2016年8月18日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第7回「俗物」

@”w”C—e‹^‚Å‘ß•ß‚³‚ꂽ¬ìŒO‚P‚X‚V‚Siº˜a‚S‚Xj”N‚UŒŽ

 小池隆一の名前が知られるようになった総会は他にもある。1975(昭和50)年3月末、銀座の東京都中小企業会館で、理研ビニル工業(現・リケンテクノス株式会社=東京都千代田区神田淡路町)の総会が開かれた。ここでの小池は語り草になっている。
 少なくともマスコミは理研ビニルを「田中角栄ファミリー」と見なしていた。というのも1974(昭和49)年、評論家の立花隆が執筆した『田中金脈の研究』が月刊誌『文藝春秋』の11月号に掲載され、田中角栄退陣のきっかけとなったのだが、文中では「田中ファミリー企業」として「新星企業」が取り上げられていた。その新星企業の社長だった山田泰司が理研ビニルの監査役を務めていた。山田は田中角栄の〝番頭〟だったのだ。

■――――――――――――――――――――
【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】1974(昭和49)年に背任容疑で逮捕された小川薫容疑者(当時 写真提供 共同通信社)
■――――――――――――――――――――

<田中金脈問題では一部で司直の動きもあり、当時、新星企業は「宅建法違反」に問われていた。
 この頃には、小池は、玉田大成の子分でなく小川グループの中の「小池派」になっていた(中略)
 小池は、のち、この総会の攻撃で威力業務妨害に問われ逮捕される。
 しかし、小池は、検察の厳しい追及を受けても、小川のことはいっさい話さなかった。
 そのことで、小池に対する小川の評価はますます上がった。
「小池はしゃんとしてる」
 小川は、いっそう小池をかわいがるようになった。小池は、小川のもとで水を得た魚のように活躍しはじめた。
 が、論談同友会会長の正木の見るところ、小池は、広島出身ではないので、広島出身者の多い小川グループではどうしても浮いてしまうことが多かった。
 小池は、それでもなお、したたかに小川の背中を見て、学べるところは学び、反面教師とすべきところと冷静に区別していた>(『経済マフィア 昭和闇の支配者』大下英治・だいわ文庫)

■〝俗物〟としての小池隆一

 相手との付き合いがいくら長くなろうとも、小池は決して自身の過去を容易には語ろうとはしない。また、新聞には実に細かく目を通す反面、週刊誌やゴシップ誌の類は、少なくとも自分から読もうとはしなかった。
 逮捕歴のある人間は往々にして週刊誌を遠ざける。何しろ誌面には自身への罵詈雑言など「あることないこと」が──実際のところは、ご本人が単に「記憶にない」ことが大半なのだが──書き散らされている。遠ざけて当然だと言える。
 と、普通はそうなのだが、小池の場合は、そういう嫌悪感を週刊誌に抱いているというわけでもなさそうなのだ。
 恐らく全盛期の小池は、どんな手段も厭わず、様々な手練手管を弄する人物だと思われていたはずだし、そうしたエピソードも事欠かない。何より当時の小池は、企業社会や総会屋の世界で、かなりの俗物と見られていた。
 小池という男は、相当に露悪的なところがある。俗物として振る舞い、周囲に「小池は俗物だ」と断じさせようと唆す。そして心の奥深くに持っている哲学的な内面は絶対に吐露しない。こうした小池のカムフラージュは、恐らく幼少期まで遡ることのできる「覆い」であるはずだった。
 無論、「金が欲しい」とか「出世したい」という俗な願いは誰でも持っている。哲学的な内面というものも、少なくとも理論的には万人が持ちうる。この2つが全く矛盾することなく、1人の人間に同居することも可能だ。世間でいかに悪人と呼ばれる男でも、家族や仲間から見れば「あんな善人はいないよ」と評されるケースなどいくらでもある。
 更に時と状況が変われば、ある人間の受け止められ方は変わる。例えば小池に対する次の評価も、決して誤ってはいないのだと思う。

<小池と親しかった総会屋グループのリーダーも、赤坂に事務所を構え、建設会社役員の肩書きを持っていたし、情報を交換していたはずだ。小池が地上げでどれ程儲かったかは知らないが、情報を金に換えることには天才的な男だったからね。ただ、儲かった場合でも親しかった俺たちにすらあまり話さなかった(『財界展望』1997年12月号)>

■木島力也と小池隆一が〝マッチポンプ〟を演じられた理由

 しばしば「情報力」などと言う。果たして情報が総会屋の世界で本当に金を産むかどうかは置いておくにしても、前に三菱電機のエピソードで触れたように、泥棒まがいの手法だけで情報力を維持することは、当たり前だが極めて難しい。
 不思議だが、マスコミの世界では「ゴシップ求めます」の看板を高く掲げているところに限って、なぜか決定的なスクープネタは遠ざかる。対してスクープを連発し、「トップ屋」「ゴシップ屋」などと呼ばれる記者は「情報買います」の看板は決して掲げない。
 そもそも、大きなネタが、そのまま使える形で転がっていることなど絶対にないのだ。彼らは情報の「小さなかけら」を見逃さず、自分の中でしっかりと受け止め、確実に育んでいく。そうして〝スクープ記事の素〟を構築していくのだ。
 要するに感受性に優れているのだろう。広範な情報を知ってはいるが、単にそれだけという「情報通」に堕することはない。共通するのは、情報の意味を自身で消化し、「識る」センスの持ち主だということだ。少なくとも私が知る、新聞などメディアの世界で生きる〝スクープ記者〟には、そういうタイプが圧倒的に多い。
 小池と知りあって間もなく、彼の慎重さと用心深さを感じ、その上で「識る」ことのできる人物なのだと思った。恐らく新聞社などに就職していれば、間違いなくスクープ記者になっただろう。
 何より小池は筆まめだ。内容証明も人任せにしない、は半分冗談だとしても、その筆致は充分にマスコミで通用するレベルだ。いや、それも当然だろう。かつて小池は雑誌を発行していたこともある。『政界往来』誌の記者証を持ち、大手の政治部記者と同じように国会内を取材のため歩いていたこともあったのだ。

<稲川会の二代目石井進(隆匡)会長から、小川薫に電話があった。
「小池君を呼び出すように」
 小川は、小池を探した。
 そのうち石井会長から、小川に電話があった。
「小池なら、もうここに来ているよ」
 小池は、事情を知るや、小川にも内緒で石井会長のところに馳せ参じていたのだ。そうとなれば、小川としては「石井会長、お手やわらかにしてやってください」というしかなかった。
 小池には、このように機を見ると敏なところがあった。
 小池は、『週刊・訴える』で、右翼の大立て者児玉誉士夫のことを呼び捨てにした。
 小池は、児玉の関係者たちに攻撃された。
 小川のところにも、小池のことで東声会の幹部数名が押しかけてきた。児玉と東声会の町井久之会長は、盟友である。その東声会の幹部を小川に差し向けたのは、じつは総会屋の木島力也であった。その頃は、総会屋というより『現代の眼』という新左翼まがいの雑誌を出していた。木島は、児玉の威光を笠に着ていた。
 小川は、木島にはっきりといった。
「見当違いもはなはだしい。小池が勝手にやったことで、わしとは関係ない!」
 小川は、木島など、総会屋としては取るに足らないと思っていたという。
 しかし、その一件から、小池は木島に接近する。偶然だが、小池と木島は、新潟出身であった。小池は、抜け目がなくて、目端が利いた。自分より力を持っている者に擦りよっていくのが得意だったという。
 玉田大成によると、じつは小川と木島は、事務所が近いこともあり親しかった。事務所が近所であると同時に、業務関係が緊密であった。
 木島は小川に会うたびに、三百万円から四百万円というカネをこっそり小川に渡しているのを玉田は目にしている。情報料なのだろう。
 情報とは、たとえば、「小川が××電機総会に出席する予定がなかった」とする。その情報を知る木島が、総会前に会社側に対し、約束をとりつける。
「おれが小川を抑え、総会には出席させないようにする」
 当日、小川は来ない。結果、シャンシャン総会で終わる。あたかも木島が荒れる総会を食い止めた格好となる。これが小川と木島の〝マッチポンプ〟(自分で火をつけて、自分で消すこと)だった。
 この木島と小川の役割を、小池が小川に代わって演じることもあった。木島と小池はそういう関係でもあった。
 小池は、木島と親しくなったことで、のちに第一勧銀・四大証券利益供与事件を引き起こす……(『経済マフィア 昭和闇の支配者』大下英治・だいわ文庫)>

 木島と小池が近しく、そのゆえに一連の事件が起きたという推移は、数多くのメディアが仔細に書き記してきた。しかし、なぜ、そうした状況に及んだのかという木島側の心理については伝聞も含めて一切、内情が明かされたことはない。
 ここに、小池の次の言葉は大きな解釈の鍵を与える。
「木島は上場企業の社長になるのが夢だったんですよ」

■「脱=総会屋」の計画を破綻させてしまったバブル崩壊

 木島は総会屋であると同時に、1962(昭和37)年に現代評論社を設立。戦後に左翼ブームが盛り上がると、発行していた『現代の眼』が商業的な成功を収めた。しかし、いかにフィクサー然とした評判が高まり、雑誌などが売れたとしても、それは木島にとって「名声」や「地位」ではなかった。
 確かに「成金」や「わが街の社長さん」に社会的地位は存在しない。木島は上場企業の社長になりたかったという小池の指摘は、当たらずといえども遠からず、という感触を聞く者に与える。いや、木島の夢も、バブルさえ弾けなければ、という現実的な局面まで進んでいたのかもしれない。
 1982(昭和57)年に商法が改正され、総会屋は違法とされた。しかし、その以前から小池の頭には「総会屋は時代に生き残れない」という明確な判断があった。だからこそ小池は「株」と「不動産」という実業の世界へ大きく舵を切っていたのだ。
 木島は小池を寵愛した。その背景には、木島が「上場企業の社長」という夢を捨てきれず、小池の鋭い現実感覚に根ざしたビジネスマインドに惹かれた、もしくは、是認したと考えれば、2人の関係性が見えてこないだろうか。
 しかし、それもこれも「総量規制で一気に首根っこを抑えられちゃった」のだと、小池は振り返る。総量規制とは90年3月に当時の大蔵省が行った行政指導だが、これがバブル経済にトドメを刺したとも言われるほど、決定的な分水嶺となる。金融機関による不動産向け融資の抑制策だが、資金繰りの首根っこが断たれたケースが続出した。バブル崩壊のきっかけとも言われるゆえんだ。
 93年、当時の大蔵省財政金融研究所が事務局となって取り纏めた『資産価格変動のメカニズムとその経済効果』では、バブル経済の発生と崩壊について分析している。
 そこでは総量規制の手法についても言及し、

<この政策はいわば一時的に市場メカニズムの軌道を外れてしまった異常な地価の上昇に歯止めをかけるため、緊急避難的に講じられた措置である>

とし、

<不動産業向け融資という特定の部門を対象としたものであるので、市場における資源配分に歪みをもたらす恐れはないか>

との問題点をも提示しながらも、

<その発動のルールは明確に示され、政策適用に恣意が入り込む恐れは少ない>
 
 と総括している。
 この総量規制が緩和される局面に立ち会った、まさに当局内で実務に当たっていた元大蔵省の西村吉正は、次のようにその実際を明らかにしている。

<当時私はこの問題を担当する審議官であったが、経済情勢を総合的に見ていた上司からは総量規制をどうするか、解除するタイミングを計るように指示を受けた。九月には国土庁による地価動向の調査結果が出て、地価は横ばいまたは微減となった。上司から、「これを受けて規制を少し緩和しようか」との相談があった。
 しかし当時の世間の雰囲気では、とてもそのようなことができる状況ではなかった。私は主要六紙の社説を見せた。……それでも上司は、何か工夫はできないものかと残念そうだった。なぜならこの機会を逃すと、当時は国土庁の地価調査は半年に一回だけだったので、次の機会は半年後になるからである。そこで私は、『国土庁に二カ月後に臨時の地価調査をしてもらって、その結果を見て年内に緩和することでどうですか』ということで納得してもらった>(『金融行政の敗因』西村吉正・文春新書)

 行政の施策は、結局のところ「さじ加減」に帰着することを図らずも示しているように映る。政策適用の恣意性から、どこまで行っても抜け出せることはできない。
 ともかく、小池は虚業を脱して実業に入ろうと株や不動産に力を入れ、開発企業との関係を持とうともしていた。それが、この総量規制で息絶えた。やはり運命の悪戯だと言わざるを得ない。
 小池が生きてきた前半生、つまり97年の逮捕前までは、仮にそこを「裏社会」と呼ぶにせよ、「裏」にも多くの種類と、質の異なりがあるのだと考えさせられる。
 裏の世界は多くの呪縛を孕み、関係者と企業を決して自由にしないとしても、総会屋という仕事は、あくまでも「総会」を経ると終わる。彼らの事業は小さく完結するのだ。あるいは総会という結節点を乗り切ることで、経営者にとっても1つのリセットを迎え、カネもリセットされる。
 そうした意味において、総会屋とはあくまでも「年次計画」の中で息づく存在だと言えた。もちろん総会屋を食いつながせる企業の「賛助金」も年次計画たる予算から算出されていた。
 しかし、小池の晩年を窮地に陥れた人間と、その住処である「裏社会」は、決して年次で完結しない。「政策マフィア」のロビイング活動は、あくまで無限連鎖のごとく延々と続く。そこで流通するカネは、賛助金という灰色ながら足のつくカネではなく、「使途秘匿金」という表に出ない、決定的に黒いカネが蠢く世界でもある。

