2017年2月9日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第14回「小池の手紙」

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(承前)2012年7月、株式会社大都市政策研究センターがある東京都中央区銀座2丁目10番18号の東京都中小企業会館と同じ所在地と、約款もほとんど変更されず、新しい「株式会社大都市政策研究センター」が設立された。

 なぜ、こんな〝トリッキー〟なことが行われたのか。銀行マンが「考えられる可能性」を解説する。

「1つは、例えば旧・大都市センターの代表取締役を辞めさせると、不都合が生じる場合です。具体的には大都市センター名義で借入金があり、代取の金子清志氏が返済の個人保証を行っている、といったケースが考えられます。旧・大都市センターでは金子清志、前川燿男の2人が代取でした。仮に金子氏が代取を辞職すると、前川氏が借入金の個人保証を行わなければなりません。それが嫌で新しい法人を作ったという経緯です」

 この分析が事実だった場合、当然ながら旧・大都市センターは、借金まみれということになる。

 私の取材に対し、大都市センターの代表取締役を務めていた前川──ご存じの通り、現在は練馬区長──は、

「あそこの従業員からクレームが多くてね。金子が支払いばかりをこっちにまわしてくるとかね。それで、仕方なくね、会社を移したんだ」

と答えた。これに銀行マンは着目する。

「もし『支払いばかりが押し付けられて』という話が本当なのであれば、もともと旧・大都市センターは損失の受け皿にするために設立したのかもしれません。負債を押し付けるペーパーカンパニーは実のところ、かなり多数存在しています」

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【著者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】東京都都市整備局『東京都市白書 CITY VIEW TOKYO』より
http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/topics/h28/topi002_01.html
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 損失だけを引き受ける会社を作ることは、違法とは断言できないそうだ。そもそも銀行は捜査権がないため見抜けない。仮に国税の査察が入っても、帳簿上に取引記録が書かれてあれば、脱法行為と認定するのも難しい。こうした理由から、「損失専門会社」の実態を監視することは事実上、不可能なのだという。

「この旧・大都市センターの法人口座を、新・大都市センターが継続して利用している可能性も考えられます。そもそも、旧法人の名称を変更し、同じ所在地で、同じ名称の新法人を登記するというのは異常です。そこまでして表向きは同じ法人であるように見せかける必要があったわけですが、法人口座の問題は動機になり得るでしょう」

 会社の設立は比較的容易だが、法人口座の開設はマネーロンダリングの観点から現在、極めて審査が厳しくなっている。

「新会社の法人口座を作るのは簡単ではないので、旧・大都市センターと同じ名称とせざるを得なかったかもしれません。あるいは、旧センターの口座で運用中の取引が存在するため、どうしても口座だけは新法人でも引き継がなければならなかった可能性も考えられます」

 興味深いことに、2012年8月頃、東京都中小企業会館の大都市センターの事務所では、こんな場面が目撃されている。山田と金子が「社判」をめぐって諍いを展開していたのだ。

「代表印を渡すのならば、代取はおろさせてもらわなければなりません」

 文面だけでも、金子の強い決意が伝わってくる。実際、相当な剣幕だったという証言もある。さすがの山田もたじろいでいたという。「異常」は言い過ぎでも、「異様」な場面なのは間違いない。

「ただし、旧法人の法人口座を、全く別の新法人で使用する場合、銀行は絶対に問題視します。また口座の譲渡が法規に触れる可能性もあります」(同・銀行マン)

 旧・大都市センターの役員たちは一部を除き、この名称変更など「法人移行」の動きをまったく知らされていなかったのだ。

 一連のトリックを見抜いたのは、小池である。それを知った私は、眼光紙背に徹すが如き目力と、追い込まれた時の執念に驚かされた。

「法人番号が変わっている。これは新しい会社だ。企業がこういうことをするときには必ずただならぬ事情がある。そして、悪事がそこには必ずある」

 自らをしゃぶりつくした山田の身辺を、小池は執念で追っていた。

 

「他人の信頼を勝ち取る方法」を知り抜く山田慶一

 
 旧・大都市センターの役員ですら「そもそも会社設立以来、株主総会はおろか、役員会が開かれたこともない」と証言する。これが事実だとすれば、センターの異様さは一層増してくる。

 だが、大都市センターが新旧移行する中で、唯一、業態が一貫している存在がある。それが山田慶一だ。

 山田の机と事務所は、一貫して大都市センター内にあり、多くの企業関係者が呼ばれる場所も、面会する場所も、東京都中小企業会館内のこの事務所だ。

 第13回で、机の上に3億円が積まれた場面を紹介したが、その〝現場〟も、このセンターにある山田の机だった。

『【会員無料】『哀しき総会屋・小池隆一』第13回「千代田&練馬区長」の〝過去〟』
http://www.yellow-journal.jp/series/yj-00000444/

 小池が三菱商事の三桝素生、そして金子、山田との面会に指定されたのも、この東京都中小企業会館の事務所である。

 前川は、自身が代取を務める法人で、まさに社内で行われてきた策動の数々を、まったく知らないと言う。だが、その回答には決して逃げを打つだけだとは思えない信憑性が感じられた。

 実際、山田と金子が大都市センターを舞台に展開させる〝プロジェクト〟の数々は決して、思惑とスキームの全貌が他者に明かされることはないからだ。関係者は、ごく一部の事実しか明かされず、基本的には善意を悪用されて手伝うはめになる。

 もちろん、何もかもが善意を動機としているわけでもない。「山田と金子に寄り添っていれば、きっといいことがあるに違いない」「経済的なリターンも、いつかは得られる」──こんな下心も、もちろんある。

 だが恐ろしいのは、山田は言質を与えることなく、そうした善意と下心を他人から引き出すところだ。そんなマジックに、センターという〝舞台装置〟も、相当な寄与を果たしているのかもしれない。

 センターにおいて、山田はさながら最高の演出家というわけだ。さらに言えば、金子は〝出し物〟の手配師といったところだろう。

 そのひとつが連載第2回で触れた、ベトナムでの発電所入札事業という、三菱商事が関係する〝出し物〟だ。

『【連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第2回「陰謀」──ODA・ベトナム火力発電所建設入札で〝暗躍〟した「伊藤忠」「三菱重工」「三菱商事」の抱えた「あまりにも深い闇」』
http://www.yellow-journal.jp/series/yj-00000248/

 山田は「ファイナンスはぜんぶ任せようと思ってまーす」と言ってはさらなる出資者を募り、あるいは「もうすぐこれでまとまったお金が入って来るので、そこから1億円をお支払いできます」と、さらなる金集めに励むのだ。

 だが、これだけなら、世の中に多数転がっている、月並みな「事業家」の──その別名は詐欺師だが──1人に過ぎない。

 山田たちが凡庸ではない点は、検察、警察、国税といった、捜査当局の介入をすんでのところで回避し、組織崩壊を防いできたところにある。彼らを支えたのは自民党一党支配という社会体制であり、更に田中角栄「越山会の女王」佐藤昭の影があった。

 とはいえ、これだけでも、彼らの評価には足りない。決定的な凄みは、後ろ盾が時代の移り変りで衰退していったにもかかわらず、現在に至るまで他人の信頼を勝ち取っているという点にある。信頼される方法を山田は知り抜いている。1番重要なのは誰もが理解しているように「絶対的な政治力」だが、2番を把握している者は少ない。それは「公的な存在」というカードだ。

 実際、山田にとって最大の後ろ盾だった佐藤昭は、大都市センターを設立してほどなく、2010年に鬼籍に入る。衰退どころか、消滅してしまったのだ。

 1番だけの男なら、同じ道を辿っただろう。しかし、山田には2番も知り抜いていた。

 だからこそ「都庁OBを受け入れる会社」との目的を掲げ、東京都人事の天皇と呼ばれた小豆畑を納得させることができたのだ。加えて代表取締役に元知事本局長の前川を据えさせ、いわば〝山田劇団〟の信頼性を確保した。

 東京都という「公的な存在」の価値は重い。日本では単なる地方自治体のレベルに留まらない。予算規模はアジア諸国の国家予算を遥かに凌ぎ、オーストラリアと同規模というレベルに達する。

 東京都庁の元知事本局長とは「一国の主」に匹敵し、東京都中小企業会館とは「城」に等しいだろう。山田慶一は「一国一城の主」を神輿に担ぐことで、自身に関する青天井の信頼性を手に入れたわけだ。

 ここにおいて「大都市政策研究センター」という、株式会社というよりは、むしろシンクタンクを連想させる社名が効いてくる。誰もが「よい方向に」誤解してくれるのだ。

 前川は株式会社の代表取締役だったにもかかわらず、名刺には「理事長」と記されていた。当然ながら、公益法人か財団法人という印象の強い肩書だ。そして金子は「理事」の名刺を持っていた。

 その大都市センターに積まれる3億円もの札束は、果たしてどこから来て、どこへ消えていったのか――前川は自身が知る限り、大都市センター名義で受注したのは、「杉並区からの調査委託事業だけしかない」という。

 区が発注する委託事業の予算規模は、もっと常識的な額だ。3億円もの額が机の上に無造作に積まれうるはずもない。というより、そもそも億単位の現金を積むという状況は、金よりも重要な思惑があることを示唆している。

 

「戦中生まれ世代」に属する小池隆一と「団塊の世代」の違い

 ヨーロッパ旅行から帰国直後、小池が口惜しそうに電話をしてきたことがあった。聞けば、鹿児島駅前の大型スーパー・ダイエーで、小池の長男が事故に遭ったという。

 エスカレーターの上で転落し、意識を失ったそうだ。

 一緒にいた弟が助けたが、上下の歯をひどくぶつけたらしく、ボロボロに折れてしまった。更に心肺停止状態に陥ったのだが、たまたま居合わせた女性が人工呼吸で蘇生させてくれた。長男が一命を取り留めて安堵すると同時に、小池には忸怩たる想いが沸き上がった。

「その時、ダイエーは何もしなかったんですよ。文句の一つも言いたいけれど、そうすると『あの小池が……』と非難される。でも、これも報いです。『大難を小難に、小難を無難に』という言葉があって、その通りだな、と考えました」

 元総会屋と知らぬ者が相対していれば、小池を哲学者と考える人間もいるのではないだろうか。それほど小池はストイックというか、求道者のような雰囲気を滲みだしている。

 それは見かけだけの話ではない。語る内容も語彙も実に多岐にわたる。引退した者にありがちな自慢話どころか、思い出話さえ滅多なことでは口にしない。

 小池は昭和18(1943)年の生れだ。第1次ベビーブームは昭和22〜24(47〜49)のため、いわゆる「団塊の世代」よりは数年、年長だ。世代論的には極めて似通っていても、小池たちは「戦中」に出生し、ベビーブーマーは「戦後」生まれという違いは大きいだろう。

 かつて昭和16(1941)年から、21(46)年までに生まれた世代を「戦中生まれ世代」と呼ぶ動きもあったようだ。初耳の人が多いはずで、定着しなかったことが簡単に分かる。

 とはいえ、第2次ベビーブーマー世代に属する私からすると、この「戦中生まれ世代」のキーワードは「忍耐」と「体験の捉え方」だと考える。つまり小池のように「戦中」を知る者と、「戦後」しか知らぬ者を比較すれば、危機に直面した時の粘りが全く異なるように思えるのだ。

 例えば日本国憲法の公布は昭和21(46)年だから小池は生まれているが、団塊の世代は誕生していない。朝鮮戦争は昭和25(50)年で小池は7歳だが、ベビーブーマーは3〜1歳ということになる。

 確かに団塊の世代も、戦争の記憶を鮮明に引き継いではいる。とはいえ、戦後の混乱期に数歳の差は大きい。何より小池たちの親は、空襲の中で乳呑み児を育てたのだ。一応は平和の中で養育した団塊の世代の親たちと最も違うところだろう。

