糸山英太郎氏が買い占めていた大量の日本航空の株式の売却依頼という2つの相談・解決を、湘南工科大学と北海道の東日本学園大学という共に糸山英太郎氏が経営をしていた2つの大学の理事を務めていた私(石井孝之)と故小林秀男元理事の二人が、糸山英太郎氏から相談・依頼を受けたのが平成十二年の四月~五月だったかと記憶していいます。

 糸山英太郎氏から2つの売却の依頼を受け、買い手を探すために極秘で小池隆一さんに相談したところ、小池さんより貴殿(山田慶一)を紹介されました。

 山田慶一氏については、平成九年三月十九日発行の写真週刊誌フォーカスの8ページから9ページの談合の世界で「天皇」とも呼ばれていた平島栄の公正取引委員会への談合資料持ち込み暴露事件での暗躍話の噂を聞いておりましたし、平成十年十二月五日号の週刊東洋経済の五四ページから五六ページの「文化服装学院」を揺るがす大沼一族の〝利権ビジネス〟。五七ページから五九ページの建設業界が瞠目する「山田慶一」という男という記事を読んで、名前だけは聞いていた人物でしたが、実際に小池さんの紹介でお会いしたのは初めてでございました。

 小池さんの仲介で、山田慶一氏に湘南工科大学の売却と大量の日本航空株式会社の株式(確か七千万株程だったかと記憶しておりますが)の売却依頼・買い主探しの依頼を相談いたしました。

 その結果、山田慶一氏の義父である大沼淳氏を文化大学の理事長室にお訪ね致しました。

 山田慶一氏と大沼淳文化大学理事長と私石井孝之氏と小林秀男と四人で相談を致しました。

 その結果の一つとして、東京第一法律事務所の内野経一郎弁護士が湘南工科大学の理事に就任し(平成十二年五月二十日就任~任期途中の平成十三年五月二十九日退任)、その立場で、理事会にも出席し、帳簿等々も精査し、どのような手法・どのような条件で売買することができるものか検討することになりました。

 そうした会合の際の山田慶一氏の大沼淳氏に対する言動が「おとうさん」「おとうさん」と親密な親子関係を感じさせ、私はすっかり山田慶一氏を信用してしまいました>

 糸山英太郎は2012年、この湘南工科大学の理事長に就任している。また、文中の「文化大学」とは文化学園大学である。

 山田が政界に対する力と信用を得たのは、前述のように、佐藤昭の〝門番〟よろしく振る舞う中でだったが、ここにも記されるように、名門の文化服装学園の創設者である大沼淳を岳父としたことが、〝日本人〟としての大きな信頼を纏うようになっていく。

 あの文化服装学院の大沼淳を「おとうさん」と呼ぶことで、そこに大きな信頼の基礎を築いたのであった。この大沼淳という存在は、大沼本人の意図を別としても、佐藤昭同様に、この稀代のロビイストの日本社会での信頼を決定的に〝輔弼〟する、あるいは車の両輪の片軸を担うものであった。

<私は長年、新宿で事業を営み、住居も構えておりましたので、文化服装学園・文化大学のことは十分に承知しており、大沼理事長を陰ながら尊敬いたしておりましたから、その大沼理事長の娘婿であるということですから、すっかり信用してしまいました。

 結論から言えば、この湘南工科大学の売買話も日本航空の株式の大量売買話も不調に終わりました。

 しかし、その後、私(石井孝之)は小池さんを通じて山田慶一氏から融資を申し込まれましたが、私(石井孝之)は小池さんにお貸しするから、小池さんより山田慶一氏に貸してやって下さい。

 そして、山田慶一氏が小池さんに返済を実行した時、それをそっくり私(石井孝之)に返済してくれれば結構です。という条件で平成十三年二月四日金五千万円を小池さんと私(石井孝之)の二人で、山田慶一氏の千代田区一番町に所在する日交一番町ビル八階の環境計画研究会という山田慶一氏の事務所に現金五千万円をお届けに行きました。

 お金を貸す方の私が借りる方の山田慶一氏の事務所に現金をお届けするのも変な話で、本来であれば山田慶一氏が私(石井孝之)の事務所の方へ借用書を持って借りに来るべきであろうと思いましたが、小池さんの顔が立つのであればと、小池さんと一緒に出向いたしだいでございます。

 その際の山田慶一氏からの説明では、渋谷区原宿の「東郷神社の案件で、プロジェクト関係者等に対する前捌き金として、使用するもので」「大成建設の伊藤専務からの依頼で協力するものだ」「この開発プロジェクトの利益は大きいので、小池さんには十分な配当をしますので、石井さんと二人で分けて下さい」などと、その融資金の使途の説明を受けました。

 その後、追加の融資を申し込まれ、平成十三年十月十二日に金二千万円を前回同様山田慶一氏の事務所に届けました。

 しかし、結果的には、この東郷神社の案件について、山田慶一氏は何も役割を果たした様子が無く、結局は騙されたものと考えております。

 融資金合計金七千万円の返済を再三再四、山田慶一氏に催促をし、その都度、私(石井孝之)の事務所に来られて次から次へと開発プロジェクトの案件を説明し「この案件で報酬が入るので、必ず返済するから、もう少し待って欲しい」とかコンサルタント契約を締結したとか、業務委託契約を結んだ等々と十指に余り、十五指も二十指もの説明を受けましたが、結局未だに一銭の返済も実行されておりません。

 小池さんの事はもとより、山田慶一氏が文化大学理事長の大沼淳氏を義父にもち信頼できると思い、お付き合いをしましたが、段々と、山田慶一氏に対し不信感が募り、私(石井孝之)の社員の榎本恵美子と一緒に「麹町五丁目計画地」と「渋谷区代々木三丁目計画地」を何回も見に行った事を小池さんに話したところ、小池さんは、それを山田慶一氏に話し、山田慶一氏は怒髪天を突く勢いで「そのような事をしたら文化大学の方に知られ計画は中止になってしまうので二度と、調査する等ということは一切やめて欲しい」と小池さんの方に電話で申し入れがあったと聞き、今でも全く理解できません>

 山田はこれまでも、自身が小耳にはさんだ数多くの都内のプロジェクトでも「自分がやっている」と吹聴していた。

 しかし誰もが「高度に閉じられた世界での、山田ならではの話」と信じ、遠慮し、山田が吹聴する話を深く検証することをためらってきた。あるいは、山田の話を検証できる人間は決して山田に近づかないか、山田の存在感は一定程度認めつつも、敬して遠ざけ、眺めているに過ぎなかった。

 小池や、この「お言付け」の石井孝之など、他人の尊厳と自身の尊厳に関して、いささか真面目すぎる人間ほど、山田は得意としてきたきらいがある。世の中には自らを大きく見せるため、こけおどしの大きな事業話を振り回す輩は、起業家にも企業内にも溢れているが、やはり山田の特異なところは必ずといっていいほど、そうした与太話をネタにして相手からカネを引っ張ってしまうのだ。

 貸した方の〝弱点〟としては、もちろん人間関係の義理がある。しかしバブル崩壊後、90年代以降の日本社会では銀行や証券の利回りが限りなくゼロに近い。山田が言うように「プロジェクトが成功すれば、それなりの色を付けて貸した金が返ってくる」のであれば、それは決して悪い話ではない。いや、それどころか、大いに魅力ある話に映ってしまったとしてもおかしくはない。そこに山田は付け込むのだ。