■小池隆一の故郷で、今も残る〝評判〟

 時折、小池とのヨーロッパ旅行を思い起こすことがある。
 ルサールのもう1つのアトリエがある、モロッコの首都・マラケシを訪れた時のことだ。ホテルのプールサイドで朝食を摂りながら、小池は、かつてを振り返った。
「私はもう総会屋を辞めたつもりだけど……。かつては守るほうの総会屋だったけども……攻めるほうもやったんですよ、昔は。攻めるには色々テクニックがあるんだけど、例えばね、何か経営者のことでも噂があるってだけで指摘したら、ダメだけれども、新聞記事にはこう出てますよねってね、やったりね。ずいぶんと記者に小遣いを渡して書かせていたこともあった。でもね、下の者が出てくると困るんですね。話し合いじゃないから。上の者だと話になるけどね」
 アフリカ大陸の上部に位置するモロッコは砂漠性の気侯のためか、朝晩は冷える。それも、寒暖の差は知らぬ者には想像以上に激しく、息も白い。
 そんなモロッコで小池は、せっかくだから馬車に乗ってみようと言ったことがあった。2人でそのモロッコの馬車に乗り、サンドカラーと呼ばれる赤っぽい、ピンクがかった壁の続く家々の周りや繁華街を馬車に乗りながら移動している間、小池はやはり昔のことを思い出したようだった。
 小川薫との旅行の話になった。ちなみに小川は2009年に鬼籍に入っている。
「いつだったか、小川と若い者とでアジアの国に旅行したことがありましたよ。そうしたら道端も街もすごく汚くてね。荒んだ様子のところがありました。そこで現地の子供が物乞いに寄ってきたんです。そうしたら一緒に行った者の中で、それをバカにしたのがいたんです。そうしたら小川がね『何言ってんだ。日本だってちょっと前まではこれと同じだったんだ。お前らだって、つい10年も前までは、便所にうんちが落ちると、それがはねてお尻につくような生活してたじゃねーか』って言って叱責したんですよ。つまり、日本が豊かになったなんて思ってるけど、日本もそんな途上国と少し前までは変わらない姿だったんだったんだから、蔑むのは間違いだって、そう諭したことがありましたよ」
 小池が小川の元から独立するのは、1979年11月のことだ。きっかけは小川が「恐喝」で逮捕されたためだ。
 日本航空の子会社・東京空港サービスに関する不祥事について書かれた記事を小川は入手し、日航の与党総会屋であることから、会社に通報する。
 当然、これを知った東京空港サービスは火消しに走り、記事が表に出ないようにする「収め代」として500万円を用意した。小川は受け取り、この記事を書いたライターに渡したのである。
 警視庁による小川逮捕を受けて、小池の元にも連日、新聞記者たちが押しかけてくる。そこから漏れ伝わった真相を聞き、小池は嫌気がさした。
「その500万円から小川が書き屋さんに渡したのはたった50万円で、残りの450万円は自分のポケットに入れちゃってたんですよ。自分がほとんど持ってっちゃうなんていう、あまりにセコイ話で恥ずかしくなっちゃって、ほとほと嫌気がさしたんですよ。それでもう、それで決意して、小川にも直接に辞めるとも言わずに、『俺、馬鹿馬鹿しくなったからもう辞めるから小川にもそう伝えておいてくれよ』って言って……」
 こうして小池は独立することになった。小川企業株式会社の副社長を辞め、小川門下から飛び出したのだ。
 小川も、その周囲も広島出身者が多く、小池とは水が合わなかったことは前に見た。それは小池本人も認めている。
「彼らは広島料理の酔心で毎晩、食事をしては、その後に銀座のクラブに行くんだけれども、そういうことには一切、関心がなかった」
 総会屋時代の小池は酒を1滴も飲まず、暇さえあれば読書に励む勉強家と言われていた。その姿は、新潟県加茂市に住む小池の幼馴染らの目に、今もって焼きついている小池への記憶とも一致する。
「柔道有段者でガキ大将だけれども、とにかく読書が好きで、徒党を組んで何かをするというよりも、いつも一人で本を読んでたかな。誰をいじめるとか、そういうことはしない」
 小池が、まだ高校生の時だった。友人が借金をしてしまったと金の工面に困っているという話があった。すると小池は買ってもらったばかりの新品のスキー用具一式を質屋に入れて、その友人にポンと渡してしまったという。
「とにかく、友人、知人を助けるということに関しては躊躇なかった。実際、わしも人生で何度も助けてもらってる」
 この友人は、さらに続けた。
「だから、あんたにこうして話しとるのも、あの人のためになれば、と思うからだよ。あんたがさっきうちに来たとき、ゴシップやスキャンダルを聞きたくてきたわけじゃないといったよな。あの人を理解したいんだと。だから、わしはあんたに話してもいいと思ったんだよ。悪口を聞きたいのならば、わしは絶対にあんたにはしゃべらん」
 そう言いながら、この幼馴染は自らハンドルを握り、小池家に縁のある場所へ次々と案内するのだった。
 加茂市で、小池の名前を今なお知らぬ者はいない。小池自身が言うように「あの小池隆一が……」と言えば、確かに多くの市民は眉間に皺を寄せる。とはいえ、土地の誰もが知る、郷土が東京に送った最も有名な人物であるのも確かなのだ。
 市内の中央を流れる加茂川では、毎年夏になると地元商工会主催の花火大会が行われる。有志らによる寄付によって成り立つのだが、小池は逮捕直前の一時期、最大口の寄付者だった。当時の商工会議所の担当者は夏になると、直接六本木の小池の事務所まで寄付を求めに参上したことを覚えている。
「私は結局、4回くらい小池さんのところに寄付をもらいに上京しましたが、確か、当時で100万円を毎回、頂いておりました」
 花火大会当夜には、金額に応じて寄付者の名前や企業名が記されたチラシが配られる。
そこに約5センチ四方の最大枠に、「東京都港区六本木 (株)小甚」と記されるのも、夏の風物詩だった。
 小池が大口寄付者として名を寄せた翌年から、これに張り合わんばかりの寄付で、同じ大きさの枠を獲得した「千信局」なる地元パチンコ業者の名前が並ぶのはご愛嬌だが、地元商工会の担当者がわざわざ東京まで寄付をもらいに上京するほど、小池は東京での成功者として知られていた。
 それからの小池は逮捕と収監を経て、その後は「緞帳の影」でひっそりと生きてきた。その小池の涙さえ涸れ果てた姿を見ることになろうとは、小池と共にヨーロッパを歩いた2007年には、夢にも想像できなかった。
(第8回につづく)

2016年8月5日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第6回「流儀」

–쑺EˆêŠ©Ž–Œ@‹LŽÒ‰ïŒ©‚·‚é“¡“cˆê˜YV“ªŽæA‹ß“¡Ž•F“ªŽæA‰œ“c³Ži‰ï’·A–€“ò‹`°V‰ï’·i‰E‚©‚çj

 小池隆一がメディアの取材に応じ、その発言が報じられたのは1997年の逮捕直前だった。

 具体的には産経新聞の3月26日朝刊になる。第1社会面に掲載された『野村証券利益供与事件 総会屋と一問一答』を見てみよう。

■――――――――――――――――――――
【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【購読記事の文字数】8000字
【写真】野村・一勧事件で記者会見する第一勧業銀行の藤田一郎新頭取、近藤克彦頭取、奥田正司会長、摩尼義晴新会長(※右から=1997年05月23日、産経新聞社撮影)
■――――――――――――――――――――

<親族企業に野村証券から利益供与を受けたとされる小池隆一代表は今月中旬、東京都内で産経新聞の取材に応じ、次のように話した。

 野村証券が利益供与を図ったとされることについて、「基本的には私の取引じゃないので、よく分からない。弟の会社の証券投資の一環で、私は株主でも役員でもない」とした。

 しかし、一任勘定取引については、「一任勘定取引を始めたのは平成元年くらいから、(弟が)個人の名前でやっていたときのことだろう。当時、(一任勘定取引は)違法という認識はまったくなかったし、すべてが一任勘定だったわけではない。独自の判断で売買したが、相場観が悪かったから損が出てきて、中には気の毒だからということで、一任勘定的なものもあったんだろう」と取引自体が過去あったことを認めた。

 野村証券との関係については、「商法改正前には確かに深い付き合いはあったが、改正後はほとんど出入りしていない」と発言、田淵節也顧問、田淵義久相談役との付き合いは「一切ない」としたが、総務担当の藤倉信孝前常務とは「一度くらいどこかで会ったことはあるだろう」と面識があることを認めた>

「一任勘定取引」とは耳慣れない言葉だ。しかし例えば98年に大きな話題となった、衆院議員、故・新井将敬(自民党→自由党→新進党→無所属・東京4区)の自殺事件も、この一任勘定取引が絡んでいたとされる。

 ちなみに新井の事件と野村証券は全く関係がなく、新井側の舞台は日興證券(現・SMBC日興証券)だ。同社からの利益供与疑惑など一連の証券スキャンダルが発覚。検察当局からの追及も受けていたという。自民党や新進党などで常に将来を嘱望されていた新井氏は潔白を主張しながら、東京・高輪のパンパシフィックホテルで首を吊った。

 この一任勘定とは、証券会社に預けた金での運用が前提なのは論を俟たないが、通常の取引と異なるのは「必ず収益を上げる」という〝暗黙のルール〟が存在したことだ。そのため仮に運用で損益が発生すれば、証券会社は「利益を付け替える」必要に迫られた。預ける側は「一切合切」を証券会社に任せるという意味もあって「一任」と表現されたわけだが、証券会社は政治家など大切な顧客の窓口として機能させてきたのだ。

 97年の野村証券事件や、あるいは98年の新井将敬自殺などが起きても、一任勘定取引という言葉は大手を振って表通りを闊歩していたわけではなかった。しかし証券会社の、特に「総務屋」と呼ばれる総務担当者の間では当然、知らぬ者はなかった。いや、もし知らない総務屋がいたのならモグリと言われかねない時代風潮が残っていた。

 小池が逮捕された野村証券や第一勧業銀行(現・みずほホールディングス)などの事件でも、企業側の逮捕者には「総務屋」が多く含まれていた。いや、経営トップ陣も含め、逮捕者の大半を総務屋が占めたとみるべきだろう。

■「総務屋絶頂期」の航空業界と小池の〝蜜月〟

 では「総会屋」ではなく、こうした「総務屋」は常々、どのような仕事を行っていたのだろうか。

 もちろん小池も、往時は総務屋と行動を共にしていた。

 例えば日航や全日空だ。格安航空会社が新規参入して競争が活発になってきた昨今では想像もつかないが、日本の航空業界における80〜90年代とは、国策会社に等しい日本航空が〝ガリバー〟として君臨し、それに挑む全日空も業績伸長を果たした時代、と見ることができる。

 航空業界全体のパイが拡大していく。このような時期こそ、総会屋と総務屋の出番だ。企業がイケイケドンドンで伸び盛りの時に総務屋の役目は重要性を増す。

 もともと総会屋と総務屋は心理的に一体化しやすい。与党総会屋と総務屋のコンビを見ればすぐ分かる。だが、それだけでなく、高度経済成長を経て日本経済が急伸し、企業が成長していく過程で、むしろ「総務屋=企業側」が総会屋を必要とした面もある。こうした〝時代ニーズ〟が存在した点は絶対に忘れてはならない。

 特に当時の日航は小池に限らず、多くの総会屋を世界規模のネットワークを活かして接待した。こうなると全日空は分が悪い。何しろ日航は世界中の名所へファーストクラスを使って接待したのだ。

 ヨーロッパを小池と回った際、ノルウェーのフィヨルドがとりわけ印象深かったと振り返ったことがある。

「一体どうして、あんな地形ができるのかと思うくらいなんですよ。地形が凹凸して入り組んでいて、そこに海の水が入っているんだけれども、船で奥まで入っていけるんですね。上をみると、もうほとんどが切り立った崖にしか見えないくらい鋭く削られていてね。昔の氷河で削られたそうなんですけど、こんなに鋭く抉れるものかというくらいね。それで崖の下まで船で行けるんだけれども、船の縁から下を覗き込むと、これがまた波一つない水がどこまでも澄んでいて、どこまでも下が見えるんですよ。まるで水面がないみたいに透明でね。崖がずーとずーっと下まで、どこまでも切り立って落ちて行くのが、どこまでも見えるんですよ。もう怖いくらいにね。空から落ちて行くみたいな感覚になるんですよ」

