2017年2月23日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第16回「記者と対峙」

sokai2017-02-22 14.03.51

(承前)千代田区長の石川雅己は都立大(現・首都大学東京)法経学部を経て、1963年に東京都庁に入庁した。そのため、石川と山田慶一は「都議会のドン」と呼ばれる内田茂と関係が深いとされている。

 現在は練馬区長である前川燿男も、山田が「顧問」の名刺を持つ大都市センターで代表取締役を務めていた。そもそも前川も元都知事本局長などを歴任した都職員。そして山田との繋がりは内田茂都議との縁だと仄めかしていた。

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【著者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】NEXCO東日本公式サイト『もっと知りたい高速道路図鑑』より
http://www.e-nexco.co.jp/csr/wakuwaku/
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 2012年秋、当時の石原慎太郎都知事が急遽、国政復帰を表明。それに伴い12月に都知事選が実施された時も、内田の前に自民党都議団は「沈黙」を余儀なくされた。

 なぜか。それは以下のような事情があったからだ。

 石原が後継として使命した、作家で都副知事だった猪瀬直樹を、内田茂は極めて嫌っていると言われたからだ。そのきっかけは、千代田区紀尾井町の参議院議員宿舎の移転問題だった。

 副知事に就任すると、猪瀬はメディアを引き連れ、宿舎の建て替え予定地を視察。結果、自然保護を理由に反対したのだ。

 これが虎の尾を踏む。移転を推進していた内田茂の怒りに触れたのだ。以来、内田は猪瀬を徹底的に嫌厭する。ために自民党都議団も、猪瀬との不仲を伝えられるようになった。

 その影響は、都知事選で露骨に現れる。自民都議団は猪瀬推薦を決定できず、最後の最後まで沈黙を守った。内田を慮ったと見られても仕方がなかった。対して選挙公示に先立って行われた自民党による世論調査では、猪瀬支持が40%超という結果が出た。猪瀬を容認できない自民都議団としては苦々しい展開に追い込まれていた。

 最後は都議団での意思決定は不可能となり、公示日の直前、態度未決のまま判断を自民党本部に預ける形となった。そして最終的には党本部の決定で「猪瀬支援」が決まり、他党も有力候補の猪瀬に相乗りすることとなり、蓋を明けてみれば430万票超という歴史的数字で当選を果たす。

 自民党都議の中にも、なぜこれほどまでに内田が猪瀬を嫌っているのか──参院宿舎の問題で猪瀬副知事が、内田都議の意向に反対したとはいえ──これほどまでに執拗に尾を引いているのか訝る向きもあった。

 その背景として、内田当人でさえ自覚していない可能性もあるが、猪瀬が道路公団改革で「道路族のドン」と徹底的に戦ったことは重要だろう。猪瀬は勝者となり、相手を追放してしまったのだ。

 猪瀬が引きずり下ろした相手は、元建設省事務次官で、元道路公団総裁の藤井治芳。そして藤井と内田茂の間は、やはり山田慶一が取り持っていた。

〝全知全能の神〟たる「道路族のドン」藤井治芳

 山田たちが赤坂の焼肉屋『牛村』で宴会を開いた場面を、この連載では何度も紹介している。

第8回「角栄」
http://www.yellow-journal.jp/series/yj-00000320/
第15回「人間不信」
http://www.yellow-journal.jp/series/yj-00000457/

 山田は、この会合の直後、藤井治芳の「直筆メッセージ」を自身のところに集う者たちに伝えた。それを道路のドンからのご託宣ととった者もいようし、はたまた、藤井からの直筆メッセージを得てくる山田という男の凄さを更に確信した者もいよう。

 内容は、経済談義の他愛のないものだ。しかし藤井の直筆メッセージであることが「山田慶一」という看板がなお求心力を得るための何よりも強いメッセージとなる。

「藤井所感」とでも戯れに名付けてみるが、ポイントは以下のようなものだった。

 経済再編に当たっての考え方
経済、特に金融・産業の国際化が一層重層化する中で、国際的なシステムへの参画がより弾力的に可能となるよう、努力すべき
例えば
○税制のあり方、その中でも関税のあり方
○国際企業へ成長していくための育成プログラムの見直し
○外圧を利用した国内企業へのバッシング(パシフィックコンサルタント)

 パシフィックコンサルタントがバッシングの一例として言及されているところが、いかにも山田らしい〝手配〟であるようにも見える。

 自身が逮捕直前まで追い込まれた──実際、無罪とはなった──ものの、東京地検特捜部が立件した事件が、元建設省の事務次官をして「外圧を利用したバッシング」の一例としてわざわざ持ちだしている。

 これこそが肝なのだ。山田の元へ参集する一流企業勤務の〝賢い紳士〟たちは、山田と藤井の「精神的な一体感」を見過ごすことなく、見事に嗅ぎ当てる。「山田劇場」で演じられる仕掛けは大胆かつ繊細。観客たちが〝見巧者〟ということもあり、芝居の意味を誰もが完璧に理解する。

 藤井所感はレポート用紙3枚。地域金融と国際化など、マクロからミクロまで目配りがきいていた。しかし意外にも、「都市計画における研ぎ澄まされた思想性」などといった、プロを唸らせる魅力に乏しかった。藤井の圧倒的なキャリアを重ね合わせれば、凡庸という評価が下ってもおかしくない。

 それは、日本社会を論じた次の一節からも伺えた。

 日本社会は、明治政府発足以来、国家の体制が、諸外国に対して、国を富ます、強くする視点から、中央の強化と国家の強化を同一視し、税制、財政、法制、行政等を含め、インフラ構築も特別扱いされてきた。

 国即ち中央と地方との関係は、廃藩置県、官制知事、地方への助成金システムといった視点でつくられてきた。

 このことが、日本では、東京と地方との関係が必要以上に〝格差〟の形で現在に至っている。

 全総計画で当初から〝一極集中是正〟が挙げられているのはその為である。

 しかし、江戸時代では日本の文化、知識層が300雄藩からなる地方社会に定着しており、江戸に一極集中するのでなく、ほどほどの強い中央(江戸)とそれなりに強い地方との連けい構造であった。

 日本社会が、住み易さ、文化、経済的強さを目ざして、新たな地域社会構築(地方分権)を考えるためには、最近の諸々の情報及び情報発信のあり方が極めて重要になる。

 東京という大都市社会の国民である東京の発注情報をもって、日本の情報と誤解されないよう注意する必要がある。(東京人が日本人という誤解、東京人は日本人の一部にしか過ぎないという認識をあらためて思う必要がある)

 藤井所感のキーワードに「全総計画」がある。この全国総合開発計画こそは、まさに戦後自民党の55年体制を裏支えした国土開発計画といえる。

 目的は日本のグランドデザインを描くというものだ。当初は高度経済成長期にその事務局は旧通産省の外局である経済企画庁に置かれていた。それが橋本行革を経て、国土審議会を所管する旧建設省がその所掌を獲得した。

 各年次の予算獲得が各論だとすれば、全総は、いわば総論にあたる。そして、仮に各論が総論を超え得ないものだと考えれば、全総は「日本国デザイン」の設計思想ともいえる。更に踏み込んで表現すれば、日本国開発計画の「チャーター」──憲章、綱領、宣言などと訳される──とでもいうべきものだ。

 旧建設省の事務次官・藤井治芳が道路族のドンとして君臨できた背景の1つは、国土交通省が土建行政の元締だからというだけではなく、日本国土の設計思想さえもデザインする組織であったからだ。

 山田は、その「全総」を築いてきた藤井のメモを、つまりは「ドンの心情」を〝代読〟できる存在なのだ。山田こそは「日本開発のドン」の〝使用人〟であるという空気を醸し出していく。

〝道路利権〟を巡る通産省と建設省の暗闘

 現在、旧建設省=国土交通省が所管する全総は、そもそも旧通産省=経済産業省が担当していたことは、専門家の間でも、あまり知られていないようだ。

 先述した通り、全総は日本のグランドデザインを描く総論にあたる。当初は経済企画庁が所管し、経企庁は内閣府の外局として設置された。しかし、設置時にプロパー職員の存在しない官庁は、既存組織によって所掌争いの草刈場と化す。

 経企庁を巡るヘゲモニー闘争に、当然ながら旧建設省も〝参戦〟している。建設省は霞が関の中でも「隠れた名門」という個性を持っていた。藤井治芳のように、技官でも事務次官に上り詰めることができる技術官庁として知られるが、その出自は戦前の旧内務省に遡る。

 戦後GHQにより、内務省は自治省、厚生省、警察庁などに分割されたが、こうした旧内務省系の省庁は現在でも〝選民意識〟が高い。省庁の垣根を横断し、「旧内務省関係者」の名簿を作成するなど、自らを「ノーブル」な存在だと任じている。

 日本の省庁はエリート組織と見なされるが、1府13省庁の中で更に上位と位置付けられる役所を「五大省庁」と呼ぶ。内訳は①財務省、②外務省、③経済産業省、④警察庁、⑤総務省自治分野──となるが、この中で経産省=旧通産省は戦前、商工省と呼ばれ、決して一流官庁ではなかった。通産省が一流官庁として台頭してきたのは復興と経済立国が成功した戦後からになる。

 そして1950年に誕生した経済企画庁は当初、通産省に〝占拠〟される。歴代の事務次官を見れば、当初は商工・通算官僚の名ばかりが連なる。経企庁プロパーのトップ人事が行われたのは何と1989年。星野進保・事務次官の登場まで待たなければならず、実に設立から30年が経過していた。

 だが、名門建設省が、通産省の勝ちっぱなしを許すはずもない。最重要の仕事であるかのように暗闘が続き、遂に2001年の橋本行革による省庁再編で、全総の所管は通産省の手から建設省の手に移る。

 この全総が描く、全国道路ネットワークの下積み作業に関わり、役人人生を全うしたのが藤井治芳である。1936年生まれ。東京大学工学部土木工学科、同大学院工学研究科を経て62年に建設省入省。

 通産省=経産省は例えば、都市整備機構を所掌し、絶対に離さない。だが、道路で結ばれていない「単独の街」などあり得ない。都市を発展させるためには、必ず道路が必要だ。だからこそ藤井は戦後日本で行われた開発の全てを担ったと言っていい。生き字引だからこそのドンだったのだ。

 そして山田慶一は自民党田中派・田中政権が生んだロビイストだ。田中派が持つ権力、その源泉の1つが道路だったことは言うまでもない。山田も、この藤井の影をちらつかせることで、企業の求心力と、自身の命脈をつないでいた。

 ここで、少し重要な寄り道をさせて頂きたい。少なくとも、わが国日本において、民間が仕事をしようとすれば、必ず役所の「ルール」にぶつかるわけだが、そもそも、なぜ省庁の所掌が拡大し続けるのだろうか。更に、そうした指向の源泉はどこにあるのだろうか。この問いに、さる経産省の人間は、次のように答えてくれた。

「すべては法律。役所の権限はすべて法律が根拠になっているんだから。法律、政令、省令とね。役所は法律がなければ何もできないでしょ。だから、法律を作らなければどうにもならないわけだ。施策にはすべて法律が絡んでくる」

 なるほど。省庁は法律を作れども、棄てないのには訳があったのだ。

「年間、おおよそで100本くらいの法律が成立しますが、廃止というのはほとんどないですね。廃止の場合でも、法律の一部を廃止することはあっても、法律そのものの廃止というのはまずない。改正、改正でやっていきますからね」(内閣法制局)

 そして、経産省の人間はこう付け加える。

「法律を廃止するときはね、それは何を意味するかわかるかい? それは、新しい法律を作るときだよ」

 法律を永遠に作り続けるのだから、所掌が拡大することはあっても、縮小することはない。そこに、商機ならぬ〝省機〟拡大の芽もあろう。

 更に、省機拡大のときこそ、民間の思惑も潜り込む〝好機〟到来なのだ。1990年の橋本行革。その中の省庁再編とはまさに、バブル崩壊後の「失われた20年」の始まりであり、変革期特有の微妙な歪みが、ロビイストに付け込む余地を生んだのかもしれない。

 更に言えば、田中角栄と、越山会の女王、佐藤昭を後ろ盾にする自民党の生んだロビイスト、山田慶一の生き残る余地を……。

山田慶一と対峙した東洋経済新報社記者の岡田広行

 藤井治芳と全総計画。それは字義通り、開発そのものを意味した。

 開発計画に関する情報を、いち早く入手することは、企業にとってはどこよりも早く「ツバを付ける」すなわち、カネを注ぎこめることを意味した。

 使途秘匿金のニーズと、それが生きる余地がそこに生じるのだ。ちなみに使途秘匿金については、この連載の第13回で焦点を当てた。

【会員無料】『哀しき総会屋・小池隆一』第13回「千代田&練馬区長」の〝過去〟
http://www.yellow-journal.jp/series/yj-00000444/

 ゼネコン業界にとっては、いわゆる「前捌き金」といわれる、優に億単位にのぼるカネが動くことになる。事業関係者を飲食で接待するカネに使われるのみならず、現ナマを〝握らせる〟ためのシステムといえた。

 あそこにビルが立つ、向こうの駅前が整理される、といった計画が発表された段階で動いても、もう企業の事業は成り立たない。計画段階からカネを注ぎ、計画そのものを時には動かし、原案に食い込み、素案に意志を反映させる。そんな時にこそ「前捌き金」は大きな力を発揮する。

 藤井治芳という〝神〟の思想が、山田という〝口〟を通じ、ゼネコン業界と、その周辺に現実的なメッセージを伝える。すると、そこに集い、行動を開始する者たちが現れる。

 しかし、それが現在進行形として立ち現れる時、あまりに生々しく、醜悪な姿態を曝すことにもなる。東京都千代田区紀尾井町・清水谷参議院議員宿舎の老朽化にともなう移転・建て替え計画もまた、実はそんな壮大な思惑の一端にしか過ぎないのかもしれない。

 それにしても、この山田慶一という一般には耳慣れない無名の人物になぜ、これほど多くの人間が〝惹かれ〟、そして〝恃み〟とするのか。山田の素姓についてはほとんど活字になったことはないが、その山田を長く〝監視〟し続けてきた記者がいる。

 東洋経済新報社の岡田広行だ。その岡田が書いた次の記事が、これまでにもっとも深く、その山田を追ったものといえる。

 岡田がかつて取材した段階では読み解けなかった部分に、その後、私の取材で新たに読み解ける部分を加えて補完しながら、引用してみたい。

山田慶一氏。

「業務屋」と呼ばれる建設談合の世界に身を置く人間であれば、一度ならず彼の名前を耳にしたことがあるはずだ。

 昨年2月、公正取引委員会に一通の〝告発文〟が持ち込まれた。

 表題は「独占禁止法四五条一項に基づく申告」。差出人は平島栄・西松建設相談役(当時)。近畿二府四県の建設談合を取り仕切ってきた実力者が、部下の談合屋の造反に激怒して、前代未聞の行為に及んだのだ

〝談合のドン〟、平島のこの暴挙ともとれる行為は、当時、ゼネコン業界にとどまらず、それを持ちこまれた役所側にも衝撃を与えた。このスキームを描いたのが山田である。

 その平島氏が「すべてを明るみに出す」と息巻いていたさなか、談合の実態に詳しい準大手ゼネコンの幹部がポツリと漏らした。

「平島さんの背後で、『山田慶一』が動いている。話がややこしくなってきた」

 山田氏は、経歴、生年月日、出身地とも不詳。

 過去の事業歴を調べるには、法務局に眠る膨大な閉鎖謄本を丹念にめくる以外にない。しかも、一三年前に遡らなければならない。当時、山田氏は、「ケイヨウエンジニアリング」(本社・港区)なる企業の代表取締役を務めており、同社が二度目の不渡りを出す四カ月前に代表の座を退いている。以来、なぜか世間の表舞台に出ることを避け続けてきた

 山田の経歴はたしかに、表向き不詳である。当人が語らないのみならず、当人に訊くことさえ憚られる、強い威圧感を放っているからである。

 あるいは、誰もが知る「在日」という素姓ゆえに、山田を知る人間に自発的な抑制を強いているのかもしれない。

 だが、警視庁のファイルによれば、山田の経歴については次のように記録されている。

 山田慶一はもちろん、日本でのいわゆる日本人的な〝通名〟であるが、この通名もかつては慶一ではなく、初男で通っていたとされる。

 山田初男は、山口県出身とされる。それも、九州にもっとも近く、関門海峡をのぞむ下関市という。

 山田の学歴もこれまた表向きには、日本大学中退とも、東京理科大中退とも、他称されているが、これは、山田がこれら2つの巨大な学校法人を巻きこんだ巨大な都市計画プロジェクトに参画する折々にどこからともなく囁かれた話であり、事業の展開に有利に働くとみるや、それぞれの局面で都合のいいほうにあえて〝流している〟気配が強い。

 警察当局は、山田の最終学歴を「日本不動産専門学校」と見ている。同名の専門学校は現在も福岡市内に存在するが、山田が幼少期から青年期にかけて下関で過ごしたとすれば、福岡の専門学校に通っていたとしても不思議はない。

 下関と福岡とは、関門海峡という海を挟んではいるが、〝通勤圏〟である。

 この後、山田が警察当局に補足されるのは、「林一家」の構成員としてである。林一家とは聞き慣れないが、それも無理はない。かつて横須賀界隈を拠点として展開した林喜一郎率いる任侠グループで、林は稲川会最高顧問であった。この林一家の若い衆として、山田は初めて警察当局に補足されるのだ。

 この林一家の領袖、林喜一郎が死去した1985年以降、「山田初男」は表から姿を消した。

 そして、いつしか立ち現れたのが「山田慶一」である。山田の朝鮮名は朴慶鎬。おそらく、新しい通名に、「慶」の一文字を入れたのであろう。在日の人間が日本語の通名を創る場合に、当然、本名とのつながりをどこかに残す作法にもかなっている。

 この山田初男が構成員として認知されていた林喜一郎一家だが、林一家は、いわゆる〝経済ヤクザ〟のパイオニアといわれ、単なる任侠道から、現在につながる事業性へシフトする先鞭をつけたことでも知られている。

 山田初男が日本不動産専門学校で身につけた不動産取引の知識が、そうした事業性を追求する林一家で重宝された場面もあったのかもしれない。

 さらに、岡田が突き止めた「ケイヨウエンジニアリング」における山田の役員歴は貴重といえた。山田は現在まで種々に顧問の名刺を持つものの、ある時期以降、法人の役員登記欄には一切、名前を出さないからである。

 山田が〝自分の会社〟といいながら、「経営者」として正式に名前を表すのは、これまでに知られているところでは、このケイヨウエンジニアリングと、そしてもうひとつ、かつて赤坂にあった料亭・鶴仲くらいである。その他は、オーナー然とした振舞いをしながらも、決して役員欄には登場しない。

「山田は不動産には長けているが、株などの数字はまったくわからない」(小池隆一)といわれるそのあたりの偏りも、あるいはそのキャリアに由来しているのではないかとさえ思わせる。

 実際、自身にまつわる不動産の抵当のつけかたと、その転がし方、つまり不動産を、売買を経ずしてカネにする作法には山田は実に長けていて、自信を見せる。

 そして、その人脈は確かで、彩り鮮やかである。

 反面、政官財の人脈は多彩だ。

「越山会の女王」の異名を持つ佐藤昭子女史(政経調査会)、佐藤茂・川崎定徳前社長(故人)、加藤六月・衆議院議員、藤井富雄・公明元代表(東京都議)の長男・練和氏、そして葉山莞児・大成建設副社長等々。

 主催するパーティーもスケールがでかい。毎年暮れになるとホテルの大広間を借り切り、ゼネコン幹部数百人を招待して忘年会を催すという。出席者は互いに顔を見合わせ、「どんな人がよく知らないが、すごい人脈を持つ人らしい」と囁きあう。パーティーの費用の捻出方法も不明である

 だがバブルが崩壊し、自民党による圧倒的な利権政治と土建体質も多少の変革も迫られてきた昨今は、山田自身の経済状況も下降の一途を辿っているようだ。

「かつてのような神通力はもう失われつつある」(山田と20年来の知人)との声もあり、近年は赤坂の元クラブの焼肉屋の奥座敷で粛々と行われているにすぎない。

 しかし、そのスケールは異なれども、互いを知らぬ多彩な人脈こそが自身に対する求心力につながることを知悉し、そのための演出を躊躇なく駆使するあたりは、過去から現在に至るまで一貫している。

 本誌は山田氏の事業を二年以上にわたって追い続けてきた。山田氏が関与したプロジェクトの多くが不良債権と化しており、少なからぬ事業で「疑惑「の存在が囁かれてきたからだ。

 

 今年度末にかけて、銀行の不良債権処理に六兆円の公的資金が投入される。不良債権を作った責任は厳しく問われねばならない。だからこそ、山田氏には事業が頓挫したいきさつを聞きたかった。

 

 すると、思いがけないことに希望がかなった。文化学園の不祥事を取材するさなか、本人から「会ってもいい」と連絡が入ったのだ。この間、電話での取材依頼は優に一〇回を超えていた。山田氏が手掛けた東京・日の出町の山林開発の取材を始めた時から、すでに二年の歳月が経過していた。

 

 11月半ば、本誌記者は山田氏が主宰する団体の事務所におもむいた。千代田区一番町。日本交通の子会社が所有する真新しいビルの八階に山田氏は本拠を構えていた。中では七、八人の中高年の男女が働いているが、仕事の内容ははた目には分からない。

 

「環境計画研究会 山田慶一」

 

 差し出された名刺は、シンプルなものだった。ちなみに「環境計画研究会」は法人登記がされていない私的な集まりである。ただ、三年前に東京都に提出された宅地建物取引業者の資料の中に、次のような記載があった。

 

「本来、林野庁の遊休化した土地の再開発をするために(株)リスト内に設置された勉強会であり、目的を達成した現在も、ゼネコンその他不動産間連業者を集めて勉強会を開催しています」

 

 ちなみに、「リスト」の関山靖人社長は、右翼団体の「輿論社」に勤務していた経歴を持つ実業家で、山田氏の最も緊密なパートナーの一人とされる。リストと環境計画研究会は、同じビルの一室に事務所を構えていたこともある

 山田はしかし、この関山とのトラブルを抱える。これが、記事中でも言及されている東京西部の日の出町の開発を目論んだ、西東京開発をめぐる案件で、このときの反動も大きく影響したのか、ゼネコン大手の青木建設の倒産にも一役買った。西東京開発については岡田が記事中で後述する。

 山田氏の名前は、意外なところでも登場した。大沼淳・文化学園理事長の娘婿だったのだ。だからこそ、山田氏は本誌記者の動向に神経をとがらせていたのだ

 山田が子どもをもうけた〝妻〟はこれまでに都合6人に上ると見られている。

 この数は2007年、山田の実母が亡くなった葬儀の席で、初めて参列者らの目に触れ、明らかになった。

 文化学園理事長の娘は、このうちの1人で、山田はやはり子を1人設けている。だが、戸籍上の理由からか、山田は「これまで一度も結婚歴はない」と親しい者に喧伝している。つまるところ、籍を入れたことはないというのが実態のようだが、大沼の娘婿であった一時期、山田をマークするもうひとつの眼があった。