 やはり団塊の世代は、終戦直後の空気を肌で知るには若すぎる。物心つき、多感な青年期に差し掛かった頃には昭和39(64)年の東京オリンピックを迎えた。経済白書が『もはや戦後ではない』と記述したのは昭和31(56)年のことだ。

 つまり第1次=団塊の世代と、第2次=団塊ジュニアの両ベビーブーマーは、いずれも戦後経験しかないというところは同じだ。戦中を知る者からすれば「いい時代しか知らない」世代とも言える。

 更に第1次世代は高度経済成長の波を受け、バブルという再び訪れることのない波にも乗った。その恩恵を受けて第2次ベビーブーマーも成長してきた。

 その団塊の世代が大量に退職したとき、各地の公民館は彼らで溢れ、その在勤中の苦労話こそが、あちらこちらで、憚られることない直截的な言葉で華を咲かせることになる。

 だが、小池もそうだが、戦前生まれの人間からは、問われるきっかけでもなければ、いかに自身が苦労したかという話は自然に発生しない。空襲にしても、戦中のひもじさにしても、そうした抗い得ない宿命としての体験が、死をも間近に感じさせる体験が、避けて通ることのできない局面が人生にはありうるのだということを肌で知っているからなのではないか。

 優劣を問うものではない。ただ、団塊世代の苦労と、戦前生まれのそれとでは、死線を彷徨うという決定的な質の断絶ではないのかと思えた。

 そんな時代背景が、小池隆一という人間の背中の片隅にもやはり漂っているような気がした。だからこそ、小池が2012年8月に送った手紙は、他の誰でもない、小池本人がこれまでにない屈辱に耐えて書きしたためたに違いないと思わせるものがあった。

 

経済的な破綻に追い詰められていく小池隆一

 
これから小池の手紙を紹介する。明確な誤字は修正したほか、文中には私の註釈が存在する。

被通知人 山田慶一 殿

 

 

 いつも貴殿とは東京でお会いしておりましたが、私はとうとう貧乏の極に達し、飛行機代もホテル代も無い状態で、もはや気軽に東京へ行けなくなりました。止むを得ず、用件は電話による会話がほとんどとなってしまいましたが、平成二十四年の新年を迎えた一月以降、貴殿とは会話らしい会話はほとんど行っておりません。

 

 

 思い起こして、振り返ってみても、真面目な、誠実な、真剣な会話は、ここ二~三年間を考えてみても、全く無かったように考えております。

 

 今回、この通知書を出さざるを得なくなったことにしても、この一週間というもの毎日毎日、何回も何回も貴殿の携帯電話に連絡をしても、何時も何時も留守番電話になっており、必ず「お電話を下さい」とメッセージを入れているにも拘らず、全く連絡が無い日が続いておりました。

 

 もちろん貴殿の銀座の事務所の方にも電話を入れましたが、女性事務員さんの対応は「私も連絡をしているのですが、全く連絡がつきません。連絡がつきしだい小池さんの方へ電話を入れさせます。」というお返事が十六日から二十三日までの六日間も続いておりました。

 

 そこで私は女性事務員さんに「こんなに事務所の方に連絡が来ない、事務所の方から連絡を入れても連絡が取れない等という事は、およそ有り得ない、考えられない話しでしょう。何か事故とか病気とか警察にでも捕っているかでなければ有り得ない事でしょう。とにかく電話を頂きたい事をお伝えしてください」と言って電話を切るより仕方ありませんでした。

 

 しかし、考えてみれば、こうして連絡が取れない状況は、この六日間に限らず、その以前からの事ではありました。

 小池【註:筆者判断で、小池氏妻の名前を削除】のお母さんが、胃癌と肺癌の二カ所が発見されて、鹿児島の方の国立南九州病院で色々と検査をしたが肺の方は難しいような印象のお話しを医師がされるので、やはり、もっと医療レベルの高い東京の病院で手術をやって貰わなければならないことになったので、どうしても入院・治療費及び【同】さんが付き添いのために料金の安いホテルに滞在しなければならないので、その費用等を見積ると、かなりの金額になるので、その費用の方を何とかして欲しい」と電話でお願いをしたことから貴殿との電話連絡が途絶えがちになりました

 小池はすでに、この山田にずいぶんなお金を貸しこんでいた。

 だが、一向に返済されないどころか、さらには貸し込んでいるお金を返してもらうためにさらに貸し込まなければならない展開に持ち込まれ、ついに、この「通知書」で悲痛な心境をさらけ出す。

 小池にすれば、何とか、こちらの心中を、その切迫した心中を相手に理解してほしかったに違いない。

 この通知書の発送後、小池は幾度となく私の携帯電話を鳴らし、この山田が現在、どのような状況にあるのかについて自身の推論を話して聞かせたが、小池はこの時点でもなおも、この男の誠実な対応を心のどこかで一縷の望みをつないでいた。

 だが、小池が相対する山田という男は非情だった。手紙の引用を続ける。

 

 二月の始めに入院・治療費でお金が必用になったことの説明と同時に平成二十一年三月三十一日に小池【同】さん自身が貴殿の口座に振り込み送金をして緊急に融資をしたお金壱阡萬円を返金して欲しいという催告を込めた電話を私が貴殿に入れた時の会話では、貴殿は「何とかしなければならないですネ」「どの位の費用がかかるのですか?」と私に質問をしてきました。

 

 私は「さあー。どの位かかるのでしょうか?胃癌の手術と肺癌の手術を二度手術するわけですが一回で二度の手術をするわけにはいかないそうです。まず、どちらかの手術を先に行って、様子を見たうえで、もう一方の方の手術をすることになると聞いております。

 そのうえ、鹿児島から出たことの無い八十五歳のお婆ちゃんで、鹿児島弁が凄いので、一般病棟では過ごせないと思うので、個室に入って貰わないといけないのですが、その個室が最低料金の部屋で一日二万九千五百円、約三万円なのだそうですが、それは絶えず満室で、なかなか空かないのだそうです。

 空き待ち順も数多くエントリーしているとも聞いております。その上のクラスの個室だと一日四万円台で、その上はいくらでも高い部屋が有るようです。しかも実際に入院をして検査をして、手術をしてみないと、一カ月で退院できるのか? 二カ月で退院できるのか? あるいは三カ月も四カ月もかかるものなのか私には解りません。

 ですから費用はいくらかかるかと聞かれても、現在の段階では、ちょっと判りませんが」と説明をしている話しの途中で、貴殿の方から「病気の事や個室の事を話しされても、私には解らないから、もう解りました。何とかしないといけないですネ。二~三日内に連絡します」と言って電話を切られましたので、貴殿の方から連絡が来るものと思って、電話をお待ち致しておりましたが、貴殿が言われた二~三日が過ぎても、四~五日が過ぎても電話が来ないので、私の方から電話を入れても入れても連絡がつかない日が続いておりました。

 

 そして、それこそ、たまたまつながった時には「いまバタバタしているので後程電話します」とか「いまお客さんがいるので後で架け直します」とかと言って切られてしまいます。

 しかし、その後では、ほとんどのケースが電話はかかって来ません。何と不誠実な対応なんだろう。何と無責任な対応なんだろうと率直に思いました。

 

 そんな日々が二月の始めから続いているうちに二月十五日の入院日を迎えてしまいました。おばあちゃんと【同】さんは二人で飛行機で東京へ発ちました。十分なお金の手配ができていない状況ではありますが、二人に不安な思いをさせるわけにはいかないので、「お金の手配はできているので数日中には届けることができるから安心して下さい」と、【同】さんには言い聞かせて送り出しました。

 

 ところが、その日二月十五日、羽田空港に到着した【同】さんから電話が有り、「いま羽田空港に居るんだけれど、お婆ちゃんが疲れたのか少々具合が悪くなって、椅子で休んでいる状態なんだけど、お金が無いのでタクシーには乗れない。モノレールや京浜急行電車では具合が悪化したら困るので、リムジンバスが病院の近くのホテルに行く便があるので、それに乗ってホテルまで行って、ホテルからならタクシーが安く済むので、リムジンバスの切符を買ったところです。ところが、そのリムジンの出発時刻まで二時間以上待たなければならない状況で、ほとほと困っている。

 

 しかも病院の方には昼までには到着する予定だと先生にも言っているけれど、これでは大幅に遅くなってしまうので、病院の方に連絡して欲しい」という電話が来たので、私はビックリ仰天しました。

 

 飛行機は順調に午前11時頃には到着しているのに、午後1時過ぎに電話がきて、まだ飛行場に居て、さらにはタクシー代が無いのでリムジンバスを待っている状況で、そのリムジンバスの発車時刻が、これから2時間以上も後になるけど、それを待っているということですので、私が貧乏の極にあるが故に、ここまで苦労をさせてしまうのか、と、本当に情けない気持ちになり気分が奈落の底に落ち込むようでした。

 

 しかし、困り果てている二人を、そのままにするわけにはいかないので、貴殿携帯、銀座の事務所に連絡を取っても、全く取れないので困り果てましたが、このような午後を過ぎているけれど、おられるわけは無いのだがと思い乍らも、御自宅の方に電話を入れてみたところ、神様のお手配なのでしょうか?偶然にも霧島さんが電話を取り上げたのです

 霧島とは、山田が個人で雇っている運転手で、山田は周囲にはこの霧島は、鹿児島の霧島神宮の宮司の直系であると紹介し続けていたが、霧島神宮の宮司家は「霧島家」ではない。

 小さな嘘の積み重ねは大きな嘘になり、それを信じる人間は、最後には〝大きく〟裏切られることになる。それが信頼関係の破綻に留まるのならば、それはまだ傷が浅いのかもしれない。小池は山田によって、経済的な破綻に追い込まれつつあった。

(第15回につづく)

2017年2月2日

【会員無料】『哀しき総会屋・小池隆一』第13回「千代田・練馬」

tiyoda2017-02-02 12.55.54

(承前)2009年の3月下旬か、4月のことだったと小池隆一は記憶している。当時は港区・虎ノ門交差点そばの晩翠軒ビルに入居していた山田慶一の事務所に呼ばれた小池は、こう告げられた。

「千代田区長が困っているので助け舟が欲しい」

 そして、一通の〝怪文書〟を渡された。そこには、<千代田区自民党区議団の正念場>と書かれてあった。小池が振り返る。

「怪文書には当時、千代田区議だった男性を誹謗中傷する文章が書かれていました。山田は、その怪文書を見せながら『石川雅己・千代田区長自ら直接に相談されたのだが、この怪文書を配布してほしい』と頼んできたんです」
※この記事は会員の方は無料です。会員ではない方は、登録をお願いします。
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【著者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】千代田区公式サイト『ちよだ写真館』より
https://www.city.chiyoda.lg.jp/pg
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2017年1月23日

千代田区長選で「石川雅己区長」の「黒い人脈」再噴出

tiyoda2017-01-22 21.08.08

 弊誌はジャーナリストの田中広美氏の『哀しき総会屋・小池隆一』を連載している。

 小池隆一氏といえば、あの「総会屋利益供与事件」(1997年)の主役である。野村証券、第一勧業銀行という一流企業から引き出したカネは「100億以上」とも「270億円」とも言われる。

 そして田中氏の連載は、都庁・都議会の〝闇〟にも焦点を合わせている。興味のある方は、ぜひ第1回を拝読頂きたい。

『【初回完全無料】『哀しき総会屋・小池隆一』第1回「漂着」』
http://www.yellow-journal.jp/series/yj-00000232/

 この連載で、石川雅己区長も既に登場している。そのため弊誌は千代田区長選が近付いてきたため、田中氏に特別原稿を依頼した。田中氏の厚い取材から紡がれる「千代田区長選の真相」は、多くの人が驚くに違いない。