 今は世界遺産でも、風光明媚なリゾート地でも日本人で溢れている。退職金を手にした元サラリーマンと、その妻という2人組が一般的だろうか。

 しかし小池がフィヨルドを自分の眼で見たのは、誰でも、どこでも手軽に旅行ができる時代より、ずっと前のことだ。その頃にフィヨルドの光景を語ることができたのは、よほど辺境に惹かれた商社の駐在員か外交官かという話である。

 総務屋も総会屋も、こんな鷹揚な時代が未来永劫に続くとは、さすがに思っていなかったかもしれない。だが、終焉は予想より早く訪れたというのは本音だった可能性はある。この後、小池自身を含め、彼らを取り巻く状況はまさに乱世となる。時代が急速に「鷹揚さ」を許さなくなっていくのだ。

■いまだに残る謎──総会屋と第一勧業銀行の「たすき掛け人事」の関係

 週刊誌『AERA』(朝日新聞出版)97年6月16日号に掲載された『抗争に総会屋使う第一勧業の過去 総務担当役員ら逮捕』の記事は非常に興味深い。

 記事には署名があり、「尾木和晴」となっている。後にAERA編集長を務めた尾木和晴が執筆したものだと分かる。

 それはともかく、記事のリードは次のような具合だ。

<一勧は総会屋や右翼の子弟まで「預金」している。総会屋は「人事介入」を担保に、子弟の採用を利息として、トップとのなれ合いを深めた>

 続く書き出しを見てみよう。

<第一勧業銀行の総務部関係者四人が逮捕された五日、ある行員は複雑な心境だったろう。行員の父親は、名前の知れた右翼団体の代表者。かつて同行総務部には足繁く通っていた。この行員は、有名私大を卒業後、一九八八年に入行。支店を経て現在は本店で勤務している。同僚の一人は、「これも人事的な利益供与ですよ。これまでにも、総会屋の娘を採用したり、ウチではいままでにいくらでもあった」と指摘している。こうした指摘に当人は、「生保や銀行という金融機関を中心に就職活動をした。父親が右翼だといって、私はコネ入社ではないと信じている。他の都銀にも総会屋の子弟はいますよ」と反論する。第一勧銀広報部では、「この件でコメントは一切できません」と拒否しているが、このような採用の例は、他の企業にも多いことが分かった。第一勧銀や野村証券に大きな影響力を持った総会屋の木島力也氏(故人)の長男は現在、神戸製鋼所に勤務していることが分かっている。また長女は九一年まで、三菱地所に勤務していた。総会屋の小池隆一容疑者(五四)と野村証券の武士二郎元常務、広域暴力団幹部が住んでいる都内の億ションは、三菱地所が分譲した。三菱地所の高木丈太郎会長は、かつて総務部長を経験し、木島氏とも親しかったといわれている>

 木島力也──小池の実質的な師匠にあたる人物である。

 この第一勧銀事件では、ノンバンクを迂回して小池に融資された約110億円が利益供与の商法違反にあたるとし、当時の担当常務と総務部長、そして2人の総務部副部長が東京地検に逮捕されている。

 逮捕された彼らが「総務屋」であることは明白だが、AERAの記事は彼ら4人を引き立てたのは木島だったと指摘している。それほどの影響力を行使できたのは、何が原点だったのか。更に記事を見てみよう。

<木島氏が第一勧銀に関わったのは七一年、第一銀行と日本勧業銀行の合併時にさかのぼる。合併時に第一銀行の井上馨会長が総務部長だった頃、木島氏との交流が始まったといわれている。

 第一銀行は日本勧銀との合併前、三菱銀行との合併話があった。だが、当時の長谷川重三郎頭取が進めていた話に井上会長が猛然と反対した。

 戦前、第一銀行は三井銀行と一緒になって帝国銀行となっていた。戦後、財閥系の三井側とうまくいかず、分裂した経緯があったため、財閥系の三菱銀行との合併は懸念していたといわれている。

 総会屋によれば、井上側についた木島氏は、激しく長谷川頭取をはじめとする合併推進派を攻撃するようになる。

 井上会長は、「相手のプラス情報などいらない。マイナス材料があればすぐに持ってこい」と木島氏に限らず、嶋崎栄治氏(故人)など出入りしていた総会屋に檄を飛ばしたという。

 結局、三菱銀行との合併はご破算になり、財閥色の薄い日本勧銀との合併となる。井上会長は、頭取に復帰して、合併推進派の役員を事実上、解任するという強硬策に出た>

 確かに、これだけの恩義があれば、頭は上がらないに違いない。記事によると、当時の第一勧銀は例えば、取締役候補の選考にも、総会屋の評価が反映されることがあったのだという。さすがに未来の頭取候補に威光を発揮させることはなかったが、<ボーダーライン上>の場合は生殺与奪の権を握るケースもあったようだ。

 70年代後半の都銀は、数千人の総会屋、右翼などを出入りさせ、毎月1億円の賛助金を払っていたという。「使途秘匿金」といった裏金ではなく、帳簿に顕れる立派な表の金だ。

 ところが78年、第一勧銀は総会屋に「絶縁宣言」を通告する。賛助金のカットを表明したのだ。AERAの記事によると、第一勧銀が総会屋との縁を絶ちきろうとしたのは、やはり株主総会が原因だったようだ。同年6月の総会で与党側であるはずの総会屋が立ちあがって演説を始めたのだ。

 内容に攻撃性はなく、混乱は起きなかった。それでも第一勧銀の「総務屋」たちは「与党でも、やはり総会屋は何をするか分からない」とショックを受けたという。

 それでも結局、真の忠誠を誓う総会屋とは結びつきを深めたというのだから、本当の意味での絶縁ではなかった。AERAは第一勧業銀行の合併母体である「第一」と「勧銀」の出身者が会長と頭取を交互に務める「たすき掛け人事」が<必要以上に総会屋からの攻撃材料を気にする>ようにさせたと指摘している。そこに<木島氏やその後の小池氏がうまく食い込んでいった素地>があったという。

 確かに「素地」の1つであったことは間違いない。だが、それが総会屋側から見て、どれだけ旨みのある〝隙〟でありえたのかは、実のところ未だに判然とはしていない。事実として断言できるのは、そのたすき掛け人事が繰り返された果てに、小池が逮捕されたということだけだ。

■建物として存在しているわけではなかった「小甚ビルディング」

 この第一勧業事件で、銀行の危機的状況を救うべく、世直しならぬ「企業直し」を前面に押しだした「4人組」が登場する。広報部を中心としたメンバーで、いずれも当時は中堅の行員に過ぎなかった。その中には作家に転身した江上剛と、西武ホールディングスのトップに就いた後藤高志がいる。

 後に江上剛は、月刊誌の『文藝春秋』に当時を振り返った原稿を寄稿したことがあった。それを目にした小池は、こう言った。

「私が現役の頃、もちろん小畠さん(註:江上剛氏の本名)の名前は聞いたことがありませんでしたね。だって小畠という方は、広報の人でしょ。私らは広報と付き合っていたわけではないから。それに寄稿では『小甚ビルディングに担保以上の過剰融資をした』ことが問題だ、みたいな書かれ方をしていたけれども、だって、過剰融資も何も、そもそも小甚ビルなんていうビルも建物も、そんなものもないんですよ。いわゆる担保価値以上に貸し付けるオーバーローンみたいな指摘だけれども、でも、そこからして間違っていますよ。そもそも担保なんてないんだから」

 これに続く小池の説明には、目から鱗どころか、いかに世に定着した逸話なるものが信用ならないかという驚きを禁じ得なかった。小池が逮捕された時に事件の〝舞台〟とされた「小甚ビルディング」は、あくまでも法人名であり、あるいはその不動産物件そのものを喚起させうる名前のビルは存在しなかったのだ。

 念のため、それなりの配慮を示した記事を引用しておこう。99年9月8日の朝日新聞夕刊に掲載された『利益供与で一勧元会長に有罪判決 東京地裁「最も重い役割」指摘』の記事だ。ここに、

<判決によると、奥田元会長は他の元幹部らと共謀して九四年七月から九六年九月にかけ、同行の株主である小池元代表の親族企業「小甚ビルディング」あてに、系列ノンバンクを通じて総額百十七億八千二百万円をう回融資し、利益を提供した>

 とある。あくまで「小甚ビルディング」は「企業」と記述されているのだ。

 だが、企業犯罪を追及する側から見れば、そのために一層、性質の悪い総会屋と映ったかもしれない。何しろ、わざわざ企業名に「ビル」などという言葉を付けているのだ。単なる法人名を、あたかも現実に存在するかのような不動産に偽装した、と判断されても仕方ないだろう。

 そして、この「小甚ビルディング」という法人名が、その後の小池に、どれほどの影響を与えただろうか。これまで小池は事件の舞台裏などをメディアに語ることは一切なく、ひたすら記者たちとの接触を断って生きてきた。

 事件の本筋は当然ながら、枝葉のエピソードに至るまで、自分からは何も明かさない。検察が作成し、小池が納得した調書が裁判所に提出されただけだ。それは公判維持に大きく寄与しただけでなく、数多の企業関係者を救ってもいた。何しろ企業側の「言い分」を小池は一切否定せず、全てを追認・黙認したからだ。

 そもそも小池は逮捕当初から、全く抗弁しない覚悟を決めていた。2004年から06年まで検事総長を務めた松尾邦弘は、小池の取り調べ時は東京地検の次席検事だった。

 小池の公判が始まる頃だ、ある人間を通じて小池の元に〝松尾検事からのメッセージ〟が届いた。

「小池さん、次席から『喋らないでくれ』って頼まれました」

 勘の早い小池は、その一言で了解した。

「分かってるよ、と伝えておいてくれ」

 小池は、もともと政治力の高い野村証券との付き合いが長い。そういう意味では鍛えられていた。検察側の立件に向けた捜査で小池は自分の調書について、野村の逮捕者が認めた〝筋書き〟に沿ったものだけに了解を与えていた。

 結局、商法違反で実刑を食らっても、最高刑で懲役9か月に過ぎない。詐欺罪の懲役10年などに比べれば、ごく僅かな時間を凌げばいいだけなのだ。ちなみに99年4月、1審出小池は懲役9か月、追徴金約6億9300万円の実刑判決を受けた。すぐに控訴権放棄の手続きを取り、検察も上訴を放棄した。

 そもそも小池は逮捕当初から何も喋るつもりはなかったのだ。だが企業側は違った。危機感を募らせたはずだと小池は考えている。

「公判で小池が何を喋るか、皆が注目している。企業にとっては逮捕者が出ただけでも〝十二分〟な痛手なのに、小池が腹いせに全てをぶちまけるようなことをされたらたまらないという思いがあったんでしょう」

 そして松尾から「沈黙要請」が届いたわけだが、恐らく小池は不満もあったに違いない。彼の性格からいって、「黙っている自分に疑心を抱くのは、これまでの信頼を裏切るようなものだ」という怒りを抱くことはない。

 単純に「小池が喋りかねない」と思われた時点で納得がいかないのだ。それほど小池隆一という男は利得より自身の美学を優先させる。実際のところ、そうした性格が仇となってしまい、今日の顛末に繋がっているとも言える。

■小池が小川薫の〝腹心〟になった瞬間──

 小池の口の堅さ、重さは筋金入りである。作家の大下英治は、さるエピソードを拾っている。

 ちなみに、このエピソードは、小池が前半生のピークへ向かう時期のものだ。登山で言えば「全国5000人を越える総会屋」の中から、アタック隊=ごく僅かなトップグループに入るきっかけとなっているように伺える。

 それは小池の認識とは大いに異なる。あくまで〝外側〟から見たエピソードなのだ。しかし、外側からの見方も、1つの見方であることは間違いない。

 1982(昭和57)年、総会屋潰しとも言われた商法改正が施行され、その僅か2週間後、大物総会屋である小川薫が見せしめさながらに恐喝容疑で逮捕。結局、実刑が確定して翌83(昭和58)年8月に栃木県の黒羽刑務所で服役することとなった。

 小池隆一が小川薫の右腕格だったことは前に触れた。例えば71(昭和46)年11月末、王子製紙の乱闘事件で逮捕されても、小池は小川薫の関与を一切認めず、いわゆる「男を上げた」と評判になる。

 この小川グループに、玉田大成という男がいた。玉田は小川薫の妹と結婚していた。この小川薫の義弟は、早稲田大学のボクシング部と関係があり、その人脈で三菱電機に務めている仲間がいた。

 ある時、この仲間の男から「三菱電機が3月決算を前に、架空売上を計上している」との情報が入った。玉田と小池は共に三菱電機のトイレに身を隠した。社員たちが帰った頃を見計らってトイレから出ると、架空売上の書類を見つけて持ち去った。少なくとも当時は、どこの企業も決算前には、こんなことをしていたものだ。玉田は三菱電機を脅すつもりはなかった。しかし小池は三菱電機に電話を入れた。