<私(石井孝之)の融資した金七千万円は何に使ったか?という問いに対して、山田慶一氏は「大成建設の伊藤専務に三億円を預けたままになっている。金七千万円は、その中に含まれています」という答えをするので、「それでは伊藤専務に話して、金七千万円だけでも返して貰って、私(石井孝之)に返済して欲しい」と話すと、その後、伊藤専務は病気入院で亡くなった事が分かり、伊藤専務の話はうやむやになってしまいました>

 伊藤専務こと、大成建設の伊藤美喜男は2007年8月9日、すい臓がんのため、死去する。まさに死人に口なし、ではないか。

<こうしてノラリクラリとはぐらかされて、私は困り果てたあげく、平成二十二年に新宿区左門町に所在する四谷弁護士ビル三〇五号室の権藤法律事務所の権藤世寧弁護士に相談し、何とか返済してもらう手立てをと正式に権藤先生に依頼しました。

 一部始終、権藤先生に話したところ、「石井さん、これは詐欺だよ」と言われました。

 書類を作成し、合意しても、山田慶一氏に騙されたという気持ちです。

 小池さんも山田慶一氏にすっかり騙されたようで、小池さんの奥様からも送金させて借入していた事は、いかにも小池さんの人の良さも伺えます。

 何故、この時期に、このようなお願いをするのかと思われるかも知れませんが、私(石井孝之)も体力に自信が無く、大病を患い入退院を繰り返しており、家族の事が思い遣られてなりません。

 小池さんも承知と思いますが、金七千万円の中には榎本恵美子氏のお金も入っております。

 このまま、うやむやになってしまうのが、山田慶一氏に対して怒りでいっぱいです>

 2012年9月12日付のこの内容証明郵便に対して、もちろん、山田からの返答はない。
(第12回につづく)

2016年10月6日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第10回『ミサワホーム恐喝』

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(承前)2016年6月、ミサワホームの創業者・三沢千代治氏の代理人弁護士は、〝コンサルタント〟たる山田慶一に内容証明を送った。そこでは舌鋒鋭く山田を糾弾している。

■――――――――――――――――――――
【著者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】MISAWA・international株式会社公式サイトより
http://www.habita200.jp/
■――――――――――――――――――――

 以下が内容証明の抜粋だ。

<さて、早速ですが、通告人は(※筆者註:三沢側)、貴殿(山田慶一)より、2005年6月、2004年12月28日に産業再生機構の支援が決定し、翌2005年3月31日トヨタ自動車株式会社がスポンサーとなることが取りきめられていたミサワホーム株式会社の今後の運営に関して、真実、そのような意思も能力もないのにこれを秘して、トヨタ自動車株式会社から有利な取り計らいを受けることが可能であるかのごとき虚構の事実を申し向けて通告人を欺罔し、そのための工作資金の支払いを通告人に請求し、通告人をして、貴殿の計らいでトヨタ自動車株式会社の首脳と良好な関係を築くことによりミサワホーム株式会社との係争が有利に解決しうると誤信せしめて、通告人をその旨錯誤に陥れたうえで、業務報酬名下に以下の通り合計金2億5000万円金員の支払を受けてこれを騙取されました。

(編集部註:数字の全角化など一部手を入れた)

<2005年>
 6月10日  金3000万円
 6月24日  金1000万円
 7月 5日  金 500万円
 7月15日  金 500万円
 7月22日  金 500万円
 8月 8日  金1000万円
 9月12日  金3000万円
10月18日  金3000万円
11月 4日  金3000万円
12月20日  金1000万円
12月26日  金2000万円

<2006年>
 1月23日  金1500万円
 3月13日  金5000万円>

 2億5000万円という金額が、いかに巨額かを改めて実感させられる。ほぼ毎月、1000万単位のカネが右から左へ流れている。1回にまとめて取るのではなく、細かく分割して手に入れているのは意図的なものだが、ここから先が更に凄い。内容証明に戻ろう。

<また、貴殿は、2006年4月、通告人と新井総合施設株式会社及び株式会社アラックスとの間の株式売買交渉に介入し、なんらの功績もないにもかかわらず、新井総合施設株式会社の株式を名義上保有していた平成管財株式会社の役員登記を無断でほしいままに変更するなどして通告人を困惑させ、実質的にこれを回復させる代償として報酬金名下に以下の通り合計金4億円の金員の支払を受けてこれを喝取しました。

(編集部註:数字の全角化など、上記と同じ)

<2006年>
 3月 9日  金1億円
 3月17日  金1億円
 4月18日  金5000万円
 9月30日  金5000万円

<2007年>
 3月30日  金3000万円

<2008年>
 3月19日 金 300万円
 3月26日 金 700万円
 3月31日 金4000万円
 4月25日 金1000万円
 4月30日 金1000万円>

 コンサルタント料とは、これほどまでに頻繁に、かつ高額なものなのかと、支払っている側も受けとっている側も共に常軌を逸しているのではないかとさえ思える。しかし、それほどまでに切羽詰まっているからこそ、支払いに応じたのだろう。

 ロビー活動とは、依頼する側にも金がなくては不可能だ。このミサワホーム創業者の案件では、政界に対する工作依頼ではなく、民間同士の、トヨタ自動車に対するものだ。果たして、これほどまでに費用が必要なものなのだろうか。

 内容証明で代理人弁護士はさらに続ける。

<このように、貴殿が、通告人会社から2005年から2008年にかけての3年間に通告人会社から持ち出された金員は金6億5000万円に達する巨額なものとなっており、貴社の詐欺及び恐喝行為により、通告人は金6億5000万円の損害を被っております。これは、到底看過できる範疇を超えた金額となっており、通告人といたしましては、大型経済事件として立件して、刑事告訴を行うなどして貴殿の法的責任を明らかにし、貴殿に対する国家刑罰権の発動を厳しく促すこともまた検討しております。

 つきましては、通告人は、貴殿におかれて、この不正に領得された金員を貴殿の意思をもって返済するつもりがあるかどうかについてお尋ねいたします>

 これに対して、山田側の弁護士は早速に回答書を取りまとめた。そこにはこうあった。

<1 結論として、ご請求には応じかねます。山田氏は、いかなる意味においても貴社に対して詐欺・脅迫等に該当する行為を行っておりません。

 2 貴信においては、山田氏が三澤株式会社から、金員を騙取、あるいは喝取したとのご主張をされております。

 民法101条は、代理行為の瑕疵について規定しており、詐欺、脅迫にかかる事実の有無は、代理人について決するものと規定しております。このことから、法人に対する詐欺・脅迫にかかる事実の有無は代表機関について決せられるべきものであることは、ご案内のとおりです。

 従いまして、貴社に対する詐欺・脅迫の有無については、代表取締役であられる深澤錬太郎氏について決せられるべきものですが、山田氏は、深澤氏に対して、詐欺・脅迫行為を行った事実は一切ありません。

 もし、そのようなご主張を維持されるのであれば、日時・場所・方法を特定して、いかなる詐欺・脅迫行為を行ったかについて、詳らかにされるようお願い致します。

 3 あるいは、貴信においては、三澤株式会社の大株主であられる三澤千代治(以下「千代治氏」といいます)に対する行為を問題にしておられるのかもしれません。

 しかし、山田氏は、千代治氏に対しても、一切、詐欺・恐喝に該当する行為を行ったことはありません。

 これについても、山田氏のいかなる行為が、詐欺・恐喝行為に該当するのか、具体的事実を、日時・場所・方法を特定のうえ、ご主張されるようお願い致します。

 4 ちなみに、山田氏は、千代治氏からの依頼を受け、貴社がミサワホーム株式会社に対する実質的支配権を回復するべく、種々の活動を行い、その対価を受領したことはあります。