 マスコミの小池VS内田という図式が馬鹿らしく思えるほど、様々な魑魅魍魎が跋扈しており、千代田区長も全くの「ブラック政治家」なのだから。

■田中広美氏・特別原稿

 小池百合子・東京都知事VS自民党守旧派の代理戦争となっている千代田区長選。だが都知事にとって、現職の石川雅己・区長との〝共闘〟は本意ではなく、実は頭を痛めている。

 石川区長は2017年1月8日、5選を目指して無所属で立候補することと、小池知事の支援を受けることを明らかにした。

 自ら都庁へ出向き、小池知事の応援を取りつけたと言い、知事との2ショットが映るポスターを持参。知事について「応援のアクションを期待しているし、多分、応援してもらえると思う」とアピールした。

 だが、前々回まで支援を受けていた内田茂・都議について記者団が問うと、その口は相当に重かった。「内田氏と議論したことはないが、既成概念、既得権という意味で楔を打たれるのは嫌なのかも分かりません」と全面的な批判は差し控えた。

 こうしてマスコミが「代理戦争」と夢中で報じるわけだが、石川区長も決してクリーンな政治家ではない。都庁担当記者は知って無視したか、あるいは本当に把握できなかったのか、2016年の都知事選に前後して、千代田区庁舎(東京都千代田区九段南)に右翼が街宣をかけたことは全く報じられていない。

 右翼がやり玉に挙げたのは、石川区長の「黒い人脈」だ。
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【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【記事の文字数】2700字
【写真】千代田区公式サイト『2月5日は千代田区長選挙の投票日です』より
https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kurashi/senkyo/kucho/tohyobi.html
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2017年1月19日

【無料記事】LIXIL「ディンプルキー」は「複製可能」の恐怖

LIXIL2017-01-18 17.24.29

 東京の豊島区で1人暮らしをする20代のA子さんは、都内の新聞社に勤務している。職場は社会部だが、記者ではない。事務を担当している。

 そんなA子さんは先日、恐怖で顔が真っ青になってしまった。自宅に誰かが勝手に侵入した形跡を見つけたのだ。息を詰めながら部屋の中を調べてみると、どうやら犯人は地方の実家に暮らす母親らしい。

 安堵したとはいえ、その分怒りは強くなる。母親に電話をかけて問い詰めると、母親は上京した折に、こっそりと立ち寄ったことを認めた。

 親子でもプライバシーは存在する。男の影でも探そうとしたのか──更に問い詰めようと思ったが、急にどうでもよくなった。頭の中が疑問で膨れ上がったからだ。

 セキュリティがしっかりしているからと、「ディンプルキー」という「絶対に複製不可能」という玄関鍵の物件をわざわざ選んだはずなのだ。一体、どうやって母親は自分の家に侵入したのだろうか──?

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【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】LIXIL公式サイト「玄関まわり」より
http://www.lixil.co.jp/lineup/entrance/
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 思い返してみると、東京を観光すると母親が前に上京してきた時、自宅の鍵を預けたことはあった。その際、母親は合鍵屋に向かったとしか考えられない。とはいえディンプルキーは絶対に複製できないことが最大のセールスポイントなのだ。

 だが現実は、母親のような人間にも簡単に、自分の承諾を得ず、知らない間に合鍵を作れてしまった。謎は深まるばかりだ。

 母親を問い詰めると、近所の合鍵屋で簡単に注文できたと答える。だが合鍵屋に問い合わせても、「鍵をなくした方への特別サービスのつもりでした」などと、のらりくらりと答えをかわしてしまう。

 そこでA子さんは玄関ドアの製造元であるLIXIL(東京都千代田区霞が関)に問い合わせてみることにしたのだが……。

 A子さんが憤って言う。

「インターネットで問合せ先を調べると、『玄関ドア・引戸』の項目があり、クリックするとフリーダイヤルの番号が記載されていました。ところが電話をかけると、札幌のコールセンターが対応するのですが、具体的な話は何も行われません。ソフトバンクやアマゾンの対応と非常に似ていましたが、LIXILを含めた3社は、とにかく時間を稼いで、こちらの根負けを狙うという作戦を採用しているんじゃないでしょうか」

 札幌のコールセンターに対し、1つだけ同情できるポイントがあるとすれば、「ディンプルキーの複成問題」は、とてもではないが対応できる案件ではなかったということだろう。

 だが、それだからこそ、本社の人間を呼び出すなり、少なくとも上司に代わるとか、打つ手はあったはずだ。なのに全く何もしないのは、読者の皆さまも同じような経験をされたかもしれない。

 遂に業を煮やしたA子さんは、コールセンターの担当者を怒鳴りつけた。

「いつまでも門前払いをするのなら、こちらにも考えがあります。まずは、この録音を上司に聞かせて下さい。そして広報担当者に、私へ電話させて下さい」

 そしてA子さんは、自分の勤務先である新聞社の社名も付け加えた。あまり趣味のよくない方法だとは、もちろんA子さんも自覚している。だが、その後のLIXIL側の対応は、呆れるほどスピーディーだった。「マツモト」(一応は仮名)と名乗る広報担当者が、A子さんに電話をかけてきたのだ。

「仰るとおり、ディンプルキーは基本的に、複製はできないことになっています。ですがドアの内側に番号が書いてありまして、この番号をLIXILに発注下されば、同じ鍵が入手できる仕組みになっております」

 確かに鍵を紛失した場合、鍵そのものを交換しなければ自宅に入れないという条件は厳しすぎる。「極秘のバックアップ」として、合鍵を作れる方法も用意しておくことに越したことはないのかもしれない。

 とはいえ、その番号が扉の内側=室内側に、小さなシールなどで貼っているのならまだ分かる。

 だが「マツモト」(仮名)は、ドアの横──つまり扉の厚みがある部分で、鍵の機構が内臓され、ロックすれば閂がにょっきりと飛び出したりするところ──に番号が書いてあると説明する。

 原点に戻れば、A子さんの母親はディンプルキーを合鍵屋に持っていったが、店員に「扉の横に番号が書いてあるはずなので、それを教えてくれますか」と訊かれたのだろう。

 母親はA子さんの家に戻り、ドアを明けて番号をチェックして、そして見事にLIXIL純正の合鍵を手に入れたというわけだ。

 これがセキュリティ上、大問題であることは論を俟たない。だが、「マツモト」(仮名)の口調は非常に呑気なものだ。再びA子さんの怒りは頂点に達した。

「だったら鍵のことを知り抜いている工事関係者だけでなく、宅配便の人だって、ドアの横をチェックすれば、ディンプルキーの番号を把握し、合鍵を作ることができるということなんですか!?」

 マツモト氏は、直ぐに白旗を掲げた。

「そういうことにはなってしまいます。ですが、基本的には悪意、悪用はないということを前提として運用しておりまして……」

 A子は呆れて言う。

「複製できない鍵、に嘘はないかもしれません。でも簡単に第三者が同じ鍵を発注できるんですよね。どこが防犯性の高い鍵ですか。むしろ普通の鍵よりタチが悪いですよ」

 マツモト氏は、いけしゃあしゃあと続ける。

「ご承知の通り、合併してから、このようなかたちになってしまって。ご指摘の通りかもしれません。内部の声もいささか通りにくくなっておりまして」

 全く悪びれるところのない口調に、A子さんは〝最終通告〟を突き付けた。

「そちらも録音しているそうですが、私もICレコーダーで、この会話を録音させてもらっています。こんなにひどい対応を続けられるなら、インターネットで公開に踏み切らざるを得ません」

 だが、マツモト氏は全く動じなかった。

「ええ、かまいません。どうぞどうぞ」

 あの「東芝クレーマー事件」の発生は1999年。

 他山の石とし、企業側の横柄な応対は減少したはずだ。ところがLIXILは違うようだ。何の危機感もなく、マツモト氏は気楽な口調で「どうぞどうぞ」を繰り返す。A子さんの耳には「どーぞどーぞ」と聞こえたそうだ。

 A子さんが「株価に影響を及ばさなければ、私の話はとるに足らないとでも思っているのですか?」と厭味を言うと、マツモト氏は電話の向こうで呟いた。

「本当は活字になったりする前に、どこにどのような記事が載るのか、教えて頂ければありがたいんですが……」

 暖簾に腕押しとは、まさにこのことだろう。マツモト氏は女性をストーキングしている変質者が、ターゲットの自宅ドアを開ける手段を得られる、ということに対する想像力もなければ、危機感もないのだ。

 マツモト氏は言い訳のように「本人確認をやっております」とは言う。だが、母親が勝手に合鍵を作ったことを目の当たりにしたA子さんは、全く信じることができない。合鍵屋はA子さんの許諾を求めることはなかったからだ。

 呆れるほどのザル対応だが、更に大問題がある。

 合鍵屋は「本人確認」のため、母親にA子さんの自宅住所を訊き、記録に残しているのだ。鍵の番号と住所が一致すれば、更に危険性は高まることになる。

 鍵屋の経営者は善人かもしれない。

 だが従業員が未来永劫、悪人は1人も雇用しないと断言できるはずもない。パソコンに記録しておけば、ハッキングで流出してしまうかもしれない。何たるザルシステム、いや、無能極まりない「本人確認」だろうか。

 ことはA子さんの住む豊島区にとどまらない。ディンプルキーは複製できない防犯機能が最大のセールスポイントだ。都内に限らず、全国各地の高級住宅街で、採用率が非常に高いという。住宅会社の担当者が明かす。

「施工、設置の段階で、現場は不特定の作業員や職人、そして住宅会社の社員が出入りします。1人でも悪意を持った人間がいればどうなるか、言うまでもありません。取り寄せた複製キーを使い、留守を狙って、密かに侵入することが可能です。それも堂々と、玄関から入るのです」

 そして、この担当者は「こうした危険性を、LIXIL内部が把握していないとは考えにくい」──と付け加える。

 LIXILは「トステム」「INAX」「新日軽」「サンウエーブ」「TOEX」という部材分野の異なる各企業が、単に規模の追及と、売上高の嵩増しを目指した果ての合従連衡劇によって誕生した。

 マツモト氏が認めたように、ユーザーや現場の声を開発スタッフに届ける風通しのよさも、社内機構も存在しないのだ。

 そのマツモト氏だが、最後にA子さんに対して「貴重なご意見を承りました」と言ってのけた。都内でリフォーム設計を専門にするある設計士の経営者も嘆く。

「一般の顧客だけではありません。LIXILは合併してから、私たちプロの人間に対しても本当に対応がひどくなりました。ひどくなっても改善されることはない。見かけの企業規模は肥大化していますが、それと比例して企業の〝格〟は下がる一方です。設計や施工をして発注して、不具合があって我々が対応を求めても、皆さんと同じように電話がつながりにくい。話が通りにくい」

 LIXILにとっては「余計なお世話」かもしれないが、念のため、この記事が出た後の動きを〝予言〟しておこう。

 この記事がアップされると、契約企業に対する「悪い評判」を拾い集めるネットパトロール専門の会社から、広報部にメールが送られるはずだ。担当者は目を通しながら、ざっと以下のようなことを心の中で呟く。

「イエロージャーナル……? 聞いたこともないな。弱小のネットニュースが、どんな与太話を書いても、株価への影響なんてあるはずもない。とりあえずは無視だな」

 そして机の上に置いたスターバックスのタンブラーからカフェラテを啜り、知り合いのPR会社に電話をかける。

「イエロージャーナルとかいうニュースサイト、知ってる? 無理する必要はないよ。分かったらでいいから、教えてよ」

 担当者は、こうして仕事を片付ける。だが、その間にも複製できないはずのディンプルキーは、合鍵がばんばん市中に流れていく。

 最悪のケースは、ディンプルキーのセキュリティに問題があったとして、窃盗だけでなく、最悪の場合は強姦や殺人の被害者や遺族が民事賠償請求を起こすかもしれないのだが、LIXILの人間は誰1人として、そのことに思いが至らない。