 当時の写真週刊誌『FOCUS』(新潮社・休刊)編集部である。所属記者やカメラマンは山田を追い、数々の写真を収めている。編集部が山田をマークしたのは、やはり平島栄による談合告発事件が契機だった。地下に潜っていた「初男」が「慶一」としてメディアに注視されるようになったのは、やはり平島栄事件が転機とみていいだろう。

 西松建設の平島栄、そして文化学園理事長の大沼と、常に大きな図体の後ろに身を隠すかのような生き方をしながら、徐々にその防御装置が完全には機能しなくなる。

 それは、関わる事業の大きさというよりはむしろ、自民党による圧倒的で絶対的な支配構造がほころびを見せ始める、時代構造と社会情勢の変化に曝されていたと読むほうが自然なのかもしれない。

 だが、自民党を背景に、山田らは「日本」を掘り起こし続けようとした。そこに、実はもっとも大きな落とし穴が待っていた。そして、その穴の底には亀裂が見えていた……。

 週刊東洋経済の岡田はついにその山田と対面する。

 山田氏に聞きたいことは山ほどあった。まず第一に「平島事件」の真相。次に、三〇〇億円が注ぎ込まれた東京・日の出町の山林開発事業の挫折の軌跡。そして、汐留地区での再開発事業の行方。そして文化学園の一件である。

 

「私の周りをあれこれお調べのようですね。私に何を聞きたいんですか」

 

 山田氏は、一瞬当惑した表情を浮かべながら切り出した。そしてすぐさま苦言を呈した。
「あなた方は以前、私が関係する『西東京開発』に七〇億円の使途不明金があると書きましたね。そんなカネは一銭もありません。きちんと調べてください」

 

「西東京開発」とは、東京・日の出町の山林開発を目的に設立されたプロジェクト会社である。青木建設、熊谷組、ハザマ、五洋建設などゼネコン六社が三〇〇億円近い債務を連帯保証したものの、事業は行き詰まった(本誌『96年10月5日号』参照)。

「そんなはずないでしょう。こちらも関係者を取材しています」

 

 記者が食い下がると、山田氏は興味深い発言をした。

「使途不明金はないのです。(住宅・都市整備公団出身の)元社長が目的外の事業に使ったカネが約三〇億円ありましたがね。原宿で土地建物を買ったんです」

 

 記者は思わず息を呑んだ。

 

「ですが、すでに時効です」

 

 山田氏はこう締めくくった

 山田の口からいみじくも洩れた「時効」という言葉。山田がしばしば表舞台から姿を消す時、民法上の時効がつきまとう。

 それが果して「時効成立」を待つための意図した行為なのかどうかはわからないが、山田が看板を下ろして、あるいは息を潜めている間に、しばしば多くの「時効」が成立し、関係者らは路頭に迷う。

 小池隆一もまた、山田の時効主張を目撃したことがある。関係者が歯ぎしりしたときにはすでに時効は成立し、そして刑法上の訴追を受けることもまずない。そうした関係者らの心理には、山田との〝共益関係を築かされてしまったのではないか〟という一抹にして大きな不安が必ず植え付けられているからである。

「山田の手口には、そうした共犯心理を共有させるところにひとつの特徴がある」(小池)のだ。それを、しかし、商売上手と呼ぶには、いささか無邪気が過ぎるだろう。山田以外の周辺関係者はそれによって、事業、そして企業、そして詰まるところは個人の生活が破綻するなどして、決定的な犠牲を生むからだ。

 山田がしかし、偶然ではなく、「時効」という概念をしっかり認識していることの言質をとった岡田との対峙は続く。

(第17回につづく)

2017年2月16日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第15回「人間不信」

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(承前)「貧乏の極にある」「奈落の底に落ち込むようでした」

 こうした小池の言葉は決して、貸した金を返してもらうためのハッタリや演技ではなかった。山田慶一に繰り返し金を貸し続け、返済の埒が空かないことが判明しても、小池は山田を責め立て、追い込むようなことはしなかった。

 山田にも真摯な部分があるはずだと一縷の望みをつなぎ、自分の生活費をやりくりするため、郷里・新潟県加茂市の土地などを売り払った。

 だが遂に「貧乏の極みに達し」てしまったのだった。手紙の引用を続けよう。

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【著者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】2007年10月、家宅捜索のため、「パシフィックコンサルタンツインターナショナル」のグループ企業が入るビルに入る東京地検の係官ら(撮影 共同通信)
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 「山田には連絡は付きません。」との事でしたので、霧島さんに事情を話したところ、霧島さんは「私が車を運転して羽田飛行場まで迎えに行って、お二人を病院までお届け致しますし、山田には私の方から、ちゃんと報告しますので、必ず責任を持って病院までお届けします。」と言って下さったので、私は霧島さんに甘えてお願いを致しました。

 その日の夕方、貴殿から電話があり、私は霧島さんにお世話になったことを報告し、貴殿に連絡が付かないまま、つまり、貴殿の了解無しに勝手に霧島さんに物事を頼み、車と時間を使わせて拘束してしまったことをお詫び申し上げ、感謝の言葉を貴殿に申し述べました。 

 これに対して貴殿の方からは、この霧島さんを勝手に使ったことを心良く了解する言葉と、病院の費用の工面をもう少し待ってくれという短いお話しがありましたので、私としては、霧島さんとの事が有った話しの後なので「解りました、お待ちしますので宜しくお願い致します。」としか答えられませんでした

 不義理の限りを尽くす相手、その運転手の善意に対して、誠心誠意の謝罪と感謝の言葉を書き連ねる。そんな小池を笑う人もいるだろう。だが、いくら嘲笑されようと、小池とはそんな男なのだ。だからこそ、小池と付き合った企業の総務担当者に、事件後も小池を慕う者がいるのも納得がいく。

 相手を決して不愉快にさせない。そのためには細心の気配りを行う。そんな小池の態度を計略的、作為的と見る者もいる。確かに、様々な経験を通して後天的に獲得した作法かもしれないが、それを死ぬまで貫けば、そうした性格は「天賦」のものだと言えるのではないだろうか。

「深い人間不信」に陥る小池隆一

 小池の記憶は驚くほど細部まで鮮明だ。そして恐ろしいほど几帳面な性格が、それを強化している。山田との一件だけでなく、自身が関わったこと、自身の耳に入ってきた情報は会話も含めて極めて細かく整理し、メモを作成している。

 その積み重ねは、取材を生業とする新聞記者や週刊誌記者、編集者などのノートやメモでさえも敵わないほど、詳細で丁寧なのだ。 

 しかもメモは、やりとりが行われたり、場面を見聞したりした直後にファイリングされている。正確性は極めて高く、録音に等しいレベルだ。

 だからこそ小池の回想は、思い込みや勘違いが非常に少なく、再現性と信憑性が高いように思えるのだ。

 山田に送った手紙にも含まれているが、場面の再現が非常に細かい。なるほど、小池らしい正確性なのだ。だからこそ一層、小池が追い詰められた状況は不憫に思える。自身の記憶を手紙に記すという作業は、辛い内容ならば残酷なものに違いない。

 小池は鈍感ではない。手紙を書くことが、身を切るように辛い記憶を鮮明に蘇らせることを充分に理解してもなお、手紙をしたためようとしたのだ。そこには「哀願」より、強い怒りがあっただろう。静かなる怒りが、遂に小池を動かしたのだ。

 この直筆の内容証明郵便が18枚にも及んでいるという分量にも、そうした「気」が現れているし、書き綴った内容には「覚悟」が満ちている。

 手紙はさらに、切実さを増す。

ところが、その翌日十六日朝、貴殿の方から電話があり「持って来る事になっている人が後から来るから、今日の三時過ぎには連絡します。遅くとも夕方までには連絡しますのでお待ち下さい。」と短い話しで電話が切れました。

 私は正直のところ、助かった、これで何とかなると素直に嬉しかったです。

 ところが、夕方を過ぎても電話が無いので、少々遅くまで何回も何回も私の方から貴殿の携帯電話に連絡をしましたが、何時も留守番電話になっていました。もちろんメッセージは「電話連絡をお待ちしています。」と吹き込んでおきました。

 そして翌二月十七日には、貴殿の方から前日十六日と同じように「昨日は連絡できなくてすみませんでした。今日もう一日待ってて下さい。夕方には連絡しますから、いまチョットお客さんでバタバタしているから」と言って電話が切れました。

 それ以後十八日の土曜日から二十三日の木曜日まで毎日毎日、何回も何回も携帯電話に連絡しても、銀座の事務所に連絡しても、自宅に連絡しても、一切連絡が取れないということで、互いの会話が成り立ちません。

 もちろん貴殿の携帯の留守番電話には「お電話下さい。お待ち致しております。」とメッセージを入れておりますし、二十二日には、「本日、胃癌の手術が終って、現在ICUに入っています。」という事も吹き込んでおります。

 そして、私としては、もう「これは駄目なのかな」という深い人間不信に落ち込んでしまいそうになった、そのとき、二月二十四日金曜日、午前十時三十一分に貴殿の携帯電話から電話があり、「何回も電話を頂いていたことは承知していましたが、電話できなくて済みません。いまお客さんなので三時過ぎにもう一度電話します。」と言って切れました。しかし例によって、それ以後、全く電話は有りません。

 この時、私が思ったことは、何時も「現在バタバタしているから後で電話を架け直すから」とか「いまお客さんなので後程電話します」とか「いま電車の中だから後程もう一度電話するから」等々、色々な場面を口実に何時も電話で話し合う姿勢が全く無く、直ぐに切られてしまうことばかりだなという事です。

 当然、私は貴殿のお仕事の邪魔をしてはイケナイとか、お話しできない状況であれば仕方のない事として、直ちに「それでは後程、電話をお待ちしています」「後程とは何時頃でしょうか?」と確認したり、「ではお待ちしますので夜中でも朝方でも一日二十四時間、何時でも、御都合の良い時にお電話を下さい。ですから必ず下さいョ。」と念を押したり致しますが、それでも、ほとんどお約束した筈の後程の電話はありません。

 しかし、このような、貴殿の方から電話を架けて寄越しながら「いまお客さんだから」とか「いまバタバタしているから」いう科白でサッサと電話を切ってしまい、架けた相手、つまり私に話しをする余裕も時間も与えず、極く短時間で電話を切り上げるという事は、私にとって甚だ失礼な電話であると存じます。日頃から、私は貴殿には「夜中でも朝方でも一日二十四時間、何時でも都合の良い時に、十分に話しができる時に電話を下さい。」と昔から言い続けております。貴殿は私のそうした姿勢・考え方を十分に承知しているにも拘らず、それが実行されることは、ほとんど有りません

実は「詐欺師」への免疫が存在しなかった小池隆一

 山田から希望を繋ぐ言葉だけであしらわれている最中に──さすがに極度の不安が募っていたのだろう──私の携帯に小池からの着信回数が増えた。

 意外に思われるかもしれないが、小池は「明白な虚偽」に対しては免疫に乏しかった。総会屋も、それこそ任侠の世界でも、一般社会と異なる内容かもしれないが、「質実と信頼」で成り立っているのだ。

 約束は守る。義理は果たす。この掟を破った者は信用を失い、世界で〝抹殺〟される。それが小池の前半生を占める世界の作法だった。まして、虚言を弄して相手を窮地に陥れ、それに頬っ被りするなどという人間は企業社会を含め、これまで小池が渡り合ってきた人間の中には皆無に近かった。

 もちろん任侠社会で約束を守らなければ、相応の痛手や報復が待っている。企業社会でも同様のことをすれば、経営者は自らの地位を失う危険性がある。手形が代表的だが、何よりも信用で成り立っている世界なのだ。

 ある種の盲点だったのかもしれない。「後程電話します」「夕方までには用意できます」などと嘘を言い、延々とシラを切ることができる人間。そんな相手と小池は取引を行ったことがなかった。

 鹿児島で山田からの連絡を、ひたすら必死に待ち続けている間、小池は1本の記事を目にする。

在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)は20日、中央常任委員会議長の徐萬述(ソ・マンスル)氏が19日に心不全のため自宅で死去したと発表した。84歳だった。25日午前11時から東京都千代田区富士見2の14の15の朝鮮会館で朝鮮総連葬を行う。葬儀委員長は許宗萬(ホ・ジョンマン)・朝鮮総連中央常任委員会責任副議長。

 ここ数年は病気のため、自宅で療養していたという。韓国慶尚北道出身で、1941年に日本に入国。総連幹部の人事などを扱う旧組織局などで活躍。2001年5月に第1副議長から議長に昇格。小泉純一郎元首相と故金正日(キム・ジョンイル)総書記による2度にわたる日朝首脳会談の実現や「在日本大韓民国民団」(民団)との一時的な和解などに関与した。

 許責任副議長が政策決定などに影響力をふるう一方、徐氏は今年1月、北朝鮮の金永南(キム・ヨンナム)最高人民会議常任委員長からの新年の祝電を受け取るなど、対外的な窓口役を務めてきた。総連内部では、議長席は当面空席になるとの観測が出ている。

 徐氏は、北朝鮮の国会議員にあたる最高人民会議代議員も務めた。日本政府は対北朝鮮制裁の一環として、代議員が北朝鮮に渡航した場合、日本への再入国を認めない措置を取っている。日本政府関係者によれば、徐氏は昨年12月に金正日総書記が死去した際に訪朝を希望したが、制裁措置のため断念したという
(2012年2月20日付朝日新聞デジタル版より)

 新聞記事をベタ記事に至るまで隅から隅まで目を通す小池は、この記事に目を留めた。

 うんともすんとも連絡してこない山田の行方について様々に頭を巡らせていたのだろう。なおも、決定的に山田に〝騙された〟とは思いたくはない。むしろ、すでにそれで済む状況ではない。妻と義理の母はすでに手術のために東京に行き、入院している。当座、その支払いが確実に迫って来ていた。

 もとより、形ばかりは山田にお金の工面を〝哀願〟するかのようにへりくだってはいるが、むしろ山田にこれまで工面してきたのは小池の側だった。しかし、そうした立場を決して振り回さないのが小池の作法である。

 記事を見て、小池はこう考え、私に告げた。

「記事を見て気付いたんだけど、朝鮮総連の最高幹部が亡くなったって出てる。だとすると、山田さんは今、電話をかけたくともかけられない状況にあるんじゃないかと思うんだ。最高幹部が亡くなったんだから、おそらく市ヶ谷の朝鮮総連の本部にぐーっと詰めてるんじゃないかな」

 私は、その時ばかりは小池に無情な応答をしてしまった。恐らく、小池自身が自分でも疑問に思いながら、それでも一縷の望みを繋ぐために話していたのだろう。同じ立場に直面すれば、誰でもそうなるに違いない。だが私は小池の希望を立ち切ろうとした。

「小池さん、それはないと思いますね。確かに彼は在日で、警察当局もその金の流れを追いかけ続けています。仮に在日であり、北系であったとしても、とりわけ警察の眼だけはことごとく嫌って、足のつくことだけは避けて生きてきた人間が、今、公安当局の監視が一層厳重になっているはずの総連本部に出入りして、ましてやそこに詰めているなんていうのはちょっと考えにくいですよ。それに……もし仮に詰めていたとしても、一本の電話もできない状況というのはありうるのでしょうか」

 こう告げると、小池はちょっと間をおいて、「それはそうだな……」と呟いた。

 小池は、私が言ったような「常識的な言葉」を求めているはずもなかった。少しでも長く、自身に希望があるという可能性を、自分で鼓舞したかっただけなのだ。小池の呟きを聞いた瞬間、私は「しまった」と思った。小池を更に落ち込ませてしまう、無神経な言葉を吐いてしまった。申し訳ないことをしたと反省した。

 小池は内容証明に自身で記している通り、昼夜を問わず、電話がかかってくれば、よほどのことが無い限り自分の都合を押してでも、相手の気持ちと言葉に誠実に向き合う。後述するが、2007年暮れにかけて山田が東京地検特捜部の連日の聴取を受け、まもなく〝完落ち〟寸前になりかけたときでさえ、山田を救ったのは、弁護士の内野経一郎ではなく、自身も逮捕という憂き目に遭い、そして特捜部の捜査を受けた経験のある小池であったのかもしれない。

 だからこそ、弁護士である内野でさえ、最後は「小池さん、あんたから山田さんに話をしてやってくれないか」と小池を恃んできたのでもあろう。だが、その時とて、小池は結果的には裏切られていた。

東京地検特捜部VS山田慶一「攻防戦」での「助け船」

 山田は特捜部が睨む、パシコン側から山田にカネが流れたのではないかという点については、毎日、朝晩の電話で心を預けて見せた小池に対してさえ完全に否定してみせ、小池も、山田が「善意の第三者である」と思えばこそ、山田からの相談に、昼夜を問わずに乗ってきた。

 しかし後に、追究の意志を固め、検察側の冒頭陳述書を入手した小池は、山田がパシコン側からカネを受け取っていたことを知る。さらに、それは1回ならず、継続して受け取り続けていたことを知るのだった。

 小池がその「欺瞞」を知るのは、2012年夏のことであり、山田が「電話をする」と言いながら、小池を翻弄し続けていた12年2月からさらに半年後のことであった。

 だが、内容証明をしたためた2月の時点でも、小池のなかには当然、これまでの山田の〝恃み〟に対して自分は精いっぱい応えてきたという感覚は当然にあった。それをあたかも愚弄するかのごとき、不誠実な対応が小池にはさっぱり理解できない。

<私に言わせれば、お客さんが居る時やバタバタしている時に、何故電話をしてくるのでしょうか?しかも私の方に貴殿に大切な、重要なお話しが有ることを承知していながら、さらには、私が貴殿に重要な用件をお伝えしており、その答えを首を長くして待っている私の心情を十分に承知していながら、何時も会話を十分にできない極く極く短時間で電話を切られるのか非常に疑問に思っております。

 しかし一方で、貴殿は時々、私の携帯電話に電話を架けてきて、「携帯電話では、盗聴されると困るので私も私の固定電話から小池さんの固定電話の方へ架け直しますから、何番の方へ架けたらいいでしょうか?」と言ってきて、架け直された固定電話での話しは、なるほど、これは他人様には、とりわけ捜査当局には聞かれたくない話しだなという内容の話しを長々とされて、私に意見を求めたり、判断を求めたり、知恵を絞らせたり、アイディアを出させたりしたことがしばしば有りましたが、貴殿は御自分の大切な話しは時間に関係なく、盗聴を警戒しながら長時間話されることも、ちゃんと実行されてるくせに、他人つまり私の大切な話しは、聞きたくない、結論を出したくない、返事をハッキリと言葉で伝えたくない、放って置けというかの如き電話の対応ではありませんか?

 こうした事は、今回に限らず、ここ三~四年前から特に顕著な貴殿の対応スタイルで、貴殿の電話の際の方程式のようなパターンです。

 それでも私は今日まで貴殿を信じて疑わずに、自分の信念をブレることなく今日まで頑張って参りました>

 12年4月26日付で内容証明郵便で送付されたこの手紙に対して、山田は回答してくることはなかった。たまりかねて電話をかけた小池に山田はこう言い放つ。

「そんなもの、読んでませんよ」

 そして、回答を拒絶したともとれる山田の電話からほどなく、小池のところに珍しい電話が入った。弁護士の内野経一郎だった。小池は不穏なものを感じ取った。

「小池さん、最近はね、暴対法の改正だとか、条例の強化だとかで、暴力団が表の世界からは消えていくように見えるけれども、それは結局、うまくかたちを変えて一般の企業にむしろ潜りこんでいるような状況なんだな」

 小池には、唐突とも思えるその内野の言葉を瞬時に理解した。

「なるほど、小池、おまえもすねに傷があるんだろう。だったらあまり騒がずに静かにしておれよと、そういうことを匂わせているんだなと思いましたよ。内野先生は頭がいいですからね」

 そして、次の言葉が小池のなかに決定的に突き刺さる。

「小池さん、あんたは私のホワイトナイト(救援者)になってくれる人だと思ってたんだけどなあ」

 それを聞いて、小池はこう確信した。

「小池よ、おまえあまり山田に触るなよ、と、まあ、そういうことでしょう」

 しかし、小池の腹は決まっていた。

「世の理というものはね、軽い木の葉が水に浮かんで、重い石は沈んでしまうんですね。でもね、今、私が陥った状況は、何にも悪いことをしていない私という木の葉が沈んで、むしろ私を食い物にした石が浮かんでしまっている状況です。木の葉を沈めて石が浮かび続けて延命するなんていうのは道理に反する。石が浮かんで木の葉が沈むという不条理を私は見過ごしませんよ。たとえ、あの小池が、と言われようとも、私はそれを見過ごしません。そんな不条理がまかり通れば、社会はおかしいことになる」

 石が浮かんで木の葉が沈む――。小池は2012年、自身、70歳になろうとする瞬間、そんな過酷さのなかにいた。

8億円を運んだ男と、中曽根の秘書と、そして千代田区長と

「あの、わたし、8億円を運んだことありますがね、運べるものですね。キャスター付きのバッグに入れて。東京駅前をですね。運べるものですね。重いです。重いですけど、運べるものです」

 並大抵のことでは驚かないであろう、居並ぶ紳士たちも、酔狂の言葉だけとも思えないその情景のリアリティーに、さすがに固唾を呑んだ。

 民主党の樽床伸二を招いての一席が設けられる以前の09年12月、東京・赤坂の焼肉料理屋・牛村の奥の座敷で、参集した紳士らを前に、こんな話が繰り広げられる。かつて名だたる企業のトップを務めた者たちばかりの席だ。しかし、だからこそ、億単位の現金に自ら手を下した経験などないのかもしれない。

「えー、8億ってバッグに入るの?」

 形を変えた追従さながらに、親しげに驚きの声をあげてへりくだってみせる紳士らがいる。

「えー、入ります」

 身振り手振りで、1億はこれくらい、8億はこんなものと、腕を広げてみせる。

 そこに1人の男が現れる。地下1階のその店に入るのにはいささか難儀であったかもしれない。杖をつき、弱った脚を庇っている。

 しかし、そのがっしりした肩幅だけではなく、男がまとう空気は、柔らかくとも、どこか強さに満ちている。

 男は名刺を取り出して、初対面の者たちに名刺を差し出す。決して大仰にではなく、さりげなくスマートに、かつ嫌みなく。そこには、男の自信と、そして長いキャリアが顕れて見える。

『劇団四季 顧問 筑比地康夫』──。

 とっさに、〝8億をキャスターで運んだ男〟が、名刺交換した紳士らに紹介する。

「中曽根さんの元秘書よ」

「浅利慶太の劇団四季」に留めておいては、その男を登場させた〝8億をキャスターで運んだ男〟、山田慶一の面目が立たないとでもいうように、山田はすぐに、元首相、中曽根康弘の名前を上げる。

 あっ、という声にならない声とともに再びツバを吞む紳士らがそこにはいる。

 あの中曽根元総理の側近がいる。会に呼ばれた者がそう思った瞬間、山田を知らぬ者は一瞬にして山田の〝凄さ〟を知る。そんな仕掛けなのかもしれない。他人の信用で自身の信用を創る。そんな手腕で叩き上げ、這い上がってきた人間らしい振舞いであり、作法であろう。

 時折、カウンターの奥から隙なく細く黒いアイラインを引いたママが顕れ、会の主宰者であろう、山田に話しかける。韓国語だ……。

 しかし、山田は一切、そのママとは目を合わせようとしない。それどころか、話しかけているママのほうに顔を傾けようとさえしない。まるで自身の横には誰もいないかのように、である。