 仄聞するところでは、貴社は、山田氏に支払った金員等を、正当な業務委託料として国税局に対し申告し、これを前提として、貴社に対する課税額が決定されているとお聞きしております。

 すなわち、貴社自身が、貴社と山田氏との間の業務委託関係に、法律上の瑕疵がないことを前提として税務上の処理をなされているのであって、この段に及んで、それと矛盾するご主張をされることの真意をはかりかねる、というのが正直なところであります>

 山田側の代理人弁護士は、さらに強気の言葉を重ねる。引用を続けよう。

<5 貴信においては『貴殿が、通告人会社から(中略)持ち出された金員』『詐欺及び恐喝行為』『大型経済事件』『刑事告訴を行うなどして貴殿の法的責任を明らかにし』『国家刑罰権の発動を厳しく促す』など、山田氏の行った行為が、明らかに犯罪行為であることを前提としたご主張がなされております。

 上記のとおり、欺罔行為や恐喝行為の具体的内容すら明らかにされないまま、山田氏があたかも犯罪者であるかのような言葉を連ねられていることは、はなはだ遺憾に存じます。

 今後の展開の如何によっては、三澤株式会社および貴職らに対し、名誉棄損・信用毀損・誣告等を理由として、法的措置および懲戒の申立等を行うこともありえますので、あらかじめご承知おきください>

 山田は、縁戚筋とも言われ、身内のなかの身内といわれる大場がいうように、表向き、「他人に決して不快な思いはさせない」人物である。

 その山田から「恐喝」されたと三沢千代治が訴えていると聞き、腹のどこかで腑に落ちたのは、当の山田ではなく、小池隆一、その人であった。小池には、思い当たる節があった。小池は山田が三沢側からこれだけの〝コンサル料〟を得ていた時期を前後して、山田、そして三沢千代治と3人で中国に行ったことがあった。

「当時の三沢千代治さんはMウッドという開発した建材を拡販したがっていて、そのお手伝いをしたんです。中国での販売を考え、中国の企業を紹介して、それで中国国内で会社まで設立したんですね。中国側の役員を入れて、販売のための合弁会社を設立したんです」

 だが、そこは商売の常であろう。その折の展開はうまくいかず、結局、Mウッドによる中国での事業は最終的には頓挫することになる。

「その時の中国では、事業展開するには、まだ時期尚早だったのかもしれません。しかし、実際に会社を設立し、展開させていたのは間違いないんです。ところが、この内容証明の遣り取りで恐喝うんぬんということを三沢さんが言っているところをみると、今ならば分かるところがある。というのは、いつだったか、私が紹介した中国側の人間に、三沢さんが、小池を外してくれといってきたことがあったんです。」

 三沢はこの時期、2004年3月にミサワ・インターナショナルを立ち上げ、ミサワホームグループとは別に、再び自力展開を図っていた。Mウッドを中国で拡販できれば、と中核事業への期待も大きかったであろう。

 三沢側の代理人は、三沢の個人資産管理会社である平成管財の株取引にも山田が絡んだとする。後述するが、山田はこうしたトラブル絡みの株の処理に顔にもしばしば顔をのぞかせる。ある著作権管理ビジネスの企業での株取引でも、奇妙にその名前を刻印している。

 小池は、「あの時はわからなかったけれど……」と、当時を振り返る。三沢が中国で小池が紹介した関係者のもとに出向き、こう相談したことがあった。

「小池を事業から外して欲しい」

 しかし中国は、縁のあった人間を大切にする国でもある。三沢からそう持ちかけられた相談者はこう断った。

「この話はもともと小池さんからのご紹介で私どもは三沢さんとお会いさせていただいたものです。私どもにとって小池さんは大切な方です。その方を外すというのならば、私どもは三沢さんと一緒には事業はできません」

 もとより小池との信頼関係のうえで三沢との事業展開の乗り出したこの中国人は、三沢からの小池を外したいという申し出を断ると同時に、その話は小池の耳に入るところとなる。小池にしてみれば、これもまた寝耳に水であった。山田、三沢を連れて中国に行き、わざわざ紹介の労をとっただけでなく、なんら敵対するような心当たりはなかったのだ。

「何といっても私は総会屋だったという過去があるから、そのために三沢さんとしても事業展開に小池の名前が絡んでいると、後々は良くないと考えたのかもしれない」

 当時はその程度にしか考えなかった。そして当然、よもや山田が、三沢からこれほど多額の資金を引きだしているとは夢にも思っていなかった。

 だが今、三沢が山田に送った内容証明に記されているのは、これは想像を超える額ではないか。実に細かく、幾度も、幾度も三沢から引き出している。パシフィックコンサルタンツの時と同様だ。

 もちろん小池は、三沢が中国で展開する予定だった事業にも何ら顔を出していない。事業そのものに首を突っ込む気さえなかった。しかし三沢はある時、小池を外さなければならないと決意し、中国側と内密に接触を図ったのだ。

 小池のなかで、再び疑念が大きく膨らんだ。つまり、山田は「小池に金を渡さなければならない」などと言って、三沢から金を引っ張り続けていたのではないのか。

 三沢としても、「あの小池が」と言われれば、その空恐ろしさから、やむなく金を出していた可能性がある。つまり三沢が再三、内容証明で書き連ねている「恐喝」という意識に繋がっているのではないだろうか。

 三沢は山田から「小池が」と名前を出されるたびに金を支払い、そして、三沢のなかでは「やむなく」という気持ちが膨らんで行った。そう考えれば、三沢側が山田に送った内容証明郵便の心情と情景にも合点がいく。そして山田は、小池の名前を相手におどろおどろしく迫る場合に利用して、そして、小池のまったく預かり知らぬところで懐を潤していたのか……。

 小池は、自身の不明を恥じるとともに、強い怒りを感じたが、おそらく、山田には何を言っても無駄だろうという思いも強まった。ただただ、小池は自分の蒙昧さを深く恥じ入るのだった。

(第11回につづく)

2016年9月29日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第9回『ロビイスト』

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 2001年9月11日、アメリカ・ワシントンDC──。雲ひとつない青空の下、ポトマック川の向こうに大きな地響きと共に太い黒煙が上がった。ハイジャックされた民間の旅客機が国防総省に突っ込んだのだった。

 その日の朝、私はホワイトハウスに近いKストリートを歩いていた。ほどなく軍用車両が市内に溢れ、物々しい空気が通りを走りぬけた。そしてオフィス街は一転して週末のように静まり返った。

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【著者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】日本自動車工業会『自動車の役割と安全・環境への取り組み』表紙より
http://www.jama.or.jp/safe/safe_eco_digest/
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 街角のカフェでは背広姿の人々が、かじりつくようにしてテレビに見入っていた。画面にはツインタワーが映り、やはり黒煙が空へ上がっていた。朝を迎えたばかりのKストリートだったが、感謝祭でもクリスマス休暇でもないのに、オフィスから全ての灯りが消えようとしていた。この通りの歴史上、初めてのことだろう。