 組織肥大化しただけで、対応も意識も追いつかないとはまさにこのこと。合従連衡劇のなれの果てだ。

(無料記事・了)

2016年11月10日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第12回「麹町五丁目計画」

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 山田と極めて近しい東京・千代田区長の石川雅己が、しばしば衆前で山田を評する言葉は、実に空々しい。
「やまちゃんはさあー、みんなひとのために使っちゃうからなあー」
 仮に、その言葉に偽りがないにしても、どこかの「ひとのため」に石井や小池といった〝犠牲者〟が生まれていいはずもない。そんなことは許されない。
 むしろ、山田と数十年来の付き合いがある人物の次の言葉のほうがより現実味がある。
「あの人は本当に、ファミリーだけ。自分のカネは隠しておいて、カネ回りが悪くなると、じーっと亀みたいに頭も手も引っ込めて、石みたいにじーっとしてるわけ。それで、すべてが通り過ぎるのをじーっと待ってるんだよ。あの辺の感覚は尋常じゃないよ。やっぱり日本人じゃないから、日本人からどれだけ取っても平気でいられるっていう感覚はあるんじゃないかな。日本人だったら世間体とかいろいろあるから、なかなか平気ではいられない状況でも、あの人は平気だから。それで、守るのはやっぱりファミリーだけだからね」
 山田慶一の生態と感覚は「居留民」と同根だと指摘する声がある。長年、山田の傍で多くを見てきただけはあろう。「すべてが通り過ぎるのをじーっと待」った末に、石井の債権の請求権は時効を迎えていたのであった。

■――――――――――――――――――――
【著者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】『ちよだ区議会だより』より
https://kugikai.city.chiyoda.tokyo.jp/dayori/no229/pdf/229_P1.pdf
■――――――――――――――――――――

 7000万円も貸しながら、債権者が返済を「お願い」するという本末転倒。だが、その原因を作った男に擦り寄り、近寄ろうとする人間は後を絶たない。魔力の如き魅力は恐らく、多少のいかがわしさには目をつぶっても、利益を得られる場面に遭遇することを望む人間にとっては、リスクを考慮しても、なお輝きを放って見えるのだろう。

■日大総長選挙騒動における山田慶一と小池隆一

 東京・銀座の昭和通りから通りを1歩入ったところに「東京都中小企業会館」なるビルがあり、その中に山田慶一の〝架空の城砦〟がある。「株式会社大都市政策研究センター」だ。以下からは「大都市センター」と省略させて頂く。
 山田らは2008年、虎ノ門交差点脇の晩翠軒ビルから銀座に拠点を移して事務所を構え、シンクタンク風の名前をつけて新たな法人を登記した。この大都市センターこそが、冒頭で挙げたベトナムでの受注工作の舞台となった。その1室では夕方になると、大企業の関係者らが三々五々集まって来る。
 山田は焼酎の一升瓶を片手にコップに水割りをつくり、やんや、やんやと、四方山話に花開かせる。その1室の笑い声の渦のなかには、山田が口にした数多のプロジェクトで泣きを見た者たちは、むろん入っていない。
 そこに集えるのは、山田の悪しき実態を踏まえたうえで、自分だけは山田と付き合えるという自負と実績に満ちた者だけなのだ。奇妙な矜持に満ちた笑いの宴には、常に不穏な通告も届いているのだが、それを気に留める者はいない。決して懲りるという内省を知らないため、千代田区に大きな拠点を構える日本大学でも大きな火種となった。
 ここに1冊の本がある。2005年8月に新装版として発刊されることになった折、小池は日大による発禁工作の実行者として、その名前を晒されてしまう。

<驚くまいことか、最後に接触してきたのは右翼団体元総会屋小池隆一である。なぜこの大物が出現したのか。おもしろそうなので話を聞くことにした。彼はあの児玉誉士夫の配下ととも(原文ママ)小川薫の門下生ともいわれる人物である。
「私は日大関係者のある人物に世話になっている。日大のために役に立ちたい。私個人の一存できた。版権を買い取りたい。」
 という申し出だった。
 私が断ると、
「警視庁捜査二課が動いている。」
 と脅された。
 私は平成一七年四月一八日付けで内容証明書を送付してこの申し出を正式に断った。
『暗黒の日大王国』の出版を目指してからもう六年になる。本が完成してからでも、一年近く経ってしまった。だが、その間にこんな知られざる水面下の攻防があったのである>(坂口義弘著『暗黒の日大王国─新装版─』スポーツサポートシステム)

 このとき、小池が著者の坂口に接触したのは事実だ。それは山田からのたっての頼みであったからだった。この発刊を前後して、日本大学では総長レースで人間関係が沸き立っていた。
 1996年から2005年まで日大総長は瀬在幸安。内容証明が送付された平成17年は2005年。『暗黒の日大王国』では瀬在と暴力団に癒着があったとし、大学運営の細部をレポートしたものだ。
 出版されれば瀬在の総長留任が厳しくなる、そう危機感を覚える者がいてもおかしくない。実際に阻止しようと動いたのは山田と、日大卒で共同通信出身の広報担当理事(当時)だった石井宏だった。
 山田と石井は日大による御茶ノ水周辺の校舎を含めた再開発を、当時まだ山田と蜜月だったパシフィックコンサルタンツに業務委託させるなど、日大の開発に一枚も二枚も噛んでいたのだ。
 しかし、当の瀬在の総長留任の雲行きが怪しくなったためか、工作に借り出された小池は、交渉の梯子をはずされたかたちとなり、坂口に対しても不義理な状況に追い込まれる。その結果が、右の記述となって現れたのだ。
 こうしたことから分かるのは、小池は既に山田の術中にはまっていたということだ。山田は小池の心理をうまく読んでいたのだろう。「こんな目先のカネで貸し渋って人間関係を壊してしまうより、ここはひとまず相手の顔を立ててやり、より大きなものにつなげた方がいい」──小池に限らず、山田は意識しているのかしていないのか、こうした人間社会における「大人の心理」を常に、実に巧みに利用していた。
 人心収攬術と呼ぶのであれば、間違いなくそうであろう。確かなことは、しかし、プロジェクトは常に完全な創作ではなく、ましてや架空のものなど1つもなく、どこかに必ず、その痕跡が傍目にも分かるようになっているということだ。幽霊話ではなく、ちゃんと脚も足も見えている。
 問題は、そうしたプロジェクトは、必ずしも山田の案件ではないところにある。「あいつは自分が見聞きしたものは全部、自分がやってる案件だって言っちゃう」(小池)なのだから手に負えない。
 山田に食い下がるのは、大人であればあるほど、不可能となっていく。なぜならば、もし万に一つ、山田の機嫌を損ねれば、「本当」のプロジェクトへの参加権を失いかねないという絶対的な恐怖が存在するからだ。
 そのためにも、山田側には絶対に欠かせないことがある。プロジェクトのメニューだけは手元に豊富に取りそろえておかなければならないのだ。ロビー活動を展開するコンサルティング業者に、そうしたプロジェクトが数多く揃うという下地を作ったのは、いわゆる55年体制、自民党体制であったことは間違いない。
 2009年に政権交代が実現してもなお、与党民主党はミニ自民党の如く振る舞った。そのために下地が決定的に崩れることはなかった。与野党が入れ替わっても、日本の国土は掘り返され続けていくのだ、と漠然とした期待があったのだろう。
 だからこそ山田慶一は、まるで夜光虫のように「期待」という名の光を放ち、一流企業と呼ばれる法人や、そこで働くエリートサラリーマンという組織人を魅了して止まないのかもしれない。
 それは決して山田慶一のみの「悪」ではない。彼ら組織人が自主的に集うという、自身の「意志」がある限り、山田慶一が持っているものは「悪」ではなく「魅力」なのだ。だから根本的な問題は、山田に魅力を感じる組織人たちの心の内側にも存在した。
 組織人から放たれる魅惑の眼差し。それを山田は間違いなく捕まえ、決して放さない。これこそが「ロビイスト」という職業に必須の条件なのだとすれば、間違いなく山田はバブル崩壊後最大の、55年体制末期が生んだ最も魅力的なロビイストだといえた。
「お金ある? あればすぐできるよ」
 そんな山田の掛け声に、人々は率先して金を出していった。山田という政治への、自民党への扉を開くための、金こそは何にも勝る通行手形であったのだ。

■区長と〝コンサルタント〟が絵図を描いた麹町五丁目計画

 銀行関係者をも驚かせる、業務委託契約書がある。不動産の第三者への売却コンサルティング業務の契約書だ。2008(平成20)年4月10日付の契約書の第6条には次のようなに記されている。
<甲は、本契約締結時に着手金として、金150000000円(消費税及び地方消費税)を支払うものとし、本委託業務完了時に成功報酬として、本不動産の売却価格の3%に消費税及び地方消費税を加算した金額から着手金を控除した金額を支払うものとする>

 念のため、金額は1億5000万円だ。甲欄には、株式会社アーバンコーポレーション代表取締役の房園博行の名と社判、乙は環境計画研究会代表の山田慶一の名と社判がそれぞれ置かれている。
 その日からわずか4ヵ月後の8月13日、甲であるアーバン社は東京地裁に民事再生手続き開始の申し立てを行う。つまり、アーバン社は実質的に倒産したのだ。
「時期的には4ヵ月前となると、すでに企業としては民事再生の手続きに入っていてもおかしくない時期です。その時期に、不確定要素の強い不動産売買を見越して1億5千万円もの手付金を払うというのは聞いたことはありません」(銀行法人営業部関係者)
 一方で、不動産の業界に詳しい人間はこういう。
「80年代のバブルの頃にはよくありましたよ、こういうの。倒産を見越してね、あるいは経営者個人に対するキックバックのために、現金が必要になるとこんな業務契約書をよく巻いたものですよ」
 後者の〝見立て″も現実味はある。この契約書と平行して作成された、63枚にのぼるカラ―の冊子がある。その表紙にはこう書かれている。
 麹町五丁目計画マスタープラン案――。
 日付は2008年2月12日、アーバン社と山田とが業務委託契約を結ぶわずか2ヵ月前のことだ。東京都内の大手建築設計事務所によって、麹町5丁目界隈の開発計画を取りまとめたもので、紀尾井町TBRビルの跡地を中心に、四ツ谷駅に近い新宿通りの現・鉄道弘済会館までをつないで開発する計画だ。そこには、住宅とホテルのタワー棟複数と、商業施設、さらに中低層の住宅施設を建築する計画が示されている。
 この東京のみならず、日本における一等地中の一等地で、山田たちは開発に着手していた。この建築設計事務所が作成した「マスタープラン案」を山田は持ち歩き、実際に永田町の弁護士事務所で広げて見せている。
 わざわざ第三者の弁護士にこのマスタープランを渡さなければならなかった事情は後述するが、山田はこのマスタープランを任されているのでカネが入るとして、このプラン案が記された冊子を提示していた。
 このプラン案の策定を前後して、この計画地周辺で、奇妙な動きがあったのが、表沙汰になったのは、山田らが業務委託契約を結んでから2年後のことだ。2010年9月16日、東京・千代田区の共産党区議、木村正明が質疑に立った。

<区政運営の公平性・透明性の確保について、端的に2点伺います。1つ目。区役所の移転に当たって、全体のマネジメントを民間企業にゆだねました。その企業の選定に当たり、プロポーザル方式を採用しましたが、選定委員はすべて区の内部職員でありました。『千代田区プロポーザル方式業者選定実施要綱』では、選定委員に原則として『学識経験者を入れる』となっています。なぜ内部職員だけで選定したのか、答弁を求めます。
 2つ目。2008年12月に都市計画決定された『麹町地区の地区計画』では、D地区、いわゆる上智大や鉄道弘済会館や駐車場などがある地区ですが、ここだけが高さと壁面の位置の制限が定められていません。D地区だけルール化を避けた、どんな特別な理由があったのでしょうか>