 そして、その山田の異変にようやく気付いたのか。ママの口から耳慣れた言葉が洩れた。

「……持って来ましょうか」

 初めて山田は頷いた。山田が朝鮮人であることは、おそらく居並ぶ紳士らで知らぬ者はいないであろう。すでにその名はウェブサイト上にも溢れ、本名である朝鮮名も〝報道〟されている。しかし、本人が在日であることをあえて語らない以上、山田と相対する者たちがそれをあえて言葉にする必要はない。

 その店のママは、かつて山田の〝これ〟だったと、小指を立てて教える者があった。
 
 ママは山田との間では、いつもの朝鮮語で話しかけてしまったのだろう。しかし、それに朝鮮語で応じることは、山田にとっては恥をかかせられるようなものだったのかもしれない。

 ようやく日本語で何事かを話すやいなや、ママが素早くその場を去ったのと同時に、山田が大きな声で参集した一同に再び話しかけた。

「さあ、皆さん、冷めちゃいますよ。そっち、お酒、足りてますか。お肉、とる? なんでも言ってくださいね」

 韓国語で話しかけるママの横でこわばった顔を崩さなかった山田に再び愛想が戻り、相好を崩す。
 
そこへ、店の従業員だろう、10代に見えなくもない若い女性が慣れない手つきで、盆に水割り用の氷を載せて山田の脇に滑り込む。先ほどまで、ママの語りかけを執拗に無視していた山田のもとにあてがわれたかの如き、うら若い女性の登場に、山田は打って変わって舐めるような視線を注いだ。

 そしてこう言った。

「かわいいねえ―」

 首をかしげてもう一言。

「かわいいねえー」

 若い女性もやはり朝鮮の女性だろうか。細面で脚は長く、すらっとしたその姿は、いかにも日本人離れした美しさに見える。若さだけではない、伝統的な美形を醸している。

 盆から渡した氷受けを受け取り、その場を去ろうとする背中を、山田の視線はまだ追っていた。

 女もあまりの直截的な眼差しに照れたのだろうか。カウンターに走り戻ると、カウンターの内側にいた若い男と朝鮮語で二言、三言、笑いながら言葉を交わした。

 その日、山田が常々付き合いがある者を集めて忘年会を開くとの情報を得ていた捜査筋の男女2人は、開け放った座敷から僅かの距離にあるテーブル席で、飛び込み客などほとんどいないであろうその店の一隅に交代に飛び込み、この宴に参集する人間たちの様子を伺っていた。

 山田たちはすっかり出来あがり、そこに自分たちを監視する者がいることにはまったく気付いていないようだった。

 座敷2つをつなげられた宴会は続く。若い従業員にねっとりした視線を送っていたのに気付いたのだろうか。初老の紳士の声が響いた。

「山ちゃんは、奥さんがいっぱいいるからなあー」と、ひときわ親しげな声が上がる。

 東京都千代田区の区長、石川雅巳だ。

(第16回につづく)

2017年2月9日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第14回「小池の手紙」

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(承前)2012年7月、株式会社大都市政策研究センターがある東京都中央区銀座2丁目10番18号の東京都中小企業会館と同じ所在地と、約款もほとんど変更されず、新しい「株式会社大都市政策研究センター」が設立された。

 なぜ、こんな〝トリッキー〟なことが行われたのか。銀行マンが「考えられる可能性」を解説する。

「1つは、例えば旧・大都市センターの代表取締役を辞めさせると、不都合が生じる場合です。具体的には大都市センター名義で借入金があり、代取の金子清志氏が返済の個人保証を行っている、といったケースが考えられます。旧・大都市センターでは金子清志、前川燿男の2人が代取でした。仮に金子氏が代取を辞職すると、前川氏が借入金の個人保証を行わなければなりません。それが嫌で新しい法人を作ったという経緯です」

 この分析が事実だった場合、当然ながら旧・大都市センターは、借金まみれということになる。

 私の取材に対し、大都市センターの代表取締役を務めていた前川──ご存じの通り、現在は練馬区長──は、

「あそこの従業員からクレームが多くてね。金子が支払いばかりをこっちにまわしてくるとかね。それで、仕方なくね、会社を移したんだ」

と答えた。これに銀行マンは着目する。

「もし『支払いばかりが押し付けられて』という話が本当なのであれば、もともと旧・大都市センターは損失の受け皿にするために設立したのかもしれません。負債を押し付けるペーパーカンパニーは実のところ、かなり多数存在しています」

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【著者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】東京都都市整備局『東京都市白書 CITY VIEW TOKYO』より
http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/topics/h28/topi002_01.html
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 損失だけを引き受ける会社を作ることは、違法とは断言できないそうだ。そもそも銀行は捜査権がないため見抜けない。仮に国税の査察が入っても、帳簿上に取引記録が書かれてあれば、脱法行為と認定するのも難しい。こうした理由から、「損失専門会社」の実態を監視することは事実上、不可能なのだという。

「この旧・大都市センターの法人口座を、新・大都市センターが継続して利用している可能性も考えられます。そもそも、旧法人の名称を変更し、同じ所在地で、同じ名称の新法人を登記するというのは異常です。そこまでして表向きは同じ法人であるように見せかける必要があったわけですが、法人口座の問題は動機になり得るでしょう」

 会社の設立は比較的容易だが、法人口座の開設はマネーロンダリングの観点から現在、極めて審査が厳しくなっている。

「新会社の法人口座を作るのは簡単ではないので、旧・大都市センターと同じ名称とせざるを得なかったかもしれません。あるいは、旧センターの口座で運用中の取引が存在するため、どうしても口座だけは新法人でも引き継がなければならなかった可能性も考えられます」

 興味深いことに、2012年8月頃、東京都中小企業会館の大都市センターの事務所では、こんな場面が目撃されている。山田と金子が「社判」をめぐって諍いを展開していたのだ。

「代表印を渡すのならば、代取はおろさせてもらわなければなりません」

 文面だけでも、金子の強い決意が伝わってくる。実際、相当な剣幕だったという証言もある。さすがの山田もたじろいでいたという。「異常」は言い過ぎでも、「異様」な場面なのは間違いない。

「ただし、旧法人の法人口座を、全く別の新法人で使用する場合、銀行は絶対に問題視します。また口座の譲渡が法規に触れる可能性もあります」(同・銀行マン)

 旧・大都市センターの役員たちは一部を除き、この名称変更など「法人移行」の動きをまったく知らされていなかったのだ。

 一連のトリックを見抜いたのは、小池である。それを知った私は、眼光紙背に徹すが如き目力と、追い込まれた時の執念に驚かされた。

「法人番号が変わっている。これは新しい会社だ。企業がこういうことをするときには必ずただならぬ事情がある。そして、悪事がそこには必ずある」

 自らをしゃぶりつくした山田の身辺を、小池は執念で追っていた。

 

「他人の信頼を勝ち取る方法」を知り抜く山田慶一

 
 旧・大都市センターの役員ですら「そもそも会社設立以来、株主総会はおろか、役員会が開かれたこともない」と証言する。これが事実だとすれば、センターの異様さは一層増してくる。

 だが、大都市センターが新旧移行する中で、唯一、業態が一貫している存在がある。それが山田慶一だ。

 山田の机と事務所は、一貫して大都市センター内にあり、多くの企業関係者が呼ばれる場所も、面会する場所も、東京都中小企業会館内のこの事務所だ。

 第13回で、机の上に3億円が積まれた場面を紹介したが、その〝現場〟も、このセンターにある山田の机だった。

『【会員無料】『哀しき総会屋・小池隆一』第13回「千代田&練馬区長」の〝過去〟』
http://www.yellow-journal.jp/series/yj-00000444/

 小池が三菱商事の三桝素生、そして金子、山田との面会に指定されたのも、この東京都中小企業会館の事務所である。

 前川は、自身が代取を務める法人で、まさに社内で行われてきた策動の数々を、まったく知らないと言う。だが、その回答には決して逃げを打つだけだとは思えない信憑性が感じられた。

 実際、山田と金子が大都市センターを舞台に展開させる〝プロジェクト〟の数々は決して、思惑とスキームの全貌が他者に明かされることはないからだ。関係者は、ごく一部の事実しか明かされず、基本的には善意を悪用されて手伝うはめになる。

 もちろん、何もかもが善意を動機としているわけでもない。「山田と金子に寄り添っていれば、きっといいことがあるに違いない」「経済的なリターンも、いつかは得られる」──こんな下心も、もちろんある。

 だが恐ろしいのは、山田は言質を与えることなく、そうした善意と下心を他人から引き出すところだ。そんなマジックに、センターという〝舞台装置〟も、相当な寄与を果たしているのかもしれない。

 センターにおいて、山田はさながら最高の演出家というわけだ。さらに言えば、金子は〝出し物〟の手配師といったところだろう。

 そのひとつが連載第2回で触れた、ベトナムでの発電所入札事業という、三菱商事が関係する〝出し物〟だ。

『【連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第2回「陰謀」──ODA・ベトナム火力発電所建設入札で〝暗躍〟した「伊藤忠」「三菱重工」「三菱商事」の抱えた「あまりにも深い闇」』
http://www.yellow-journal.jp/series/yj-00000248/

 山田は「ファイナンスはぜんぶ任せようと思ってまーす」と言ってはさらなる出資者を募り、あるいは「もうすぐこれでまとまったお金が入って来るので、そこから1億円をお支払いできます」と、さらなる金集めに励むのだ。

 だが、これだけなら、世の中に多数転がっている、月並みな「事業家」の──その別名は詐欺師だが──1人に過ぎない。

 山田たちが凡庸ではない点は、検察、警察、国税といった、捜査当局の介入をすんでのところで回避し、組織崩壊を防いできたところにある。彼らを支えたのは自民党一党支配という社会体制であり、更に田中角栄「越山会の女王」佐藤昭の影があった。

 とはいえ、これだけでも、彼らの評価には足りない。決定的な凄みは、後ろ盾が時代の移り変りで衰退していったにもかかわらず、現在に至るまで他人の信頼を勝ち取っているという点にある。信頼される方法を山田は知り抜いている。1番重要なのは誰もが理解しているように「絶対的な政治力」だが、2番を把握している者は少ない。それは「公的な存在」というカードだ。

 実際、山田にとって最大の後ろ盾だった佐藤昭は、大都市センターを設立してほどなく、2010年に鬼籍に入る。衰退どころか、消滅してしまったのだ。

 1番だけの男なら、同じ道を辿っただろう。しかし、山田には2番も知り抜いていた。

 だからこそ「都庁OBを受け入れる会社」との目的を掲げ、東京都人事の天皇と呼ばれた小豆畑を納得させることができたのだ。加えて代表取締役に元知事本局長の前川を据えさせ、いわば〝山田劇団〟の信頼性を確保した。

 東京都という「公的な存在」の価値は重い。日本では単なる地方自治体のレベルに留まらない。予算規模はアジア諸国の国家予算を遥かに凌ぎ、オーストラリアと同規模というレベルに達する。

 東京都庁の元知事本局長とは「一国の主」に匹敵し、東京都中小企業会館とは「城」に等しいだろう。山田慶一は「一国一城の主」を神輿に担ぐことで、自身に関する青天井の信頼性を手に入れたわけだ。

 ここにおいて「大都市政策研究センター」という、株式会社というよりは、むしろシンクタンクを連想させる社名が効いてくる。誰もが「よい方向に」誤解してくれるのだ。

 前川は株式会社の代表取締役だったにもかかわらず、名刺には「理事長」と記されていた。当然ながら、公益法人か財団法人という印象の強い肩書だ。そして金子は「理事」の名刺を持っていた。

 その大都市センターに積まれる3億円もの札束は、果たしてどこから来て、どこへ消えていったのか――前川は自身が知る限り、大都市センター名義で受注したのは、「杉並区からの調査委託事業だけしかない」という。

 区が発注する委託事業の予算規模は、もっと常識的な額だ。3億円もの額が机の上に無造作に積まれうるはずもない。というより、そもそも億単位の現金を積むという状況は、金よりも重要な思惑があることを示唆している。

 

「戦中生まれ世代」に属する小池隆一と「団塊の世代」の違い

 ヨーロッパ旅行から帰国直後、小池が口惜しそうに電話をしてきたことがあった。聞けば、鹿児島駅前の大型スーパー・ダイエーで、小池の長男が事故に遭ったという。

 エスカレーターの上で転落し、意識を失ったそうだ。

 一緒にいた弟が助けたが、上下の歯をひどくぶつけたらしく、ボロボロに折れてしまった。更に心肺停止状態に陥ったのだが、たまたま居合わせた女性が人工呼吸で蘇生させてくれた。長男が一命を取り留めて安堵すると同時に、小池には忸怩たる想いが沸き上がった。

「その時、ダイエーは何もしなかったんですよ。文句の一つも言いたいけれど、そうすると『あの小池が……』と非難される。でも、これも報いです。『大難を小難に、小難を無難に』という言葉があって、その通りだな、と考えました」

 元総会屋と知らぬ者が相対していれば、小池を哲学者と考える人間もいるのではないだろうか。それほど小池はストイックというか、求道者のような雰囲気を滲みだしている。

 それは見かけだけの話ではない。語る内容も語彙も実に多岐にわたる。引退した者にありがちな自慢話どころか、思い出話さえ滅多なことでは口にしない。

 小池は昭和18(1943)年の生れだ。第1次ベビーブームは昭和22〜24(47〜49)のため、いわゆる「団塊の世代」よりは数年、年長だ。世代論的には極めて似通っていても、小池たちは「戦中」に出生し、ベビーブーマーは「戦後」生まれという違いは大きいだろう。

 かつて昭和16(1941)年から、21(46)年までに生まれた世代を「戦中生まれ世代」と呼ぶ動きもあったようだ。初耳の人が多いはずで、定着しなかったことが簡単に分かる。

 とはいえ、第2次ベビーブーマー世代に属する私からすると、この「戦中生まれ世代」のキーワードは「忍耐」と「体験の捉え方」だと考える。つまり小池のように「戦中」を知る者と、「戦後」しか知らぬ者を比較すれば、危機に直面した時の粘りが全く異なるように思えるのだ。

 例えば日本国憲法の公布は昭和21(46)年だから小池は生まれているが、団塊の世代は誕生していない。朝鮮戦争は昭和25(50)年で小池は7歳だが、ベビーブーマーは3〜1歳ということになる。

 確かに団塊の世代も、戦争の記憶を鮮明に引き継いではいる。とはいえ、戦後の混乱期に数歳の差は大きい。何より小池たちの親は、空襲の中で乳呑み児を育てたのだ。一応は平和の中で養育した団塊の世代の親たちと最も違うところだろう。

 やはり団塊の世代は、終戦直後の空気を肌で知るには若すぎる。物心つき、多感な青年期に差し掛かった頃には昭和39(64)年の東京オリンピックを迎えた。経済白書が『もはや戦後ではない』と記述したのは昭和31(56)年のことだ。

 つまり第1次=団塊の世代と、第2次=団塊ジュニアの両ベビーブーマーは、いずれも戦後経験しかないというところは同じだ。戦中を知る者からすれば「いい時代しか知らない」世代とも言える。

 更に第1次世代は高度経済成長の波を受け、バブルという再び訪れることのない波にも乗った。その恩恵を受けて第2次ベビーブーマーも成長してきた。

 その団塊の世代が大量に退職したとき、各地の公民館は彼らで溢れ、その在勤中の苦労話こそが、あちらこちらで、憚られることない直截的な言葉で華を咲かせることになる。

 だが、小池もそうだが、戦前生まれの人間からは、問われるきっかけでもなければ、いかに自身が苦労したかという話は自然に発生しない。空襲にしても、戦中のひもじさにしても、そうした抗い得ない宿命としての体験が、死をも間近に感じさせる体験が、避けて通ることのできない局面が人生にはありうるのだということを肌で知っているからなのではないか。

 優劣を問うものではない。ただ、団塊世代の苦労と、戦前生まれのそれとでは、死線を彷徨うという決定的な質の断絶ではないのかと思えた。

 そんな時代背景が、小池隆一という人間の背中の片隅にもやはり漂っているような気がした。だからこそ、小池が2012年8月に送った手紙は、他の誰でもない、小池本人がこれまでにない屈辱に耐えて書きしたためたに違いないと思わせるものがあった。

 

経済的な破綻に追い詰められていく小池隆一

 
これから小池の手紙を紹介する。明確な誤字は修正したほか、文中には私の註釈が存在する。

被通知人 山田慶一 殿

 

 

 いつも貴殿とは東京でお会いしておりましたが、私はとうとう貧乏の極に達し、飛行機代もホテル代も無い状態で、もはや気軽に東京へ行けなくなりました。止むを得ず、用件は電話による会話がほとんどとなってしまいましたが、平成二十四年の新年を迎えた一月以降、貴殿とは会話らしい会話はほとんど行っておりません。

 

 

 思い起こして、振り返ってみても、真面目な、誠実な、真剣な会話は、ここ二~三年間を考えてみても、全く無かったように考えております。

 

 今回、この通知書を出さざるを得なくなったことにしても、この一週間というもの毎日毎日、何回も何回も貴殿の携帯電話に連絡をしても、何時も何時も留守番電話になっており、必ず「お電話を下さい」とメッセージを入れているにも拘らず、全く連絡が無い日が続いておりました。

 

 もちろん貴殿の銀座の事務所の方にも電話を入れましたが、女性事務員さんの対応は「私も連絡をしているのですが、全く連絡がつきません。連絡がつきしだい小池さんの方へ電話を入れさせます。」というお返事が十六日から二十三日までの六日間も続いておりました。

 

 そこで私は女性事務員さんに「こんなに事務所の方に連絡が来ない、事務所の方から連絡を入れても連絡が取れない等という事は、およそ有り得ない、考えられない話しでしょう。何か事故とか病気とか警察にでも捕っているかでなければ有り得ない事でしょう。とにかく電話を頂きたい事をお伝えしてください」と言って電話を切るより仕方ありませんでした。

 

 しかし、考えてみれば、こうして連絡が取れない状況は、この六日間に限らず、その以前からの事ではありました。

 小池【註:筆者判断で、小池氏妻の名前を削除】のお母さんが、胃癌と肺癌の二カ所が発見されて、鹿児島の方の国立南九州病院で色々と検査をしたが肺の方は難しいような印象のお話しを医師がされるので、やはり、もっと医療レベルの高い東京の病院で手術をやって貰わなければならないことになったので、どうしても入院・治療費及び【同】さんが付き添いのために料金の安いホテルに滞在しなければならないので、その費用等を見積ると、かなりの金額になるので、その費用の方を何とかして欲しい」と電話でお願いをしたことから貴殿との電話連絡が途絶えがちになりました

 小池はすでに、この山田にずいぶんなお金を貸しこんでいた。

 だが、一向に返済されないどころか、さらには貸し込んでいるお金を返してもらうためにさらに貸し込まなければならない展開に持ち込まれ、ついに、この「通知書」で悲痛な心境をさらけ出す。

 小池にすれば、何とか、こちらの心中を、その切迫した心中を相手に理解してほしかったに違いない。

 この通知書の発送後、小池は幾度となく私の携帯電話を鳴らし、この山田が現在、どのような状況にあるのかについて自身の推論を話して聞かせたが、小池はこの時点でもなおも、この男の誠実な対応を心のどこかで一縷の望みをつないでいた。

 だが、小池が相対する山田という男は非情だった。手紙の引用を続ける。

 

 二月の始めに入院・治療費でお金が必用になったことの説明と同時に平成二十一年三月三十一日に小池【同】さん自身が貴殿の口座に振り込み送金をして緊急に融資をしたお金壱阡萬円を返金して欲しいという催告を込めた電話を私が貴殿に入れた時の会話では、貴殿は「何とかしなければならないですネ」「どの位の費用がかかるのですか?」と私に質問をしてきました。

 

 私は「さあー。どの位かかるのでしょうか?胃癌の手術と肺癌の手術を二度手術するわけですが一回で二度の手術をするわけにはいかないそうです。まず、どちらかの手術を先に行って、様子を見たうえで、もう一方の方の手術をすることになると聞いております。

 そのうえ、鹿児島から出たことの無い八十五歳のお婆ちゃんで、鹿児島弁が凄いので、一般病棟では過ごせないと思うので、個室に入って貰わないといけないのですが、その個室が最低料金の部屋で一日二万九千五百円、約三万円なのだそうですが、それは絶えず満室で、なかなか空かないのだそうです。

 空き待ち順も数多くエントリーしているとも聞いております。その上のクラスの個室だと一日四万円台で、その上はいくらでも高い部屋が有るようです。しかも実際に入院をして検査をして、手術をしてみないと、一カ月で退院できるのか? 二カ月で退院できるのか? あるいは三カ月も四カ月もかかるものなのか私には解りません。

 ですから費用はいくらかかるかと聞かれても、現在の段階では、ちょっと判りませんが」と説明をしている話しの途中で、貴殿の方から「病気の事や個室の事を話しされても、私には解らないから、もう解りました。何とかしないといけないですネ。二~三日内に連絡します」と言って電話を切られましたので、貴殿の方から連絡が来るものと思って、電話をお待ち致しておりましたが、貴殿が言われた二~三日が過ぎても、四~五日が過ぎても電話が来ないので、私の方から電話を入れても入れても連絡がつかない日が続いておりました。

 

 そして、それこそ、たまたまつながった時には「いまバタバタしているので後程電話します」とか「いまお客さんがいるので後で架け直します」とかと言って切られてしまいます。

 しかし、その後では、ほとんどのケースが電話はかかって来ません。何と不誠実な対応なんだろう。何と無責任な対応なんだろうと率直に思いました。

 

 そんな日々が二月の始めから続いているうちに二月十五日の入院日を迎えてしまいました。おばあちゃんと【同】さんは二人で飛行機で東京へ発ちました。十分なお金の手配ができていない状況ではありますが、二人に不安な思いをさせるわけにはいかないので、「お金の手配はできているので数日中には届けることができるから安心して下さい」と、【同】さんには言い聞かせて送り出しました。

 

 ところが、その日二月十五日、羽田空港に到着した【同】さんから電話が有り、「いま羽田空港に居るんだけれど、お婆ちゃんが疲れたのか少々具合が悪くなって、椅子で休んでいる状態なんだけど、お金が無いのでタクシーには乗れない。モノレールや京浜急行電車では具合が悪化したら困るので、リムジンバスが病院の近くのホテルに行く便があるので、それに乗ってホテルまで行って、ホテルからならタクシーが安く済むので、リムジンバスの切符を買ったところです。ところが、そのリムジンの出発時刻まで二時間以上待たなければならない状況で、ほとほと困っている。

 

 しかも病院の方には昼までには到着する予定だと先生にも言っているけれど、これでは大幅に遅くなってしまうので、病院の方に連絡して欲しい」という電話が来たので、私はビックリ仰天しました。

 

 飛行機は順調に午前11時頃には到着しているのに、午後1時過ぎに電話がきて、まだ飛行場に居て、さらにはタクシー代が無いのでリムジンバスを待っている状況で、そのリムジンバスの発車時刻が、これから2時間以上も後になるけど、それを待っているということですので、私が貧乏の極にあるが故に、ここまで苦労をさせてしまうのか、と、本当に情けない気持ちになり気分が奈落の底に落ち込むようでした。

 