「こんな書類がある。粉飾決算をしているんじゃないか。こっそり、取りに来い!」

 小川薫は三菱電機と親しかった。特に総務部長と懇意にしていた。当然ながら小川は、小池と玉田の恐喝に烈火のごとく怒った。

「おどれら、何をしとるんなら。出入り禁止じゃッ!」

 とはいえ、玉田は小川の義弟である。さすがに出入禁止にはできなかったが、小池の方となると、さすがに同じようにはいかない。

 その頃、小池は郷里・新潟の味噌を『論談同友会』の会長、正木龍樹にも送っていた。小池は正木に言った。

「よく、正木さんに似ているといわれるんです、自分」

 うまく正木の心もくすぐっているうちに、あちこちの総会で1人活発に発言している小池の活躍は、小川の耳にも届いていく。だが用心深い小池は、虎の尾を踏むようなことはしない。小川らが押さえている銀行や証券会社には手を出さなかった。その代わり、日本セメントをはじめとするセメント業界など、総会屋があまり狙わない企業を狙った。

 遂に、小川が言った。

「小池を、呼んでみいー」

 それから小川は、小池を連れて発言するようになる。ただ小池は新潟出身ということもあるために、広島出身者ばかりの事務所にいても話が合わない。回りも小池を冷ややかな眼で見ていた。

「このあいだまで、玉田の下にいた人間が、三菱電機の泥棒ではい上がってから、最近は社長としゃべらせてもらうようになったけぇの」

(第7回につづく)

2016年7月14日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第5回「番人」上森子鉄

soukai016-07-14 14.08.33

 本田技研の総会で、小池隆一は攻める。前回で触れた通り、当時の小池は小川企業株式会社の副社長職だった。社長は「最後の大物総会屋」として著名な小川薫。つまり小池は小川薫の部下だったわけだが、まずは小川薫の回想を続けよう。本田技研の総会はその後、以下のような展開となった。

■――――――――――――――――――――
【写真】アントワープ王立美術館の公式サイトより
■――――――――――――――――――――

<このときの本田技研の総会では、小池君が次々に「動議」を連発する。「本田技研は、子会社で牧場を経営しているが、これは定款違反ではないか」「当社には、何百と関連会社があるが、監査役は三名では足らない。三十名にせよ」「定款によれば、当社の工場所在地の和光市でも株主総会をできるようになっている。しかし、これは株主に不利な条項なので削除を求める」といった調子だった。

 あまりに執拗な発言に業を煮やした私は、発言を求めて「一号議案が、まだすんでないので、ボチボチ議事を進めていただきたい」と会社側に助け船を出してもいる。

 総会はもめにもめて、休憩をはさんだ。そして小池君は、

「まことに勝手で申しわけないんだけど、自分で動議を出しておいて申しわけないんだけど、この場は、私が出した動議は全部、撤回する。全部、いま撤回させていただきたい」

 会社側にすれば、さんざ引っ張っておきながら、それはないだろう、という心境だったろう。まさしく会社に対する徹底的な嫌がらせだった>

 当の小川薫が「小池による徹底的な嫌がらせ」と言い残せば、定着するのも無理はない。しかし小池によれば、きちんとした事情がある。その説明を聞けば、小川薫の発言にウソはないにしても、語っていない部分が多いようにも思えてくる。

 小川薫自身が記しているが、当時の小川は各企業の社長に面談するのが常だった。ところが本田技研は小川薫を袖にする。頭にきた小川は当時、配下だった小池に相談する。そして小池が総会に登場することになる。

 小川薫は小池に攻めさせてマッチポンプを企んだのだ。小川の意を汲んでいたはずの小池だが、この総会の休憩中に三菱銀行から連絡を受ける。

「小池さん、申し訳ないんだが、うちの役員がそっちに行っているんですが、総会が終わらずにまだ帰れないといっているんです。上森顧問に相談させていただいても宜しいでしょうか」

 上森顧問とは上森子鉄だ。異名なら小池は「最後の総会屋」で、小川薫は「最後の大物総会屋」となっているが、上森子鉄は「伝説の総会屋」だという。いずれにしても小池の上司たる小川薫でさえ、上森子鉄のことは「先生」と呼ぶ。小池にとっては到底頭の上がらない「上司の師匠」だった。

■三菱グループの「番人」だった上森子鉄

 石川県金沢市生まれの上森は昭和の文豪・菊池寛の書生から文藝春秋勤務などを経て、雑誌『キネマ旬報』の発行者としても知られていた。

 小池は後に、総会屋で月刊誌『現代の眼』主幹だった木島力也の寵愛を受けるが、この上森からも目をかけられる。

 ちなみに小池は新潟県加茂市の出身であり、木島力也も新潟県紫雲寺町(現・新発田市)と同郷だ。石川県生まれの上森を並べれば、3人は日本海の出身となるわけだが、これは偶然とは思えない部分がある。

 地方出身者にとって、東京で同じ地元の人間と出遭った時の感覚は独特のものがあるが、「冬の日本海」が骨身に染みた者同士にも似た連帯が生まれる。低く暗い雲を突きあげるように荒れる日本海の波を原風景として持ち、共に望郷の念を抱く。そんな人間の間には、どこか気脈が通じるのだ。

 話を戻せば、上森子鉄は三菱銀行だけでなく、当時でも20社を越える上場企業に顧問室を持ち、各社から「源泉徴収された顧問料」を受け取っていた。「企業内総会屋」と形容することができるかもしれない。

 普通、こんな総会屋はいない。賛助金や発行する雑誌の広告料で賄うのがいっぱいいっぱいの稼業だ。収入の額と、それを得る方法という意味でも、上森は文字通り雲の上の存在だったのだ。

<日本の代表的企業といわれる大会社には、ほとんどこの人のパイプがつながれており、三菱グループでいえば、その中枢である三菱銀行の株主総会は彼によって握られていると言われる。……とにかく三菱財閥本家である岩崎家でのパーティに出席できる『総会屋』はこの人しかいないといわれる……(『ドキュメント総会屋』小野田修二)>

 三菱銀行が、その上森に相談すると言うほど困っているのであれば、小池も黙るしかない。

「わかりました。上森さんに言うことはないですよ。質問は終わりますから。総会は終わらせますよ」

 小池は休憩終了後、自身が提案した動議を全て撤回する。そして今の小池は「小川は本田の社長に会えずに悔しいもんだから、私に意趣返しをさせたんですよ」と振り返る。

 語る者が2人いて、それぞれの立場によって「真実性」は多分に揺らぐ。とはいえ、それは片方どちらかの真実が間違っていることを意味しない。所詮は2人が見る角度の違いにしか過ぎないのだ。

■「肩書や地位が最後に嘘をつくんです、自分を守るためだけに、嘘をつくんです」

「世紀の贋作作家」ルサールと小池は、ブリュッセルの広場、グラン・プラスのカフェで何時間も語り合った。ヨーロッパで最も美しい広場とも言われ、話題は絵画の審美や、物事の「真偽」にまで弾んだ。

 ルサールの部屋に無造作に置かれた〝名画〟の数々が、よほど小池には印象深かったのだろう。日本からわざわざ「贋作の真作」を観たい一心で、神の手を持つ画家と語らうことを望んできたのだから、無理もない。

「本物とは何かということですよね。こうして、本物以上のものが出来上がってしまうわけですから。そうすると、われわれが有難がっている本物というのは本当は何なのかということを考えざるをえなくなりますよね。つまり、肩書きとか、地位とかじゃない、真実の価値は何かということなんですよね。もちろん、一番いいものは、どんなものでも、古今東西、富めるところに流れるというのは同じなのでしょう。でも、それと真実の価値というのは異なるということ。ルサールさんの絵を前にすると、そういうことをまさに胸に突きつけられる思いです。日本人は、肩書きとか地位が好きなんですが、そういうものが最後には嘘をつくんです。それも、自分を守るためだけに、嘘をつくんです」

 小池の語る信条を、私が細かく英訳して伝えている間、決して饒舌ではないルサールは、小池の目を見つめながら何度も、何度も深く頷く。そして小池はルサールにこうも告げた。

「正義は決して法のなかにあるのではなくて、それはきっと心のなかにあるんでしょう」

 神の手を持つ世紀の贋作画家、ルサールもまた、贋作を描くことで利益を得ようと目論んだわけでもなく、ただ絵を描きたい一心で、偶然に流れ着いた場所で必死になった末、「ルグロ事件」の主人公となってしまっていた。

 小池も前半生を必死で生き抜くなかで、はからずも居場所を見つけてしまった。それが世間からは「総会屋」といわれる場所であり、そして82年10月に「違法な場所」「非合法な場所」となってしまう。

 無論、社会悪を法が規定し、罰することに「悪意」があろうはずもない。だが法によって「悪」の枠組みが形作られ、定型化されることによって、そこで生きてきた者は「憎まれるべき存在」となってしまう──そんなところを、小池の心は巡っていただろう。小池は自身の前半生を首肯することはない。むしろ努めて批判的でさえある。

 小池は表と裏、本物と偽物が表裏一体と化した世界に生きてきた。だからこそ「価値」についての思いは、非常に強かったのかもしれない。自分自身の責任と言えばそれまでだが、流れの中で気がつけば、いきなり「悪」にされてしまう。そんな経験を持つという点で、ルサールと小池の人生は重なっていた。

 ルサールにとってもまた、小池の真剣な語らいと信条に共鳴するところがあったのだろう。「自分の友人に小池を紹介したい」と言った。この世で最も心を許し、自身の過去など全てを共有する、最も大切な友人の名前が告げられた。私は小さく驚きながら、納得していた。

 小池の言葉は間違いなく、ルサールの心を開いていた。彼が紹介する友人とは、弁護士のヴァン・ダムと、その妻だ。そして私たちはドーヴァー海峡に面したオステンドという海辺の町を訪れた。そこには夫妻の別荘があったのだ。現地では彼らの所有するヨットで食事が振る舞われたのだが、小池は中でもムール貝のスープを特に気に入った。これを日本に持っていけば必ずお客がつくと喜んだ。

 ブリュッセルから特急で一時間半ほどのオステンドは、海を渡れば、もうイギリスだった。関東でいえば、逗子や葉山といった都会人の保養地の趣がある。夫妻の部屋には、ルサールが贈った多くの直筆の絵が飾られていた。

 モロッコで大きな個展を開き、銀行家などの得意客も抱えているルサールが、今も贋作を生業にしているとは思えなかった。図らずも贋作作家となってしまった過去を強く戒め、逞しく今と将来を見つめている印象を受けた。

 その姿は、人目をはばかるようにして子供を育て、妻を思い遣ることのみに喜びを感じて生きている小池の姿と、やはりどこか重なって見えた。

 小池は逮捕された後、家族のため真っ当に、後ろ指を指されないよう生きてきた。ルサールも自身の運命を受け入れ、絵を描き続けることで自分と向き合い、修道士のように今を静かに懸命に生きてきた。

■山田慶一こと朴慶鎬によって「身ぐるみ剥がされた」小池隆一
 
 クロワッサンにハムとチーズ、そしてコーヒーが揃ったコンチネンタル風の朝食を終えた直後のことだった。いったん部屋に上がろうと、エレベーターが下りてくるのを待っていたその時、小池は唐突にこう言った。

「シンドラーのリストっていう映画あるでしょ。あれは感動したねー。主人公がこう言う場面があるんですよ。『お金は汚く集めても、キレイに使えばいいじゃないか』ってね」

 すでに〝元〟総会屋となって久しい小池が続けた。

「僕らも、商法改正前は違法じゃなかったんだけど、でも世間は決してそうはみない」

 ヨーロッパの首都であるブリュッセルには世界中の外交官が集まる。その生活水準はときに、パリさえも凌ぐといわれる。その街の、お世辞にも高級とは呼べない三ツ星ホテルのロビーで、小池は喉のつっかえを吐きだすかのように、そう呟いてみせた。

 97年に証券不祥事は発覚、事件化した。もう世間は忘れ去って久しい。だが企業社会の静寂は、小池が沈黙し続けてきたが故に守られているに過ぎなかった。小池は、しばしばこう漏らした。

「野村証券にしても、大和にしても、あっちの調書に出てきたところだけを、あっちがそういうならば、といって、私は認めてきたわけだから。私からは一切、しゃべってませんから」

 中小企業金融公庫総裁の水口弘一のことはとりわけ記憶にあるようだった。

 水口は従来、大蔵省の天下りポストであった公庫総裁に、民間出身者として異例の抜擢を受けた人物だった。かつて野村証券副社長を務めた水口こそが、証券不祥事に至る野村のやり方を決めた本人であった。

「水口が料亭に呼んで、一番最初にやり方を全部決めたんです。後の人はみんな、この人が決めたのを引き継いでいただけだから。あとに、中小企業金融公庫の総裁になったけれども、私が当時、彼の名前を出して話していたら、そういう地位にはきっといなかったでしょうね。当時、あれだけの事件になったんですからね。もし新聞とかに名前が出ていれば、当然、そこにはいないでしょう。でも、証取法は時効が短いから、当時も逮捕にはなっていないでしょうけれど、みんな、彼の後の人が捕まったわけですから。水口は時効で逃れたけれど、殺人犯が時効ですと言ったって、そんなものでは済まないでしょう。」