 鉄道弘済会館、そして「駐車場」こそが、山田らが持ち歩いた麹町プロジェクトの開発区域に当たる。
 いわゆる高さ制限がこの「D地区」の一角だけ設けられていなかった。そこに〝恣意性〟をかぎ取ったであろう木村は、質疑に取りあげた。むろん裏では、何かと区政で話題の尽きなかった、区長の石川雅巳の影を睨んでいたことは間違いない。しかし共産党の木村だけでなく、区議会側もこの段階では、このD地区で具体的な開発計画が進行中であることは知らなかった節がある。答弁に立ったまちづくり推進部長は朗々と読み上げた。

<麹町地区の地区計画は、幹線道路沿道において良好なまち並みを形成することにより、幹線道路における緩衝帯として、後背地の環境保全につなげることを目的としております。D地区におきましては、大規模敷地が多く、不整形な大規模街区となっております。こうした大規模敷地、大規模街区の建てかえにつきましては、一律に高さや壁面後退距離を制限するのではなく、ほかの都市計画手法も視野に入れながら、広場や道路等の空間―都市の空間ですね、そのとり方や、建物、それから機能の配置等、一体的検討が必要であると考えております。このため、地区計画の中では具体的な高さを定めませんでしたが、具体的な建築計画の機会をとらえ、地域の課題解決に向けた効果的な計画誘導を行えるよう、今回は方針のみとさせていただいたところでございます>

 一般論に終始しようとする答弁に、木村がさらに突っ込む。

<それから、麹町地区のD地区だけ、高さ制限、あるいは壁面後退のルールをかけなかったという問題であります。
 今の土地が不整形であるとか、あるいは大規模街区というご説明でしたけれども、そういうところだからこそ、高さ制限や一定のルールを課すことが重要なんじゃないですか。どういうところが開発をするのか、わからないわけだから。
 これまでも区は、地区計画について、その実現に向けて、都市計画に――地区の目指すべき将来図を設定してまちづくりを進めていくんだと。あるいは、将来像をその地区の人々が共有することで、地区としてのまとまり、一体感を持ったまちづくりを進めることができるんだと、こう述べています。つまり、その地区の地権者の皆さん、住民の皆さんがまちの将来像を共有して、そして一歩一歩、良好な住環境をつくっていくんだと。これが地区計画でしょう。何で一定の割合だけ、住民とは別のところで、区が独自にそういったところは別の手法で誘導していくというような例外措置を設けたのか。これは極めて疑問ですよ。
 これについては、特別にこのエリアを外せという働きかけだとか、そういう声がかかりましたか。その点だけ、確認しておきます>

 区議会も知らなかっただろうが、この時点で既にマスタープラン案は計画敷地面積として実に1万8198㎡を予定しており、そこに36階建てのタワー2棟を建設する計画が進行していたのだ。
 当初、この敷地を所有していたアーバンが倒産前に描いていた開発計画とはいえ、建築設計事務所側の青図では新宿副都心、表参道、東京ミッドタウン、六本木ヒルズ、丸の内仲通り、カレッタ汐留、そして銀座に並ぶ都内の一大開発となりうるものだった。
 山田と区長の石川とは極めて近しい間柄だ。山田の持ち歩く〝思惑〟と、そして石川ら千代田区の「部分的な例外措置」によって重なった部分、それが、「D地区」であり、「麹町五丁目計画」として表に現れたのだ。木村の「働きかけだとか、そういう声がかかりましたか」という直接的な問いかけに、役所側の答えはもはや見えていた。

<木村議員の再質問にお答えいたします。まず最初に、どちらかからいろんな要請があったか、高さを決めるなという要請があったかという話でございますが、それはございません>

 しかし、この答弁から遡ること2年前、2008年2月の段階、つまり千代田区が高さ制限を部分的に外すことを決めた時期までに、もう業者による青図は完璧にできあがっていた。これに対して、千代田区のまちづくり部長の答弁は、役所答弁としてはひな形通りのものだといえる。

<このまちについては、道路の舗装のあり方とか、いろんなことをやってきた経緯もありまして、一定の、余り高さに不そろいのないように、結果的には敷地の大きさによって高さも変わってくるわけでございますけれども、それでも、この辺を考えましょうという、70メーター、80メーターという数字が出てきましたし、それとともにあわせて出てきたのが、麹町大通りの、やはり色とか形態について、いろいろ、議論があった記憶がございます。
 そういう点でいきますと、先ほどのA地区におきましても、そういった敷地が道路に面しているところについては、一定の高さ、先ほど申し上げました70メーター、80メーターを設定していますが、その裏敷地においては、先ほども申し上げましたように、大きな街区それから公共施設、都市施設の整備状況がやはりここは不十分であるという観点からそういうふうな議論をして、そこの部分については、今回定めないで方針だけにしておきましょうと。方針の中で、やはり一体のまちであるということを書き込もうということで、そういうふうなことになった経緯がございます>

 実は、この共産党区議の質問から遡ることおよそ1年前、1通の怪文書が流れた。
(第13回につづく)

2016年7月14日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第5回「番人」上森子鉄

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 本田技研の総会で、小池隆一は攻める。前回で触れた通り、当時の小池は小川企業株式会社の副社長職だった。社長は「最後の大物総会屋」として著名な小川薫。つまり小池は小川薫の部下だったわけだが、まずは小川薫の回想を続けよう。本田技研の総会はその後、以下のような展開となった。

■――――――――――――――――――――
【写真】アントワープ王立美術館の公式サイトより
■――――――――――――――――――――

<このときの本田技研の総会では、小池君が次々に「動議」を連発する。「本田技研は、子会社で牧場を経営しているが、これは定款違反ではないか」「当社には、何百と関連会社があるが、監査役は三名では足らない。三十名にせよ」「定款によれば、当社の工場所在地の和光市でも株主総会をできるようになっている。しかし、これは株主に不利な条項なので削除を求める」といった調子だった。

 あまりに執拗な発言に業を煮やした私は、発言を求めて「一号議案が、まだすんでないので、ボチボチ議事を進めていただきたい」と会社側に助け船を出してもいる。

 総会はもめにもめて、休憩をはさんだ。そして小池君は、

「まことに勝手で申しわけないんだけど、自分で動議を出しておいて申しわけないんだけど、この場は、私が出した動議は全部、撤回する。全部、いま撤回させていただきたい」

 会社側にすれば、さんざ引っ張っておきながら、それはないだろう、という心境だったろう。まさしく会社に対する徹底的な嫌がらせだった>

 当の小川薫が「小池による徹底的な嫌がらせ」と言い残せば、定着するのも無理はない。しかし小池によれば、きちんとした事情がある。その説明を聞けば、小川薫の発言にウソはないにしても、語っていない部分が多いようにも思えてくる。

 小川薫自身が記しているが、当時の小川は各企業の社長に面談するのが常だった。ところが本田技研は小川薫を袖にする。頭にきた小川は当時、配下だった小池に相談する。そして小池が総会に登場することになる。

 小川薫は小池に攻めさせてマッチポンプを企んだのだ。小川の意を汲んでいたはずの小池だが、この総会の休憩中に三菱銀行から連絡を受ける。

「小池さん、申し訳ないんだが、うちの役員がそっちに行っているんですが、総会が終わらずにまだ帰れないといっているんです。上森顧問に相談させていただいても宜しいでしょうか」

 上森顧問とは上森子鉄だ。異名なら小池は「最後の総会屋」で、小川薫は「最後の大物総会屋」となっているが、上森子鉄は「伝説の総会屋」だという。いずれにしても小池の上司たる小川薫でさえ、上森子鉄のことは「先生」と呼ぶ。小池にとっては到底頭の上がらない「上司の師匠」だった。

■三菱グループの「番人」だった上森子鉄

 石川県金沢市生まれの上森は昭和の文豪・菊池寛の書生から文藝春秋勤務などを経て、雑誌『キネマ旬報』の発行者としても知られていた。

 小池は後に、総会屋で月刊誌『現代の眼』主幹だった木島力也の寵愛を受けるが、この上森からも目をかけられる。

 ちなみに小池は新潟県加茂市の出身であり、木島力也も新潟県紫雲寺町(現・新発田市)と同郷だ。石川県生まれの上森を並べれば、3人は日本海の出身となるわけだが、これは偶然とは思えない部分がある。

 地方出身者にとって、東京で同じ地元の人間と出遭った時の感覚は独特のものがあるが、「冬の日本海」が骨身に染みた者同士にも似た連帯が生まれる。低く暗い雲を突きあげるように荒れる日本海の波を原風景として持ち、共に望郷の念を抱く。そんな人間の間には、どこか気脈が通じるのだ。

 話を戻せば、上森子鉄は三菱銀行だけでなく、当時でも20社を越える上場企業に顧問室を持ち、各社から「源泉徴収された顧問料」を受け取っていた。「企業内総会屋」と形容することができるかもしれない。

 普通、こんな総会屋はいない。賛助金や発行する雑誌の広告料で賄うのがいっぱいいっぱいの稼業だ。収入の額と、それを得る方法という意味でも、上森は文字通り雲の上の存在だったのだ。

<日本の代表的企業といわれる大会社には、ほとんどこの人のパイプがつながれており、三菱グループでいえば、その中枢である三菱銀行の株主総会は彼によって握られていると言われる。……とにかく三菱財閥本家である岩崎家でのパーティに出席できる『総会屋』はこの人しかいないといわれる……(『ドキュメント総会屋』小野田修二)>

 三菱銀行が、その上森に相談すると言うほど困っているのであれば、小池も黙るしかない。

「わかりました。上森さんに言うことはないですよ。質問は終わりますから。総会は終わらせますよ」

 小池は休憩終了後、自身が提案した動議を全て撤回する。そして今の小池は「小川は本田の社長に会えずに悔しいもんだから、私に意趣返しをさせたんですよ」と振り返る。

 語る者が2人いて、それぞれの立場によって「真実性」は多分に揺らぐ。とはいえ、それは片方どちらかの真実が間違っていることを意味しない。所詮は2人が見る角度の違いにしか過ぎないのだ。

■「肩書や地位が最後に嘘をつくんです、自分を守るためだけに、嘘をつくんです」

「世紀の贋作作家」ルサールと小池は、ブリュッセルの広場、グラン・プラスのカフェで何時間も語り合った。ヨーロッパで最も美しい広場とも言われ、話題は絵画の審美や、物事の「真偽」にまで弾んだ。

 ルサールの部屋に無造作に置かれた〝名画〟の数々が、よほど小池には印象深かったのだろう。日本からわざわざ「贋作の真作」を観たい一心で、神の手を持つ画家と語らうことを望んできたのだから、無理もない。

「本物とは何かということですよね。こうして、本物以上のものが出来上がってしまうわけですから。そうすると、われわれが有難がっている本物というのは本当は何なのかということを考えざるをえなくなりますよね。つまり、肩書きとか、地位とかじゃない、真実の価値は何かということなんですよね。もちろん、一番いいものは、どんなものでも、古今東西、富めるところに流れるというのは同じなのでしょう。でも、それと真実の価値というのは異なるということ。ルサールさんの絵を前にすると、そういうことをまさに胸に突きつけられる思いです。日本人は、肩書きとか地位が好きなんですが、そういうものが最後には嘘をつくんです。それも、自分を守るためだけに、嘘をつくんです」

 小池の語る信条を、私が細かく英訳して伝えている間、決して饒舌ではないルサールは、小池の目を見つめながら何度も、何度も深く頷く。そして小池はルサールにこうも告げた。

「正義は決して法のなかにあるのではなくて、それはきっと心のなかにあるんでしょう」

 神の手を持つ世紀の贋作画家、ルサールもまた、贋作を描くことで利益を得ようと目論んだわけでもなく、ただ絵を描きたい一心で、偶然に流れ着いた場所で必死になった末、「ルグロ事件」の主人公となってしまっていた。