 既に郊外からDC市内へ向かう車には規制がかかっているのだろうか。市外へ出て行く車は見受けられるが、ストリートに入ってくる車はほとんどない。旅客機によるテロがもたらした筆舌に尽くしがたい地獄絵図と同じぐらい、そうした街の光景は強烈な印象として眼に飛び込んできた。

 ワシントンDCにおけるKストリートは、ホワイトハウスに匹敵するほど、政治的な象徴性を有している。ホワイトハウスの外に位置しながら、ホワイトハウス以上にアメリカを代表し、国務省の外にあって、国務省以上にアメリカを代弁する場所といえた。世界最強のロビイストがオフィスを連ねる街、それがワシントンDCのKストリートである。

■アメリカの「ロビイスト」と日本の「天下りキャリア」の類似性

 ロビイストとは文字通り、ビルや建物の玄関口やロビーに集う者を意味した。

 それが転じて議会などに対して政治工作を担う専門家を指すようになった。日本では馴染みがないが、アメリカでは登録が必要となっているほど、職業として確立している。たとえ外国人でも登録は可能だ。日本人なら例えば石原慎太郎が登録している。

 ロビイストは企業や利益団体の代理人として、その主張や要望を議会や有権者に広く浸透させる「中間媒体」と見なすことも可能だ。つまり、メディア的な存在ともいえる。

 ただ、少なくとも建前では「不偏不党」を謳う報道メディアとは決定的に異なり、彼らは徹頭徹尾、特定利益の代理人として動く。

 先に私は「日本でロビイストは馴染みがない」と書いたが、似たものはいくつか存在する。その1つにKストリートならぬ虎ノ門界隈に拠点を置く、業界団体や特殊法人の専門理事職だ。彼らの多くは対象業界を所管してきたキャリア官僚OB。交流人事の名目で、時には現職官僚も部長級クラスの待遇で着任することもある。

 バッシングのブームは去ったが、キャリア官僚の天下りに対しては未だに批判が根強い。であるにもかかわらず虎ノ門界隈が隆盛なのは、役所側の斡旋ニーズもさることながら、業界側が中央官庁とのパイプを必要としているからだ。結果として、専務理事や理事職が官僚OBの天下り先であることは揺るがない。

 天下り理事たちは出身母体の省庁と業界団体を繋ぐパイプとなるだけでなく、業界側の陳情や要望を国会議員に伝える必要があれば先陣を切る。その姿を目にするたび、私は旗を振って観光客を案内するツアーコンダクターを連想してしまう。

 アメリカのロビイストは登録制だが、日本における官僚OBは「格と序列」に従って仕事に携わっていく。事務次官を筆頭に審議官、参事官、課長級……と、省庁を退官した時の官職は「格」として天下りのポストに連動する。

 その体系は極めて精緻だ。退官後、2人の官僚OBが「専務理事」に天下りしたとしよう。役職名は同じだが、格も序列も違うことは珍しくない。例えば経済産業省が所掌する業界のうち、機械業界であっても自動車と事務機器では残酷な序列が存在する。

 自動車工業会は、事務機械工業会より格上であり、前者の専務理事も後者の専務理事より格上として扱われる。そうした格と序列を反映し、送り込まれる官僚は自動車業界なら局長級、事務機器団体は課長級と決まっている。

 更に業界団体は、それぞれに議員連盟を抱えている。議員立法を目論む場合は、議連への働きかけが不可欠だ。議連は「日本型議会ロビイング」の窓口と言える。

 日本政治が官僚主導であることは論を俟たない。だが、たとえそうではあっても、官僚は政治=民意の下僕であるという意識も強い。そのために官僚OBの専務理事が、国会議員に強く出るということはあり得ない。

 業界団体から依頼された陳情でも、現役時代に国会議員へレクチャーしていた時と変わらない。主旨説明を棒読みするだけで、アメリカのロビイストのように具体的な交渉は行えないことの方が多い。

 議員側も、専務理事の役割と限界は知っている。あからさまに言えば、専務理事が業界から「カネ」を引っ張ってはくれない。だから専務理事は窓口役としてしか遇されない。それが実態だ。

 それに物足りない企業はどうするか。彼らは業界団体に所属する官僚OBを表向きは立てながら、自分たちの目的追求のため自社内に別の官僚OBを囲う。独自に天下りを受け入れ、役員や顧問として処遇する。

 歴史の古い、老舗の大企業などは特に、大物キャリアが退官すると役員や顧問として迎える。記憶に新しいところでは、東日本大震災で原発事故を引き起こした東京電力が、監督官庁である資源エネルギー庁の次長だった石田徹を役員として迎え入れた事例がある。

 石田は東電に対する世論が厳しくなって退任に追い込まれたが、官庁にも議員にもそれなりに顔が利く〝やり手〟となると日本はもちろん、アメリカでさえ数は限られる。その対策として日本では大物OBを企業が抱え込み、社外ロビー活動を行わせてきたわけだ。

 日本社会は、どこまでも「所属」意識がつきまとう。独立したロビイストより、大企業顧問の方が信用されるに違いない。「その人は何者か」ではなく「その人は、どこに勤務する何者なのか」が最重視される。だからこそ我が国ではアメリカのような登録制のロビイストが根付かなかったのではないだろうか。

■アメリカの「ロビイスト」と日本の「コンサルタント」の類似性
 
 似てはいるが、アメリカのロビイストと日本の官僚OBが決定的に異なるのは「カネを引っ張れるかどうか」という点にある。

 業界サイドが議員=政治側に要求を呑ませられるかどうかは、何よりも公共性という見栄えが重要だ。その上で、議員が利益享受を納得するかどうかのシーソーゲームといえるだろう。

 アメリカの政治世界は、日本以上の拝金主義だ。そのロビイストの提案を呑めば、多くのカネが集まるかどうかという判断基準も存在する。全ての政治家が邪な期待感で政策決定に加わっているわけではないだろう。だが当選した議員でも、落選してリベンジを目指す前議員でも、多額の選挙資金を必要とし、実際に調達しているのは事実だ。

 ちなみにアメリカではNPOでさえ自分たちで政治資金を集め、自分たちの政策ビジョンに近い議員へ重点的に配分するところもある。昨日今日始まったことではなく、伝統と呼んで差し支えない。アメリカ風の「合理的な判断」ということでもあるのだろう。

 繰り返すが、日本ではキャリア官僚OBにカネを集める力はない。だからこそ彼らは決定的に職能ロビイストたり得ない。業界団体は議員連盟を抱え、日常的な接触を保っている。しかし団体から差配されるカネは議員たちにとって充分に魅力的──というには足りないのだ。

 そこで議員たちは業界からの政治資金を当てにせず、後援会で有力者を増やし、自分のタニマチになってくれることを望む。この構造が決定的に覆らない限り、議員にとって官僚OBは日本型ロビイストどころか、単なる業界・企業のスポークスマンに過ぎない。

 その間隙を突く格好で、日本でも一般化してきたのが「コンサルタント」だ。我が国では元議員秘書や証券会社OBなど、豊富な人脈を持つ者が独立して開業するというイメージは強い。だが、彼らのリアルな実態や、その仕事ぶりなどは、意外なほど表立って知られてこなかった。

 日本の官庁も、例えばボストン・コンサルティング・グループと組み、特にアメリカ政界におけるロビイングを展開したこともある。70年代から80年代にかけて日本の輸出水準が高かったのに対し、レーガノミックスによる「双子の赤字」を抱えてアメリカの国内経済は疲弊していた。