 そして、小池は一拍置いて、小さく呟いた。

「お前こそ、贋作じゃないか……」 

 97年5月、小池は第一勧銀や野村證券など金融関連企業から利益供与を受けた商法違反容疑で逮捕される。

 懲役9ヵ月の実刑判決を終えて出所した小池は、鹿児島県へと移住する。東京・六本木の事務所はほぼ引き払い、桜島の噴煙を望む空の広い土地を終の棲家とするべく、かねてから自宅も整えていた。

 出所以前から妻と子供と共に現地で暮らしており、移住は出所後に決めた話ではなかった。家族の健康のことを誰より留意する小池にとって、東京よりも抜群に空気が澄む鹿児島への移住は自然な流れだったのだろう。人目を避ける隠居という強いられた意味は皆無だったに違いない。

 そんな静謐な生活を送る小池の慟哭の声を聞いたのは、2010年4月20日の夜のことだった。

「私はもうだめだな。長くない……もうどうにもならない……」

 小池は電話がつながった瞬間、そうつぶやいた。その声は、小池と知り合ってから5年になろうかという時間のなかで、もちろん、一度として耳にしたことのないものだった。

「本当にもうダメだ。これじゃあ、ゴールデンウィークまで持つかどうかも分からない……とにかく家族だけは支えなければいけないけれど、どうにも……」

 そう言って、電話の向こうの声は涙声になり、そして小さな声で「申し訳ない。本当に申し訳ない……」そう言って、電話は切れた。

 小池がそこまで崩れ落ちることへの心当たりは少なからずあった。小池は紛れもなく、全てを失いつつあった。これまでの連載でも見てきたが、山田慶一こと朴慶鎬によって、ほとんど身ぐるみ剝がされたも同然だった。

 この4月20日の電話以降、小池は希望を失ったようになったかと思えば、生活を建て直すためになりふり構わない猛烈さも見せた。小池の気分の浮揚と沈降の落差は次第に大きくなり、周期の幅も狭まっていくように思えた。だが本当に凄まじかったのは、それでも小池が強く自身を戒めて生きていったことだ。

 細かなことに目をつぶれば、大きな報酬が入ってくることが明白な場面もあった。だが、れっきとしたビジネスの局面でさえ、違法なことはもちろん、脱法行為にも手を染めないと踏みとどまることは1度や2度ではなかった。

「後ろ指を差されかねないから、私は絶対にしたくない。それをすれば、あの小池が……とまた言われる。そうすれば家族につらい思いをさせる」

 それを聞かされる側からすれば「そこまで経済的に困っている状況ならば、その話を決して断ることはできないだろうな」と思うようなものでさえ、小池はためらうことなく断った。

 商法も刑法も総会屋を反社会的な存在と定めている。それは抗いようのない「事実」なのだ。しかし小池は総会屋だったが、出所後は少なくとも父親として子供を育て、家庭人として妻を支えてきた。自身の立ち位置はそれしかなく、人生の終末を良き父親として終えようと考えていたことは間違いない。そのために口をはさめば、顔を出せば「あの小池が……」と言われる状況から、ひたすら逃避していた。

 90年代後半から鹿児島で〝隠居〟に入ってからの小池は、そうして、かつての東京での知己の前からも、ほぼ完全に姿を消した。そして2010年、小池自身が危機的状況に陥った時、少なからず力になってくれそうな人間とは、ほぼ音信が途絶えていた。間もなく70歳になろうとしていた小池は、孤独な闘いを強いられた。

 その後も、上京の折にはお茶をし、電話での四方山話は幾度となく繰り返してきたが、小池には徐々に希望と絶望の勾配が頻繁に訪れるようになる。それでも決して小池は獣道を歩もうとはせず、違法性のない公道を歩もうとしていた。

 もし山田慶一と知りあうことがなければ、小池は2016年の今でも静かに余生を送っていたはずだと思いながら、それは違うかもしれないと考え直す。

 恐らく小池の人生は、ブリュッセルを訪れている時には既に狂わされ始めていたのではないか。あの時点では小池自身もまだ、激震の予兆にさえ気づいていなかったが。

■小池隆一が産経新聞の取材にだけ応じた意外な理由

 小路を楽しむのならば、アントワープは世界最高だと思わせる。

 何よりも時折、海風が、歴史を感じさせる石畳の上を吹き抜けていくのがいい。それもまっすぐではなく、時に小路に沿って蛇行して頬をなでていく。そして何よりも、その風が走っていく、曲がった先の風景は想像もつかない、そんな期待感と、心地よい不安に満ちている。

 たどり着く先に何があるのか見えない、そんな時間の流れをゆっくりと感じることができる町だ。そんな空気を小池はどう感じるのだろうか――。

 07年1月、旅程のすきを縫うように、ブリュッセルから列車に乗って、アントワープの王立博物館へと小池を連れ出した。博物館から駅へと向かう途上、突然の雨に見舞われた。その時の小池の一言が、総会屋人生を脱したあとのひとつの悟りに違いないと思わせた。大粒の雨がまるで季節外れの雹のように顔に叩きつけてきた。そのときだった。

「いいじゃないですか。ふつうのひとは雨にぬれて、ああ、いやな雨だな、濡れちゃったなと思うでしょう。だけど、こう思えばいいんですよ。雨が汚れを落としてくれてるんだなって。そう考えれば、嫌なことも良く思えるんですよ」

 旅をきっかけに、小池が上京する時は会って話した。またある時は、かつての友人との思い出話を語る席にも招かれ、私は小さな交流を始めるようになった。そんなときの帰りがけ、小池はそっと囁くことがあった。

「きっといつか取材したら面白いですよ」

 かつて、小池が携帯電話で応じた言葉尻をある作家がとらえて、活字にされたことがあった。小池が「ノーコメント」と伝えたにもかかわらず、コメントにしてしまったのだ。それを目にした小池は、実に寂しそうに電話をかけてきた。

「ものを書くひとたちはなんでああなんでしょうね。そんな上っ面だけに生きるひとたちになんかなにも語れませんよ」

 意外かもしれないが、小池がメディアに登場したのは、たった1回に過ぎない。逮捕前に鹿児島の自宅を訪れた産経新聞の記者にのみ取材に応じた。それを報じた記事は、小池の〝肉声〟を掲載した唯一の、最初で最後の活字となる。

 要するに小池は大のメディア嫌いと言っていいのだが、ではなぜそのときだけ取材に応じたかという理由は、いかにも小池らしい。

「その時の産経新聞の記者さんのとても丁寧で紳士的な態度が印象に残ったんですね。それで、東京に行った折に必ず連絡しますよと言ったら、わかりましたといって帰って行った。その時の雰囲気がとても紳士だったので、上京したときに、きちんと対応してあげなければ申し訳ないなと思って連絡したんです」

 総会屋などというヤクザな商売にある者が、わざわざ相手を選ぶのかと思う向きさえあろう。だが間違いなく、小池は「相手を選ぶ」タイプだ。とはいえ小池の選択は、相手の立場と地位によるのではなく、相対する人間に対する真摯さがあるかないかによるのだった。

 小池自身は誰に対しても紳士で真摯であり、相手に対しては言葉遣いどころか、それこそ箸の上げ下げまでを同時に、鋭く観察している。それは決して、総会屋であること、あるいはあったことゆえの警戒感からといったものとはまた別のものであったのではないだろうか。

(第6回につづく)

2016年6月30日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第4回「覚醒」─小池と贋作作家と総会屋

pho_02

 私と小池隆一は旅に出た。目的地はベルギー・ブリュッセル。「最後の総会屋」は「世紀の贋作作家」と呼ばれたレアル・ルサールに会うのだ。後述するが、ルサールが描いた贋作は少なくとも1000枚とも言われる。ピカソやモディリアーニが〝実際には描かなかった絵〟を誰もが真作と信じて疑わなかった。鑑定士は無論、画家本人が「若き日の自作」と太鼓判を押してしまうケースさえあったのだ。

■――――――――――――――――――――
【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【購読記事の文字数】8100字
【写真】自身の就任披露パーティーに臨んだホンダ・河島喜好新社長(左から3人目。2人目は本田宗一郎前社長 ※肩書は当時のもの、本田技研工業公式サイトより)
http://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/04_newdevelopment/index.html
■――――――――――――――――――――

 2007年1月8日、私たちはブリュッセル国際空港に降り立った。
 そして私は、半ば反射的に後ろを振り返った。なぜだったのだろうか。自分の行動であるにもかかわらず、理由がはっきりしない。
 EU域内に入国する入管審査ゲートの手前だった。小池も旅慣れているが、ブリュッセルの空港は初めてのはずだ。私と同じ列に並んだのか、気になったのだろうか。
 私が振り返ると、小池は腰を折り、床の上で背を屈めていた。靴の紐を結んでいるのか?──瞬時、声をかけるのをためらっていると、小池は立ちあがった。指先で何かを摘まみながら、周囲にチラと目をやる。列を離れ、小走りに柱へ向かう。その先にはゴミ箱があった。戻ってきた小池が言う。
「ゴミが落ちていたものだから……」
 入管ゲートの直前で床にゴミが落ちているのを見つけ、それを拾い、捨てに走ったのだ。12時間も押し込まれた、まるで棺桶のようなエコノミー席から開放された直後の振る舞いだった。
 陰徳を積む――。小池は、そんな生き方が大切だと思っている、そう話した。それが、およそ30も歳の離れた小池と、果ての見えない〝旅〟を決意した瞬間だったのかもしれない。

■小池が関心を抱いた「世紀の贋作作家」レアル・ルサール

 12時間前、私は成田空港からブリュッセルへと向かう飛行機に乗り込んだ。隣には小池が座っている。
 小池は自身が座るはずだった窓際の席を譲り、いささか窮屈であろう真ん中の挟まれた席を選んだ。昭和18年生まれの小池からみれば、私は息子ぐらいの年齢に違いない。そんな同行者にも細やかな気遣いと心配りを示す。その姿勢は、小池が他人のことを考える余裕さえないだろうと思われる状況でさえ、不変であり続けた。
 これまでに多くの経営者、実業家、起業家と呼ばれる人物の素顔を、少なからず見てきたつもりだった。ほとんどの者は、自身を取り巻く環境や目指す道が好調な時には他人を気遣う余裕と鷹揚さを示すが、いったん状況が一変するや、常々の紳士淑女ぶりが、いかに仮面にしか過ぎなかったのかを教えてくれた。
 小池と共にブリュッセルを旅し、彼を深く知った。その後に小池は、この連載で触れたように、人生で最大の苦境に直面した。そんな時でさえ、小池は他者に優しく接した。自分自身を厳しく律していた。
「いや、それは違う。小池はそんな立派な人物ではない。企業を脅して生きてきた卑劣な総会屋なのだ」――。こんな非難の声があるかもしれない。だが私は仮にその指摘が事実だったとしても、私が信じる小池の「素顔」と矛盾するとは考えない。
 小池は人間としての芯が強い。それは生まれ持っての部分がある。だが、それだけではない。おそらく侮蔑を含んだ声で世間から「総会屋」と呼ばれた前半生の経験によって、生まれながらの素質を更に強化したのだ。
 いや、脱線してしまったかもしれない。旅の話に戻ろう。我々はレアル・ルサールに会うために飛び立った。
 自身が絵画を愛好するだけでなく、小池はルサールの騒動を日本側から描いたノンフィクション『銀座の怪人』(七尾和晃・講談社BIZ)を読んでいた。そして六本木の麻布警察署向かいにある老舗の洋菓子店「クローバー」2階の喫茶室で、ヨーロッパを訪ねてレアル・ルサールに会ってみたいのだと小池から告げられたのだった。
「わたしはね、企業の表と裏をずっと見てきた男です。経営者の表と裏もね。真作も贋作も紙一重であること、いや本当はどっちも同じであること、そんなことをおそらく誰よりも見てきたかもしれない。人間という贋作に大変に興味があるのです。会って話をしてみたいのです。もしよろしければ、通訳をしていただけませんか」
 そして私も小池と共にブリュッセルへと向かうことになった。贋作作家レアル・ルサールもまた、小池同様に渦中の人となったことがある。映画監督オーソン・ウェルズが『フェイク』としてドキュメントフィルム化するモデルとなった「ルグロ事件」の陰の主人公だった人物だ。しかも、そのルグロ事件は日本とも無縁でもなかった。今や忘れ去られて久しいが、日本でもいまだに、このルグロ事件の顚末はそのすべてが詳らかにされることなく、時間のなかで曖昧模糊に伏せられ続けているのだ。
 私が小池の〝代理〟としてルサールに連絡をとると、日本からの来客を歓迎すると言い、もし来るのであれば、アフリカ大陸モロッコにある自身のアトリエにもぜひ案内したいと言ってきた。
 まずはブリュッセルにあるルサールの自宅に向かい、その後、モロッコのアトリエを訪れる計画を立て、飛行機のチケットを手配した。かくしてルサールを訪ねる旅が始まった。