 小池も前半生を必死で生き抜くなかで、はからずも居場所を見つけてしまった。それが世間からは「総会屋」といわれる場所であり、そして82年10月に「違法な場所」「非合法な場所」となってしまう。

 無論、社会悪を法が規定し、罰することに「悪意」があろうはずもない。だが法によって「悪」の枠組みが形作られ、定型化されることによって、そこで生きてきた者は「憎まれるべき存在」となってしまう──そんなところを、小池の心は巡っていただろう。小池は自身の前半生を首肯することはない。むしろ努めて批判的でさえある。

 小池は表と裏、本物と偽物が表裏一体と化した世界に生きてきた。だからこそ「価値」についての思いは、非常に強かったのかもしれない。自分自身の責任と言えばそれまでだが、流れの中で気がつけば、いきなり「悪」にされてしまう。そんな経験を持つという点で、ルサールと小池の人生は重なっていた。

 ルサールにとってもまた、小池の真剣な語らいと信条に共鳴するところがあったのだろう。「自分の友人に小池を紹介したい」と言った。この世で最も心を許し、自身の過去など全てを共有する、最も大切な友人の名前が告げられた。私は小さく驚きながら、納得していた。

 小池の言葉は間違いなく、ルサールの心を開いていた。彼が紹介する友人とは、弁護士のヴァン・ダムと、その妻だ。そして私たちはドーヴァー海峡に面したオステンドという海辺の町を訪れた。そこには夫妻の別荘があったのだ。現地では彼らの所有するヨットで食事が振る舞われたのだが、小池は中でもムール貝のスープを特に気に入った。これを日本に持っていけば必ずお客がつくと喜んだ。

 ブリュッセルから特急で一時間半ほどのオステンドは、海を渡れば、もうイギリスだった。関東でいえば、逗子や葉山といった都会人の保養地の趣がある。夫妻の部屋には、ルサールが贈った多くの直筆の絵が飾られていた。

 モロッコで大きな個展を開き、銀行家などの得意客も抱えているルサールが、今も贋作を生業にしているとは思えなかった。図らずも贋作作家となってしまった過去を強く戒め、逞しく今と将来を見つめている印象を受けた。

 その姿は、人目をはばかるようにして子供を育て、妻を思い遣ることのみに喜びを感じて生きている小池の姿と、やはりどこか重なって見えた。

 小池は逮捕された後、家族のため真っ当に、後ろ指を指されないよう生きてきた。ルサールも自身の運命を受け入れ、絵を描き続けることで自分と向き合い、修道士のように今を静かに懸命に生きてきた。

■山田慶一こと朴慶鎬によって「身ぐるみ剥がされた」小池隆一
 
 クロワッサンにハムとチーズ、そしてコーヒーが揃ったコンチネンタル風の朝食を終えた直後のことだった。いったん部屋に上がろうと、エレベーターが下りてくるのを待っていたその時、小池は唐突にこう言った。

「シンドラーのリストっていう映画あるでしょ。あれは感動したねー。主人公がこう言う場面があるんですよ。『お金は汚く集めても、キレイに使えばいいじゃないか』ってね」

 すでに〝元〟総会屋となって久しい小池が続けた。

「僕らも、商法改正前は違法じゃなかったんだけど、でも世間は決してそうはみない」

 ヨーロッパの首都であるブリュッセルには世界中の外交官が集まる。その生活水準はときに、パリさえも凌ぐといわれる。その街の、お世辞にも高級とは呼べない三ツ星ホテルのロビーで、小池は喉のつっかえを吐きだすかのように、そう呟いてみせた。

 97年に証券不祥事は発覚、事件化した。もう世間は忘れ去って久しい。だが企業社会の静寂は、小池が沈黙し続けてきたが故に守られているに過ぎなかった。小池は、しばしばこう漏らした。

「野村証券にしても、大和にしても、あっちの調書に出てきたところだけを、あっちがそういうならば、といって、私は認めてきたわけだから。私からは一切、しゃべってませんから」

 中小企業金融公庫総裁の水口弘一のことはとりわけ記憶にあるようだった。

 水口は従来、大蔵省の天下りポストであった公庫総裁に、民間出身者として異例の抜擢を受けた人物だった。かつて野村証券副社長を務めた水口こそが、証券不祥事に至る野村のやり方を決めた本人であった。

「水口が料亭に呼んで、一番最初にやり方を全部決めたんです。後の人はみんな、この人が決めたのを引き継いでいただけだから。あとに、中小企業金融公庫の総裁になったけれども、私が当時、彼の名前を出して話していたら、そういう地位にはきっといなかったでしょうね。当時、あれだけの事件になったんですからね。もし新聞とかに名前が出ていれば、当然、そこにはいないでしょう。でも、証取法は時効が短いから、当時も逮捕にはなっていないでしょうけれど、みんな、彼の後の人が捕まったわけですから。水口は時効で逃れたけれど、殺人犯が時効ですと言ったって、そんなものでは済まないでしょう。」

 そして、小池は一拍置いて、小さく呟いた。

「お前こそ、贋作じゃないか……」 

 97年5月、小池は第一勧銀や野村證券など金融関連企業から利益供与を受けた商法違反容疑で逮捕される。

 懲役9ヵ月の実刑判決を終えて出所した小池は、鹿児島県へと移住する。東京・六本木の事務所はほぼ引き払い、桜島の噴煙を望む空の広い土地を終の棲家とするべく、かねてから自宅も整えていた。

 出所以前から妻と子供と共に現地で暮らしており、移住は出所後に決めた話ではなかった。家族の健康のことを誰より留意する小池にとって、東京よりも抜群に空気が澄む鹿児島への移住は自然な流れだったのだろう。人目を避ける隠居という強いられた意味は皆無だったに違いない。

 そんな静謐な生活を送る小池の慟哭の声を聞いたのは、2010年4月20日の夜のことだった。

「私はもうだめだな。長くない……もうどうにもならない……」

 小池は電話がつながった瞬間、そうつぶやいた。その声は、小池と知り合ってから5年になろうかという時間のなかで、もちろん、一度として耳にしたことのないものだった。

「本当にもうダメだ。これじゃあ、ゴールデンウィークまで持つかどうかも分からない……とにかく家族だけは支えなければいけないけれど、どうにも……」

 そう言って、電話の向こうの声は涙声になり、そして小さな声で「申し訳ない。本当に申し訳ない……」そう言って、電話は切れた。

 小池がそこまで崩れ落ちることへの心当たりは少なからずあった。小池は紛れもなく、全てを失いつつあった。これまでの連載でも見てきたが、山田慶一こと朴慶鎬によって、ほとんど身ぐるみ剝がされたも同然だった。

 この4月20日の電話以降、小池は希望を失ったようになったかと思えば、生活を建て直すためになりふり構わない猛烈さも見せた。小池の気分の浮揚と沈降の落差は次第に大きくなり、周期の幅も狭まっていくように思えた。だが本当に凄まじかったのは、それでも小池が強く自身を戒めて生きていったことだ。

 細かなことに目をつぶれば、大きな報酬が入ってくることが明白な場面もあった。だが、れっきとしたビジネスの局面でさえ、違法なことはもちろん、脱法行為にも手を染めないと踏みとどまることは1度や2度ではなかった。

「後ろ指を差されかねないから、私は絶対にしたくない。それをすれば、あの小池が……とまた言われる。そうすれば家族につらい思いをさせる」

 それを聞かされる側からすれば「そこまで経済的に困っている状況ならば、その話を決して断ることはできないだろうな」と思うようなものでさえ、小池はためらうことなく断った。

 商法も刑法も総会屋を反社会的な存在と定めている。それは抗いようのない「事実」なのだ。しかし小池は総会屋だったが、出所後は少なくとも父親として子供を育て、家庭人として妻を支えてきた。自身の立ち位置はそれしかなく、人生の終末を良き父親として終えようと考えていたことは間違いない。そのために口をはさめば、顔を出せば「あの小池が……」と言われる状況から、ひたすら逃避していた。

 90年代後半から鹿児島で〝隠居〟に入ってからの小池は、そうして、かつての東京での知己の前からも、ほぼ完全に姿を消した。そして2010年、小池自身が危機的状況に陥った時、少なからず力になってくれそうな人間とは、ほぼ音信が途絶えていた。間もなく70歳になろうとしていた小池は、孤独な闘いを強いられた。

 その後も、上京の折にはお茶をし、電話での四方山話は幾度となく繰り返してきたが、小池には徐々に希望と絶望の勾配が頻繁に訪れるようになる。それでも決して小池は獣道を歩もうとはせず、違法性のない公道を歩もうとしていた。

 もし山田慶一と知りあうことがなければ、小池は2016年の今でも静かに余生を送っていたはずだと思いながら、それは違うかもしれないと考え直す。

 恐らく小池の人生は、ブリュッセルを訪れている時には既に狂わされ始めていたのではないか。あの時点では小池自身もまだ、激震の予兆にさえ気づいていなかったが。

■小池隆一が産経新聞の取材にだけ応じた意外な理由

 小路を楽しむのならば、アントワープは世界最高だと思わせる。

 何よりも時折、海風が、歴史を感じさせる石畳の上を吹き抜けていくのがいい。それもまっすぐではなく、時に小路に沿って蛇行して頬をなでていく。そして何よりも、その風が走っていく、曲がった先の風景は想像もつかない、そんな期待感と、心地よい不安に満ちている。

 たどり着く先に何があるのか見えない、そんな時間の流れをゆっくりと感じることができる町だ。そんな空気を小池はどう感じるのだろうか――。

 07年1月、旅程のすきを縫うように、ブリュッセルから列車に乗って、アントワープの王立博物館へと小池を連れ出した。博物館から駅へと向かう途上、突然の雨に見舞われた。その時の小池の一言が、総会屋人生を脱したあとのひとつの悟りに違いないと思わせた。大粒の雨がまるで季節外れの雹のように顔に叩きつけてきた。そのときだった。

「いいじゃないですか。ふつうのひとは雨にぬれて、ああ、いやな雨だな、濡れちゃったなと思うでしょう。だけど、こう思えばいいんですよ。雨が汚れを落としてくれてるんだなって。そう考えれば、嫌なことも良く思えるんですよ」

 旅をきっかけに、小池が上京する時は会って話した。またある時は、かつての友人との思い出話を語る席にも招かれ、私は小さな交流を始めるようになった。そんなときの帰りがけ、小池はそっと囁くことがあった。

「きっといつか取材したら面白いですよ」

 かつて、小池が携帯電話で応じた言葉尻をある作家がとらえて、活字にされたことがあった。小池が「ノーコメント」と伝えたにもかかわらず、コメントにしてしまったのだ。それを目にした小池は、実に寂しそうに電話をかけてきた。

「ものを書くひとたちはなんでああなんでしょうね。そんな上っ面だけに生きるひとたちになんかなにも語れませんよ」

 意外かもしれないが、小池がメディアに登場したのは、たった1回に過ぎない。逮捕前に鹿児島の自宅を訪れた産経新聞の記者にのみ取材に応じた。それを報じた記事は、小池の〝肉声〟を掲載した唯一の、最初で最後の活字となる。

 要するに小池は大のメディア嫌いと言っていいのだが、ではなぜそのときだけ取材に応じたかという理由は、いかにも小池らしい。

「その時の産経新聞の記者さんのとても丁寧で紳士的な態度が印象に残ったんですね。それで、東京に行った折に必ず連絡しますよと言ったら、わかりましたといって帰って行った。その時の雰囲気がとても紳士だったので、上京したときに、きちんと対応してあげなければ申し訳ないなと思って連絡したんです」

 総会屋などというヤクザな商売にある者が、わざわざ相手を選ぶのかと思う向きさえあろう。だが間違いなく、小池は「相手を選ぶ」タイプだ。とはいえ小池の選択は、相手の立場と地位によるのではなく、相対する人間に対する真摯さがあるかないかによるのだった。