 結果として日米貿易摩擦という国際問題に発展したわけだが、日本の省庁は外務省というチャンネル以外に、アメリカ系コンサルティング・グループをロビイストとして活用しようとしたのだ。
 
 だが日本ではその後、施策の展開はロビー活動より、パブリシティを重視する傾向が強まる。官庁も電通や博報堂などに仕事を依頼。大手広告代理店がロビー活動の一翼を担うことになった。

 とはいえ両社の活動は世論に対する働きかけを越えることはなく、政治的な周旋活動に及ぶことは少なかった。行われたとしても単発のものであり、継続性と影響力には欠けていた。電通と博報堂は、政治家個々の懐を潤すところまではいかない。そこまで立ち入れる人材を確保していないからだ。

 つまり日本において、深層のロビー活動は常に空白域だったのだ。組織化、職業化されることはなく、個人の力量に託された。だからこそ、山田慶一をはじめとする多くのコンサルタントが立ち現れたのだ。

 少なからぬ企業が自社で天下り官僚を抱え、政治家とのパイプを持ちながらも、それでも全く無名のコンサルタントに仕事を頼らざるを得ないのは、政界にカネを運んで交渉できる人間が社内に存在しないという事情もあっただろう。

 コンサルタントは政界に企業の都合を納得させられる者であり、政治の世界との交渉をカネで解決する者なのだ。その原資は企業にとって帳簿外とするしかない裏金だけではない。「コンサルタント料」という正規の業務委託契約によって表の金として処理できる。おまけに不動産取引のように「手数料は3%」という法律の網もかかっていない。まさに青天井に膨らみうる余地がある、意図を持った者、意図を通す者の双方にとって旨みのある名目となる。

 企業にとっても、コンサルタントという緩衝地帯を経ることで、政治側に対して表面に出ることなく、陰ながらの利益を追求できるという旨みがある。要するに刑法上の贈収賄を回避できることが最大のメリットであるのかもしれない。

 2012年に発覚したオリンパス事件、キヤノンの大分工場誘致をめぐる刑事事件でも、一般には全く無名のコンサルタントの名が浮上したが、そうしたコンサルタントが関与する案件に比べると、山田慶一の場合は担当案件の大きさと数で群を抜いていた。

「8億円をごろごろと」と言われるように山田の元には圧倒的な金が集まり、その資金力を魅力とする多くの政治家が山田を詣でる。企業や利益団体から、どれだけ多くの金を集めるのかという職能を持っている点で、日本でアメリカのロビイストに近い職業はコンサルタントなのだ。

■日本における「フィクサー」と「コンサルタント」と「ロビイスト」

 山田慶一は最も深く政界の懐に入ったコンサルタントといえた。つまり日本で最も有能なコンサルタントなのだ。前回で見て頂いた通り、田中角栄在りし日の「越山会の女王」佐藤昭との親交から、ころころとトップが代わった自民党政権末期も生き延び、そしてゼネコンを筆頭に一流企業の裏人脈に精通していく。

 ある朝、机の上に積まれていた3億円は、夕方になるとなくなってしまった──これは山田の事務所、銀座の大都市政策研究センターでの光景だとされ、私は2012年のことだと聞いた。いわゆる55年体制が終焉を迎えたのは1993年だ。

 3億円の話を聞き、かつて渋谷・南平台にあった岸信介の屋敷で家政婦として詰めていた久保ウメから教えてもらったエピソードが、にわかに脳裏に甦った。自民党総裁選最中のことである。

「奥の金庫に入ってたお金が一晩でぜんぶなくなっちゃったの。政治ってお金がかかるのねえって本当に驚いたわ」

 日本でロビイストの名刺は、まず見ることはない。だが本場のアメリカでも集金力と、そのカネの分配力によってロビイストはロビイストたり得るのだが、山田慶一は多分、日本で唯一ロビイストの条件を満たした人間だろう。

 興味深いことに、日本で「資金力と分配力」と言えば、児玉誉士夫や笹川良一という名前が浮かぶ。彼らはフィクサーと呼ばれることが多かったが、山田をフィクサーと呼ぶ者は数少ない。

 児玉でも笹川でも、どれだけ悪名を轟かせてきたとしても、どこかに「公」という観点は存在した。清濁を併せのんでもなお、「清」と「濁」の両サイドから突き抜けた評価を得られる存在。それが私にとってフィクサーの定義だと思う。

 児玉と笹川は自民党を作った。ロビイスト・山田慶一は自民党に育てられた。しかし山田は常にカネの臭いはすれども、「日本政治に対する滅私奉公」は感じられない。

 確かにロビイストは、特定の者のため、特定の利益を追求するのが職務だ。山田に滅私奉公という観点が欠如しているのは当然のことなのかもしれない。とはいえ、山田の絡む案件=事業には、日本のためになる、社会のためになる、という──たとえ表向きの建前に過ぎなくとも──思惑の欠片さえも伺えなかった。

 数々のプロジェクトで「前捌き金」を集めては、姿を消していく「日本唯一のロビイスト」には、1人の側近がいる。親戚だともされる小柄な男は名を大場というが、彼が自らのボスである山田を評して、こんなことを言った。

「あのやり方は、どこまでいっても金貸しでしょ。金貸しのやり方そのままですよ」

 在日朝鮮人である山田の父親は戦後、銀座界隈で貸金業を営んでいたと伝えられる。山田も若き頃の一時期、父親の背中を見て歩いたという。山田の側近中の側近が評する「金貸しそのままのやり方」でのし上がった人間がロビイストに化けた時、一流企業が見事なまでに手玉に取られていく。次の一件もまさに、そんな手法を象徴していた。

■山田慶一が手玉に取った「ミサワホーム」創業者

 2009年12月31日の大晦日、朝日新聞の社会面トップにこんな見出しが躍った。

『経営返り咲き工作、ミサワホーム創業者が所得隠し 国税局が8億円指摘』

 一部が匿名とされている次の記事は見だし通り、国税による追徴課税をニュースとしたものだが、それ以上の示唆に富む深さを持っていた。

<住宅大手「ミサワホーム」創業者の三沢千代治・元社長(71)と三沢氏の資産管理会社「平成管財」(東京都新宿区)が東京国税局の税務調査を受け、計約8億円の所得隠しを指摘されたことが分かった。保有していた株式の売却益を、赤字だった別の関係会社の利益と仮装して隠したと判断された模様だ。重加算税を含む追徴税額は約3億円に上るとみられる。

 三沢氏側は、売却益約8億円の一部を、東京都内のコンサルタント会社代表(59)に渡したと説明。三沢氏のミサワホームへの復帰を、大株主のトヨタ自動車側に働きかけてもらうための手数料の趣旨だったという。この働きかけはいまだ実現していないとしているが、経済界の水面下の動きの一端が表に出た形だ。

 三沢氏側によると、三沢氏と平成管財は2006年、産業廃棄物処理会社(渋谷区)の株式を売却して約8億円を得た。三沢氏側は、別の資産管理会社「三澤」(新宿区)が実質的に株式を保有していたとして、同社の譲渡益として税務申告した。同社は多額の累積欠損(赤字)を抱えており、これと相殺されたため、課税される所得が発生しなかったという。