 しかし、困り果てている二人を、そのままにするわけにはいかないので、貴殿携帯、銀座の事務所に連絡を取っても、全く取れないので困り果てましたが、このような午後を過ぎているけれど、おられるわけは無いのだがと思い乍らも、御自宅の方に電話を入れてみたところ、神様のお手配なのでしょうか?偶然にも霧島さんが電話を取り上げたのです

 霧島とは、山田が個人で雇っている運転手で、山田は周囲にはこの霧島は、鹿児島の霧島神宮の宮司の直系であると紹介し続けていたが、霧島神宮の宮司家は「霧島家」ではない。

 小さな嘘の積み重ねは大きな嘘になり、それを信じる人間は、最後には〝大きく〟裏切られることになる。それが信頼関係の破綻に留まるのならば、それはまだ傷が浅いのかもしれない。小池は山田によって、経済的な破綻に追い込まれつつあった。

(第15回につづく)

2017年1月23日

千代田区長選で「石川雅己区長」の「黒い人脈」再噴出

tiyoda2017-01-22 21.08.08

 弊誌はジャーナリストの田中広美氏の『哀しき総会屋・小池隆一』を連載している。

 小池隆一氏といえば、あの「総会屋利益供与事件」(1997年)の主役である。野村証券、第一勧業銀行という一流企業から引き出したカネは「100億以上」とも「270億円」とも言われる。

 そして田中氏の連載は、都庁・都議会の〝闇〟にも焦点を合わせている。興味のある方は、ぜひ第1回を拝読頂きたい。

『【初回完全無料】『哀しき総会屋・小池隆一』第1回「漂着」』
http://www.yellow-journal.jp/series/yj-00000232/

 この連載で、石川雅己区長も既に登場している。そのため弊誌は千代田区長選が近付いてきたため、田中氏に特別原稿を依頼した。田中氏の厚い取材から紡がれる「千代田区長選の真相」は、多くの人が驚くに違いない。

 マスコミの小池VS内田という図式が馬鹿らしく思えるほど、様々な魑魅魍魎が跋扈しており、千代田区長も全くの「ブラック政治家」なのだから。

■田中広美氏・特別原稿

 小池百合子・東京都知事VS自民党守旧派の代理戦争となっている千代田区長選。だが都知事にとって、現職の石川雅己・区長との〝共闘〟は本意ではなく、実は頭を痛めている。

 石川区長は2017年1月8日、5選を目指して無所属で立候補することと、小池知事の支援を受けることを明らかにした。

 自ら都庁へ出向き、小池知事の応援を取りつけたと言い、知事との2ショットが映るポスターを持参。知事について「応援のアクションを期待しているし、多分、応援してもらえると思う」とアピールした。

 だが、前々回まで支援を受けていた内田茂・都議について記者団が問うと、その口は相当に重かった。「内田氏と議論したことはないが、既成概念、既得権という意味で楔を打たれるのは嫌なのかも分かりません」と全面的な批判は差し控えた。

 こうしてマスコミが「代理戦争」と夢中で報じるわけだが、石川区長も決してクリーンな政治家ではない。都庁担当記者は知って無視したか、あるいは本当に把握できなかったのか、2016年の都知事選に前後して、千代田区庁舎(東京都千代田区九段南)に右翼が街宣をかけたことは全く報じられていない。

 右翼がやり玉に挙げたのは、石川区長の「黒い人脈」だ。
■――――――――――――――――――――
【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【記事の文字数】2700字
【写真】千代田区公式サイト『2月5日は千代田区長選挙の投票日です』より
https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kurashi/senkyo/kucho/tohyobi.html
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2016年10月27日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第11回「騙された小池」

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 最後の総会屋・小池隆一は、コンサルタントを称する山田慶一に騙された。

 その事実だけでも驚愕だが、詐欺を仕掛けたタイミングが常軌を逸している。山田は小池から金を借りており、その返済についての覚書を作成しているその最中、更に山田は小池に金の無心を行ったのだ。

 山田は小池に「麹町五丁目計画」と抱きあわせて「渋谷区代々木三丁目計画」なるものを持ち出したことがあった。都内の開発プロジェクトを軒並み舐めつくさんばかりの勢いだが、借りた金の返済について覚書を交わそうという弁護士事務所。その廊下で山田は小池に対して、以下のような説明を行った。

■――――――――――――――――――――
【著者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】文化学園大学公式サイト「学内施設」より
http://bwu.bunka.ac.jp/campus-life/facility.php
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「文化学園大学の大沼理事長の税金を自分が支払ってあげないといけないのだが、それが今日明日中でないと困ったことになる。もし、これができないと、大沼理事長、文化学園大学の方から、この開発プロジェクトから外されてしまうかも知れない。そうなると、こうして覚書を交わしても支払いが難しくなるかもしれない」

 山田の説明によると「麹町五丁目計画」は約3000億円という大規模開発プロジェクトであり、3〜5%のコンサルタント料を得る契約書は交わしているという。しかも既に1億5000万円の着手金は貰っており、このプロジェクトが潰れることはない。

 3000億円の3%なら90億円、5%では150億円。早ければ9月末、遅くとも暮れまでには動く。一度に全額は入らないだろうが、進捗状況に応じて、それなりのコンサルタント料が手に入る……。そして山田は更に言葉を継いでいく。

「今月締結する覚書の支払いは間違いなく、問題なく返済、支払いできるのだけれど、こっちの代々木三丁目の方は分かるでしょう……? お義父さんの税金を支払ってやるぐらいのサービスをしておかないと、山田は何も出来ない奴だとなると、この文化学園大学の所有している土地と、大蔵省の所有する土地をあわせて開発する案件から外されれば、いろんなゼネコンからの信用もなくなりかねないので……」

 繰り返すが、自身の借金を返済する覚書をまとめる場所で、山田は小池に懇願したのだ。

「何とか1000万円を今日明日中に都合してもらえませんか? 一応返済は1、2か月後ということでお願いします」

 法律事務所の廊下は、実に静謐な空間だった。山田は小声で訴える。小池が仰天したのは無理もない。覚書を作りに来たら、カネの無心をされるなど、さすがに経験したこともない。しかも山田には既に多額のカネを貸していたのだ。

 2001年2月14日付で5000万円。同年10月12日付で2000万円。合計7000万円にのぼる資金援助に対して、山田の返済は未だに1銭もなかった。ようやく支払いの覚書を結ぼうという場所で、更に1000万円の要求である。

 後に分かったことだが、こうしたプロジェクトに関して山田が「コンサル契約を結んでいる」と説明していたアーバンコーポレーションが東京地裁に民事再生を申請して破綻したのは2008年8月。小池が山田と覚書を結んだのは2009年3月31日付けだ。

 つまり既に潰れていたアーバン社と「麹町五丁目計画」に関してコンサル料を得られるとし、プロジェクトは間もなく始まるのだと強弁していたのだ。恐るべき厚顔だが、小池が山田に貸し付けた7000万円は自分の金ではなかった。別に調達してくれた人物がいたのだが、その人物は山田のことを疑っていた。

「山田さんに貸した7000万円は東郷神社のプロジェクト開発資金に使うという目的だったはずなのに、使われた様子がまったくないのはおかしい。山田さんは大成建設に預けているというが、ならば大成建設の伊藤専務から返してもらって、私が貸した金は返してほしい」

 つまり小池は責められていたのだ。

「伊藤専務から返してもらって、こちらに返済してくれと話したら、預けている伊藤専務が病気で入院したので、今は話ができないのでちょっと待って下さいと言われたよ」

 当然ながら、調達者の疑念は膨らむ一方だ。

「入院話以降は、色々なプロジェクト、開発案件、工事受注話が、報告としてというか、言い訳としてというか、とにかく借りている金は返すから、ちょっと待ってほしいという話にしかならない。このプロジェクトが、この案件がまとまれば金が入る、それまで待ってほしいと言うんだが、真実なのか嘘なのか、全く判断がつかない」

 山田は新たな借り入れを行うたび、あるいは返済を迫られるたび、今関わっていると言うプロジェクトについての書類をちらちらと見せはするものの、いざ関係者が具体的に検討しようとすると、守秘義務を楯にコピーすることを拒絶するのだった。

 それでも、と小池は考えた。山田は確かに文化学園大学、旧文化服装学園の理事長たる大沼淳の娘との間に子供をもうけている。山田にとって理事長は岳父だ。身内までも欺罔することはないだろう……。

 小池は、そんな人間関係を顧慮したうえで、大沼が経営する大学所有地の開発案件ならば、山田が多くを語りながらも、1つとして実現しなかった他の案件とは異なり、それは現実化しうるのだろうと考えた。小池は再び、山田の請願に応じた。すぐに手配した。振込記録のみが手元に残っている。やはり2009年3月31日、弁護士事務所の廊下で懇請されたその日、である。

<三井住友銀行麹町支店 環境計画研究会 山田慶一 普通口座0232013>

 もちろん現在まで、小池のもとに山田から返済された金は1円1銭さえない。

「まったく義理も人情も正義も道理もない。これでは木の葉が沈んで、石が浮いている状態で、道理が通りません」

 小池は嘆いた。それにしても山田という男は誰であっても相手を籠絡し、最後は馬鹿にしたように放り捨てる。小池が騙された一部始終も正直なところ、現実のものだと受け止めるのはかなり難しい。とりわけ借入金の返済の根拠として、既に破綻していた会社の名前を持ち出したり、そのコンサルタント案件やプロジェクトがすぐに動き出すと明言したりした上で、更に借金を頼んでくるのだ。常人の発想は越えてしまっているし、詐欺師としても珍しい類型だろう。

 小池は「紛れもない詐欺であり、詐欺以外ではない」と憤る。これまで小池の人生で企業社会はもちろん、垣間見た任侠世界の人間との付き合いでも、ここまで明々白々な欺きに直面したことはなかった。それを知ってか知らずか、山田は小池と知人らを、まさに手玉に取ったのである。

 なお、山田が口にした「東郷神社の開発プロジェクト」とは東京・原宿の東郷神社周辺の開発計画を指すわけだが、そこを山田が取り仕切ったという形跡はない。神社の開発は既に工事も終わり、プロジェクトと称するものの名残など全くない。極めて綺麗なのだ。確かに有象無象の人間たちが出入りを重ね、警視庁も動向を注視した時期もあったが、結局何も起きなかったのだ。

 これまでにも他人の看板で自身の信用を創ることに長けた山田が、その人生の中で「日本における日本人」としての信頼を得ることに成功したのが、小池を騙した文化服装学院という看板だったのは確かだろう。

 山田慶一はまさに、日本最大規模の私学といえる文化服装学院=文化学園大学という「力」を、理事長の娘との間に婚姻関係を結んだことで、手に入れることができた。小池が「大沼理事長のために使う目的で金を貸してくれというからには、絶対に不義理しないだろう」と信じたのも無理はなかった。

 しかしながら山田が小声で無心した額は「1000万円」である。山田は「大沼理事長の税金立て替え費用」と説明したが、それは限りなく怪しい。そもそも高額納税者であるはずの文化服装学園の理事長の税金が「1000万円」で済むはずもない。仮に1000万円だったとしても、その支払いに滞る状況は想像しにくい。

 1人の老夫が書き送った次の内容証明郵便を読み、複雑な心境になった。「お言付け」と題されたそこに記されているのは、その人物が至った現在の心労に加え、その内容が再び孕む現実の仕組みに唖然とさせられたからでもあった。

<『お言付け』
 糸山英太郎氏が学長であり、経営者であった神奈川県の湘南工科大学の売却依頼と、合わせて糸山英太郎氏が買い占めていた大量の日本航空の株式の売却依頼という2つの相談・解決を、湘南工科大学と北海道の東日本学園大学という共に糸山英太郎氏が経営をしていた2つの大学の理事を務めていた私(石井孝之)と故小林秀男元理事の二人が、糸山英太郎氏から相談・依頼を受けたのが平成十二年の四月~五月だったかと記憶していいます。

 糸山英太郎氏から2つの売却の依頼を受け、買い手を探すために極秘で小池隆一さんに相談したところ、小池さんより貴殿(山田慶一)を紹介されました。

 山田慶一氏については、平成九年三月十九日発行の写真週刊誌フォーカスの8ページから9ページの談合の世界で「天皇」とも呼ばれていた平島栄の公正取引委員会への談合資料持ち込み暴露事件での暗躍話の噂を聞いておりましたし、平成十年十二月五日号の週刊東洋経済の五四ページから五六ページの「文化服装学院」を揺るがす大沼一族の〝利権ビジネス〟。五七ページから五九ページの建設業界が瞠目する「山田慶一」という男という記事を読んで、名前だけは聞いていた人物でしたが、実際に小池さんの紹介でお会いしたのは初めてでございました。

 小池さんの仲介で、山田慶一氏に湘南工科大学の売却と大量の日本航空株式会社の株式(確か七千万株程だったかと記憶しておりますが)の売却依頼・買い主探しの依頼を相談いたしました。

 その結果、山田慶一氏の義父である大沼淳氏を文化大学の理事長室にお訪ね致しました。

 山田慶一氏と大沼淳文化大学理事長と私石井孝之氏と小林秀男と四人で相談を致しました。

 その結果の一つとして、東京第一法律事務所の内野経一郎弁護士が湘南工科大学の理事に就任し(平成十二年五月二十日就任~任期途中の平成十三年五月二十九日退任)、その立場で、理事会にも出席し、帳簿等々も精査し、どのような手法・どのような条件で売買することができるものか検討することになりました。

 そうした会合の際の山田慶一氏の大沼淳氏に対する言動が「おとうさん」「おとうさん」と親密な親子関係を感じさせ、私はすっかり山田慶一氏を信用してしまいました>

 糸山英太郎は2012年、この湘南工科大学の理事長に就任している。また、文中の「文化大学」とは文化学園大学である。

 山田が政界に対する力と信用を得たのは、前述のように、佐藤昭の〝門番〟よろしく振る舞う中でだったが、ここにも記されるように、名門の文化服装学園の創設者である大沼淳を岳父としたことが、〝日本人〟としての大きな信頼を纏うようになっていく。

 あの文化服装学院の大沼淳を「おとうさん」と呼ぶことで、そこに大きな信頼の基礎を築いたのであった。この大沼淳という存在は、大沼本人の意図を別としても、佐藤昭同様に、この稀代のロビイストの日本社会での信頼を決定的に〝輔弼〟する、あるいは車の両輪の片軸を担うものであった。

<私は長年、新宿で事業を営み、住居も構えておりましたので、文化服装学園・文化大学のことは十分に承知しており、大沼理事長を陰ながら尊敬いたしておりましたから、その大沼理事長の娘婿であるということですから、すっかり信用してしまいました。

 結論から言えば、この湘南工科大学の売買話も日本航空の株式の大量売買話も不調に終わりました。

 しかし、その後、私(石井孝之)は小池さんを通じて山田慶一氏から融資を申し込まれましたが、私(石井孝之)は小池さんにお貸しするから、小池さんより山田慶一氏に貸してやって下さい。

 そして、山田慶一氏が小池さんに返済を実行した時、それをそっくり私(石井孝之)に返済してくれれば結構です。という条件で平成十三年二月四日金五千万円を小池さんと私(石井孝之)の二人で、山田慶一氏の千代田区一番町に所在する日交一番町ビル八階の環境計画研究会という山田慶一氏の事務所に現金五千万円をお届けに行きました。

 お金を貸す方の私が借りる方の山田慶一氏の事務所に現金をお届けするのも変な話で、本来であれば山田慶一氏が私(石井孝之)の事務所の方へ借用書を持って借りに来るべきであろうと思いましたが、小池さんの顔が立つのであればと、小池さんと一緒に出向いたしだいでございます。

 その際の山田慶一氏からの説明では、渋谷区原宿の「東郷神社の案件で、プロジェクト関係者等に対する前捌き金として、使用するもので」「大成建設の伊藤専務からの依頼で協力するものだ」「この開発プロジェクトの利益は大きいので、小池さんには十分な配当をしますので、石井さんと二人で分けて下さい」などと、その融資金の使途の説明を受けました。

 その後、追加の融資を申し込まれ、平成十三年十月十二日に金二千万円を前回同様山田慶一氏の事務所に届けました。

 しかし、結果的には、この東郷神社の案件について、山田慶一氏は何も役割を果たした様子が無く、結局は騙されたものと考えております。

 融資金合計金七千万円の返済を再三再四、山田慶一氏に催促をし、その都度、私(石井孝之)の事務所に来られて次から次へと開発プロジェクトの案件を説明し「この案件で報酬が入るので、必ず返済するから、もう少し待って欲しい」とかコンサルタント契約を締結したとか、業務委託契約を結んだ等々と十指に余り、十五指も二十指もの説明を受けましたが、結局未だに一銭の返済も実行されておりません。

 小池さんの事はもとより、山田慶一氏が文化大学理事長の大沼淳氏を義父にもち信頼できると思い、お付き合いをしましたが、段々と、山田慶一氏に対し不信感が募り、私(石井孝之)の社員の榎本恵美子と一緒に「麹町五丁目計画地」と「渋谷区代々木三丁目計画地」を何回も見に行った事を小池さんに話したところ、小池さんは、それを山田慶一氏に話し、山田慶一氏は怒髪天を突く勢いで「そのような事をしたら文化大学の方に知られ計画は中止になってしまうので二度と、調査する等ということは一切やめて欲しい」と小池さんの方に電話で申し入れがあったと聞き、今でも全く理解できません>

 山田はこれまでも、自身が小耳にはさんだ数多くの都内のプロジェクトでも「自分がやっている」と吹聴していた。

 しかし誰もが「高度に閉じられた世界での、山田ならではの話」と信じ、遠慮し、山田が吹聴する話を深く検証することをためらってきた。あるいは、山田の話を検証できる人間は決して山田に近づかないか、山田の存在感は一定程度認めつつも、敬して遠ざけ、眺めているに過ぎなかった。

 小池や、この「お言付け」の石井孝之など、他人の尊厳と自身の尊厳に関して、いささか真面目すぎる人間ほど、山田は得意としてきたきらいがある。世の中には自らを大きく見せるため、こけおどしの大きな事業話を振り回す輩は、起業家にも企業内にも溢れているが、やはり山田の特異なところは必ずといっていいほど、そうした与太話をネタにして相手からカネを引っ張ってしまうのだ。

 貸した方の〝弱点〟としては、もちろん人間関係の義理がある。しかしバブル崩壊後、90年代以降の日本社会では銀行や証券の利回りが限りなくゼロに近い。山田が言うように「プロジェクトが成功すれば、それなりの色を付けて貸した金が返ってくる」のであれば、それは決して悪い話ではない。いや、それどころか、大いに魅力ある話に映ってしまったとしてもおかしくはない。そこに山田は付け込むのだ。

<私(石井孝之)の融資した金七千万円は何に使ったか?という問いに対して、山田慶一氏は「大成建設の伊藤専務に三億円を預けたままになっている。金七千万円は、その中に含まれています」という答えをするので、「それでは伊藤専務に話して、金七千万円だけでも返して貰って、私(石井孝之)に返済して欲しい」と話すと、その後、伊藤専務は病気入院で亡くなった事が分かり、伊藤専務の話はうやむやになってしまいました>

 伊藤専務こと、大成建設の伊藤美喜男は2007年8月9日、すい臓がんのため、死去する。まさに死人に口なし、ではないか。

<こうしてノラリクラリとはぐらかされて、私は困り果てたあげく、平成二十二年に新宿区左門町に所在する四谷弁護士ビル三〇五号室の権藤法律事務所の権藤世寧弁護士に相談し、何とか返済してもらう手立てをと正式に権藤先生に依頼しました。

 一部始終、権藤先生に話したところ、「石井さん、これは詐欺だよ」と言われました。

 書類を作成し、合意しても、山田慶一氏に騙されたという気持ちです。

 小池さんも山田慶一氏にすっかり騙されたようで、小池さんの奥様からも送金させて借入していた事は、いかにも小池さんの人の良さも伺えます。

 何故、この時期に、このようなお願いをするのかと思われるかも知れませんが、私(石井孝之)も体力に自信が無く、大病を患い入退院を繰り返しており、家族の事が思い遣られてなりません。

 小池さんも承知と思いますが、金七千万円の中には榎本恵美子氏のお金も入っております。

 このまま、うやむやになってしまうのが、山田慶一氏に対して怒りでいっぱいです>

 2012年9月12日付のこの内容証明郵便に対して、もちろん、山田からの返答はない。
(第12回につづく)

2016年9月8日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第8回「田中角栄」

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 2010年の晩冬、赤坂の焼肉屋『牛村』に樽床伸二が現れた。当時は民主党政権で、樽床は与党議員。ちなみに2年後の12年、野田内閣の時に樽床は沖縄・北方担当大臣に就任した。

 春は近いとはいえ、夜の赤坂はまだ寒かった。その焼肉屋には山田慶一と数人の男たちが奥座敷で会合に臨んでおり、そこに遅れて樽床が駆けつけたのだ。
 
■――――――――――――――――――――
【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】Amazon著者ページ「佐藤昭子」より
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 この焼肉屋『牛村』だが、以前は韓国人のママが仕切る『クラブ華』という店だった。奥座敷が2つ。襖で仕切れば2部屋になる。手前はクラブ時代の名残だろう。およそ焼肉店には似合わない湾曲したバーカウンターと、駅前の安蕎麦屋のようなテーブル席が詰めるようにして置かれている。テーブルの間を仕切るのは、天上まで届く青く半濁したガラスだ。

 中途半端にクラブ風の造りが残っている。不景気となり急遽、クラブから焼肉屋に宗旨替えしたようだ。いや、焼肉屋が駄目になれば、いつでもクラブに戻せるよう、あえて中途半端な内装にしているのかもしれない。

 いずれにせよ、この牛村で奥座敷の壁が仕切られることはなく、いつも開け放たれていた。しかし、この日は襖が仕切られ、密室には声が篭もっていた。中で謀議が開かれていたのだ。

 数人の男たちは、山田に懇願するような目を向け、小声で会話する。そこへ「遅れてすいません」と腰低く1人の男が現れた。これが樽床だった。すかさず、山田慶一が声を響かせる。

「民主党の総理候補ナンバーワンですからっ」

 樽床は12年12月の衆院選で落選の憂き目に遭うのだが、この頃は直前の参院選で返り咲いたばかりだった。

 肩書は衆院環境委員長。「選挙に弱い」との評判通り、樽床は当選と落選を繰り返していた。山田の「総理候補ナンバーワン」は相当に仰々しいとはいえ、民主党内での人気は悪くなかった。若手の次期総理候補として推す声はあり、結局はその後の民主党代表選にも出馬、健闘を示す。

 この日、山田慶一と樽床の他に集まったのは、新日本製鐵(現・新日鐵住金)プロジェクト開発部開発室長、新日本製鐵八幡製鉄所総務部開発企画グループマネジャーの2人。彼らを引き連れてきたのは、港湾土木に強いマリコン・東亜建設工業建築事業本部副本部長である。(※筆者註:肩書などはいずれも2010年当時)

 東亜建設工業の副本部長は、旧知の山田慶一に新日鐵の社員を紹介し、彼らは樽床に陳情を行う、というのがこの夜の算段だった。

 現職の環境委員長が登場すると、新日鐵の社員らはいささか緊張した面持ちとなった。対する山田は、時には樽床と親しげな素振りも見せた。しかし、いつもの遠慮深さは絶対に忘れない。とにかく腰が低い。人によっては「慎み深い」と感心しただろう。であれば新日鐵の社員らは、山田と樽床は極めて親しい間柄なのだと受け止めたに違いない。