■国立西洋美術館にも激震を発生させたルサールの「本物の贋作」

 1966年、日本――。参議院文教委員会での社会党・小林武の質疑をきっかけに、東京・上野を舞台にした贋作疑惑に火が付いていた。フランス人画商・ルグロから国立西洋美術館が購入した三点の西洋画が贋作ではないかというものだった。
 アンドレ・ドランの『ロンドンの橋』、ラウル・デュフィの『アンジュ湾』、アメデオ・モディリアーニの『女の顔』だ。国立美術館が購入に2600万円の国費を費やしていた。真贋の追求を免れるはずはない。
 3年の月日をかけた調査は結局、「真作とするには疑わしい点が多いといわざるをえない」と、歯切れの悪い文化庁の「灰色宣言」で決着した。国立西洋美術館は1971年、コメントを発表する。
「まことに申し訳ない。責任のない、タチの悪い画商につかまったのが間違いだった。私自身、これらの作品を買うときに選定にあたったわけで、その時は『できが悪い線だな』と感じていたが、あえて発言しなかった。」(山田智三郎館長)
 文化庁の出した「灰色宣言」によって騒動は終わりか、と思われた。ところが、この3点の絵画は85年に突如、「クロ」を宣告される。カナダ人画家のルサールが、画の作者であると名乗り出たのだった。
 ルサールはルグロ事件の真相を自ら綴り、フランス国内でベストセラーとなった。94年には日本語版『贋作への情熱』(レアル・ルサール著・鎌田真由美訳・中央公論社)も刊行される。ルサールは67年、ルグロに国際逮捕状が執行されて以来、じっと息を潜めてきたのだ。
 そうして全貌が明らかになったルサールの贋作だったが、その〝作品群〟は前・後期印象派、ブラマンク、ローランサン、モディリアーニ、マティスと、世界市場で値の張る有名画家の全てを嘗め尽くした。
 日本では国立西洋美術館のほかに、私立美術館にも贋作画商たるルグロの手によってルサールの贋作が持ち込まれていた。ルグロはルサールの特異な才能を見抜くや、60~70年代にかけ、多くの有名画家を真似た絵を、まだ青年だったルサールに「模写」や「習作」として大量に描かせていた。

<僕は自分にインスピレーションを与えてくれた画家たちの背後に、「自分らしさ」を探していた。そして毎回彼らのテクニックは僕のものとなった。画家のスタイルを試しながら彼の作品を頭に描いては自問した、「なぜ、彼はそうしたのか」と。僕はそのしぐさやテクニックを再現してみて、それが完全にできるようになると、どうしたらもっとよくなるか研究した。(『贋作への情熱』より)>

 ルサールは、癖や筆使いのまったく異なる画家の絵でも瞬時に真似できてしまう、特異な才能を持っていた。85年に贋作画家として名乗り出る以前には、ルサールの贋作は時に鑑定の第一人者・ウィルデンシュタインやパシッティはおろか、著名な国債競売会社・サザビーズのチェックさえ堂々とすり抜け、世界中の国公私立の美術館に流れていった。
 驚くことにルサールの〝巧さ〟は、巨匠本人の目をもくらませた。生前、ヴァン・ドンゲンは自身の手で「若き日の作品」としてルサールの絵に自らのサインを描き入れ、アンドレ・ドランの未亡人は「夫の作品」として鑑定書まで発行していた。
 ところが、そうして制作された相当の数に上る画がどこに飾られているのかは、これまで大きな謎だった。日本でもその保管先の一部は分っていた。国立西洋美術館や大阪の個人収集家の手元にあった。だが、いまだにルグロ事件で世界に流れた贋作絵画の行方はそのほとんどがわからないままだった。

■小池隆一がルサールに会おうとした「理由」

 ルサールはブリュッセルのアトリエに小池を迎えた。
 小池はそこに広がる光景に息を呑んだ様子だった。〝巨匠〟の絵がそこかしこに無造作に置かれている。
 ピカソ、モディリアーニ、デュフィ、ドンゲン、そしてマティス、ローランサン……。不思議なことに、そのどれもが確かに模写を超え、1つの作品として生き生きと息づいているように見える。
 ルサールの贋作が天才的にユニークだったのは、ルサールは同じ構図のコピーはしないことにあった。ルサールは巨匠の筆使いで、新しい構図を描いたのだ。つまり巨匠の〝新作〟が新たに流通することになる。
 ルサールによれば、それは次のような作法だ。
〈巨匠の絵は何故、讃えられるのか――。独特の筆使いによって表現を試みた、いわば巨匠のエッセンスを「解釈」によって抽出し、他のキャンバスの上に未知の構図で甦らせる〉
 だからこそ、それは構図を移した贋作ではなく、真作として流通できたのだろう。
 実のところルサールは、日本人ジャーナリストの取材も受けている。その中でルサールは自身が書いた贋作の数を「5000枚」と答えた。更にジャーナリストと絵の在処を巡り、次のような応答があったという。
「今までに所在や行方がわかっているのはごくごく一部ですよね?」
「そう。日本では国立西洋美術館やブリヂストン美術館にあるし、その後、私が手記を出した後には世界中から何人かが、『あなたの描いたものではないか』といって手紙をくれたことがあった」
「描いた贋作の大多数が、その行方がわからないということは、今現在も流通している可能性がありますよね。鑑定書がついたまま……」
「そうだね。何枚かは分かっているけど、ほとんどはどこに行ってしまったかは、分からないね。ルグロの倉庫から気が付いたら全部なくなってしまっていたんだからね」
 ルサールの描いた贋作は、米国の富豪コレクション、フォード財団やメドウズ財団にも購入・保管されていた。60年代から70年代にかけて、世界経済が戦後期から高度成長の好況期に突入しようとする時期、乾ききってひび割れた大地に焦がれた雨が浸み込むように、レアルの5000枚は貪欲に買い取られていった。
 このジャーナリストが雑談に「昨日、列車でアムステルダムのゴッホ美術館に行ってきました」と話を振ると、ルサールは驚くべきことを口にした。
「ああ、あそこにも私の贋作が飾ってあったよ。4、5年前だったかな、その絵をみた瞬間、心臓が止まりそうになったよ。『あっ、ああっ』って。かつて描いた自分の絵があんなところに飾ってあったなんて。しばらく呆然と立ちつくしたんだ。あの絵を描いたときはある部分の筆使いに特徴を出したから自分でもよく覚えていたんだ」
「それ……美術館には教えたんですか?」
「いや、教えなかったよ、結局ね。今でも飾ってあると思うよ。ゴッホのレゾネ(図録)にも載っている絵だからね」
 そう言って、ルサールは静かに微笑んだ──。そして世紀の贋作画家、ルサールの横に、企業と経営者の表と裏、さらに言えば「企業家という贋作」とかつて対峙してきた小池が立った。
ルサールは5000枚に及ぶ贋作を書き上げた。わずか10年にも満たない短い時間で、だ。猛烈に、狂ったように描きあげていったに違いない。そこには強烈な動機があっただろう。尋常ではない集中力に人間を導くものがあるとすれば、それは決して「金」ではなく「本能に根ざした欲求」だ。
小池がルサールに会ってみたいと思ったのも、当然ながら単なる好事家が自慢話を増やすためではない。小池が無意識、本能的にルサールの人間性に共鳴を覚え、自分の姿と生き方にダブらせたからだった。

■総会屋として「デビュー」した小池隆一

 新潟から上京してきた小池が初めて総会に出たのは、25歳の頃だった。
「日本セメントの総会でね。それが初めて、総会に出たとき。そのときに『ぎちょー』って発言するために手を上げたら、他からも『ぎちょー』なんて聞こえてね。こっちも初めてだし、勝手がわからなくて、とにかく発言しないといけないから、『ぎちょー』って。そしたらどっかからも『ぎちょー』でね。それが、児玉だったんですよ」
 児玉英三郎は、のちに関西では知らぬ者はいない総会屋としてその勇名を馳せることになるが、この日本セメントの総会で2人は初めて面識を得る。
「総会が終って挨拶したら、『私も初めてで』『いや、実はこっちもで』なんて会話になってね。それで児玉が『今後ともよろしゅうお願いしますー』なんて関西弁で言ってたことがあって、お互いに初めての総会デビューだったから、それをきっかけの付き合いになったんですよ」
 後に児玉は山口組に入り、いわゆる武闘派としてもその名を轟かせる。94年の富士フィルム専務の襲撃事件では、背後関係で名前を囁かれるなど、一般社会でも畏怖される存在となった。
 児玉が山口組へ入るきっかけも、実は総会にあった。
「なんの総会だったか……。児玉はある時、総会後に、その企業の与党総会屋にぼこぼこにされちゃったことがあったんですね。それで、この野郎、と悔しくて胸に期するものがあったんでしょうね。それから組に入っちゃったんですね」
 児玉は関西で1、2を争う総会屋となり、西の児玉と呼ばれる。そして「西」があるのなら、東にも双璧を成す者がいるのが常だ。それは後に住吉会の本部長にまで駆けあがった五十嵐孝だった。
「西の児玉に、東の五十嵐」――。
 小池は五十嵐ともひょんな事から縁が生まれ、この東西の両雄と知己を得る。東西のどちらにも顔が利く存在として、並みの総会屋から図抜ける素地を得たとも言えよう。
 70年代の高度経済成長期の日本企業で、この東西両雄の総会屋から攻撃されなかった企業はなかったといってもいい。その両雄に小池は顔が利く。企業社会にとってはこれほどありがたい存在はないということになる。小池に話を通せば、それこそ、日本全国、どこでも話が通るということになるのだ。
 両雄と互いを認める関係になるには、もちろんカネは関係ない。人間関係の素地が必要であることは、こうした世界でも当然だった。いや、むしろカネだけでは決着のつかない世界だからこそ、人間関係の機微が決定的に重要にもなる。
 なぜ小池は裏社会からも信用を得ることができたのか。それを解き明かすため、少し長くなってしまうのだが、ちょっとした引用をさせて頂きたい。今となっては「最後の大物総会屋」と形容されることの多い小川薫の手記だ。当時、小池にとって小川は〝上司〟とでも言うべき存在だった。
 先に登場人物の註釈を書かせて頂くと、河島喜好氏は1947年に浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)を卒業し、本田技研工業の前身である本田技術研究所に入社。73年に本田宗一郎の後継者として、45歳で第2代のホンダ社長に就任、83年に退任した。2013年10月、85歳で死去している。

<四月二十四日、東京・大手町のサンケイ会館で、河島喜好社長の議長ではじまった株主総会。のちのホンダ、当時の本田技研工業は、過去最高の経常利益を上げるなど、順風満帆だった。
 河島議長が、営業報告に入ろうとした瞬間、小池君が「議長」という鋭い声を出して立ち上がった。
「私、株主として、こんなことを議長さん以下役員の方々に言うのは、まことに失礼かと思いますけど、商法の第二四七条に、“著しく不公平な決議をした場合は、決議は適法に成立しない”というような条項もございます……。株主総会は、言うまでもなく、会社の最高の意思決定機関でありますので、株主総会においては、決して株主の発言を無視することなく、良心的なお答えをいただきたいということを、特にご要望申し上げて、二、三質問に入らせていただきます」
 凄みのある前置きだ。総会屋の発言だと思って、甘くみるなよという恫喝だった。
 質問に入って、小池君は、河島社長が二十一万株、川島副社長が四十八万株、自社株を持っていることを取り上げる。一般の取締役は株数が少ないのに、なぜ、代表権を持つ役員は株数が多いのか。そして、小池君は自分のところに投書がきているという。
「投書の話ですけど、おそらくこれ(河島氏の持ち株)は子会社あたりの株を名義書換で持っているのではないかとか、本田さん(創業者)がお人好しだから、かわいい、かわいいと言って、プレゼントしたんじゃないかとか、いろいろ書かれている……」
 こうした執拗な質問に、河島社長は立ち往生しながらも
「私の個人的な問題でございますので、お答えしにくいのでございますが、いずれにしましても不正行為をもって、あるいはやましい行為を持ちましてこのようなこと(持ち株)になったのではございません」
 そして、従業員持ち株制度がはじまったときに取得したこと、そのときの七百株が増資で増えたなどと説明する。しかし、そんな答えで引き下がる小池君ではなかった。
「その七百株が増えに増えて、二十何万株になったということか。増資、増資でこうなったということか」
 と、畳み込んでいく。
 河島社長は、銀行借り入れを「家屋敷を担保に入れて」行い、株を買い、増資に応じてきたと説明する。
小池「いつごろ、(担保に)入れてますか」
河島「ずっと、前からでございます」
小池「いまだに、入ってますか」
河島「いまだに、入ってます」
 この河島氏の答えが致命的だった。そんな質問など、答える必要がないとでも言っておけばよかったのだ。
 河島氏の答えは、小池君にとっては「思うツボ」だった。彼は一段と声を張り上げた。
「私、あなたをペテンにかけたわけじゃないけど、株主の皆さん、よく聞いて下さいよ。いま、社長は、家、屋敷を担保に入れてカネを借りたと言いましたよね(その通りの声あり)。私は、昨日、登記所に行って調べてきた。河島喜好、建物、所在練馬区石神井町五丁目……。木造平屋建て、十四坪八十二。宅地六十五坪四十三……。登記所に行って調べてきたけど、全然、担保に入ったことはないし、いま現在も入っていない。ウソを言ったんだ、あなたは。あなたは、私に株主総会という公然たる席で、ウソを言った! それ以上はあえて追及すると、いろいろ問題が出るから、僕は追及しない。ウソを言った。いいか、わかったか。それだけ言っておくぞ!」
 小池君は勝ち誇ったように言った。
 気の毒に河島議長は「私は事務的なことについてはよくわかりませんので、誤っておったと思います」元気のない声で答えていた。
 しかし、小池君という男は、こんなことでは鉾を収めなかった。
 私はこのころでも小池君に、「ちょっと、やりすぎじゃないのか」と話したこともある。しかし、小池君は「社長、とことんやりましょう」と意気軒高だった>