 小池自身は誰に対しても紳士で真摯であり、相手に対しては言葉遣いどころか、それこそ箸の上げ下げまでを同時に、鋭く観察している。それは決して、総会屋であること、あるいはあったことゆえの警戒感からといったものとはまた別のものであったのではないだろうか。

(第6回につづく)

2016年6月30日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第4回「覚醒」─小池と贋作作家と総会屋

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 私と小池隆一は旅に出た。目的地はベルギー・ブリュッセル。「最後の総会屋」は「世紀の贋作作家」と呼ばれたレアル・ルサールに会うのだ。後述するが、ルサールが描いた贋作は少なくとも1000枚とも言われる。ピカソやモディリアーニが〝実際には描かなかった絵〟を誰もが真作と信じて疑わなかった。鑑定士は無論、画家本人が「若き日の自作」と太鼓判を押してしまうケースさえあったのだ。

■――――――――――――――――――――
【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【購読記事の文字数】8100字
【写真】自身の就任披露パーティーに臨んだホンダ・河島喜好新社長(左から3人目。2人目は本田宗一郎前社長 ※肩書は当時のもの、本田技研工業公式サイトより)
http://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/04_newdevelopment/index.html
■――――――――――――――――――――

 2007年1月8日、私たちはブリュッセル国際空港に降り立った。
 そして私は、半ば反射的に後ろを振り返った。なぜだったのだろうか。自分の行動であるにもかかわらず、理由がはっきりしない。
 EU域内に入国する入管審査ゲートの手前だった。小池も旅慣れているが、ブリュッセルの空港は初めてのはずだ。私と同じ列に並んだのか、気になったのだろうか。
 私が振り返ると、小池は腰を折り、床の上で背を屈めていた。靴の紐を結んでいるのか?──瞬時、声をかけるのをためらっていると、小池は立ちあがった。指先で何かを摘まみながら、周囲にチラと目をやる。列を離れ、小走りに柱へ向かう。その先にはゴミ箱があった。戻ってきた小池が言う。
「ゴミが落ちていたものだから……」
 入管ゲートの直前で床にゴミが落ちているのを見つけ、それを拾い、捨てに走ったのだ。12時間も押し込まれた、まるで棺桶のようなエコノミー席から開放された直後の振る舞いだった。
 陰徳を積む――。小池は、そんな生き方が大切だと思っている、そう話した。それが、およそ30も歳の離れた小池と、果ての見えない〝旅〟を決意した瞬間だったのかもしれない。

■小池が関心を抱いた「世紀の贋作作家」レアル・ルサール

 12時間前、私は成田空港からブリュッセルへと向かう飛行機に乗り込んだ。隣には小池が座っている。
 小池は自身が座るはずだった窓際の席を譲り、いささか窮屈であろう真ん中の挟まれた席を選んだ。昭和18年生まれの小池からみれば、私は息子ぐらいの年齢に違いない。そんな同行者にも細やかな気遣いと心配りを示す。その姿勢は、小池が他人のことを考える余裕さえないだろうと思われる状況でさえ、不変であり続けた。
 これまでに多くの経営者、実業家、起業家と呼ばれる人物の素顔を、少なからず見てきたつもりだった。ほとんどの者は、自身を取り巻く環境や目指す道が好調な時には他人を気遣う余裕と鷹揚さを示すが、いったん状況が一変するや、常々の紳士淑女ぶりが、いかに仮面にしか過ぎなかったのかを教えてくれた。
 小池と共にブリュッセルを旅し、彼を深く知った。その後に小池は、この連載で触れたように、人生で最大の苦境に直面した。そんな時でさえ、小池は他者に優しく接した。自分自身を厳しく律していた。
「いや、それは違う。小池はそんな立派な人物ではない。企業を脅して生きてきた卑劣な総会屋なのだ」――。こんな非難の声があるかもしれない。だが私は仮にその指摘が事実だったとしても、私が信じる小池の「素顔」と矛盾するとは考えない。
 小池は人間としての芯が強い。それは生まれ持っての部分がある。だが、それだけではない。おそらく侮蔑を含んだ声で世間から「総会屋」と呼ばれた前半生の経験によって、生まれながらの素質を更に強化したのだ。
 いや、脱線してしまったかもしれない。旅の話に戻ろう。我々はレアル・ルサールに会うために飛び立った。
 自身が絵画を愛好するだけでなく、小池はルサールの騒動を日本側から描いたノンフィクション『銀座の怪人』(七尾和晃・講談社BIZ)を読んでいた。そして六本木の麻布警察署向かいにある老舗の洋菓子店「クローバー」2階の喫茶室で、ヨーロッパを訪ねてレアル・ルサールに会ってみたいのだと小池から告げられたのだった。
「わたしはね、企業の表と裏をずっと見てきた男です。経営者の表と裏もね。真作も贋作も紙一重であること、いや本当はどっちも同じであること、そんなことをおそらく誰よりも見てきたかもしれない。人間という贋作に大変に興味があるのです。会って話をしてみたいのです。もしよろしければ、通訳をしていただけませんか」
 そして私も小池と共にブリュッセルへと向かうことになった。贋作作家レアル・ルサールもまた、小池同様に渦中の人となったことがある。映画監督オーソン・ウェルズが『フェイク』としてドキュメントフィルム化するモデルとなった「ルグロ事件」の陰の主人公だった人物だ。しかも、そのルグロ事件は日本とも無縁でもなかった。今や忘れ去られて久しいが、日本でもいまだに、このルグロ事件の顚末はそのすべてが詳らかにされることなく、時間のなかで曖昧模糊に伏せられ続けているのだ。
 私が小池の〝代理〟としてルサールに連絡をとると、日本からの来客を歓迎すると言い、もし来るのであれば、アフリカ大陸モロッコにある自身のアトリエにもぜひ案内したいと言ってきた。
 まずはブリュッセルにあるルサールの自宅に向かい、その後、モロッコのアトリエを訪れる計画を立て、飛行機のチケットを手配した。かくしてルサールを訪ねる旅が始まった。

■国立西洋美術館にも激震を発生させたルサールの「本物の贋作」

 1966年、日本――。参議院文教委員会での社会党・小林武の質疑をきっかけに、東京・上野を舞台にした贋作疑惑に火が付いていた。フランス人画商・ルグロから国立西洋美術館が購入した三点の西洋画が贋作ではないかというものだった。
 アンドレ・ドランの『ロンドンの橋』、ラウル・デュフィの『アンジュ湾』、アメデオ・モディリアーニの『女の顔』だ。国立美術館が購入に2600万円の国費を費やしていた。真贋の追求を免れるはずはない。
 3年の月日をかけた調査は結局、「真作とするには疑わしい点が多いといわざるをえない」と、歯切れの悪い文化庁の「灰色宣言」で決着した。国立西洋美術館は1971年、コメントを発表する。
「まことに申し訳ない。責任のない、タチの悪い画商につかまったのが間違いだった。私自身、これらの作品を買うときに選定にあたったわけで、その時は『できが悪い線だな』と感じていたが、あえて発言しなかった。」(山田智三郎館長)
 文化庁の出した「灰色宣言」によって騒動は終わりか、と思われた。ところが、この3点の絵画は85年に突如、「クロ」を宣告される。カナダ人画家のルサールが、画の作者であると名乗り出たのだった。
 ルサールはルグロ事件の真相を自ら綴り、フランス国内でベストセラーとなった。94年には日本語版『贋作への情熱』(レアル・ルサール著・鎌田真由美訳・中央公論社)も刊行される。ルサールは67年、ルグロに国際逮捕状が執行されて以来、じっと息を潜めてきたのだ。
 そうして全貌が明らかになったルサールの贋作だったが、その〝作品群〟は前・後期印象派、ブラマンク、ローランサン、モディリアーニ、マティスと、世界市場で値の張る有名画家の全てを嘗め尽くした。
 日本では国立西洋美術館のほかに、私立美術館にも贋作画商たるルグロの手によってルサールの贋作が持ち込まれていた。ルグロはルサールの特異な才能を見抜くや、60~70年代にかけ、多くの有名画家を真似た絵を、まだ青年だったルサールに「模写」や「習作」として大量に描かせていた。

<僕は自分にインスピレーションを与えてくれた画家たちの背後に、「自分らしさ」を探していた。そして毎回彼らのテクニックは僕のものとなった。画家のスタイルを試しながら彼の作品を頭に描いては自問した、「なぜ、彼はそうしたのか」と。僕はそのしぐさやテクニックを再現してみて、それが完全にできるようになると、どうしたらもっとよくなるか研究した。(『贋作への情熱』より)>

 ルサールは、癖や筆使いのまったく異なる画家の絵でも瞬時に真似できてしまう、特異な才能を持っていた。85年に贋作画家として名乗り出る以前には、ルサールの贋作は時に鑑定の第一人者・ウィルデンシュタインやパシッティはおろか、著名な国債競売会社・サザビーズのチェックさえ堂々とすり抜け、世界中の国公私立の美術館に流れていった。
 驚くことにルサールの〝巧さ〟は、巨匠本人の目をもくらませた。生前、ヴァン・ドンゲンは自身の手で「若き日の作品」としてルサールの絵に自らのサインを描き入れ、アンドレ・ドランの未亡人は「夫の作品」として鑑定書まで発行していた。
 ところが、そうして制作された相当の数に上る画がどこに飾られているのかは、これまで大きな謎だった。日本でもその保管先の一部は分っていた。国立西洋美術館や大阪の個人収集家の手元にあった。だが、いまだにルグロ事件で世界に流れた贋作絵画の行方はそのほとんどがわからないままだった。

■小池隆一がルサールに会おうとした「理由」

 ルサールはブリュッセルのアトリエに小池を迎えた。
 小池はそこに広がる光景に息を呑んだ様子だった。〝巨匠〟の絵がそこかしこに無造作に置かれている。
 ピカソ、モディリアーニ、デュフィ、ドンゲン、そしてマティス、ローランサン……。不思議なことに、そのどれもが確かに模写を超え、1つの作品として生き生きと息づいているように見える。
 ルサールの贋作が天才的にユニークだったのは、ルサールは同じ構図のコピーはしないことにあった。ルサールは巨匠の筆使いで、新しい構図を描いたのだ。つまり巨匠の〝新作〟が新たに流通することになる。
 ルサールによれば、それは次のような作法だ。
〈巨匠の絵は何故、讃えられるのか――。独特の筆使いによって表現を試みた、いわば巨匠のエッセンスを「解釈」によって抽出し、他のキャンバスの上に未知の構図で甦らせる〉
 だからこそ、それは構図を移した贋作ではなく、真作として流通できたのだろう。
 実のところルサールは、日本人ジャーナリストの取材も受けている。その中でルサールは自身が書いた贋作の数を「5000枚」と答えた。更にジャーナリストと絵の在処を巡り、次のような応答があったという。
「今までに所在や行方がわかっているのはごくごく一部ですよね?」
「そう。日本では国立西洋美術館やブリヂストン美術館にあるし、その後、私が手記を出した後には世界中から何人かが、『あなたの描いたものではないか』といって手紙をくれたことがあった」
「描いた贋作の大多数が、その行方がわからないということは、今現在も流通している可能性がありますよね。鑑定書がついたまま……」
「そうだね。何枚かは分かっているけど、ほとんどはどこに行ってしまったかは、分からないね。ルグロの倉庫から気が付いたら全部なくなってしまっていたんだからね」
 ルサールの描いた贋作は、米国の富豪コレクション、フォード財団やメドウズ財団にも購入・保管されていた。60年代から70年代にかけて、世界経済が戦後期から高度成長の好況期に突入しようとする時期、乾ききってひび割れた大地に焦がれた雨が浸み込むように、レアルの5000枚は貪欲に買い取られていった。
 このジャーナリストが雑談に「昨日、列車でアムステルダムのゴッホ美術館に行ってきました」と話を振ると、ルサールは驚くべきことを口にした。
「ああ、あそこにも私の贋作が飾ってあったよ。4、5年前だったかな、その絵をみた瞬間、心臓が止まりそうになったよ。『あっ、ああっ』って。かつて描いた自分の絵があんなところに飾ってあったなんて。しばらく呆然と立ちつくしたんだ。あの絵を描いたときはある部分の筆使いに特徴を出したから自分でもよく覚えていたんだ」
「それ……美術館には教えたんですか?」
「いや、教えなかったよ、結局ね。今でも飾ってあると思うよ。ゴッホのレゾネ(図録)にも載っている絵だからね」
 そう言って、ルサールは静かに微笑んだ──。そして世紀の贋作画家、ルサールの横に、企業と経営者の表と裏、さらに言えば「企業家という贋作」とかつて対峙してきた小池が立った。
ルサールは5000枚に及ぶ贋作を書き上げた。わずか10年にも満たない短い時間で、だ。猛烈に、狂ったように描きあげていったに違いない。そこには強烈な動機があっただろう。尋常ではない集中力に人間を導くものがあるとすれば、それは決して「金」ではなく「本能に根ざした欲求」だ。
小池がルサールに会ってみたいと思ったのも、当然ながら単なる好事家が自慢話を増やすためではない。小池が無意識、本能的にルサールの人間性に共鳴を覚え、自分の姿と生き方にダブらせたからだった。