■「架空の城塞」に出入りする下地幹郎、亀岡偉民、石川雅己、そして小澤忠

 これより1年前の2009年、樽床は溜池のインターコンチネンタルでパーティーを開くが、その直前に山田慶一の事務所を訪れている。この頃は虎ノ門にあったのだが、樽床は入ると山田の目の前で両手を合わせ、頭を机に伏せた。〝政治資金をお願い〟と、そんな合図だったのだろう。

 すると山田は「分かってまーす」と陽気というのか、軽いというのか、そんな態度で承諾した。政治家に限らず、山田は気軽な返答を常としていて、だからこそ相手の気分を害さない。

 山田慶一に長らく寄り添う側近中の側近がいるのだが、彼も「たいしたもんですよ。身内にはともかく、外に対しては絶対に不快な思いをさせない」と感心するわけだが、一方で山田の言葉がどこまで誠実なもので、どこまで真実が含まれているかは、もちろん別の話だった。

 山田の嘘を思い知らされ、骨の髄まで懲りた人間たちは、山田から離れていく。こうした離合集散は常に繰り返された。だが、山田慶一の元から人が去って行くだけでなく、それと同じぐらいの新しい人間が──山田がどんな状況に置かれていようとも──必ず集まってくるのだから不思議だった。それはつまり「新しい人間=企業の担当者」が、それだけ切迫した思惑を持っていることを意味した。

 山田の事務所には当時、やはり民主党政権で連立を組んでいた国民新党の幹事長・下地幹夫や、自民党の亀岡偉民らも馳せ参じていた。更には千代田区長の石川雅己が、この山田詣での常連として顔を見せていた。

 その山田慶一の事務所は「架空の城塞」と言った趣を持つ。山田の情勢に応じて半蔵門日本交通ビルなどを転々とするからだが、どんな場所に構えられても、決して外されることのない〝看板〟がある。

 元警視庁2課の捜査員で、退庁後は司法書士に転じた小澤忠の机である。山田の事務所は、どこに移転しても必ず小沢忠の事務所を兼ねているのだ。

 司法書士といえども、などと書けば本職の方々に失礼だが、ご寛恕をお願いしたい。小澤はディズニーランドを経営するオリエンタルランド(千葉県浦安市舞浜)の顧問などを務めている。要するに司法書士というよりは「警視庁に顔の利く1人」なのだ。

 かねてから山田を〝監視〟する者たちは、小澤の役割を「門番」とか「露払い」、あるいは「用心棒」として置いていると見ていた。例えば小澤は週刊誌などメディア業界にも顔が広い。山田の事務所にある小澤の机には、週刊現代(講談社)編集部などからの支払い調書が届いていたのを目撃されている。おそらく、知り合いの編集部員が払った取材謝礼だろう。つまり小澤をネタ元としているメディアの人間がいるのだ。

■「表舞台」から必ず姿を消す山田慶一

 今回、山田に仕事を依頼したのは新日本製鐵だった。国土交通省が進めているスーパー港湾計画に関する新日鐵の意向を内々に伝えるという内容だった。

 日本の港湾には、海外から輸入する鉄鉱石などを積んだ巨大タンカーが接岸できる場所が極めて限られている。そうしたタンカーが停泊できる「スーパー港湾」を整備することが日本の基礎素材産業である鉄鋼メーカーにとって大きな意味を持ってくる。

 山田から紹介された樽床は話を聞き、翌日の打ち合わせに入った。樽床は新日鐵に対し、ある人物を引き合わせるつもりだった。

 そして翌日の早朝、衆院議員会館の地下にある会合用の部屋に通された新日鐵の男たちの前に樽床が現れ、更に腰を折った小柄な男も現れた。国土交通省総括審議官の内田要である。

 内田と樽床は互いに、新日鐵の正面を譲り合う。「いやいや、委員長、委員長、こちらに」と、いかにも慇懃な腰遣いで内田は樽床を立てるが、樽床も「いやいやいやいや」と謙遜してみせる。大げさな所作は歌舞伎を彷彿とさせるが、そんな所作を見せつけられながらも、新日鐵の和田は緊張しているのか、ひたすら押し黙っていた。

 この内田だが、後に国交省の土地・水資源局長を経て、都市再生機構(UR)の副理事長として転出するが、当時は総括審議官として施策調整に当たっていた。

 樽床は新日鐵の陳情を、審議官の内田に振ったわけだ。新日鐵の和田たちは用意してきたカラーの説明書を渡しながら、いかにスーパー港湾の整備が日本の国土振興にとって必要か力説する。それを内田は、なるほど、なるほど、と繰り返し頷いてみせた。ありがちな陳情の場面だが、1つだけ異例だったことがある。その瞬間、肝心の山田が席を外してしまったことだ。

 山田は「表舞台」には近づく素振りさえ見せない。自分自身が口利きを仕掛ける場合でも、人目に付く場所は慎重に避ける。身分証明書などの提示が求められる場面では、慎重に同行者を選ぶ。それは恐らく山田が在日であること、つまり外国籍であることが表面化する状況を避けているとも思われていた。

 例えば以前、山田は海外に向かう時、成田空港で同行する日本人をよそに、出国手続きの入管ゲートで列を離れたことがあった。

「私、ちょっと……。後からいきまーす」

 言いながら、山田は外国人用の出国書類を取りに、脇に逸れたのである。同行した日本人らは、それを見て、山田は言い伝えられているように在日であるというのは本当で、さらに、いまだ日本国籍を取得していないことを知る。

 山田には6人とも言われる妻がいるが、自身で「1度も籍を入れたことがない」と公言しているのは、つまり外国籍であるが故だったのかもしれない。更に2001年にアメリカで9・11テロが発生すると、議員会館や省庁などでは格段に入館手続きが厳しくなった。こうした場所にも、山田は極力近づかない──ように映っていた。

■陳情を処理できなかった民主党政権

 話を元に戻そう。山田は肝心の場面で姿を消したとは言え、新日鐵社員の目の前で樽床を「次の総理候補ナンバーワン」と評し──少なくとも当時は、お世辞ではなかった──その樽床が国交省への水先案内人を買って出てくれた。「山田さんはやっぱり凄い」と思わせても不思議はないだろう。

 しかし皮肉なことに、2009年に民主党政権が誕生したために、山田商法とも呼ばれるロビー活動と、巨額の利益を生むコンサルタントビジネスの「実効力」が決定的に削がれてしまっていた。

 自民党は国会内に設置される各委員会と、そこに集まる族議員によって権益プロセスを構築し、いわゆる55年体制下で長く固定化してきた。それを「政治主導」の名の下に民主党政権が奪い去ったのだ。

 よく知られているように族議員の力の源泉は、官庁権益などキャリア官僚の利害関係と阿吽の呼吸で裏取引を行うところにあった。官僚側は法案を通し、施策を実現したい思惑を持つ。政治家は陳情の実現化させ、施策を展開させることによって、自身の職業政治家としての安定を確保し、ついでにレピュテーションマインド(尊厳欲)も満たす。互いが利益を得られるWin-Winの互恵関係が成立していた。

 ところが民主党政権は基本的に、族議員が存在しなかった。そのため官僚サイドは、どのラインに権益プロセスが存在するのか見極めることだけでも往生するようになった。

 この変化は、当時の法案成立数が端的に示している。09年から12年まで、3年間の民主党政権で最終的な法案成立率は67.7%だ。自民党政権が常に80%台を維持してきたのと比べると雲泥の差と言っていい。

 省庁の権限、所掌は法律が全てだ。法律が存在することで、政令や省令などの細かい規則を定めることができる。そうして官僚は実社会に対する指導権を表現するわけだが、となれば法律を通せない政治家など全く魅力がないことになる。

 樽床も自分自身で国交省の総括審議官たる内田を紹介したわけだが、これは自民党時代では考えられないプロセスだった。本物の族議員なら民間サイドと官僚サイドの両方から陳情が議員会館に届く。それを揉みながら、官僚との裏交渉を重ねていくわけだ。

 だが樽床には、そんな能力も権限も、何より経験がなかった。だから陳情を役所に丸投げしてしまう。極めて皮肉なことに、「政治主導」を謳う民主党政権は、陳情における民間と官僚の線を〝一本化〟してしまったのだ。正真正銘の「官僚制」を実現してしまったとも言える。

 それと同時に山田慶一という自民党族議員の権益プロセスを体現し、その一角を占めることで権勢を誇ってきたロビイストにとって、この変化は死活問題に直結した。文字通り「おまんまの食い上げ」の危機を迎えたのだ。

 加えて、樽床に役所への水先案内を頼んだ頃、山田は別件の大問題を抱えていた。ひょっとすると新日鐵の陳情など、どうでもよかったかもしれない。

■バブル崩壊まで脈々と生き続けた「角栄の金脈」

 2010年3月11日、1人の女が、その生涯を閉じた。

 名は佐藤昭、もしくは昭子──。田中角栄の側近中の側近。自民党の若手代議士から、こぞって「ママ」と呼ばれた。後援会組織・越山会の「金庫番」や「女王」と形容されたこともある。

 かつて山田は、小池隆一に以下のようなことを語ったことがある。多少、自慢めいた口調で、いささかの高揚感も含んだ山田の声音を、小池は鮮明に憶えているという。

 山田は、こう言ったのだ。

「確か25歳とか、26歳とかだったんですが、僕は田中角栄の謦咳に接し、その時の若さで色々な教えを受けたことが、その後の大きな仕事につながったんですね」

 その時小池は、常に腰の低い、いつもの山田とは異なる側面を見たようだ。

「その若さで、と謙遜するんだけど、半分は自慢なんだよね。田中角栄の謦咳に接したというのが本当なのか嘘なのかは分からない。けれども、佐藤昭子と仲が良かったのは間違いない」

 佐藤昭子は毎日毎晩のように麻雀に明け暮れたが、そこには必ずと言っていいほど山田も加わっていた。そして卓を囲むのだが、牌を打つのは辺りのサラリーマンではない。自民党全盛期の国会議員たちだ。おまけに最大派閥を誇る田中派が少なくないのは、佐藤昭子の役割からして当然だろう。

 山田は現在60代。25歳頃と言えば、1977年前後になるだろうか。74年には月刊誌『文藝春秋』11月号で立花隆の『田中角栄研究─その金脈と人脈』と、児玉隆也『寂しき越山会の女王』の2記事が同時掲載されて話題となり、76年にはロッキード事件が発覚する。

 後の歴史から見れば、この時期を前後として「田中軍団」とも呼ばれた田中派の趨勢は転換期に差し掛かってはいた。しかしながら竹下登らが田中派を割って創政会を旗揚げするのは85年まで待たなければならない。ロッキード事件が発覚しても、依然として田中角栄という人間は圧倒的な強さを誇っていた。

 山田は、この時期の田中角栄と接していたと振り返ったが、それはあり得ない話ではない。そうでもなければ、佐藤昭子が山田に雀卓を囲むことを許さなかっただろう。

 最も羽振りの良かった一時期、山田はホテルの宴会場で自分自身が主催するパーティーを開いたことがあった。ゼネコンを初めとする多くの関係者が詰めかける中、山田の傍らには佐藤昭子が寄り添っていた。その一体感は、出席者を畏敬させるのに充分だった。

 企業と、その担当者たちは、山田慶一の背後に佐藤昭子を見てとった。それはすなわち田中角栄の影を意識することになる。それが山田の政治力の源泉だったことは間違いないだろう。

 ところが政権交代が実現し、民主党政権が誕生した。山田にコンサルティングを依頼する場合は「前捌き金」が必要なのだが、これに対して大手の企業ほど、より慎重になったところはある。商社にしても、ゼネコンにしても、歴史がある企業ほど、その費用対効果の算出には手抜かりがないものだ。

 自民党が下野してからも山田の元に集まる人間とは、歴史が浅く、とにかく既存の力にあやかろうとする企業や担当者だ。そして山田は、そういう人間が現れれば、その魅力で虜にしてしまう。

 かつて岸信介時代の自民党には、院外団とも呼ばれる、党外の「加護組織」があった。自民党のために手足となって苦労することを厭わない人間であり、自民党もそういう者を手厚く遇してきた。かの児玉誉士夫なども、人生の一時期を院外団の活動に奉じていたこともあったのだ。

 もし山田がそんな時代に間に合っていれば、院外団の1人としてカウントされたかもしれない。しかし山田が台頭してきた70年代後半から80年代前半という時代は、すでに院外団が跋扈するには時代が進み過ぎていた。非合法組織然としたものが総会屋同様に、排除される時代風潮にあった。

 ところが次にやって来たのは、ロビイストという青天井のコンサルタント料で動く横文字の〝活動家〟がぴったりはまる時代だった。山田慶一は自民党の勢力と共に、そこにすっぽりと収まった……。

 かつて山田が半蔵門に事務所を構えていた頃には、現役の代議士だった山口敏夫が〝常駐〟していた。山田は小池に「佐藤昭子の門番をしている」と語ることもあったが、その山田の門番は自民党の現職議員だったわけだ。当然ながら企業も担当者も、山田を畏怖するようになっていく。

 そんな山田が恃みにした佐藤昭は生前、大下英治とのインタビューでこう語っていた。

<政治には優しさも必要だけど、同時に威厳も持っていないと駄目です。松下政経塾は、松下幸之助さんが資金を出して作ったのがようやく実ってきて、国会議員のバッチをつけるようになった。しかし、弁舌はたつけれど、昔の選挙のやり方を知りません。風が去ったら、当選できません>(『角栄とともに生きた女』講談社+α文庫)

 あの樽床伸二も松下政経塾の出身だ。そして2012年末、民主党に対する強い向かい風と化した衆院選で落選する。あたかも佐藤の予言通りであった。だが、それは〝次期総理候補〟の凋落だけを意味したわけではなかった。自民党から民主党に乗り換えようとしても果たせなかった、山田慶一という自民党=田中角栄体制に巣くってきた「ロビイスト」の凋落も象徴した。

<「オヤジは、天才だ。おれたちは足元にもおよばない」と言っていた。田中の事務所に遊びにきて、政治の話から雑談しているうちにも、いろいろ勉強になったと思いますよ>(同『角栄とともに生きた女』)

 今も小池の耳朶に残る山田慶一の言葉は「25、6歳の若輩者として田中角栄の謦咳に接し」たが故に、「大きな仕事につながった」と振り返っている。

 大きな仕事……。それは田中角栄が死してなお、その〝威光〟を最大限に活用し、そこに日本の企業がカネを積んだのだとすれば、田中金脈とは田中角栄も佐藤昭子も与り知らぬ形で、バブルが崩壊した90年代以降もなお、その命脈を保っていたのかもしれない。

 田中角栄が政界を引退したのは1990年。バブル崩壊に関しては「91年から93年の景気後退期」との定義もある。いずれにしても、90年代前半とはバブル景気の限界が見え始め、嗅覚に優れた者たちには、その終焉の兆しを随所で感じ取っていた時期にあたる。それは「表稼業」から遠い人間であればあるほど、転機を強いる季節でもあった。

(第9回に続く)

2016年8月18日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第7回「俗物」

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 小池隆一の名前が知られるようになった総会は他にもある。1975(昭和50)年3月末、銀座の東京都中小企業会館で、理研ビニル工業(現・リケンテクノス株式会社=東京都千代田区神田淡路町)の総会が開かれた。ここでの小池は語り草になっている。
 少なくともマスコミは理研ビニルを「田中角栄ファミリー」と見なしていた。というのも1974(昭和49)年、評論家の立花隆が執筆した『田中金脈の研究』が月刊誌『文藝春秋』の11月号に掲載され、田中角栄退陣のきっかけとなったのだが、文中では「田中ファミリー企業」として「新星企業」が取り上げられていた。その新星企業の社長だった山田泰司が理研ビニルの監査役を務めていた。山田は田中角栄の〝番頭〟だったのだ。

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【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】1974(昭和49)年に背任容疑で逮捕された小川薫容疑者(当時 写真提供 共同通信社)
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<田中金脈問題では一部で司直の動きもあり、当時、新星企業は「宅建法違反」に問われていた。
 この頃には、小池は、玉田大成の子分でなく小川グループの中の「小池派」になっていた(中略)
 小池は、のち、この総会の攻撃で威力業務妨害に問われ逮捕される。
 しかし、小池は、検察の厳しい追及を受けても、小川のことはいっさい話さなかった。
 そのことで、小池に対する小川の評価はますます上がった。
「小池はしゃんとしてる」
 小川は、いっそう小池をかわいがるようになった。小池は、小川のもとで水を得た魚のように活躍しはじめた。
 が、論談同友会会長の正木の見るところ、小池は、広島出身ではないので、広島出身者の多い小川グループではどうしても浮いてしまうことが多かった。
 小池は、それでもなお、したたかに小川の背中を見て、学べるところは学び、反面教師とすべきところと冷静に区別していた>(『経済マフィア 昭和闇の支配者』大下英治・だいわ文庫)

■〝俗物〟としての小池隆一

 相手との付き合いがいくら長くなろうとも、小池は決して自身の過去を容易には語ろうとはしない。また、新聞には実に細かく目を通す反面、週刊誌やゴシップ誌の類は、少なくとも自分から読もうとはしなかった。
 逮捕歴のある人間は往々にして週刊誌を遠ざける。何しろ誌面には自身への罵詈雑言など「あることないこと」が──実際のところは、ご本人が単に「記憶にない」ことが大半なのだが──書き散らされている。遠ざけて当然だと言える。
 と、普通はそうなのだが、小池の場合は、そういう嫌悪感を週刊誌に抱いているというわけでもなさそうなのだ。
 恐らく全盛期の小池は、どんな手段も厭わず、様々な手練手管を弄する人物だと思われていたはずだし、そうしたエピソードも事欠かない。何より当時の小池は、企業社会や総会屋の世界で、かなりの俗物と見られていた。
 小池という男は、相当に露悪的なところがある。俗物として振る舞い、周囲に「小池は俗物だ」と断じさせようと唆す。そして心の奥深くに持っている哲学的な内面は絶対に吐露しない。こうした小池のカムフラージュは、恐らく幼少期まで遡ることのできる「覆い」であるはずだった。
 無論、「金が欲しい」とか「出世したい」という俗な願いは誰でも持っている。哲学的な内面というものも、少なくとも理論的には万人が持ちうる。この2つが全く矛盾することなく、1人の人間に同居することも可能だ。世間でいかに悪人と呼ばれる男でも、家族や仲間から見れば「あんな善人はいないよ」と評されるケースなどいくらでもある。
 更に時と状況が変われば、ある人間の受け止められ方は変わる。例えば小池に対する次の評価も、決して誤ってはいないのだと思う。

<小池と親しかった総会屋グループのリーダーも、赤坂に事務所を構え、建設会社役員の肩書きを持っていたし、情報を交換していたはずだ。小池が地上げでどれ程儲かったかは知らないが、情報を金に換えることには天才的な男だったからね。ただ、儲かった場合でも親しかった俺たちにすらあまり話さなかった(『財界展望』1997年12月号)>

■木島力也と小池隆一が〝マッチポンプ〟を演じられた理由

 しばしば「情報力」などと言う。果たして情報が総会屋の世界で本当に金を産むかどうかは置いておくにしても、前に三菱電機のエピソードで触れたように、泥棒まがいの手法だけで情報力を維持することは、当たり前だが極めて難しい。
 不思議だが、マスコミの世界では「ゴシップ求めます」の看板を高く掲げているところに限って、なぜか決定的なスクープネタは遠ざかる。対してスクープを連発し、「トップ屋」「ゴシップ屋」などと呼ばれる記者は「情報買います」の看板は決して掲げない。
 そもそも、大きなネタが、そのまま使える形で転がっていることなど絶対にないのだ。彼らは情報の「小さなかけら」を見逃さず、自分の中でしっかりと受け止め、確実に育んでいく。そうして〝スクープ記事の素〟を構築していくのだ。
 要するに感受性に優れているのだろう。広範な情報を知ってはいるが、単にそれだけという「情報通」に堕することはない。共通するのは、情報の意味を自身で消化し、「識る」センスの持ち主だということだ。少なくとも私が知る、新聞などメディアの世界で生きる〝スクープ記者〟には、そういうタイプが圧倒的に多い。
 小池と知りあって間もなく、彼の慎重さと用心深さを感じ、その上で「識る」ことのできる人物なのだと思った。恐らく新聞社などに就職していれば、間違いなくスクープ記者になっただろう。
 何より小池は筆まめだ。内容証明も人任せにしない、は半分冗談だとしても、その筆致は充分にマスコミで通用するレベルだ。いや、それも当然だろう。かつて小池は雑誌を発行していたこともある。『政界往来』誌の記者証を持ち、大手の政治部記者と同じように国会内を取材のため歩いていたこともあったのだ。

<稲川会の二代目石井進(隆匡)会長から、小川薫に電話があった。
「小池君を呼び出すように」
 小川は、小池を探した。
 そのうち石井会長から、小川に電話があった。
「小池なら、もうここに来ているよ」
 小池は、事情を知るや、小川にも内緒で石井会長のところに馳せ参じていたのだ。そうとなれば、小川としては「石井会長、お手やわらかにしてやってください」というしかなかった。
 小池には、このように機を見ると敏なところがあった。
 小池は、『週刊・訴える』で、右翼の大立て者児玉誉士夫のことを呼び捨てにした。
 小池は、児玉の関係者たちに攻撃された。
 小川のところにも、小池のことで東声会の幹部数名が押しかけてきた。児玉と東声会の町井久之会長は、盟友である。その東声会の幹部を小川に差し向けたのは、じつは総会屋の木島力也であった。その頃は、総会屋というより『現代の眼』という新左翼まがいの雑誌を出していた。木島は、児玉の威光を笠に着ていた。
 小川は、木島にはっきりといった。
「見当違いもはなはだしい。小池が勝手にやったことで、わしとは関係ない!」
 小川は、木島など、総会屋としては取るに足らないと思っていたという。
 しかし、その一件から、小池は木島に接近する。偶然だが、小池と木島は、新潟出身であった。小池は、抜け目がなくて、目端が利いた。自分より力を持っている者に擦りよっていくのが得意だったという。
 玉田大成によると、じつは小川と木島は、事務所が近いこともあり親しかった。事務所が近所であると同時に、業務関係が緊密であった。
 木島は小川に会うたびに、三百万円から四百万円というカネをこっそり小川に渡しているのを玉田は目にしている。情報料なのだろう。
 情報とは、たとえば、「小川が××電機総会に出席する予定がなかった」とする。その情報を知る木島が、総会前に会社側に対し、約束をとりつける。
「おれが小川を抑え、総会には出席させないようにする」
 当日、小川は来ない。結果、シャンシャン総会で終わる。あたかも木島が荒れる総会を食い止めた格好となる。これが小川と木島の〝マッチポンプ〟(自分で火をつけて、自分で消すこと)だった。
 この木島と小川の役割を、小池が小川に代わって演じることもあった。木島と小池はそういう関係でもあった。
 小池は、木島と親しくなったことで、のちに第一勧銀・四大証券利益供与事件を引き起こす……(『経済マフィア 昭和闇の支配者』大下英治・だいわ文庫)>