 このとき小池は、小川企業株式会社の副社長職にあった。小池からみれば、小川はあくまでも「社長」、小川からすれば「小池君」という間柄になる。小川の回顧録の流れではしかし、小池が〝暴走〟しているかに見える。
 だが、後述するが、小池側の言を踏まえれば、状況は異なる様相を見せてくる。

(第5回につづく)

2016年6月9日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第1回「漂着」

•ÛŽß‚³‚ê“Œ‹žS’uŠ‚ðo‚鑍‰ï‰®‚̏¬’r—²ˆê”퍐

「小遣いをあげるお金もない」

 親として充分なことがしてやれない。そんな苦しい声を上げたのは、「最後の総会屋」小池隆一である。

■――――――――――――――――――――
【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】1997年12月、保釈され東京拘置所を出る総会屋の小池隆一被告(撮影・産経新聞社)
■――――――――――――――――――――

 2011年の師走だった。電話の遣り取りをしていると、言葉の端々から小池の苦しげな様子が伺えた。

「家族もね、なんとなく察するものですよ。小遣いもまともにあげられないとね。それに、それで結局は家庭もギスギスしてくるものですよ。子供にもね、伝わっちゃうんですね、そういうことが……」

 深刻な窮状が窺え、その先まで頭に浮かぶ。何も告げずに鹿児島を訪ねることにした。

 クリスマスイブの前日、羽田を発って福岡空港に降りた。ほどなく日暮れて、天神も中洲もネオンが輝く。九州随一の商都はいつにも増して活況を呈しているようだ。先を急ぐ人、高級ブランド店の紙バッグを抱える人、恋人と手をつなぐ人、そして誰かを待っている人──。

 三越でクリスマスケーキを買った。翌日、その大きさにいささかの不安を募らせながらケーキをレンタカーに積み、途中、佐賀で帰省していた友人の編集者も合流して、九州縦貫道で鹿児島を目指した。

 桜島を望める海からほど近い場所で、カーナビが目的地到着のアナウンスを流した。と、長箒で庭を掃く男性の姿が目に入った。間違いなく小池隆一、その人だった。直接顔を合わせるのは久しぶりだったが、互いの無事を認め合うと挨拶もそこそこに、招き入れられるまま小池家の敷居をまたいだ。

「ロビイスト」に身ぐるみ剥がされてしまった「最後の総会屋」

 小池から絶望感漂う電話を受けるたび、万に一つという状況を、幾度も思い浮かべた。

 家族思いの小池に限って、という思いもむろん強い。日本の敗戦を挟んで生きてきた年長者であり、強く律した内面を保っている。しかし筋の通った人間ほど、時として悲劇的な末路を辿ることもなくはない。

 実際、経済犯罪に巻き込まれた企業経営者や幹部らが、命を断った瞬間を間近で経験したことがこれまでにもあった。

 2005年、西武グループ総帥の堤義明が東京地検特捜部に逮捕されたとき、西武鉄道の小柳社長やコクドの幹部が自らの命を断った。その場面が脳裏に焼き付いている。

 小池に限ってまさか。しかし今度ばかりは……。

 そんな思いを抱かせるほど、絶望の波が繰り返し押し寄せていた。元凶は「ロビイスト」という政界と実業界を繋ぐ特殊な〝装置〟たる山田慶一だった。

 事あるごとに小池は、山田慶一から求められるまま資金を用立て、身ぐるみを剥がされていた。

 小池は土壇場で、山田の不誠実極まりない、沈黙という究極の恫喝に圧迫されていた。世間的には、小池隆一は総会屋というおどろおどろしい響きを放つ、ヤクザとも同種と見なされる世界に生きてきた。そんな人間が、窮地に陥ることなどあるのだろうか。

 小池を山田慶一につないだのは内野経一郎だ。弁護士で、山田と親しい。弁護士の内野に、小池が経済的にも心理的にも追い込まれている状況について訊ねると、唖然とする答えが返ってきた。

「そんな泣きごとをいう総会屋、聞いたことねえよ」

 小池は総会屋の世界から足を洗って長い。確かに暴力団組員が堅気になったとしても、世間は素直に受け止めない。ヤクザ者はどこまでいってもヤクザ──そんな〝世間知〟を払拭するのは難しいだろう。

 小池の師匠である小川薫も2003年、次のように書き遺してから6年後に世を去った。

現在の私は、企業から賛助金をもらっているわけでもないし、利益供与を受けているわけでもない。商法改正以来、私は賛助金とも、利益供与ともまるで無縁になった。……しかし、残念ながら、世間は私が何をしても、総会屋と呼び続ける。この先、私が商売替えをして公務員になっても(間違っても、そんなことはなさそうだが)、マスコミや世間は、小川薫を総会屋と呼び続けるに違いない。……世間やマスコミが、私にかぶせる総会屋という呼び名は、おそらく死ぬまで私について回るだろう。どんな美談になるようなことをおこなったとしても、『大物総会屋の小川薫が』と新聞や週刊誌は書くだろう。(『実録 総会屋』より)

 1997年、小池は第一勧銀・野村證券事件の商法違反で逮捕され、刑に服した。出所後は決して人前に出ず、むしろ人目を避けて生きてきた。

 だが弁護士の内野が紹介した山田慶一が、小池の財布のすべてだけでなく、心の拠り所さえも毟り取ろうとしていた。

「そんな泣きごとをいう総会屋、聞いたことねえよ」

 内野の「捨て台詞」は先に紹介した。それにしても、ならば倒れた者は去れ、とでも言うのだろうか。

 山田慶一が利用し、恃みとする弁護士は内野だけではない。やり手のマチ弁だけでなく、元東京地検特捜部あがり、高検検事長あがり……俗に言う「ヤメ検弁護士」も自身の周りに配置している。

 法律家といっても、特に弁護士は稼業であり、経営者である。

 事務所の維持には金がかかる。雇っている弁護士の人件費も稼がなければならない。経営者たる内野にとっては、山田慶一は良い顧客を引っ張ってくれる、最高の客筋なのだろう。

 依頼主と弁護士という関係を超えた「紐帯」が山田と内野の間には存在する、と小池は推測して接しなければならなかった。

 しかし、それでも小池は法律家全般に、かなりの信頼を置いていた。だから小池は、彼らの異様な関係に気づくことができなかったのだ。

 誰も信じないかもしれないが、小池は「規範意識」が相当に高い。小池は逮捕されると検事、弁護士、裁判官といった法曹家と相対し、彼らの規範意識は自分より更に高いと信じてしまった。

 素顔の小池は「総会屋」というおどろおどろしいイメージからはほど遠い。むしろ、その辺りの経済人や企業人より、よほどまっとうな他者感覚を有している。義理人情に厚く、礼儀作法をわきまえ、慎み深さと遠慮深さを備え持つ。数年来、ふとしたきっかけから付き合いを重ねてきた者の、小池隆一に対する正直な感想である。

投資格言「木の葉が沈んで石が浮かぶ」とマルグリットの絵

 小池が逮捕された当初、なぜ銀行も証券会社も、詰まるところ一流企業が総会屋に食い物にされたかということが盛んに言われたが、そんな「世間」の一方的な解釈では、彼らの関係性は容易に理解できない。

 顔の見えない「企業」「法人」が犯罪の舞台だったのではない。小池隆一と相対したのは経営者や担当者という「個人」であり、単なる利害得失という関係を超えて小池と付き合っていたのだ。

 野村証券や大和証券など、逮捕された企業関係者らは、最終的には小池を検察に売る。その保身が非難されることはなかった。小池も異議を唱えたことなど一度もない。

 小池は取り調べでは沈黙を守り、担当検事が「おい小池、あっちはこう言ったぞ。こう調書にサインしたぞ」と言われたら、「ああ、そうですか。ではそこまでは」と、付き合った企業が認めた範囲まで、自分の調書も認めることを貫いた。その結果か、当時の担当者で事件後も小池と親しく付き合っている人間さえいた。

 もちろん、彼らはすでに退職している。利害関係が完全に消滅しても、小池を友人として交際を続けた。もう共に総会屋ではなく、企業担当者でもないのに、人間関係だけが存続したのだ。

 このあたりは、山田慶一と企業関係者の交際とは決定的に異なる。

 山田の周辺では、常に人間の離合集散が繰り返される。それは彼が政界・行政と民間を繋ぐ「接続装置」、つまりインターフェイスに過ぎないからであり、そこを通過するためには通行料として多額の金が必要となるからだ。

 会社であれ、個人であれ、金がなければ山田とは付き合えない。徹頭徹尾、完全な利害得失の世界、計算の世界であるといえる。

 対して小池のもとに集まった人々は、よほどのことがない限り、各々が死を迎えるまでは離れることはない。

 もちろん、中には小池が逮捕されたことで、小池の元を離れた人間もいた。それはやはり、小池という個人ではなく、あくまでも経済力のある総会屋である小池の魅力に引き寄せられ、見込んで恃みにした連中であった。

 小池の友人が、総会屋全盛期に、小池のエピソードを話してくれた。

 その人物は止むにやまれず、当時六本木に事務所を構えていた小池を訪ねて無心した。金額を訊くと、小池は「無利子でいいよ」と、ぽんと机の上に放るようにして札束を渡したことがあったという。

 そんな態度にさえ男気を感じ、有りがたさを感じて辞去したのだが、ほどなく小池から電話がかかってきた。

「さっきは悪かったなー。あんなかたちで随分と失礼な渡し方をしちゃって。ごめん。申し訳なかった」

 金を貸してくれてありがたく思っている債務者である自分に、小池はあろうことか、詫びの電話を入れてきた、というのだ。

 それは、小池がお金を貸すとはいえ、机の上にぽんと投げ出すその作法が相手に対して非礼だったと悔やんでいる詫びの言葉だったのだ。

 これには相手のほうが恐縮してしまう。

 だからこそ、小池は山田という「無機質の装置」を前に、人間として摩耗し、消費されつくしてしまったのかもしれない。小池自身もよく言うのだが、「あの小池が」と何かと悪口の種にされてしまうのもさることながら、「あの小池が騙されるはずがない」と、かつての小池を知る者であれば思い込んでしまう。

 だが、これは次のように考えれば、納得もいく。

 小池隆一は自らを求心力とした「有機の世界」に生きているが故に、心の伴わない山田のような「無機の世界」の住人に出遭ってしまうと、摩耗してしまうのだ、と。

 いや、小池に限らず、人間同士の付き合いを優先する真っ当な人間が山田慶一に目をつけられると、身ぐるみ剥がされ、全てを奪われてしまうものなのかもしれない。

 木の葉が沈んで石が浮かぶ――。

 小池は人生の苦境に入った。逮捕された時とは異なり、嵐が訪れて去って行くような一過性の出来事ではない。禊ぎを済ませれば状況が好転するものでもない。展望のない長い隘路に入り込んでしまったことに気づいてから、しばしば小池は上の言葉を口にした。

 木の葉は有機物、つまり小池だ。当然ながら無機物の石は山田となる。

 この言葉、実は投資格言でもあるのだが、一枚の絵画が頭に浮かぶ。ルネ・マグリットの描いた『ピレネーの城』だ。

 白い雲が流れる青空と波の打ち寄せる海辺を背景に、頂上に城砦を戴く巨大な岩石が重力に逆らって宙に浮かんでいる、細密な筆致で表現された異様な光景ながら圧倒的な存在感を示す、シュールレアリスムの代表作の一つだ。

 現実とは到底かけ離れたその架空の城砦の中に住まう1人が、山田慶一であるのかもしれない。

人の悲しみに寄り添える「哀しき総会屋」

 2011年の師走、小池が涙ながらに「もう駄目だ……家族が……」と声を振り絞って苦境を伝えてきていたまさにその時、東京・西新宿にあるヒルトンホテルのエレベーターでは石川雅己・千代田区長が山田慶一に話しかけていた。