 だが、同国税局は税務調査の結果、三沢氏側が自らの売却益を赤字法人のものだったように操作した、と判断したとみられる。

 三沢氏側は「債権者との関係もあり、名義上の保有者を平成管財にしていたが、これはペーパー会社だ。適正に申告しており、問題はない」と争う構えだ。

 東京国税局から所得隠しの指摘を受けた三沢氏側が、ミサワホーム復帰のための手数料として都内のコンサル会社代表に支払った金額は、「5億~7億円」と巨額に上ったとされる。「カリスマ経営者」として知られた三沢氏の経営復帰に対する強い思いの表れともいえるが、期待した大株主のトヨタ自動車首脳との面会などは実現せず、落胆しているという。

 ミサワホームは、バブル期の過大な不動産開発の失敗が原因で経営が悪化。三沢氏は2003年に経営責任を問われて社長を退任し、翌年には名誉会長の座からも追われた。同社は産業再生機構の支援を受けることになり、「トヨタホーム」を傘下に持つトヨタが出資に応じ、ミサワホームの大株主となった。

 三沢氏は1967年に同社を29歳で設立。一代で大手住宅メーカーに育て上げた。パネルの新しい接着方法、南極や中東での住宅建設など、「豊富なアイデアと行動力」(業界関係者)で知られた。

 三沢氏の側近ら関係者の話を総合すると、三沢氏は、「自分の子どものようなもの」である同社に復帰し、再建に尽くしたいと考えていたという。退任後も、株主総会に出席し、最前列に座っていた。

 だが、創業者色を排したい新経営陣が否定的だったほか、トヨタの拒否反応もあったため、会社に戻る道は険しかった。トヨタの豊田章一郎・名誉会長(84)に相談しようとしたが、うまくいかなかったという。

 この局面で、政財界に豊富な人脈を持つとされたコンサル会社代表に頼ることになった。豊田氏との面会の場を設けるなど、ミサワホームへの返り咲きを「おぜん立て」してもらうことを約束したという。その手数料の趣旨で、06年ごろに個人的な資産管理会社「三澤」を通じ、同代表に5億~7億円を支払ったという。

 面会は現在も実現していない。コンサル会社代表は、三沢氏側に「トヨタも経営悪化でそれどころではない」などと伝えてきたという。三沢氏側は「完全に失敗だった。引っかけられた」と話す。豊田氏は、同代表について「知らない。会ったこともない」とコメントしている。

 コンサル会社代表は朝日新聞の取材に「ノーコメント。関係ない」としている>

 お察しの通り、この「コンサル会社代表」こそ、山田慶一だった。記事が大晦日の朝刊に大きく掲載されたため、山田は焦ったのだろう。翌年、三が日が明けるや否や、三沢側との調整に乗り出した。

 東京新宿・パークハイアット東京のラウンジで、三沢側の関係者と頻繁に接触を図るようになる。登場したのは三沢千代治と山田のパイプ役を務めた村野剛彦だ。村野は長く三沢の側近を務め、朝日の記事が掲載された時点ではミサワホーム系の財団法人・住宅都市工学研究所の監事職にあった。

 それでもなお、三沢側は山田の顔を立て、顔色を伺っていた。山田は「私がやっていたのは豊田章一郎ではなく、張さんだから」と抗弁さながらに説いていた。張富士夫は1999年から2005年までトヨタ自動車の第4代社長を務めた。豊田章一郎は初代社長で、就任期間は82年から92年までだった。

 そんな噛み合わないやり取りが続き、結局、話し合いは不調に終わったのだろう。それから約半年後、2016年6月21日付で三沢側の代理人弁護士から1通の内容証明郵便が送達された。宛先はもちろん、「都内のコンサル会社代表」である山田慶一である。

 そこに書かれていたのは、朝日の記事でさえ裸足で逃げ出すような、凄まじいまでの三沢からの〝はぎ取り〟行為の一環が記されていた。

(第10回につづく)

2016年9月8日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第8回「田中角栄」

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 2010年の晩冬、赤坂の焼肉屋『牛村』に樽床伸二が現れた。当時は民主党政権で、樽床は与党議員。ちなみに2年後の12年、野田内閣の時に樽床は沖縄・北方担当大臣に就任した。

 春は近いとはいえ、夜の赤坂はまだ寒かった。その焼肉屋には山田慶一と数人の男たちが奥座敷で会合に臨んでおり、そこに遅れて樽床が駆けつけたのだ。
 
■――――――――――――――――――――
【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】Amazon著者ページ「佐藤昭子」より
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 この焼肉屋『牛村』だが、以前は韓国人のママが仕切る『クラブ華』という店だった。奥座敷が2つ。襖で仕切れば2部屋になる。手前はクラブ時代の名残だろう。およそ焼肉店には似合わない湾曲したバーカウンターと、駅前の安蕎麦屋のようなテーブル席が詰めるようにして置かれている。テーブルの間を仕切るのは、天上まで届く青く半濁したガラスだ。

 中途半端にクラブ風の造りが残っている。不景気となり急遽、クラブから焼肉屋に宗旨替えしたようだ。いや、焼肉屋が駄目になれば、いつでもクラブに戻せるよう、あえて中途半端な内装にしているのかもしれない。

 いずれにせよ、この牛村で奥座敷の壁が仕切られることはなく、いつも開け放たれていた。しかし、この日は襖が仕切られ、密室には声が篭もっていた。中で謀議が開かれていたのだ。

 数人の男たちは、山田に懇願するような目を向け、小声で会話する。そこへ「遅れてすいません」と腰低く1人の男が現れた。これが樽床だった。すかさず、山田慶一が声を響かせる。

「民主党の総理候補ナンバーワンですからっ」

 樽床は12年12月の衆院選で落選の憂き目に遭うのだが、この頃は直前の参院選で返り咲いたばかりだった。

 肩書は衆院環境委員長。「選挙に弱い」との評判通り、樽床は当選と落選を繰り返していた。山田の「総理候補ナンバーワン」は相当に仰々しいとはいえ、民主党内での人気は悪くなかった。若手の次期総理候補として推す声はあり、結局はその後の民主党代表選にも出馬、健闘を示す。

 この日、山田慶一と樽床の他に集まったのは、新日本製鐵(現・新日鐵住金)プロジェクト開発部開発室長、新日本製鐵八幡製鉄所総務部開発企画グループマネジャーの2人。彼らを引き連れてきたのは、港湾土木に強いマリコン・東亜建設工業建築事業本部副本部長である。(※筆者註:肩書などはいずれも2010年当時)

 東亜建設工業の副本部長は、旧知の山田慶一に新日鐵の社員を紹介し、彼らは樽床に陳情を行う、というのがこの夜の算段だった。

 現職の環境委員長が登場すると、新日鐵の社員らはいささか緊張した面持ちとなった。対する山田は、時には樽床と親しげな素振りも見せた。しかし、いつもの遠慮深さは絶対に忘れない。とにかく腰が低い。人によっては「慎み深い」と感心しただろう。であれば新日鐵の社員らは、山田と樽床は極めて親しい間柄なのだと受け止めたに違いない。

■「架空の城塞」に出入りする下地幹郎、亀岡偉民、石川雅己、そして小澤忠

 これより1年前の2009年、樽床は溜池のインターコンチネンタルでパーティーを開くが、その直前に山田慶一の事務所を訪れている。この頃は虎ノ門にあったのだが、樽床は入ると山田の目の前で両手を合わせ、頭を机に伏せた。〝政治資金をお願い〟と、そんな合図だったのだろう。