 木島と小池が近しく、そのゆえに一連の事件が起きたという推移は、数多くのメディアが仔細に書き記してきた。しかし、なぜ、そうした状況に及んだのかという木島側の心理については伝聞も含めて一切、内情が明かされたことはない。
 ここに、小池の次の言葉は大きな解釈の鍵を与える。
「木島は上場企業の社長になるのが夢だったんですよ」

■「脱=総会屋」の計画を破綻させてしまったバブル崩壊

 木島は総会屋であると同時に、1962(昭和37)年に現代評論社を設立。戦後に左翼ブームが盛り上がると、発行していた『現代の眼』が商業的な成功を収めた。しかし、いかにフィクサー然とした評判が高まり、雑誌などが売れたとしても、それは木島にとって「名声」や「地位」ではなかった。
 確かに「成金」や「わが街の社長さん」に社会的地位は存在しない。木島は上場企業の社長になりたかったという小池の指摘は、当たらずといえども遠からず、という感触を聞く者に与える。いや、木島の夢も、バブルさえ弾けなければ、という現実的な局面まで進んでいたのかもしれない。
 1982(昭和57)年に商法が改正され、総会屋は違法とされた。しかし、その以前から小池の頭には「総会屋は時代に生き残れない」という明確な判断があった。だからこそ小池は「株」と「不動産」という実業の世界へ大きく舵を切っていたのだ。
 木島は小池を寵愛した。その背景には、木島が「上場企業の社長」という夢を捨てきれず、小池の鋭い現実感覚に根ざしたビジネスマインドに惹かれた、もしくは、是認したと考えれば、2人の関係性が見えてこないだろうか。
 しかし、それもこれも「総量規制で一気に首根っこを抑えられちゃった」のだと、小池は振り返る。総量規制とは90年3月に当時の大蔵省が行った行政指導だが、これがバブル経済にトドメを刺したとも言われるほど、決定的な分水嶺となる。金融機関による不動産向け融資の抑制策だが、資金繰りの首根っこが断たれたケースが続出した。バブル崩壊のきっかけとも言われるゆえんだ。
 93年、当時の大蔵省財政金融研究所が事務局となって取り纏めた『資産価格変動のメカニズムとその経済効果』では、バブル経済の発生と崩壊について分析している。
 そこでは総量規制の手法についても言及し、

<この政策はいわば一時的に市場メカニズムの軌道を外れてしまった異常な地価の上昇に歯止めをかけるため、緊急避難的に講じられた措置である>

とし、

<不動産業向け融資という特定の部門を対象としたものであるので、市場における資源配分に歪みをもたらす恐れはないか>

との問題点をも提示しながらも、

<その発動のルールは明確に示され、政策適用に恣意が入り込む恐れは少ない>
 
 と総括している。
 この総量規制が緩和される局面に立ち会った、まさに当局内で実務に当たっていた元大蔵省の西村吉正は、次のようにその実際を明らかにしている。

<当時私はこの問題を担当する審議官であったが、経済情勢を総合的に見ていた上司からは総量規制をどうするか、解除するタイミングを計るように指示を受けた。九月には国土庁による地価動向の調査結果が出て、地価は横ばいまたは微減となった。上司から、「これを受けて規制を少し緩和しようか」との相談があった。
 しかし当時の世間の雰囲気では、とてもそのようなことができる状況ではなかった。私は主要六紙の社説を見せた。……それでも上司は、何か工夫はできないものかと残念そうだった。なぜならこの機会を逃すと、当時は国土庁の地価調査は半年に一回だけだったので、次の機会は半年後になるからである。そこで私は、『国土庁に二カ月後に臨時の地価調査をしてもらって、その結果を見て年内に緩和することでどうですか』ということで納得してもらった>(『金融行政の敗因』西村吉正・文春新書)

 行政の施策は、結局のところ「さじ加減」に帰着することを図らずも示しているように映る。政策適用の恣意性から、どこまで行っても抜け出せることはできない。
 ともかく、小池は虚業を脱して実業に入ろうと株や不動産に力を入れ、開発企業との関係を持とうともしていた。それが、この総量規制で息絶えた。やはり運命の悪戯だと言わざるを得ない。
 小池が生きてきた前半生、つまり97年の逮捕前までは、仮にそこを「裏社会」と呼ぶにせよ、「裏」にも多くの種類と、質の異なりがあるのだと考えさせられる。
 裏の世界は多くの呪縛を孕み、関係者と企業を決して自由にしないとしても、総会屋という仕事は、あくまでも「総会」を経ると終わる。彼らの事業は小さく完結するのだ。あるいは総会という結節点を乗り切ることで、経営者にとっても1つのリセットを迎え、カネもリセットされる。
 そうした意味において、総会屋とはあくまでも「年次計画」の中で息づく存在だと言えた。もちろん総会屋を食いつながせる企業の「賛助金」も年次計画たる予算から算出されていた。
 しかし、小池の晩年を窮地に陥れた人間と、その住処である「裏社会」は、決して年次で完結しない。「政策マフィア」のロビイング活動は、あくまで無限連鎖のごとく延々と続く。そこで流通するカネは、賛助金という灰色ながら足のつくカネではなく、「使途秘匿金」という表に出ない、決定的に黒いカネが蠢く世界でもある。

■小池隆一の故郷で、今も残る〝評判〟

 時折、小池とのヨーロッパ旅行を思い起こすことがある。
 ルサールのもう1つのアトリエがある、モロッコの首都・マラケシを訪れた時のことだ。ホテルのプールサイドで朝食を摂りながら、小池は、かつてを振り返った。
「私はもう総会屋を辞めたつもりだけど……。かつては守るほうの総会屋だったけども……攻めるほうもやったんですよ、昔は。攻めるには色々テクニックがあるんだけど、例えばね、何か経営者のことでも噂があるってだけで指摘したら、ダメだけれども、新聞記事にはこう出てますよねってね、やったりね。ずいぶんと記者に小遣いを渡して書かせていたこともあった。でもね、下の者が出てくると困るんですね。話し合いじゃないから。上の者だと話になるけどね」
 アフリカ大陸の上部に位置するモロッコは砂漠性の気侯のためか、朝晩は冷える。それも、寒暖の差は知らぬ者には想像以上に激しく、息も白い。
 そんなモロッコで小池は、せっかくだから馬車に乗ってみようと言ったことがあった。2人でそのモロッコの馬車に乗り、サンドカラーと呼ばれる赤っぽい、ピンクがかった壁の続く家々の周りや繁華街を馬車に乗りながら移動している間、小池はやはり昔のことを思い出したようだった。
 小川薫との旅行の話になった。ちなみに小川は2009年に鬼籍に入っている。
「いつだったか、小川と若い者とでアジアの国に旅行したことがありましたよ。そうしたら道端も街もすごく汚くてね。荒んだ様子のところがありました。そこで現地の子供が物乞いに寄ってきたんです。そうしたら一緒に行った者の中で、それをバカにしたのがいたんです。そうしたら小川がね『何言ってんだ。日本だってちょっと前まではこれと同じだったんだ。お前らだって、つい10年も前までは、便所にうんちが落ちると、それがはねてお尻につくような生活してたじゃねーか』って言って叱責したんですよ。つまり、日本が豊かになったなんて思ってるけど、日本もそんな途上国と少し前までは変わらない姿だったんだったんだから、蔑むのは間違いだって、そう諭したことがありましたよ」
 小池が小川の元から独立するのは、1979年11月のことだ。きっかけは小川が「恐喝」で逮捕されたためだ。
 日本航空の子会社・東京空港サービスに関する不祥事について書かれた記事を小川は入手し、日航の与党総会屋であることから、会社に通報する。
 当然、これを知った東京空港サービスは火消しに走り、記事が表に出ないようにする「収め代」として500万円を用意した。小川は受け取り、この記事を書いたライターに渡したのである。
 警視庁による小川逮捕を受けて、小池の元にも連日、新聞記者たちが押しかけてくる。そこから漏れ伝わった真相を聞き、小池は嫌気がさした。
「その500万円から小川が書き屋さんに渡したのはたった50万円で、残りの450万円は自分のポケットに入れちゃってたんですよ。自分がほとんど持ってっちゃうなんていう、あまりにセコイ話で恥ずかしくなっちゃって、ほとほと嫌気がさしたんですよ。それでもう、それで決意して、小川にも直接に辞めるとも言わずに、『俺、馬鹿馬鹿しくなったからもう辞めるから小川にもそう伝えておいてくれよ』って言って……」
 こうして小池は独立することになった。小川企業株式会社の副社長を辞め、小川門下から飛び出したのだ。
 小川も、その周囲も広島出身者が多く、小池とは水が合わなかったことは前に見た。それは小池本人も認めている。
「彼らは広島料理の酔心で毎晩、食事をしては、その後に銀座のクラブに行くんだけれども、そういうことには一切、関心がなかった」
 総会屋時代の小池は酒を1滴も飲まず、暇さえあれば読書に励む勉強家と言われていた。その姿は、新潟県加茂市に住む小池の幼馴染らの目に、今もって焼きついている小池への記憶とも一致する。
「柔道有段者でガキ大将だけれども、とにかく読書が好きで、徒党を組んで何かをするというよりも、いつも一人で本を読んでたかな。誰をいじめるとか、そういうことはしない」
 小池が、まだ高校生の時だった。友人が借金をしてしまったと金の工面に困っているという話があった。すると小池は買ってもらったばかりの新品のスキー用具一式を質屋に入れて、その友人にポンと渡してしまったという。
「とにかく、友人、知人を助けるということに関しては躊躇なかった。実際、わしも人生で何度も助けてもらってる」
 この友人は、さらに続けた。
「だから、あんたにこうして話しとるのも、あの人のためになれば、と思うからだよ。あんたがさっきうちに来たとき、ゴシップやスキャンダルを聞きたくてきたわけじゃないといったよな。あの人を理解したいんだと。だから、わしはあんたに話してもいいと思ったんだよ。悪口を聞きたいのならば、わしは絶対にあんたにはしゃべらん」
 そう言いながら、この幼馴染は自らハンドルを握り、小池家に縁のある場所へ次々と案内するのだった。
 加茂市で、小池の名前を今なお知らぬ者はいない。小池自身が言うように「あの小池隆一が……」と言えば、確かに多くの市民は眉間に皺を寄せる。とはいえ、土地の誰もが知る、郷土が東京に送った最も有名な人物であるのも確かなのだ。
 市内の中央を流れる加茂川では、毎年夏になると地元商工会主催の花火大会が行われる。有志らによる寄付によって成り立つのだが、小池は逮捕直前の一時期、最大口の寄付者だった。当時の商工会議所の担当者は夏になると、直接六本木の小池の事務所まで寄付を求めに参上したことを覚えている。
「私は結局、4回くらい小池さんのところに寄付をもらいに上京しましたが、確か、当時で100万円を毎回、頂いておりました」
 花火大会当夜には、金額に応じて寄付者の名前や企業名が記されたチラシが配られる。
そこに約5センチ四方の最大枠に、「東京都港区六本木 (株)小甚」と記されるのも、夏の風物詩だった。
 小池が大口寄付者として名を寄せた翌年から、これに張り合わんばかりの寄付で、同じ大きさの枠を獲得した「千信局」なる地元パチンコ業者の名前が並ぶのはご愛嬌だが、地元商工会の担当者がわざわざ東京まで寄付をもらいに上京するほど、小池は東京での成功者として知られていた。
 それからの小池は逮捕と収監を経て、その後は「緞帳の影」でひっそりと生きてきた。その小池の涙さえ涸れ果てた姿を見ることになろうとは、小池と共にヨーロッパを歩いた2007年には、夢にも想像できなかった。
(第8回につづく)

2016年8月5日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第6回「流儀」

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 小池隆一がメディアの取材に応じ、その発言が報じられたのは1997年の逮捕直前だった。

 具体的には産経新聞の3月26日朝刊になる。第1社会面に掲載された『野村証券利益供与事件 総会屋と一問一答』を見てみよう。

■――――――――――――――――――――
【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【購読記事の文字数】8000字
【写真】野村・一勧事件で記者会見する第一勧業銀行の藤田一郎新頭取、近藤克彦頭取、奥田正司会長、摩尼義晴新会長(※右から=1997年05月23日、産経新聞社撮影)
■――――――――――――――――――――

<親族企業に野村証券から利益供与を受けたとされる小池隆一代表は今月中旬、東京都内で産経新聞の取材に応じ、次のように話した。

 野村証券が利益供与を図ったとされることについて、「基本的には私の取引じゃないので、よく分からない。弟の会社の証券投資の一環で、私は株主でも役員でもない」とした。

 しかし、一任勘定取引については、「一任勘定取引を始めたのは平成元年くらいから、(弟が)個人の名前でやっていたときのことだろう。当時、(一任勘定取引は)違法という認識はまったくなかったし、すべてが一任勘定だったわけではない。独自の判断で売買したが、相場観が悪かったから損が出てきて、中には気の毒だからということで、一任勘定的なものもあったんだろう」と取引自体が過去あったことを認めた。

 野村証券との関係については、「商法改正前には確かに深い付き合いはあったが、改正後はほとんど出入りしていない」と発言、田淵節也顧問、田淵義久相談役との付き合いは「一切ない」としたが、総務担当の藤倉信孝前常務とは「一度くらいどこかで会ったことはあるだろう」と面識があることを認めた>

「一任勘定取引」とは耳慣れない言葉だ。しかし例えば98年に大きな話題となった、衆院議員、故・新井将敬(自民党→自由党→新進党→無所属・東京4区)の自殺事件も、この一任勘定取引が絡んでいたとされる。

 ちなみに新井の事件と野村証券は全く関係がなく、新井側の舞台は日興證券(現・SMBC日興証券)だ。同社からの利益供与疑惑など一連の証券スキャンダルが発覚。検察当局からの追及も受けていたという。自民党や新進党などで常に将来を嘱望されていた新井氏は潔白を主張しながら、東京・高輪のパンパシフィックホテルで首を吊った。

 この一任勘定とは、証券会社に預けた金での運用が前提なのは論を俟たないが、通常の取引と異なるのは「必ず収益を上げる」という〝暗黙のルール〟が存在したことだ。そのため仮に運用で損益が発生すれば、証券会社は「利益を付け替える」必要に迫られた。預ける側は「一切合切」を証券会社に任せるという意味もあって「一任」と表現されたわけだが、証券会社は政治家など大切な顧客の窓口として機能させてきたのだ。

 97年の野村証券事件や、あるいは98年の新井将敬自殺などが起きても、一任勘定取引という言葉は大手を振って表通りを闊歩していたわけではなかった。しかし証券会社の、特に「総務屋」と呼ばれる総務担当者の間では当然、知らぬ者はなかった。いや、もし知らない総務屋がいたのならモグリと言われかねない時代風潮が残っていた。

 小池が逮捕された野村証券や第一勧業銀行(現・みずほホールディングス)などの事件でも、企業側の逮捕者には「総務屋」が多く含まれていた。いや、経営トップ陣も含め、逮捕者の大半を総務屋が占めたとみるべきだろう。

■「総務屋絶頂期」の航空業界と小池の〝蜜月〟

 では「総会屋」ではなく、こうした「総務屋」は常々、どのような仕事を行っていたのだろうか。

 もちろん小池も、往時は総務屋と行動を共にしていた。

 例えば日航や全日空だ。格安航空会社が新規参入して競争が活発になってきた昨今では想像もつかないが、日本の航空業界における80〜90年代とは、国策会社に等しい日本航空が〝ガリバー〟として君臨し、それに挑む全日空も業績伸長を果たした時代、と見ることができる。

 航空業界全体のパイが拡大していく。このような時期こそ、総会屋と総務屋の出番だ。企業がイケイケドンドンで伸び盛りの時に総務屋の役目は重要性を増す。

 もともと総会屋と総務屋は心理的に一体化しやすい。与党総会屋と総務屋のコンビを見ればすぐ分かる。だが、それだけでなく、高度経済成長を経て日本経済が急伸し、企業が成長していく過程で、むしろ「総務屋=企業側」が総会屋を必要とした面もある。こうした〝時代ニーズ〟が存在した点は絶対に忘れてはならない。

 特に当時の日航は小池に限らず、多くの総会屋を世界規模のネットワークを活かして接待した。こうなると全日空は分が悪い。何しろ日航は世界中の名所へファーストクラスを使って接待したのだ。

 ヨーロッパを小池と回った際、ノルウェーのフィヨルドがとりわけ印象深かったと振り返ったことがある。

「一体どうして、あんな地形ができるのかと思うくらいなんですよ。地形が凹凸して入り組んでいて、そこに海の水が入っているんだけれども、船で奥まで入っていけるんですね。上をみると、もうほとんどが切り立った崖にしか見えないくらい鋭く削られていてね。昔の氷河で削られたそうなんですけど、こんなに鋭く抉れるものかというくらいね。それで崖の下まで船で行けるんだけれども、船の縁から下を覗き込むと、これがまた波一つない水がどこまでも澄んでいて、どこまでも下が見えるんですよ。まるで水面がないみたいに透明でね。崖がずーとずーっと下まで、どこまでも切り立って落ちて行くのが、どこまでも見えるんですよ。もう怖いくらいにね。空から落ちて行くみたいな感覚になるんですよ」

 今は世界遺産でも、風光明媚なリゾート地でも日本人で溢れている。退職金を手にした元サラリーマンと、その妻という2人組が一般的だろうか。

 しかし小池がフィヨルドを自分の眼で見たのは、誰でも、どこでも手軽に旅行ができる時代より、ずっと前のことだ。その頃にフィヨルドの光景を語ることができたのは、よほど辺境に惹かれた商社の駐在員か外交官かという話である。

 総務屋も総会屋も、こんな鷹揚な時代が未来永劫に続くとは、さすがに思っていなかったかもしれない。だが、終焉は予想より早く訪れたというのは本音だった可能性はある。この後、小池自身を含め、彼らを取り巻く状況はまさに乱世となる。時代が急速に「鷹揚さ」を許さなくなっていくのだ。

■いまだに残る謎──総会屋と第一勧業銀行の「たすき掛け人事」の関係

 週刊誌『AERA』(朝日新聞出版)97年6月16日号に掲載された『抗争に総会屋使う第一勧業の過去 総務担当役員ら逮捕』の記事は非常に興味深い。

 記事には署名があり、「尾木和晴」となっている。後にAERA編集長を務めた尾木和晴が執筆したものだと分かる。

 それはともかく、記事のリードは次のような具合だ。

<一勧は総会屋や右翼の子弟まで「預金」している。総会屋は「人事介入」を担保に、子弟の採用を利息として、トップとのなれ合いを深めた>

 続く書き出しを見てみよう。

<第一勧業銀行の総務部関係者四人が逮捕された五日、ある行員は複雑な心境だったろう。行員の父親は、名前の知れた右翼団体の代表者。かつて同行総務部には足繁く通っていた。この行員は、有名私大を卒業後、一九八八年に入行。支店を経て現在は本店で勤務している。同僚の一人は、「これも人事的な利益供与ですよ。これまでにも、総会屋の娘を採用したり、ウチではいままでにいくらでもあった」と指摘している。こうした指摘に当人は、「生保や銀行という金融機関を中心に就職活動をした。父親が右翼だといって、私はコネ入社ではないと信じている。他の都銀にも総会屋の子弟はいますよ」と反論する。第一勧銀広報部では、「この件でコメントは一切できません」と拒否しているが、このような採用の例は、他の企業にも多いことが分かった。第一勧銀や野村証券に大きな影響力を持った総会屋の木島力也氏(故人)の長男は現在、神戸製鋼所に勤務していることが分かっている。また長女は九一年まで、三菱地所に勤務していた。総会屋の小池隆一容疑者(五四)と野村証券の武士二郎元常務、広域暴力団幹部が住んでいる都内の億ションは、三菱地所が分譲した。三菱地所の高木丈太郎会長は、かつて総務部長を経験し、木島氏とも親しかったといわれている>

 木島力也──小池の実質的な師匠にあたる人物である。

 この第一勧銀事件では、ノンバンクを迂回して小池に融資された約110億円が利益供与の商法違反にあたるとし、当時の担当常務と総務部長、そして2人の総務部副部長が東京地検に逮捕されている。

 逮捕された彼らが「総務屋」であることは明白だが、AERAの記事は彼ら4人を引き立てたのは木島だったと指摘している。それほどの影響力を行使できたのは、何が原点だったのか。更に記事を見てみよう。

<木島氏が第一勧銀に関わったのは七一年、第一銀行と日本勧業銀行の合併時にさかのぼる。合併時に第一銀行の井上馨会長が総務部長だった頃、木島氏との交流が始まったといわれている。

 第一銀行は日本勧銀との合併前、三菱銀行との合併話があった。だが、当時の長谷川重三郎頭取が進めていた話に井上会長が猛然と反対した。

 戦前、第一銀行は三井銀行と一緒になって帝国銀行となっていた。戦後、財閥系の三井側とうまくいかず、分裂した経緯があったため、財閥系の三菱銀行との合併は懸念していたといわれている。

 総会屋によれば、井上側についた木島氏は、激しく長谷川頭取をはじめとする合併推進派を攻撃するようになる。

 井上会長は、「相手のプラス情報などいらない。マイナス材料があればすぐに持ってこい」と木島氏に限らず、嶋崎栄治氏(故人)など出入りしていた総会屋に檄を飛ばしたという。

 結局、三菱銀行との合併はご破算になり、財閥色の薄い日本勧銀との合併となる。井上会長は、頭取に復帰して、合併推進派の役員を事実上、解任するという強硬策に出た>

 確かに、これだけの恩義があれば、頭は上がらないに違いない。記事によると、当時の第一勧銀は例えば、取締役候補の選考にも、総会屋の評価が反映されることがあったのだという。さすがに未来の頭取候補に威光を発揮させることはなかったが、<ボーダーライン上>の場合は生殺与奪の権を握るケースもあったようだ。

 70年代後半の都銀は、数千人の総会屋、右翼などを出入りさせ、毎月1億円の賛助金を払っていたという。「使途秘匿金」といった裏金ではなく、帳簿に顕れる立派な表の金だ。

 ところが78年、第一勧銀は総会屋に「絶縁宣言」を通告する。賛助金のカットを表明したのだ。AERAの記事によると、第一勧銀が総会屋との縁を絶ちきろうとしたのは、やはり株主総会が原因だったようだ。同年6月の総会で与党側であるはずの総会屋が立ちあがって演説を始めたのだ。

 内容に攻撃性はなく、混乱は起きなかった。それでも第一勧銀の「総務屋」たちは「与党でも、やはり総会屋は何をするか分からない」とショックを受けたという。

 それでも結局、真の忠誠を誓う総会屋とは結びつきを深めたというのだから、本当の意味での絶縁ではなかった。AERAは第一勧業銀行の合併母体である「第一」と「勧銀」の出身者が会長と頭取を交互に務める「たすき掛け人事」が<必要以上に総会屋からの攻撃材料を気にする>ようにさせたと指摘している。そこに<木島氏やその後の小池氏がうまく食い込んでいった素地>があったという。

 確かに「素地」の1つであったことは間違いない。だが、それが総会屋側から見て、どれだけ旨みのある〝隙〟でありえたのかは、実のところ未だに判然とはしていない。事実として断言できるのは、そのたすき掛け人事が繰り返された果てに、小池が逮捕されたということだけだ。