「声かけらんなかったよ。だって、山ちゃんが女連れで降りてくるんだもの」

 石が浮かぶどころか、石が空に飛び跳ねんばかりの状況があったのだ。山田慶一が際限なく吸収した小池の金、そして小池以前にも数多くの企業と人間が吐き出した資金はどこへ消えていったのか……。

「お金ある? あればすぐにできるよ」

 しかし、そんな言葉を吐く山田が、決して人間や企業を幸福にしないことは明白だった。

 それはまさに虚構のマネーゲームであり、幻想のパワーゲームとでも呼びうるものであり、そこに人々は踊らされたのだ。もちろん、小池もまたその一人ということになる。

 鹿児島の小池にクリスマスケーキを届け、通された居間で談笑となった。

 しばらくすると小池が奥さんに「お茶を」と言いながら中座して部屋を出て行ったが、それからかなりの時間が経過していく。

 ようやく部屋に戻ってくると、手にした盆の上には、お茶だけでなく菓子も載っていた。包みに記されていたのは、小池の自宅近くにある洋菓子店の名前だった。「お茶を」と言いながら、わざわざ茶菓を買いに奥さんを走らせたのだろう。

「貧乏の極みに達した」小池と、その家族にクリスマスケーキを届けたくて訪ねたにもかかわらず、その小池に財布の紐を解かせてしまった。

 さらに、ひとしきり歓談した後、お腹が空いていないかと声をかけ、小池自らの運転で、国道沿いにある名物の料理屋に案内されて昼食まで御馳走になったのだ。

 結果として、逆にとんでもない出費をさせてしまった。そう思いながらも、おそらく小池には、人を前にすると、打算抜きに歓待しなければ気が済まない「人間性」を持ち合わせているのだろうなと、あらためて感得したのだった。

 だからこそ山田慶一は、その隙に付け入って小池から金銭を搾り取ることに成功したのだった。もちろん小池だけでなく、一流と呼ばれる企業や企業人、はたまた起業家や大学などの教育機関からも同じ手口で金銭をせしめたのだが、その中には倒産や破綻に向かってしまったところも少なくない。

 しかし、山田慶一だけは生き残り続けている。

 金がないなどという、「そんな総会屋、聞いたことねえよ」と嘲笑うように言い放った、山田の後見人である弁護士の内野経一郎でさえ、自身の事務所で採用した新任の弁護士を引き連れて鹿児島を訪れ、小池に宴会の接待をさせていた。

 小池にとっては、自分の顧問弁護士ではない。内野にそこまでする義理はないのだが、内野も小池の財布に甘えていたのだろう。小池が内野に挨拶しようとアポを取ると「じゃあ、メシを食おう」と言い、場所を自ら指定するのだ。

 相手の財布で飲み食いをさせてもらう〝先生道楽〟の世界は、弁護士業界に限らずともよくある話だ。

 しかし、微々たるものとはいえ、小池の財布で飲食をくり返してきた内野がその人間関係の機微の末に、「そんな総会屋、聞いたことねえよ」と言い放つというのは、小池に限らずとも割り切れない思いが込み上げてくる。

 小池が総会屋稼業から身を引いて久しいが、おそらく現役当時からすでに「悲しき総会屋」であっただろうと思えた。

 人の悲しみを知ることのできる人間は決して多くはない。また人の悲しみに寄り添える人間はほとんどいない。家族関係でさえ他者との世界でもある。小池は人の悲しみを慮ることのできる人間だった。だから同じ悲しみを知る者は、組織や企業に属しながらも、小池が総会屋の看板を降ろしてからも、共に苦楽を分かち合って歩みを進めてきたのだろう。そこは金勘定から解放された、完全に人間の世界だった。

 小池の家を辞去するとき、翌年に成人を迎える長男が玄関前に腰かけ、いささか手持ち無沙汰に庭を眺めていた。

 どうした、と父親らしく優しい声をかける小池の背中のすぐ向こうには、桜島が煙を噴いていた。

 煮えたぎるマグマの如き怒りを悲しみで押し込めつつ、小池は子どもになおも父親らしい気遣いをみせる。小池のすべてを剥いだ山田が、仮にその姿を知ったとしても詫びることはないだろう。

77.5万株を「1円」で購入した山田慶一

 ロビイスト・山田慶一が暗躍する〝無慈悲〟な世界は、常に「今」を取り込もうと無尽蔵な欲望を膨張させ続けている。

 これはその一端にすぎないが、「ゴールデンブリッジ株式会社」もまた、山田らの不可解な手さばきを受けていた。

 日本企業がもっとも神経を尖らせる中国国内での権利保護に尽力している、著作権確保の日本での唯一の窓口を謡う企業であり、出版社をはじめ日本の著名企業も数多く取引するこの企業は、日本の大手紙にもしばしばその名を登場させる。

 2009年7月31日付の日本経済新聞には次のような記事が掲載された。

 

タカラトミーは中国でまん延する模造玩具を摘発するため、現地の政府系機関との連携を強化する。このほど日本の窓口となる企業に約1%出資した。『ベイブレード』など人気商品は、中国で販売していないものも含めて版権を登録。現地工場を細かく監視し、問題があれば生産停止などの処分をする。中国政府との密接な協力により模造品対策の実効を高める。

連携するのは中国・国家版権局の中国版権保護センター(北京市)。日本で版権登録を受け付けるゴールデンブリッジ(東京・港)の株式1%をこのほど約1500万円で取得した。同社と模造品対策で資本提携する日本企業はタカラトミーが初めて

 

 タカラトミーも出資をしたゴールデンブリッジ社の業態は記事が伝える通りだが、その素性のきわどさを物語る一通の「株式譲渡契約書」がある。

 その内容は、2010年11月1日、72万5000株が1円で譲渡されたというものだ。1株1円ではなく総額1円という、まったく不可解なものである。

 譲り受けたのは同社の代表取締役ではなく、山田慶一。そして同日付で更に5万株の株式譲渡契約書がもう1通あり、やはり総額1円で山田に譲渡されている。

 この2通の譲渡契約書に付随し、1通の確認書が手交された。

                  確認書
平成22年(2010年11月1日付)株式譲渡契約書に基くゴールデンブリッジ株式会社の株式 川口耕一 725000株  星山慶子 50000株 株式会社プラネットシンクジャパン 4021670株 の株式譲渡は正常な譲渡で以後紛争になるものではありません。                  平成22年12月3日

 そこには株式会社プラネットシンクジャパンの代表取締役である川口耕一と星山慶子の署名押印があり、さらに立会人の弁護士、内野経一郎の署名押印もある。これにともない、山田は株券の名義書換請求を行っている。

 川口と星山の両人は、大株主でもあり、ゴールデンブリッジ社の役員という立場だったとされるが、やはり署名押印のうえ、山田宛に一通の誓約書も先に提出させられていた。

                誓約書
私がゴールデンブリッジ株式会社取締役在任中あるいは業務に携わっていた間、ゴールデンブリッジ株式会社の商業帳簿に記載の無い一切の契約その他の法律関係が存せず、ゴールデンブリッジ株式会社に債務負担を負わせる事実は存しません。
万一私の故意又は過失で貴社に負担を負わしめる事が有った場合、私並びに株式会社プラネットシンクジャパンへの宥恕を撤回され、更なる責任追及されるとも止むを得ません。                        平成22年11月29日

 

「宥恕を撤回」とは、尋常ならざる切迫した表現ではないか。

 川口と星山の両者が役員であったなかで、ゴールデンブリッジ社には使途不明金が発生していたのだと、山田は関係者に明かしていた。

 流れから推察するに、「宥恕」とは、この背任行為に抵触しかねない状況を問題としないことを意味し、その代償として、両者が保有していた全ての株を1円単位で山田に放出することを迫られたのではないか。

 この結果、2010年12月20日段階で、ゴールデンブリッジ社代表取締役・森田栄光が作成した株主構成表によれば、山田慶一は380万8000株を保有。個人株主としては、454万株を保有する森田栄光に次ぐ大株主となっているのだ。ちなみに、日経で記事化されたタカラトミーの持ち株は2万株にすぎない。

 架空の城砦に住むロビイスト、山田慶一の触手は、このように周到に広く張り巡らされ、不当に巨額の金を手にしているのだろう。

断骨を以て断骨に及ぶ──小池隆一の反撃

 小池家の菩提寺は新潟県加茂市にあり、星霜を重ねてきたと知れる墓標には「小甚」と彫られている。おそらくはこれが、東京を拠点にしながらも守り抜いてきた〝臍〟である。

 1997年に発覚した野村證券・第一勧銀事件の舞台となったのは「小甚ビルディング」であり、その「小甚」とは他ならぬ古い織物問屋として栄えた小池家の屋号だったのだ。

 若くして飛び出すように故郷を離れた小池だが、たとえ波はあっても、どんな瞬間にも胸中には故郷があり、家への想いがあったのだろう。

 初めて会った瞬間に小池という人間にどこか感じた戦前の匂いは、決して小池の実際の誕生年──1943(昭和18)年──だけに由来するものではないのかもしれない。

 本人からすれば異論はあろうが、小池は代々の「家」を守り続けていた。そして、ただ家族のためだけに生きようと決めた後半生で、自身が表社会で立ち回れば家族に迷惑がかかるからと戒め、鹿児島に蟄居することを強いた。

 自身が築いた家を守らんがため、自身のもとに持ち込まれる謀議の数々を自身の足で検証することを許さず、その結果、再起不能な欺きを受けたのだとすれば、それほどの皮肉と、そして苛烈な顚末はない。

 鹿児島に生まれ育ち、戦後、田村隆一と並んで詩誌『荒地』を代表する詩人であった黒田三郎の詩句が思い出される。復員してきた彼は、詩句の通り、

 

お金がなくて煙草も吸えず
水ばかりのんで
それでも威儀を正していた

 

のだ。偶然にも、同じ鹿児島の地に生きている小池隆一もまた、威儀を正す日々を過ごしているのである。

 それを、総会屋として生きた小池の前半生の「因果応報」だと呼ぶにしても、その〝罪〟を償ってなお余りある悲劇でさえある。

「石が浮かんで木の葉が沈む」―。それは紛れもなく不条理だろう。他人の人生を食い物にして世を渡る不条理は、小池に限らずとも看過されえないものだ。

 さらには、戦前の人間であればこそ、小池は厳しい。肉を切らせて骨を断つなどという、甘いことは考えてはいない。

 自身の骨もろともを断つ気で、必ずや相手の骨を断ちにいくに違いない、小池との年月を経てきたがゆえにそんな確信を抱くのである。

 断骨を以って断骨に及ぶ――。

 おそらく小池は自身を利用し、欺いたロビイスト、山田慶一たちを一網打尽にするべく、断罪に向かうだろう。
一人の人間の涙の重みを見届けるのも巡り合わせだとすれば、それもまた受け入れるべき運命なのだ。

 小池隆一はすべてを失いつつある今、その成り行きのすべてを明かす覚悟を決めた。自身の恥を世に晒してなお、抹殺すべき社会悪があると信じ、その根を──骨を──断つ。

 小池という男が、社会からのいかなる言われように晒されようとも、今この瞬間の「義」に嘘はない。

 たとえ前科があろうとも、人生に禍根があろうとも、過去に悪評があろうとも、罵声にまみれようとも、普遍の人間性を備え、小さくもまっとうに生きようと決意した真摯な思いを踏みにじる存在こそが「巨悪」であり「社会悪」である。

 そして、そんな悪に限って、誰よりもまっとうそうな顔と振る舞いで、ときに正義さえ主張しながら、社会のあらゆる地位と場所に、つまり、すぐ隣の身近な場所で和やかに呼吸している。

 背徳のロビイストとそこに群がる者たちの営みは、だからこそ、表立ってはその暗躍を悟られることはなかったのかもしれない。

 だがそれも、これまでは、の話。小池隆一という、水のごとき普遍の触媒と交わってしまった以上、「装置」は錆びるかメッキが剥がれるか、何がしかの化学変化を伴わないわけにはいかない……。

 桁ちがいのダニである。たしかに総会屋もダニだ。間宮も一匹のダニ。錦城もダニ。貫禄や実力に大小の差はあっても、ひとしく会社の闇の血を吸って生きている。どの大企業にも、数匹、数十匹のダニがついている。用といえば、年に二回の総会ですごんだ声をかけるだけ。無職無税のひまな体で、会社の秘書課あたりにとぐろを巻き、帳簿にのらぬ金を食って生きて行く。だが、それ以上に大きなダニが悪質な顧問弁護士や公認会計士なのだ。明るい血だけで満足せず、膨大な闇の血を要求する。企業は成長し、ダニもまた成長する。銀行もデパートもメーカーも、白く輝く衣裳の内側は、そうした闇の血を吸う大小のダニにとりつかれている。
―城山三郎『総会屋錦城』より―

(第2回へつづく)