 すると山田は「分かってまーす」と陽気というのか、軽いというのか、そんな態度で承諾した。政治家に限らず、山田は気軽な返答を常としていて、だからこそ相手の気分を害さない。

 山田慶一に長らく寄り添う側近中の側近がいるのだが、彼も「たいしたもんですよ。身内にはともかく、外に対しては絶対に不快な思いをさせない」と感心するわけだが、一方で山田の言葉がどこまで誠実なもので、どこまで真実が含まれているかは、もちろん別の話だった。

 山田の嘘を思い知らされ、骨の髄まで懲りた人間たちは、山田から離れていく。こうした離合集散は常に繰り返された。だが、山田慶一の元から人が去って行くだけでなく、それと同じぐらいの新しい人間が──山田がどんな状況に置かれていようとも──必ず集まってくるのだから不思議だった。それはつまり「新しい人間=企業の担当者」が、それだけ切迫した思惑を持っていることを意味した。

 山田の事務所には当時、やはり民主党政権で連立を組んでいた国民新党の幹事長・下地幹夫や、自民党の亀岡偉民らも馳せ参じていた。更には千代田区長の石川雅己が、この山田詣での常連として顔を見せていた。

 その山田慶一の事務所は「架空の城塞」と言った趣を持つ。山田の情勢に応じて半蔵門日本交通ビルなどを転々とするからだが、どんな場所に構えられても、決して外されることのない〝看板〟がある。

 元警視庁2課の捜査員で、退庁後は司法書士に転じた小澤忠の机である。山田の事務所は、どこに移転しても必ず小沢忠の事務所を兼ねているのだ。

 司法書士といえども、などと書けば本職の方々に失礼だが、ご寛恕をお願いしたい。小澤はディズニーランドを経営するオリエンタルランド(千葉県浦安市舞浜)の顧問などを務めている。要するに司法書士というよりは「警視庁に顔の利く1人」なのだ。

 かねてから山田を〝監視〟する者たちは、小澤の役割を「門番」とか「露払い」、あるいは「用心棒」として置いていると見ていた。例えば小澤は週刊誌などメディア業界にも顔が広い。山田の事務所にある小澤の机には、週刊現代(講談社)編集部などからの支払い調書が届いていたのを目撃されている。おそらく、知り合いの編集部員が払った取材謝礼だろう。つまり小澤をネタ元としているメディアの人間がいるのだ。

■「表舞台」から必ず姿を消す山田慶一

 今回、山田に仕事を依頼したのは新日本製鐵だった。国土交通省が進めているスーパー港湾計画に関する新日鐵の意向を内々に伝えるという内容だった。

 日本の港湾には、海外から輸入する鉄鉱石などを積んだ巨大タンカーが接岸できる場所が極めて限られている。そうしたタンカーが停泊できる「スーパー港湾」を整備することが日本の基礎素材産業である鉄鋼メーカーにとって大きな意味を持ってくる。

 山田から紹介された樽床は話を聞き、翌日の打ち合わせに入った。樽床は新日鐵に対し、ある人物を引き合わせるつもりだった。

 そして翌日の早朝、衆院議員会館の地下にある会合用の部屋に通された新日鐵の男たちの前に樽床が現れ、更に腰を折った小柄な男も現れた。国土交通省総括審議官の内田要である。

 内田と樽床は互いに、新日鐵の正面を譲り合う。「いやいや、委員長、委員長、こちらに」と、いかにも慇懃な腰遣いで内田は樽床を立てるが、樽床も「いやいやいやいや」と謙遜してみせる。大げさな所作は歌舞伎を彷彿とさせるが、そんな所作を見せつけられながらも、新日鐵の和田は緊張しているのか、ひたすら押し黙っていた。

 この内田だが、後に国交省の土地・水資源局長を経て、都市再生機構(UR)の副理事長として転出するが、当時は総括審議官として施策調整に当たっていた。

 樽床は新日鐵の陳情を、審議官の内田に振ったわけだ。新日鐵の和田たちは用意してきたカラーの説明書を渡しながら、いかにスーパー港湾の整備が日本の国土振興にとって必要か力説する。それを内田は、なるほど、なるほど、と繰り返し頷いてみせた。ありがちな陳情の場面だが、1つだけ異例だったことがある。その瞬間、肝心の山田が席を外してしまったことだ。

 山田は「表舞台」には近づく素振りさえ見せない。自分自身が口利きを仕掛ける場合でも、人目に付く場所は慎重に避ける。身分証明書などの提示が求められる場面では、慎重に同行者を選ぶ。それは恐らく山田が在日であること、つまり外国籍であることが表面化する状況を避けているとも思われていた。

 例えば以前、山田は海外に向かう時、成田空港で同行する日本人をよそに、出国手続きの入管ゲートで列を離れたことがあった。

「私、ちょっと……。後からいきまーす」

 言いながら、山田は外国人用の出国書類を取りに、脇に逸れたのである。同行した日本人らは、それを見て、山田は言い伝えられているように在日であるというのは本当で、さらに、いまだ日本国籍を取得していないことを知る。

 山田には6人とも言われる妻がいるが、自身で「1度も籍を入れたことがない」と公言しているのは、つまり外国籍であるが故だったのかもしれない。更に2001年にアメリカで9・11テロが発生すると、議員会館や省庁などでは格段に入館手続きが厳しくなった。こうした場所にも、山田は極力近づかない──ように映っていた。

■陳情を処理できなかった民主党政権

 話を元に戻そう。山田は肝心の場面で姿を消したとは言え、新日鐵社員の目の前で樽床を「次の総理候補ナンバーワン」と評し──少なくとも当時は、お世辞ではなかった──その樽床が国交省への水先案内人を買って出てくれた。「山田さんはやっぱり凄い」と思わせても不思議はないだろう。

 しかし皮肉なことに、2009年に民主党政権が誕生したために、山田商法とも呼ばれるロビー活動と、巨額の利益を生むコンサルタントビジネスの「実効力」が決定的に削がれてしまっていた。

 自民党は国会内に設置される各委員会と、そこに集まる族議員によって権益プロセスを構築し、いわゆる55年体制下で長く固定化してきた。それを「政治主導」の名の下に民主党政権が奪い去ったのだ。

 よく知られているように族議員の力の源泉は、官庁権益などキャリア官僚の利害関係と阿吽の呼吸で裏取引を行うところにあった。官僚側は法案を通し、施策を実現したい思惑を持つ。政治家は陳情の実現化させ、施策を展開させることによって、自身の職業政治家としての安定を確保し、ついでにレピュテーションマインド(尊厳欲)も満たす。互いが利益を得られるWin-Winの互恵関係が成立していた。

 ところが民主党政権は基本的に、族議員が存在しなかった。そのため官僚サイドは、どのラインに権益プロセスが存在するのか見極めることだけでも往生するようになった。

 この変化は、当時の法案成立数が端的に示している。09年から12年まで、3年間の民主党政権で最終的な法案成立率は67.7%だ。自民党政権が常に80%台を維持してきたのと比べると雲泥の差と言っていい。

 省庁の権限、所掌は法律が全てだ。法律が存在することで、政令や省令などの細かい規則を定めることができる。そうして官僚は実社会に対する指導権を表現するわけだが、となれば法律を通せない政治家など全く魅力がないことになる。