■建物として存在しているわけではなかった「小甚ビルディング」

 この第一勧業事件で、銀行の危機的状況を救うべく、世直しならぬ「企業直し」を前面に押しだした「4人組」が登場する。広報部を中心としたメンバーで、いずれも当時は中堅の行員に過ぎなかった。その中には作家に転身した江上剛と、西武ホールディングスのトップに就いた後藤高志がいる。

 後に江上剛は、月刊誌の『文藝春秋』に当時を振り返った原稿を寄稿したことがあった。それを目にした小池は、こう言った。

「私が現役の頃、もちろん小畠さん(註:江上剛氏の本名)の名前は聞いたことがありませんでしたね。だって小畠という方は、広報の人でしょ。私らは広報と付き合っていたわけではないから。それに寄稿では『小甚ビルディングに担保以上の過剰融資をした』ことが問題だ、みたいな書かれ方をしていたけれども、だって、過剰融資も何も、そもそも小甚ビルなんていうビルも建物も、そんなものもないんですよ。いわゆる担保価値以上に貸し付けるオーバーローンみたいな指摘だけれども、でも、そこからして間違っていますよ。そもそも担保なんてないんだから」

 これに続く小池の説明には、目から鱗どころか、いかに世に定着した逸話なるものが信用ならないかという驚きを禁じ得なかった。小池が逮捕された時に事件の〝舞台〟とされた「小甚ビルディング」は、あくまでも法人名であり、あるいはその不動産物件そのものを喚起させうる名前のビルは存在しなかったのだ。

 念のため、それなりの配慮を示した記事を引用しておこう。99年9月8日の朝日新聞夕刊に掲載された『利益供与で一勧元会長に有罪判決 東京地裁「最も重い役割」指摘』の記事だ。ここに、

<判決によると、奥田元会長は他の元幹部らと共謀して九四年七月から九六年九月にかけ、同行の株主である小池元代表の親族企業「小甚ビルディング」あてに、系列ノンバンクを通じて総額百十七億八千二百万円をう回融資し、利益を提供した>

 とある。あくまで「小甚ビルディング」は「企業」と記述されているのだ。

 だが、企業犯罪を追及する側から見れば、そのために一層、性質の悪い総会屋と映ったかもしれない。何しろ、わざわざ企業名に「ビル」などという言葉を付けているのだ。単なる法人名を、あたかも現実に存在するかのような不動産に偽装した、と判断されても仕方ないだろう。

 そして、この「小甚ビルディング」という法人名が、その後の小池に、どれほどの影響を与えただろうか。これまで小池は事件の舞台裏などをメディアに語ることは一切なく、ひたすら記者たちとの接触を断って生きてきた。

 事件の本筋は当然ながら、枝葉のエピソードに至るまで、自分からは何も明かさない。検察が作成し、小池が納得した調書が裁判所に提出されただけだ。それは公判維持に大きく寄与しただけでなく、数多の企業関係者を救ってもいた。何しろ企業側の「言い分」を小池は一切否定せず、全てを追認・黙認したからだ。

 そもそも小池は逮捕当初から、全く抗弁しない覚悟を決めていた。2004年から06年まで検事総長を務めた松尾邦弘は、小池の取り調べ時は東京地検の次席検事だった。

 小池の公判が始まる頃だ、ある人間を通じて小池の元に〝松尾検事からのメッセージ〟が届いた。

「小池さん、次席から『喋らないでくれ』って頼まれました」

 勘の早い小池は、その一言で了解した。

「分かってるよ、と伝えておいてくれ」

 小池は、もともと政治力の高い野村証券との付き合いが長い。そういう意味では鍛えられていた。検察側の立件に向けた捜査で小池は自分の調書について、野村の逮捕者が認めた〝筋書き〟に沿ったものだけに了解を与えていた。

 結局、商法違反で実刑を食らっても、最高刑で懲役9か月に過ぎない。詐欺罪の懲役10年などに比べれば、ごく僅かな時間を凌げばいいだけなのだ。ちなみに99年4月、1審出小池は懲役9か月、追徴金約6億9300万円の実刑判決を受けた。すぐに控訴権放棄の手続きを取り、検察も上訴を放棄した。

 そもそも小池は逮捕当初から何も喋るつもりはなかったのだ。だが企業側は違った。危機感を募らせたはずだと小池は考えている。

「公判で小池が何を喋るか、皆が注目している。企業にとっては逮捕者が出ただけでも〝十二分〟な痛手なのに、小池が腹いせに全てをぶちまけるようなことをされたらたまらないという思いがあったんでしょう」

 そして松尾から「沈黙要請」が届いたわけだが、恐らく小池は不満もあったに違いない。彼の性格からいって、「黙っている自分に疑心を抱くのは、これまでの信頼を裏切るようなものだ」という怒りを抱くことはない。

 単純に「小池が喋りかねない」と思われた時点で納得がいかないのだ。それほど小池隆一という男は利得より自身の美学を優先させる。実際のところ、そうした性格が仇となってしまい、今日の顛末に繋がっているとも言える。

■小池が小川薫の〝腹心〟になった瞬間──

 小池の口の堅さ、重さは筋金入りである。作家の大下英治は、さるエピソードを拾っている。

 ちなみに、このエピソードは、小池が前半生のピークへ向かう時期のものだ。登山で言えば「全国5000人を越える総会屋」の中から、アタック隊=ごく僅かなトップグループに入るきっかけとなっているように伺える。

 それは小池の認識とは大いに異なる。あくまで〝外側〟から見たエピソードなのだ。しかし、外側からの見方も、1つの見方であることは間違いない。

 1982(昭和57)年、総会屋潰しとも言われた商法改正が施行され、その僅か2週間後、大物総会屋である小川薫が見せしめさながらに恐喝容疑で逮捕。結局、実刑が確定して翌83(昭和58)年8月に栃木県の黒羽刑務所で服役することとなった。

 小池隆一が小川薫の右腕格だったことは前に触れた。例えば71(昭和46)年11月末、王子製紙の乱闘事件で逮捕されても、小池は小川薫の関与を一切認めず、いわゆる「男を上げた」と評判になる。

 この小川グループに、玉田大成という男がいた。玉田は小川薫の妹と結婚していた。この小川薫の義弟は、早稲田大学のボクシング部と関係があり、その人脈で三菱電機に務めている仲間がいた。

 ある時、この仲間の男から「三菱電機が3月決算を前に、架空売上を計上している」との情報が入った。玉田と小池は共に三菱電機のトイレに身を隠した。社員たちが帰った頃を見計らってトイレから出ると、架空売上の書類を見つけて持ち去った。少なくとも当時は、どこの企業も決算前には、こんなことをしていたものだ。玉田は三菱電機を脅すつもりはなかった。しかし小池は三菱電機に電話を入れた。

「こんな書類がある。粉飾決算をしているんじゃないか。こっそり、取りに来い!」

 小川薫は三菱電機と親しかった。特に総務部長と懇意にしていた。当然ながら小川は、小池と玉田の恐喝に烈火のごとく怒った。

「おどれら、何をしとるんなら。出入り禁止じゃッ!」

 とはいえ、玉田は小川の義弟である。さすがに出入禁止にはできなかったが、小池の方となると、さすがに同じようにはいかない。

 その頃、小池は郷里・新潟の味噌を『論談同友会』の会長、正木龍樹にも送っていた。小池は正木に言った。

「よく、正木さんに似ているといわれるんです、自分」

 うまく正木の心もくすぐっているうちに、あちこちの総会で1人活発に発言している小池の活躍は、小川の耳にも届いていく。だが用心深い小池は、虎の尾を踏むようなことはしない。小川らが押さえている銀行や証券会社には手を出さなかった。その代わり、日本セメントをはじめとするセメント業界など、総会屋があまり狙わない企業を狙った。

 遂に、小川が言った。

「小池を、呼んでみいー」

 それから小川は、小池を連れて発言するようになる。ただ小池は新潟出身ということもあるために、広島出身者ばかりの事務所にいても話が合わない。回りも小池を冷ややかな眼で見ていた。

「このあいだまで、玉田の下にいた人間が、三菱電機の泥棒ではい上がってから、最近は社長としゃべらせてもらうようになったけぇの」

(第7回につづく)

2016年7月14日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第5回「番人」上森子鉄

soukai016-07-14 14.08.33

 本田技研の総会で、小池隆一は攻める。前回で触れた通り、当時の小池は小川企業株式会社の副社長職だった。社長は「最後の大物総会屋」として著名な小川薫。つまり小池は小川薫の部下だったわけだが、まずは小川薫の回想を続けよう。本田技研の総会はその後、以下のような展開となった。

■――――――――――――――――――――
【写真】アントワープ王立美術館の公式サイトより
■――――――――――――――――――――

<このときの本田技研の総会では、小池君が次々に「動議」を連発する。「本田技研は、子会社で牧場を経営しているが、これは定款違反ではないか」「当社には、何百と関連会社があるが、監査役は三名では足らない。三十名にせよ」「定款によれば、当社の工場所在地の和光市でも株主総会をできるようになっている。しかし、これは株主に不利な条項なので削除を求める」といった調子だった。

 あまりに執拗な発言に業を煮やした私は、発言を求めて「一号議案が、まだすんでないので、ボチボチ議事を進めていただきたい」と会社側に助け船を出してもいる。

 総会はもめにもめて、休憩をはさんだ。そして小池君は、

「まことに勝手で申しわけないんだけど、自分で動議を出しておいて申しわけないんだけど、この場は、私が出した動議は全部、撤回する。全部、いま撤回させていただきたい」

 会社側にすれば、さんざ引っ張っておきながら、それはないだろう、という心境だったろう。まさしく会社に対する徹底的な嫌がらせだった>

 当の小川薫が「小池による徹底的な嫌がらせ」と言い残せば、定着するのも無理はない。しかし小池によれば、きちんとした事情がある。その説明を聞けば、小川薫の発言にウソはないにしても、語っていない部分が多いようにも思えてくる。

 小川薫自身が記しているが、当時の小川は各企業の社長に面談するのが常だった。ところが本田技研は小川薫を袖にする。頭にきた小川は当時、配下だった小池に相談する。そして小池が総会に登場することになる。

 小川薫は小池に攻めさせてマッチポンプを企んだのだ。小川の意を汲んでいたはずの小池だが、この総会の休憩中に三菱銀行から連絡を受ける。

「小池さん、申し訳ないんだが、うちの役員がそっちに行っているんですが、総会が終わらずにまだ帰れないといっているんです。上森顧問に相談させていただいても宜しいでしょうか」

 上森顧問とは上森子鉄だ。異名なら小池は「最後の総会屋」で、小川薫は「最後の大物総会屋」となっているが、上森子鉄は「伝説の総会屋」だという。いずれにしても小池の上司たる小川薫でさえ、上森子鉄のことは「先生」と呼ぶ。小池にとっては到底頭の上がらない「上司の師匠」だった。

■三菱グループの「番人」だった上森子鉄

 石川県金沢市生まれの上森は昭和の文豪・菊池寛の書生から文藝春秋勤務などを経て、雑誌『キネマ旬報』の発行者としても知られていた。

 小池は後に、総会屋で月刊誌『現代の眼』主幹だった木島力也の寵愛を受けるが、この上森からも目をかけられる。

 ちなみに小池は新潟県加茂市の出身であり、木島力也も新潟県紫雲寺町(現・新発田市)と同郷だ。石川県生まれの上森を並べれば、3人は日本海の出身となるわけだが、これは偶然とは思えない部分がある。

 地方出身者にとって、東京で同じ地元の人間と出遭った時の感覚は独特のものがあるが、「冬の日本海」が骨身に染みた者同士にも似た連帯が生まれる。低く暗い雲を突きあげるように荒れる日本海の波を原風景として持ち、共に望郷の念を抱く。そんな人間の間には、どこか気脈が通じるのだ。

 話を戻せば、上森子鉄は三菱銀行だけでなく、当時でも20社を越える上場企業に顧問室を持ち、各社から「源泉徴収された顧問料」を受け取っていた。「企業内総会屋」と形容することができるかもしれない。

 普通、こんな総会屋はいない。賛助金や発行する雑誌の広告料で賄うのがいっぱいいっぱいの稼業だ。収入の額と、それを得る方法という意味でも、上森は文字通り雲の上の存在だったのだ。

<日本の代表的企業といわれる大会社には、ほとんどこの人のパイプがつながれており、三菱グループでいえば、その中枢である三菱銀行の株主総会は彼によって握られていると言われる。……とにかく三菱財閥本家である岩崎家でのパーティに出席できる『総会屋』はこの人しかいないといわれる……(『ドキュメント総会屋』小野田修二)>

 三菱銀行が、その上森に相談すると言うほど困っているのであれば、小池も黙るしかない。

「わかりました。上森さんに言うことはないですよ。質問は終わりますから。総会は終わらせますよ」

 小池は休憩終了後、自身が提案した動議を全て撤回する。そして今の小池は「小川は本田の社長に会えずに悔しいもんだから、私に意趣返しをさせたんですよ」と振り返る。

 語る者が2人いて、それぞれの立場によって「真実性」は多分に揺らぐ。とはいえ、それは片方どちらかの真実が間違っていることを意味しない。所詮は2人が見る角度の違いにしか過ぎないのだ。

■「肩書や地位が最後に嘘をつくんです、自分を守るためだけに、嘘をつくんです」

「世紀の贋作作家」ルサールと小池は、ブリュッセルの広場、グラン・プラスのカフェで何時間も語り合った。ヨーロッパで最も美しい広場とも言われ、話題は絵画の審美や、物事の「真偽」にまで弾んだ。

 ルサールの部屋に無造作に置かれた〝名画〟の数々が、よほど小池には印象深かったのだろう。日本からわざわざ「贋作の真作」を観たい一心で、神の手を持つ画家と語らうことを望んできたのだから、無理もない。

「本物とは何かということですよね。こうして、本物以上のものが出来上がってしまうわけですから。そうすると、われわれが有難がっている本物というのは本当は何なのかということを考えざるをえなくなりますよね。つまり、肩書きとか、地位とかじゃない、真実の価値は何かということなんですよね。もちろん、一番いいものは、どんなものでも、古今東西、富めるところに流れるというのは同じなのでしょう。でも、それと真実の価値というのは異なるということ。ルサールさんの絵を前にすると、そういうことをまさに胸に突きつけられる思いです。日本人は、肩書きとか地位が好きなんですが、そういうものが最後には嘘をつくんです。それも、自分を守るためだけに、嘘をつくんです」

 小池の語る信条を、私が細かく英訳して伝えている間、決して饒舌ではないルサールは、小池の目を見つめながら何度も、何度も深く頷く。そして小池はルサールにこうも告げた。

「正義は決して法のなかにあるのではなくて、それはきっと心のなかにあるんでしょう」

 神の手を持つ世紀の贋作画家、ルサールもまた、贋作を描くことで利益を得ようと目論んだわけでもなく、ただ絵を描きたい一心で、偶然に流れ着いた場所で必死になった末、「ルグロ事件」の主人公となってしまっていた。

 小池も前半生を必死で生き抜くなかで、はからずも居場所を見つけてしまった。それが世間からは「総会屋」といわれる場所であり、そして82年10月に「違法な場所」「非合法な場所」となってしまう。

 無論、社会悪を法が規定し、罰することに「悪意」があろうはずもない。だが法によって「悪」の枠組みが形作られ、定型化されることによって、そこで生きてきた者は「憎まれるべき存在」となってしまう──そんなところを、小池の心は巡っていただろう。小池は自身の前半生を首肯することはない。むしろ努めて批判的でさえある。

 小池は表と裏、本物と偽物が表裏一体と化した世界に生きてきた。だからこそ「価値」についての思いは、非常に強かったのかもしれない。自分自身の責任と言えばそれまでだが、流れの中で気がつけば、いきなり「悪」にされてしまう。そんな経験を持つという点で、ルサールと小池の人生は重なっていた。

 ルサールにとってもまた、小池の真剣な語らいと信条に共鳴するところがあったのだろう。「自分の友人に小池を紹介したい」と言った。この世で最も心を許し、自身の過去など全てを共有する、最も大切な友人の名前が告げられた。私は小さく驚きながら、納得していた。

 小池の言葉は間違いなく、ルサールの心を開いていた。彼が紹介する友人とは、弁護士のヴァン・ダムと、その妻だ。そして私たちはドーヴァー海峡に面したオステンドという海辺の町を訪れた。そこには夫妻の別荘があったのだ。現地では彼らの所有するヨットで食事が振る舞われたのだが、小池は中でもムール貝のスープを特に気に入った。これを日本に持っていけば必ずお客がつくと喜んだ。

 ブリュッセルから特急で一時間半ほどのオステンドは、海を渡れば、もうイギリスだった。関東でいえば、逗子や葉山といった都会人の保養地の趣がある。夫妻の部屋には、ルサールが贈った多くの直筆の絵が飾られていた。

 モロッコで大きな個展を開き、銀行家などの得意客も抱えているルサールが、今も贋作を生業にしているとは思えなかった。図らずも贋作作家となってしまった過去を強く戒め、逞しく今と将来を見つめている印象を受けた。

 その姿は、人目をはばかるようにして子供を育て、妻を思い遣ることのみに喜びを感じて生きている小池の姿と、やはりどこか重なって見えた。

 小池は逮捕された後、家族のため真っ当に、後ろ指を指されないよう生きてきた。ルサールも自身の運命を受け入れ、絵を描き続けることで自分と向き合い、修道士のように今を静かに懸命に生きてきた。

■山田慶一こと朴慶鎬によって「身ぐるみ剥がされた」小池隆一
 
 クロワッサンにハムとチーズ、そしてコーヒーが揃ったコンチネンタル風の朝食を終えた直後のことだった。いったん部屋に上がろうと、エレベーターが下りてくるのを待っていたその時、小池は唐突にこう言った。

「シンドラーのリストっていう映画あるでしょ。あれは感動したねー。主人公がこう言う場面があるんですよ。『お金は汚く集めても、キレイに使えばいいじゃないか』ってね」

 すでに〝元〟総会屋となって久しい小池が続けた。

「僕らも、商法改正前は違法じゃなかったんだけど、でも世間は決してそうはみない」

 ヨーロッパの首都であるブリュッセルには世界中の外交官が集まる。その生活水準はときに、パリさえも凌ぐといわれる。その街の、お世辞にも高級とは呼べない三ツ星ホテルのロビーで、小池は喉のつっかえを吐きだすかのように、そう呟いてみせた。

 97年に証券不祥事は発覚、事件化した。もう世間は忘れ去って久しい。だが企業社会の静寂は、小池が沈黙し続けてきたが故に守られているに過ぎなかった。小池は、しばしばこう漏らした。

「野村証券にしても、大和にしても、あっちの調書に出てきたところだけを、あっちがそういうならば、といって、私は認めてきたわけだから。私からは一切、しゃべってませんから」

 中小企業金融公庫総裁の水口弘一のことはとりわけ記憶にあるようだった。

 水口は従来、大蔵省の天下りポストであった公庫総裁に、民間出身者として異例の抜擢を受けた人物だった。かつて野村証券副社長を務めた水口こそが、証券不祥事に至る野村のやり方を決めた本人であった。

「水口が料亭に呼んで、一番最初にやり方を全部決めたんです。後の人はみんな、この人が決めたのを引き継いでいただけだから。あとに、中小企業金融公庫の総裁になったけれども、私が当時、彼の名前を出して話していたら、そういう地位にはきっといなかったでしょうね。当時、あれだけの事件になったんですからね。もし新聞とかに名前が出ていれば、当然、そこにはいないでしょう。でも、証取法は時効が短いから、当時も逮捕にはなっていないでしょうけれど、みんな、彼の後の人が捕まったわけですから。水口は時効で逃れたけれど、殺人犯が時効ですと言ったって、そんなものでは済まないでしょう。」

 そして、小池は一拍置いて、小さく呟いた。

「お前こそ、贋作じゃないか……」 

 97年5月、小池は第一勧銀や野村證券など金融関連企業から利益供与を受けた商法違反容疑で逮捕される。

 懲役9ヵ月の実刑判決を終えて出所した小池は、鹿児島県へと移住する。東京・六本木の事務所はほぼ引き払い、桜島の噴煙を望む空の広い土地を終の棲家とするべく、かねてから自宅も整えていた。

 出所以前から妻と子供と共に現地で暮らしており、移住は出所後に決めた話ではなかった。家族の健康のことを誰より留意する小池にとって、東京よりも抜群に空気が澄む鹿児島への移住は自然な流れだったのだろう。人目を避ける隠居という強いられた意味は皆無だったに違いない。

 そんな静謐な生活を送る小池の慟哭の声を聞いたのは、2010年4月20日の夜のことだった。

「私はもうだめだな。長くない……もうどうにもならない……」

 小池は電話がつながった瞬間、そうつぶやいた。その声は、小池と知り合ってから5年になろうかという時間のなかで、もちろん、一度として耳にしたことのないものだった。

「本当にもうダメだ。これじゃあ、ゴールデンウィークまで持つかどうかも分からない……とにかく家族だけは支えなければいけないけれど、どうにも……」

 そう言って、電話の向こうの声は涙声になり、そして小さな声で「申し訳ない。本当に申し訳ない……」そう言って、電話は切れた。

 小池がそこまで崩れ落ちることへの心当たりは少なからずあった。小池は紛れもなく、全てを失いつつあった。これまでの連載でも見てきたが、山田慶一こと朴慶鎬によって、ほとんど身ぐるみ剝がされたも同然だった。

 この4月20日の電話以降、小池は希望を失ったようになったかと思えば、生活を建て直すためになりふり構わない猛烈さも見せた。小池の気分の浮揚と沈降の落差は次第に大きくなり、周期の幅も狭まっていくように思えた。だが本当に凄まじかったのは、それでも小池が強く自身を戒めて生きていったことだ。

 細かなことに目をつぶれば、大きな報酬が入ってくることが明白な場面もあった。だが、れっきとしたビジネスの局面でさえ、違法なことはもちろん、脱法行為にも手を染めないと踏みとどまることは1度や2度ではなかった。

「後ろ指を差されかねないから、私は絶対にしたくない。それをすれば、あの小池が……とまた言われる。そうすれば家族につらい思いをさせる」

 それを聞かされる側からすれば「そこまで経済的に困っている状況ならば、その話を決して断ることはできないだろうな」と思うようなものでさえ、小池はためらうことなく断った。

 商法も刑法も総会屋を反社会的な存在と定めている。それは抗いようのない「事実」なのだ。しかし小池は総会屋だったが、出所後は少なくとも父親として子供を育て、家庭人として妻を支えてきた。自身の立ち位置はそれしかなく、人生の終末を良き父親として終えようと考えていたことは間違いない。そのために口をはさめば、顔を出せば「あの小池が……」と言われる状況から、ひたすら逃避していた。

 90年代後半から鹿児島で〝隠居〟に入ってからの小池は、そうして、かつての東京での知己の前からも、ほぼ完全に姿を消した。そして2010年、小池自身が危機的状況に陥った時、少なからず力になってくれそうな人間とは、ほぼ音信が途絶えていた。間もなく70歳になろうとしていた小池は、孤独な闘いを強いられた。

 その後も、上京の折にはお茶をし、電話での四方山話は幾度となく繰り返してきたが、小池には徐々に希望と絶望の勾配が頻繁に訪れるようになる。それでも決して小池は獣道を歩もうとはせず、違法性のない公道を歩もうとしていた。