 樽床も自分自身で国交省の総括審議官たる内田を紹介したわけだが、これは自民党時代では考えられないプロセスだった。本物の族議員なら民間サイドと官僚サイドの両方から陳情が議員会館に届く。それを揉みながら、官僚との裏交渉を重ねていくわけだ。

 だが樽床には、そんな能力も権限も、何より経験がなかった。だから陳情を役所に丸投げしてしまう。極めて皮肉なことに、「政治主導」を謳う民主党政権は、陳情における民間と官僚の線を〝一本化〟してしまったのだ。正真正銘の「官僚制」を実現してしまったとも言える。

 それと同時に山田慶一という自民党族議員の権益プロセスを体現し、その一角を占めることで権勢を誇ってきたロビイストにとって、この変化は死活問題に直結した。文字通り「おまんまの食い上げ」の危機を迎えたのだ。

 加えて、樽床に役所への水先案内を頼んだ頃、山田は別件の大問題を抱えていた。ひょっとすると新日鐵の陳情など、どうでもよかったかもしれない。

■バブル崩壊まで脈々と生き続けた「角栄の金脈」

 2010年3月11日、1人の女が、その生涯を閉じた。

 名は佐藤昭、もしくは昭子──。田中角栄の側近中の側近。自民党の若手代議士から、こぞって「ママ」と呼ばれた。後援会組織・越山会の「金庫番」や「女王」と形容されたこともある。

 かつて山田は、小池隆一に以下のようなことを語ったことがある。多少、自慢めいた口調で、いささかの高揚感も含んだ山田の声音を、小池は鮮明に憶えているという。

 山田は、こう言ったのだ。

「確か25歳とか、26歳とかだったんですが、僕は田中角栄の謦咳に接し、その時の若さで色々な教えを受けたことが、その後の大きな仕事につながったんですね」

 その時小池は、常に腰の低い、いつもの山田とは異なる側面を見たようだ。

「その若さで、と謙遜するんだけど、半分は自慢なんだよね。田中角栄の謦咳に接したというのが本当なのか嘘なのかは分からない。けれども、佐藤昭子と仲が良かったのは間違いない」

 佐藤昭子は毎日毎晩のように麻雀に明け暮れたが、そこには必ずと言っていいほど山田も加わっていた。そして卓を囲むのだが、牌を打つのは辺りのサラリーマンではない。自民党全盛期の国会議員たちだ。おまけに最大派閥を誇る田中派が少なくないのは、佐藤昭子の役割からして当然だろう。

 山田は現在60代。25歳頃と言えば、1977年前後になるだろうか。74年には月刊誌『文藝春秋』11月号で立花隆の『田中角栄研究─その金脈と人脈』と、児玉隆也『寂しき越山会の女王』の2記事が同時掲載されて話題となり、76年にはロッキード事件が発覚する。

 後の歴史から見れば、この時期を前後として「田中軍団」とも呼ばれた田中派の趨勢は転換期に差し掛かってはいた。しかしながら竹下登らが田中派を割って創政会を旗揚げするのは85年まで待たなければならない。ロッキード事件が発覚しても、依然として田中角栄という人間は圧倒的な強さを誇っていた。

 山田は、この時期の田中角栄と接していたと振り返ったが、それはあり得ない話ではない。そうでもなければ、佐藤昭子が山田に雀卓を囲むことを許さなかっただろう。

 最も羽振りの良かった一時期、山田はホテルの宴会場で自分自身が主催するパーティーを開いたことがあった。ゼネコンを初めとする多くの関係者が詰めかける中、山田の傍らには佐藤昭子が寄り添っていた。その一体感は、出席者を畏敬させるのに充分だった。

 企業と、その担当者たちは、山田慶一の背後に佐藤昭子を見てとった。それはすなわち田中角栄の影を意識することになる。それが山田の政治力の源泉だったことは間違いないだろう。

 ところが政権交代が実現し、民主党政権が誕生した。山田にコンサルティングを依頼する場合は「前捌き金」が必要なのだが、これに対して大手の企業ほど、より慎重になったところはある。商社にしても、ゼネコンにしても、歴史がある企業ほど、その費用対効果の算出には手抜かりがないものだ。

 自民党が下野してからも山田の元に集まる人間とは、歴史が浅く、とにかく既存の力にあやかろうとする企業や担当者だ。そして山田は、そういう人間が現れれば、その魅力で虜にしてしまう。

 かつて岸信介時代の自民党には、院外団とも呼ばれる、党外の「加護組織」があった。自民党のために手足となって苦労することを厭わない人間であり、自民党もそういう者を手厚く遇してきた。かの児玉誉士夫なども、人生の一時期を院外団の活動に奉じていたこともあったのだ。

 もし山田がそんな時代に間に合っていれば、院外団の1人としてカウントされたかもしれない。しかし山田が台頭してきた70年代後半から80年代前半という時代は、すでに院外団が跋扈するには時代が進み過ぎていた。非合法組織然としたものが総会屋同様に、排除される時代風潮にあった。

 ところが次にやって来たのは、ロビイストという青天井のコンサルタント料で動く横文字の〝活動家〟がぴったりはまる時代だった。山田慶一は自民党の勢力と共に、そこにすっぽりと収まった……。

 かつて山田が半蔵門に事務所を構えていた頃には、現役の代議士だった山口敏夫が〝常駐〟していた。山田は小池に「佐藤昭子の門番をしている」と語ることもあったが、その山田の門番は自民党の現職議員だったわけだ。当然ながら企業も担当者も、山田を畏怖するようになっていく。

 そんな山田が恃みにした佐藤昭は生前、大下英治とのインタビューでこう語っていた。

<政治には優しさも必要だけど、同時に威厳も持っていないと駄目です。松下政経塾は、松下幸之助さんが資金を出して作ったのがようやく実ってきて、国会議員のバッチをつけるようになった。しかし、弁舌はたつけれど、昔の選挙のやり方を知りません。風が去ったら、当選できません>(『角栄とともに生きた女』講談社+α文庫)

 あの樽床伸二も松下政経塾の出身だ。そして2012年末、民主党に対する強い向かい風と化した衆院選で落選する。あたかも佐藤の予言通りであった。だが、それは〝次期総理候補〟の凋落だけを意味したわけではなかった。自民党から民主党に乗り換えようとしても果たせなかった、山田慶一という自民党=田中角栄体制に巣くってきた「ロビイスト」の凋落も象徴した。

<「オヤジは、天才だ。おれたちは足元にもおよばない」と言っていた。田中の事務所に遊びにきて、政治の話から雑談しているうちにも、いろいろ勉強になったと思いますよ>(同『角栄とともに生きた女』)

 今も小池の耳朶に残る山田慶一の言葉は「25、6歳の若輩者として田中角栄の謦咳に接し」たが故に、「大きな仕事につながった」と振り返っている。

 大きな仕事……。それは田中角栄が死してなお、その〝威光〟を最大限に活用し、そこに日本の企業がカネを積んだのだとすれば、田中金脈とは田中角栄も佐藤昭子も与り知らぬ形で、バブルが崩壊した90年代以降もなお、その命脈を保っていたのかもしれない。

 田中角栄が政界を引退したのは1990年。バブル崩壊に関しては「91年から93年の景気後退期」との定義もある。いずれにしても、90年代前半とはバブル景気の限界が見え始め、嗅覚に優れた者たちには、その終焉の兆しを随所で感じ取っていた時期にあたる。それは「表稼業」から遠い人間であればあるほど、転機を強いる季節でもあった。

(第9回に続く)

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