 もし山田慶一と知りあうことがなければ、小池は2016年の今でも静かに余生を送っていたはずだと思いながら、それは違うかもしれないと考え直す。

 恐らく小池の人生は、ブリュッセルを訪れている時には既に狂わされ始めていたのではないか。あの時点では小池自身もまだ、激震の予兆にさえ気づいていなかったが。

■小池隆一が産経新聞の取材にだけ応じた意外な理由

 小路を楽しむのならば、アントワープは世界最高だと思わせる。

 何よりも時折、海風が、歴史を感じさせる石畳の上を吹き抜けていくのがいい。それもまっすぐではなく、時に小路に沿って蛇行して頬をなでていく。そして何よりも、その風が走っていく、曲がった先の風景は想像もつかない、そんな期待感と、心地よい不安に満ちている。

 たどり着く先に何があるのか見えない、そんな時間の流れをゆっくりと感じることができる町だ。そんな空気を小池はどう感じるのだろうか――。

 07年1月、旅程のすきを縫うように、ブリュッセルから列車に乗って、アントワープの王立博物館へと小池を連れ出した。博物館から駅へと向かう途上、突然の雨に見舞われた。その時の小池の一言が、総会屋人生を脱したあとのひとつの悟りに違いないと思わせた。大粒の雨がまるで季節外れの雹のように顔に叩きつけてきた。そのときだった。

「いいじゃないですか。ふつうのひとは雨にぬれて、ああ、いやな雨だな、濡れちゃったなと思うでしょう。だけど、こう思えばいいんですよ。雨が汚れを落としてくれてるんだなって。そう考えれば、嫌なことも良く思えるんですよ」

 旅をきっかけに、小池が上京する時は会って話した。またある時は、かつての友人との思い出話を語る席にも招かれ、私は小さな交流を始めるようになった。そんなときの帰りがけ、小池はそっと囁くことがあった。

「きっといつか取材したら面白いですよ」

 かつて、小池が携帯電話で応じた言葉尻をある作家がとらえて、活字にされたことがあった。小池が「ノーコメント」と伝えたにもかかわらず、コメントにしてしまったのだ。それを目にした小池は、実に寂しそうに電話をかけてきた。

「ものを書くひとたちはなんでああなんでしょうね。そんな上っ面だけに生きるひとたちになんかなにも語れませんよ」

 意外かもしれないが、小池がメディアに登場したのは、たった1回に過ぎない。逮捕前に鹿児島の自宅を訪れた産経新聞の記者にのみ取材に応じた。それを報じた記事は、小池の〝肉声〟を掲載した唯一の、最初で最後の活字となる。

 要するに小池は大のメディア嫌いと言っていいのだが、ではなぜそのときだけ取材に応じたかという理由は、いかにも小池らしい。

「その時の産経新聞の記者さんのとても丁寧で紳士的な態度が印象に残ったんですね。それで、東京に行った折に必ず連絡しますよと言ったら、わかりましたといって帰って行った。その時の雰囲気がとても紳士だったので、上京したときに、きちんと対応してあげなければ申し訳ないなと思って連絡したんです」

 総会屋などというヤクザな商売にある者が、わざわざ相手を選ぶのかと思う向きさえあろう。だが間違いなく、小池は「相手を選ぶ」タイプだ。とはいえ小池の選択は、相手の立場と地位によるのではなく、相対する人間に対する真摯さがあるかないかによるのだった。

 小池自身は誰に対しても紳士で真摯であり、相手に対しては言葉遣いどころか、それこそ箸の上げ下げまでを同時に、鋭く観察している。それは決して、総会屋であること、あるいはあったことゆえの警戒感からといったものとはまた別のものであったのではないだろうか。

(第6回につづく)

2016年6月30日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第4回「覚醒」─小池と贋作作家と総会屋

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 私と小池隆一は旅に出た。目的地はベルギー・ブリュッセル。「最後の総会屋」は「世紀の贋作作家」と呼ばれたレアル・ルサールに会うのだ。後述するが、ルサールが描いた贋作は少なくとも1000枚とも言われる。ピカソやモディリアーニが〝実際には描かなかった絵〟を誰もが真作と信じて疑わなかった。鑑定士は無論、画家本人が「若き日の自作」と太鼓判を押してしまうケースさえあったのだ。

■――――――――――――――――――――
【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【購読記事の文字数】8100字
【写真】自身の就任披露パーティーに臨んだホンダ・河島喜好新社長(左から3人目。2人目は本田宗一郎前社長 ※肩書は当時のもの、本田技研工業公式サイトより)
http://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/04_newdevelopment/index.html
■――――――――――――――――――――

 2007年1月8日、私たちはブリュッセル国際空港に降り立った。
 そして私は、半ば反射的に後ろを振り返った。なぜだったのだろうか。自分の行動であるにもかかわらず、理由がはっきりしない。
 EU域内に入国する入管審査ゲートの手前だった。小池も旅慣れているが、ブリュッセルの空港は初めてのはずだ。私と同じ列に並んだのか、気になったのだろうか。
 私が振り返ると、小池は腰を折り、床の上で背を屈めていた。靴の紐を結んでいるのか?──瞬時、声をかけるのをためらっていると、小池は立ちあがった。指先で何かを摘まみながら、周囲にチラと目をやる。列を離れ、小走りに柱へ向かう。その先にはゴミ箱があった。戻ってきた小池が言う。
「ゴミが落ちていたものだから……」
 入管ゲートの直前で床にゴミが落ちているのを見つけ、それを拾い、捨てに走ったのだ。12時間も押し込まれた、まるで棺桶のようなエコノミー席から開放された直後の振る舞いだった。
 陰徳を積む――。小池は、そんな生き方が大切だと思っている、そう話した。それが、およそ30も歳の離れた小池と、果ての見えない〝旅〟を決意した瞬間だったのかもしれない。

■小池が関心を抱いた「世紀の贋作作家」レアル・ルサール

 12時間前、私は成田空港からブリュッセルへと向かう飛行機に乗り込んだ。隣には小池が座っている。
 小池は自身が座るはずだった窓際の席を譲り、いささか窮屈であろう真ん中の挟まれた席を選んだ。昭和18年生まれの小池からみれば、私は息子ぐらいの年齢に違いない。そんな同行者にも細やかな気遣いと心配りを示す。その姿勢は、小池が他人のことを考える余裕さえないだろうと思われる状況でさえ、不変であり続けた。
 これまでに多くの経営者、実業家、起業家と呼ばれる人物の素顔を、少なからず見てきたつもりだった。ほとんどの者は、自身を取り巻く環境や目指す道が好調な時には他人を気遣う余裕と鷹揚さを示すが、いったん状況が一変するや、常々の紳士淑女ぶりが、いかに仮面にしか過ぎなかったのかを教えてくれた。
 小池と共にブリュッセルを旅し、彼を深く知った。その後に小池は、この連載で触れたように、人生で最大の苦境に直面した。そんな時でさえ、小池は他者に優しく接した。自分自身を厳しく律していた。
「いや、それは違う。小池はそんな立派な人物ではない。企業を脅して生きてきた卑劣な総会屋なのだ」――。こんな非難の声があるかもしれない。だが私は仮にその指摘が事実だったとしても、私が信じる小池の「素顔」と矛盾するとは考えない。
 小池は人間としての芯が強い。それは生まれ持っての部分がある。だが、それだけではない。おそらく侮蔑を含んだ声で世間から「総会屋」と呼ばれた前半生の経験によって、生まれながらの素質を更に強化したのだ。
 いや、脱線してしまったかもしれない。旅の話に戻ろう。我々はレアル・ルサールに会うために飛び立った。
 自身が絵画を愛好するだけでなく、小池はルサールの騒動を日本側から描いたノンフィクション『銀座の怪人』(七尾和晃・講談社BIZ)を読んでいた。そして六本木の麻布警察署向かいにある老舗の洋菓子店「クローバー」2階の喫茶室で、ヨーロッパを訪ねてレアル・ルサールに会ってみたいのだと小池から告げられたのだった。
「わたしはね、企業の表と裏をずっと見てきた男です。経営者の表と裏もね。真作も贋作も紙一重であること、いや本当はどっちも同じであること、そんなことをおそらく誰よりも見てきたかもしれない。人間という贋作に大変に興味があるのです。会って話をしてみたいのです。もしよろしければ、通訳をしていただけませんか」
 そして私も小池と共にブリュッセルへと向かうことになった。贋作作家レアル・ルサールもまた、小池同様に渦中の人となったことがある。映画監督オーソン・ウェルズが『フェイク』としてドキュメントフィルム化するモデルとなった「ルグロ事件」の陰の主人公だった人物だ。しかも、そのルグロ事件は日本とも無縁でもなかった。今や忘れ去られて久しいが、日本でもいまだに、このルグロ事件の顚末はそのすべてが詳らかにされることなく、時間のなかで曖昧模糊に伏せられ続けているのだ。
 私が小池の〝代理〟としてルサールに連絡をとると、日本からの来客を歓迎すると言い、もし来るのであれば、アフリカ大陸モロッコにある自身のアトリエにもぜひ案内したいと言ってきた。
 まずはブリュッセルにあるルサールの自宅に向かい、その後、モロッコのアトリエを訪れる計画を立て、飛行機のチケットを手配した。かくしてルサールを訪ねる旅が始まった。

■国立西洋美術館にも激震を発生させたルサールの「本物の贋作」

 1966年、日本――。参議院文教委員会での社会党・小林武の質疑をきっかけに、東京・上野を舞台にした贋作疑惑に火が付いていた。フランス人画商・ルグロから国立西洋美術館が購入した三点の西洋画が贋作ではないかというものだった。
 アンドレ・ドランの『ロンドンの橋』、ラウル・デュフィの『アンジュ湾』、アメデオ・モディリアーニの『女の顔』だ。国立美術館が購入に2600万円の国費を費やしていた。真贋の追求を免れるはずはない。
 3年の月日をかけた調査は結局、「真作とするには疑わしい点が多いといわざるをえない」と、歯切れの悪い文化庁の「灰色宣言」で決着した。国立西洋美術館は1971年、コメントを発表する。
「まことに申し訳ない。責任のない、タチの悪い画商につかまったのが間違いだった。私自身、これらの作品を買うときに選定にあたったわけで、その時は『できが悪い線だな』と感じていたが、あえて発言しなかった。」(山田智三郎館長)
 文化庁の出した「灰色宣言」によって騒動は終わりか、と思われた。ところが、この3点の絵画は85年に突如、「クロ」を宣告される。カナダ人画家のルサールが、画の作者であると名乗り出たのだった。
 ルサールはルグロ事件の真相を自ら綴り、フランス国内でベストセラーとなった。94年には日本語版『贋作への情熱』(レアル・ルサール著・鎌田真由美訳・中央公論社)も刊行される。ルサールは67年、ルグロに国際逮捕状が執行されて以来、じっと息を潜めてきたのだ。
 そうして全貌が明らかになったルサールの贋作だったが、その〝作品群〟は前・後期印象派、ブラマンク、ローランサン、モディリアーニ、マティスと、世界市場で値の張る有名画家の全てを嘗め尽くした。
 日本では国立西洋美術館のほかに、私立美術館にも贋作画商たるルグロの手によってルサールの贋作が持ち込まれていた。ルグロはルサールの特異な才能を見抜くや、60~70年代にかけ、多くの有名画家を真似た絵を、まだ青年だったルサールに「模写」や「習作」として大量に描かせていた。

<僕は自分にインスピレーションを与えてくれた画家たちの背後に、「自分らしさ」を探していた。そして毎回彼らのテクニックは僕のものとなった。画家のスタイルを試しながら彼の作品を頭に描いては自問した、「なぜ、彼はそうしたのか」と。僕はそのしぐさやテクニックを再現してみて、それが完全にできるようになると、どうしたらもっとよくなるか研究した。(『贋作への情熱』より)>

 ルサールは、癖や筆使いのまったく異なる画家の絵でも瞬時に真似できてしまう、特異な才能を持っていた。85年に贋作画家として名乗り出る以前には、ルサールの贋作は時に鑑定の第一人者・ウィルデンシュタインやパシッティはおろか、著名な国債競売会社・サザビーズのチェックさえ堂々とすり抜け、世界中の国公私立の美術館に流れていった。
 驚くことにルサールの〝巧さ〟は、巨匠本人の目をもくらませた。生前、ヴァン・ドンゲンは自身の手で「若き日の作品」としてルサールの絵に自らのサインを描き入れ、アンドレ・ドランの未亡人は「夫の作品」として鑑定書まで発行していた。
 ところが、そうして制作された相当の数に上る画がどこに飾られているのかは、これまで大きな謎だった。日本でもその保管先の一部は分っていた。国立西洋美術館や大阪の個人収集家の手元にあった。だが、いまだにルグロ事件で世界に流れた贋作絵画の行方はそのほとんどがわからないままだった。

■小池隆一がルサールに会おうとした「理由」

 ルサールはブリュッセルのアトリエに小池を迎えた。
 小池はそこに広がる光景に息を呑んだ様子だった。〝巨匠〟の絵がそこかしこに無造作に置かれている。
 ピカソ、モディリアーニ、デュフィ、ドンゲン、そしてマティス、ローランサン……。不思議なことに、そのどれもが確かに模写を超え、1つの作品として生き生きと息づいているように見える。
 ルサールの贋作が天才的にユニークだったのは、ルサールは同じ構図のコピーはしないことにあった。ルサールは巨匠の筆使いで、新しい構図を描いたのだ。つまり巨匠の〝新作〟が新たに流通することになる。
 ルサールによれば、それは次のような作法だ。
〈巨匠の絵は何故、讃えられるのか――。独特の筆使いによって表現を試みた、いわば巨匠のエッセンスを「解釈」によって抽出し、他のキャンバスの上に未知の構図で甦らせる〉
 だからこそ、それは構図を移した贋作ではなく、真作として流通できたのだろう。
 実のところルサールは、日本人ジャーナリストの取材も受けている。その中でルサールは自身が書いた贋作の数を「5000枚」と答えた。更にジャーナリストと絵の在処を巡り、次のような応答があったという。
「今までに所在や行方がわかっているのはごくごく一部ですよね?」
「そう。日本では国立西洋美術館やブリヂストン美術館にあるし、その後、私が手記を出した後には世界中から何人かが、『あなたの描いたものではないか』といって手紙をくれたことがあった」
「描いた贋作の大多数が、その行方がわからないということは、今現在も流通している可能性がありますよね。鑑定書がついたまま……」
「そうだね。何枚かは分かっているけど、ほとんどはどこに行ってしまったかは、分からないね。ルグロの倉庫から気が付いたら全部なくなってしまっていたんだからね」
 ルサールの描いた贋作は、米国の富豪コレクション、フォード財団やメドウズ財団にも購入・保管されていた。60年代から70年代にかけて、世界経済が戦後期から高度成長の好況期に突入しようとする時期、乾ききってひび割れた大地に焦がれた雨が浸み込むように、レアルの5000枚は貪欲に買い取られていった。
 このジャーナリストが雑談に「昨日、列車でアムステルダムのゴッホ美術館に行ってきました」と話を振ると、ルサールは驚くべきことを口にした。
「ああ、あそこにも私の贋作が飾ってあったよ。4、5年前だったかな、その絵をみた瞬間、心臓が止まりそうになったよ。『あっ、ああっ』って。かつて描いた自分の絵があんなところに飾ってあったなんて。しばらく呆然と立ちつくしたんだ。あの絵を描いたときはある部分の筆使いに特徴を出したから自分でもよく覚えていたんだ」
「それ……美術館には教えたんですか?」
「いや、教えなかったよ、結局ね。今でも飾ってあると思うよ。ゴッホのレゾネ(図録)にも載っている絵だからね」
 そう言って、ルサールは静かに微笑んだ──。そして世紀の贋作画家、ルサールの横に、企業と経営者の表と裏、さらに言えば「企業家という贋作」とかつて対峙してきた小池が立った。
ルサールは5000枚に及ぶ贋作を書き上げた。わずか10年にも満たない短い時間で、だ。猛烈に、狂ったように描きあげていったに違いない。そこには強烈な動機があっただろう。尋常ではない集中力に人間を導くものがあるとすれば、それは決して「金」ではなく「本能に根ざした欲求」だ。
小池がルサールに会ってみたいと思ったのも、当然ながら単なる好事家が自慢話を増やすためではない。小池が無意識、本能的にルサールの人間性に共鳴を覚え、自分の姿と生き方にダブらせたからだった。

■総会屋として「デビュー」した小池隆一

 新潟から上京してきた小池が初めて総会に出たのは、25歳の頃だった。
「日本セメントの総会でね。それが初めて、総会に出たとき。そのときに『ぎちょー』って発言するために手を上げたら、他からも『ぎちょー』なんて聞こえてね。こっちも初めてだし、勝手がわからなくて、とにかく発言しないといけないから、『ぎちょー』って。そしたらどっかからも『ぎちょー』でね。それが、児玉だったんですよ」
 児玉英三郎は、のちに関西では知らぬ者はいない総会屋としてその勇名を馳せることになるが、この日本セメントの総会で2人は初めて面識を得る。
「総会が終って挨拶したら、『私も初めてで』『いや、実はこっちもで』なんて会話になってね。それで児玉が『今後ともよろしゅうお願いしますー』なんて関西弁で言ってたことがあって、お互いに初めての総会デビューだったから、それをきっかけの付き合いになったんですよ」
 後に児玉は山口組に入り、いわゆる武闘派としてもその名を轟かせる。94年の富士フィルム専務の襲撃事件では、背後関係で名前を囁かれるなど、一般社会でも畏怖される存在となった。
 児玉が山口組へ入るきっかけも、実は総会にあった。
「なんの総会だったか……。児玉はある時、総会後に、その企業の与党総会屋にぼこぼこにされちゃったことがあったんですね。それで、この野郎、と悔しくて胸に期するものがあったんでしょうね。それから組に入っちゃったんですね」
 児玉は関西で1、2を争う総会屋となり、西の児玉と呼ばれる。そして「西」があるのなら、東にも双璧を成す者がいるのが常だ。それは後に住吉会の本部長にまで駆けあがった五十嵐孝だった。
「西の児玉に、東の五十嵐」――。
 小池は五十嵐ともひょんな事から縁が生まれ、この東西の両雄と知己を得る。東西のどちらにも顔が利く存在として、並みの総会屋から図抜ける素地を得たとも言えよう。
 70年代の高度経済成長期の日本企業で、この東西両雄の総会屋から攻撃されなかった企業はなかったといってもいい。その両雄に小池は顔が利く。企業社会にとってはこれほどありがたい存在はないということになる。小池に話を通せば、それこそ、日本全国、どこでも話が通るということになるのだ。
 両雄と互いを認める関係になるには、もちろんカネは関係ない。人間関係の素地が必要であることは、こうした世界でも当然だった。いや、むしろカネだけでは決着のつかない世界だからこそ、人間関係の機微が決定的に重要にもなる。
 なぜ小池は裏社会からも信用を得ることができたのか。それを解き明かすため、少し長くなってしまうのだが、ちょっとした引用をさせて頂きたい。今となっては「最後の大物総会屋」と形容されることの多い小川薫の手記だ。当時、小池にとって小川は〝上司〟とでも言うべき存在だった。
 先に登場人物の註釈を書かせて頂くと、河島喜好氏は1947年に浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)を卒業し、本田技研工業の前身である本田技術研究所に入社。73年に本田宗一郎の後継者として、45歳で第2代のホンダ社長に就任、83年に退任した。2013年10月、85歳で死去している。

<四月二十四日、東京・大手町のサンケイ会館で、河島喜好社長の議長ではじまった株主総会。のちのホンダ、当時の本田技研工業は、過去最高の経常利益を上げるなど、順風満帆だった。
 河島議長が、営業報告に入ろうとした瞬間、小池君が「議長」という鋭い声を出して立ち上がった。
「私、株主として、こんなことを議長さん以下役員の方々に言うのは、まことに失礼かと思いますけど、商法の第二四七条に、“著しく不公平な決議をした場合は、決議は適法に成立しない”というような条項もございます……。株主総会は、言うまでもなく、会社の最高の意思決定機関でありますので、株主総会においては、決して株主の発言を無視することなく、良心的なお答えをいただきたいということを、特にご要望申し上げて、二、三質問に入らせていただきます」
 凄みのある前置きだ。総会屋の発言だと思って、甘くみるなよという恫喝だった。
 質問に入って、小池君は、河島社長が二十一万株、川島副社長が四十八万株、自社株を持っていることを取り上げる。一般の取締役は株数が少ないのに、なぜ、代表権を持つ役員は株数が多いのか。そして、小池君は自分のところに投書がきているという。
「投書の話ですけど、おそらくこれ(河島氏の持ち株)は子会社あたりの株を名義書換で持っているのではないかとか、本田さん(創業者)がお人好しだから、かわいい、かわいいと言って、プレゼントしたんじゃないかとか、いろいろ書かれている……」
 こうした執拗な質問に、河島社長は立ち往生しながらも
「私の個人的な問題でございますので、お答えしにくいのでございますが、いずれにしましても不正行為をもって、あるいはやましい行為を持ちましてこのようなこと(持ち株)になったのではございません」
 そして、従業員持ち株制度がはじまったときに取得したこと、そのときの七百株が増資で増えたなどと説明する。しかし、そんな答えで引き下がる小池君ではなかった。
「その七百株が増えに増えて、二十何万株になったということか。増資、増資でこうなったということか」
 と、畳み込んでいく。
 河島社長は、銀行借り入れを「家屋敷を担保に入れて」行い、株を買い、増資に応じてきたと説明する。
小池「いつごろ、(担保に)入れてますか」
河島「ずっと、前からでございます」
小池「いまだに、入ってますか」
河島「いまだに、入ってます」
 この河島氏の答えが致命的だった。そんな質問など、答える必要がないとでも言っておけばよかったのだ。
 河島氏の答えは、小池君にとっては「思うツボ」だった。彼は一段と声を張り上げた。
「私、あなたをペテンにかけたわけじゃないけど、株主の皆さん、よく聞いて下さいよ。いま、社長は、家、屋敷を担保に入れてカネを借りたと言いましたよね(その通りの声あり)。私は、昨日、登記所に行って調べてきた。河島喜好、建物、所在練馬区石神井町五丁目……。木造平屋建て、十四坪八十二。宅地六十五坪四十三……。登記所に行って調べてきたけど、全然、担保に入ったことはないし、いま現在も入っていない。ウソを言ったんだ、あなたは。あなたは、私に株主総会という公然たる席で、ウソを言った! それ以上はあえて追及すると、いろいろ問題が出るから、僕は追及しない。ウソを言った。いいか、わかったか。それだけ言っておくぞ!」
 小池君は勝ち誇ったように言った。
 気の毒に河島議長は「私は事務的なことについてはよくわかりませんので、誤っておったと思います」元気のない声で答えていた。
 しかし、小池君という男は、こんなことでは鉾を収めなかった。
 私はこのころでも小池君に、「ちょっと、やりすぎじゃないのか」と話したこともある。しかし、小池君は「社長、とことんやりましょう」と意気軒高だった>

 このとき小池は、小川企業株式会社の副社長職にあった。小池からみれば、小川はあくまでも「社長」、小川からすれば「小池君」という間柄になる。小川の回顧録の流れではしかし、小池が〝暴走〟しているかに見える。
 だが、後述するが、小池側の言を踏まえれば、状況は異なる様相を見せてくる。

(第5回につづく)

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