■総会屋として「デビュー」した小池隆一

 新潟から上京してきた小池が初めて総会に出たのは、25歳の頃だった。
「日本セメントの総会でね。それが初めて、総会に出たとき。そのときに『ぎちょー』って発言するために手を上げたら、他からも『ぎちょー』なんて聞こえてね。こっちも初めてだし、勝手がわからなくて、とにかく発言しないといけないから、『ぎちょー』って。そしたらどっかからも『ぎちょー』でね。それが、児玉だったんですよ」
 児玉英三郎は、のちに関西では知らぬ者はいない総会屋としてその勇名を馳せることになるが、この日本セメントの総会で2人は初めて面識を得る。
「総会が終って挨拶したら、『私も初めてで』『いや、実はこっちもで』なんて会話になってね。それで児玉が『今後ともよろしゅうお願いしますー』なんて関西弁で言ってたことがあって、お互いに初めての総会デビューだったから、それをきっかけの付き合いになったんですよ」
 後に児玉は山口組に入り、いわゆる武闘派としてもその名を轟かせる。94年の富士フィルム専務の襲撃事件では、背後関係で名前を囁かれるなど、一般社会でも畏怖される存在となった。
 児玉が山口組へ入るきっかけも、実は総会にあった。
「なんの総会だったか……。児玉はある時、総会後に、その企業の与党総会屋にぼこぼこにされちゃったことがあったんですね。それで、この野郎、と悔しくて胸に期するものがあったんでしょうね。それから組に入っちゃったんですね」
 児玉は関西で1、2を争う総会屋となり、西の児玉と呼ばれる。そして「西」があるのなら、東にも双璧を成す者がいるのが常だ。それは後に住吉会の本部長にまで駆けあがった五十嵐孝だった。
「西の児玉に、東の五十嵐」――。
 小池は五十嵐ともひょんな事から縁が生まれ、この東西の両雄と知己を得る。東西のどちらにも顔が利く存在として、並みの総会屋から図抜ける素地を得たとも言えよう。
 70年代の高度経済成長期の日本企業で、この東西両雄の総会屋から攻撃されなかった企業はなかったといってもいい。その両雄に小池は顔が利く。企業社会にとってはこれほどありがたい存在はないということになる。小池に話を通せば、それこそ、日本全国、どこでも話が通るということになるのだ。
 両雄と互いを認める関係になるには、もちろんカネは関係ない。人間関係の素地が必要であることは、こうした世界でも当然だった。いや、むしろカネだけでは決着のつかない世界だからこそ、人間関係の機微が決定的に重要にもなる。
 なぜ小池は裏社会からも信用を得ることができたのか。それを解き明かすため、少し長くなってしまうのだが、ちょっとした引用をさせて頂きたい。今となっては「最後の大物総会屋」と形容されることの多い小川薫の手記だ。当時、小池にとって小川は〝上司〟とでも言うべき存在だった。
 先に登場人物の註釈を書かせて頂くと、河島喜好氏は1947年に浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)を卒業し、本田技研工業の前身である本田技術研究所に入社。73年に本田宗一郎の後継者として、45歳で第2代のホンダ社長に就任、83年に退任した。2013年10月、85歳で死去している。

<四月二十四日、東京・大手町のサンケイ会館で、河島喜好社長の議長ではじまった株主総会。のちのホンダ、当時の本田技研工業は、過去最高の経常利益を上げるなど、順風満帆だった。
 河島議長が、営業報告に入ろうとした瞬間、小池君が「議長」という鋭い声を出して立ち上がった。
「私、株主として、こんなことを議長さん以下役員の方々に言うのは、まことに失礼かと思いますけど、商法の第二四七条に、“著しく不公平な決議をした場合は、決議は適法に成立しない”というような条項もございます……。株主総会は、言うまでもなく、会社の最高の意思決定機関でありますので、株主総会においては、決して株主の発言を無視することなく、良心的なお答えをいただきたいということを、特にご要望申し上げて、二、三質問に入らせていただきます」
 凄みのある前置きだ。総会屋の発言だと思って、甘くみるなよという恫喝だった。
 質問に入って、小池君は、河島社長が二十一万株、川島副社長が四十八万株、自社株を持っていることを取り上げる。一般の取締役は株数が少ないのに、なぜ、代表権を持つ役員は株数が多いのか。そして、小池君は自分のところに投書がきているという。
「投書の話ですけど、おそらくこれ(河島氏の持ち株)は子会社あたりの株を名義書換で持っているのではないかとか、本田さん(創業者)がお人好しだから、かわいい、かわいいと言って、プレゼントしたんじゃないかとか、いろいろ書かれている……」
 こうした執拗な質問に、河島社長は立ち往生しながらも
「私の個人的な問題でございますので、お答えしにくいのでございますが、いずれにしましても不正行為をもって、あるいはやましい行為を持ちましてこのようなこと(持ち株)になったのではございません」
 そして、従業員持ち株制度がはじまったときに取得したこと、そのときの七百株が増資で増えたなどと説明する。しかし、そんな答えで引き下がる小池君ではなかった。
「その七百株が増えに増えて、二十何万株になったということか。増資、増資でこうなったということか」
 と、畳み込んでいく。
 河島社長は、銀行借り入れを「家屋敷を担保に入れて」行い、株を買い、増資に応じてきたと説明する。
小池「いつごろ、(担保に)入れてますか」
河島「ずっと、前からでございます」
小池「いまだに、入ってますか」
河島「いまだに、入ってます」
 この河島氏の答えが致命的だった。そんな質問など、答える必要がないとでも言っておけばよかったのだ。
 河島氏の答えは、小池君にとっては「思うツボ」だった。彼は一段と声を張り上げた。
「私、あなたをペテンにかけたわけじゃないけど、株主の皆さん、よく聞いて下さいよ。いま、社長は、家、屋敷を担保に入れてカネを借りたと言いましたよね(その通りの声あり)。私は、昨日、登記所に行って調べてきた。河島喜好、建物、所在練馬区石神井町五丁目……。木造平屋建て、十四坪八十二。宅地六十五坪四十三……。登記所に行って調べてきたけど、全然、担保に入ったことはないし、いま現在も入っていない。ウソを言ったんだ、あなたは。あなたは、私に株主総会という公然たる席で、ウソを言った! それ以上はあえて追及すると、いろいろ問題が出るから、僕は追及しない。ウソを言った。いいか、わかったか。それだけ言っておくぞ!」
 小池君は勝ち誇ったように言った。
 気の毒に河島議長は「私は事務的なことについてはよくわかりませんので、誤っておったと思います」元気のない声で答えていた。
 しかし、小池君という男は、こんなことでは鉾を収めなかった。
 私はこのころでも小池君に、「ちょっと、やりすぎじゃないのか」と話したこともある。しかし、小池君は「社長、とことんやりましょう」と意気軒高だった>

 このとき小池は、小川企業株式会社の副社長職にあった。小池からみれば、小川はあくまでも「社長」、小川からすれば「小池君」という間柄になる。小川の回顧録の流れではしかし、小池が〝暴走〟しているかに見える。
 だが、後述するが、小池側の言を踏まえれば、状況は異なる様相を見せてくる。

(第5回につづく)

2016年6月23日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第3回「警告」─「賄賂を払え」との訴訟

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 伊藤忠と三菱重工は約8億円を払え──火力発電所の建設を巡り、2010年7月、ベトナム人エージェント、グエン・チー・タンは、いわば〝賄賂の支払不履行〟を理由に日本有数の商社2社に訴訟を起こした。

■――――――――――――――――――――
【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【購読記事の文字数】約9800字
【写真】双日株式会社の公式サイトより
(https://www.sojitz.com/jp/)
■――――――――――――――――――――

 訴訟提起後、全国紙の社会部宛てに封書が届いた。そこにはベトナムで日本企業による汚職工作が行われている旨と、2つの訴訟番号が記されていた。
 横浜地裁 平成22年(ワ)第3604号
 東京地裁 平成22年(ワ)第23300号
 横浜地裁の裁判は、これまでに見てきた伊藤忠と三菱重工が被告となったものだ。
 もう1つの東京地裁の案件は「べトシン国際株式会社」なるエージェントが、やはり手数料の支払いを求めて、日本商社の双日を訴えたものだ。
 いずれも2011年の夏頃に提訴されているが、基本的に2つの裁判は原告と被告が異なり、内容も関連性が乏しい。共通点があるとすれば、たった1つ、ベトナムのエージェントに対する手数料未払いを原因とする日本商社に対する訴訟という点だけだ。
 にもかかわらず、2つの裁判は同じ時期に提訴され、訴訟番号が1枚の紙に記され、封書で新聞社だけでなく、ODAを所管する国際協力機構(JICA)にも送られた。〝タレコミ〟を受け、JICAの斉藤蘭は横浜と東京の両地裁に足を運び、裁判記録を閲覧している。ODAを巡る贈賄まがいのキナ臭い話はJICAとしても、ひいては外務省としても無視できない。
 一体、何が起きていたのか。ここに、その背景を示唆する1通の内容証明郵便がある。2012年4月3日付けで、小池隆一が三菱商事の三枡素生宛てに送ったものだ。そこには、この一連の工作の〝首謀者〟を伺わせる内容がはっきりと記されている。

<前略、平成二十三年四月の始め頃ではなかったかと記憶いたしておりますが、山田慶一氏の赤坂の事務所に呼ばれて、お訪ねした時、英文の契約書と、それを日本語に翻訳した文書を渡され説明を受けました。
 それによると「大手商社の双日株式会社が子会社の双日システムズ株式会社を使ってマネーロンダリングをやっており、そこで裏金をプールしてベトナム政府の高官に贈賄をしている。その裏金作りを裏付ける書類で、子会社の双日システムズ株式会社がベトナムのエージェントであるヴェト・シン国際株式会社に手数料を支払うとき九十%~九十五%をキックバックさせていることの証拠書類です。英文のものですが、日本語に翻訳しておきましたから読んでみて下さい。」
「これを、どこかの新聞か週刊誌に書かせて貰えませんか」とマスコミ掲載工作を依頼されました。
 その際、私が山田氏にお尋ねしたことは二点でした。
 一つは「誰からの依頼でしょうか」という私の質問に山田氏は「三菱商事の三桝素生と金子清志です」と答えました。
 二つ目は「少しお小遣いを渡してやれば、どこか書くところは有ると思いますが、その費用は誰が出すのでしょうか」という私の質問に対して山田氏は「依頼主の三桝と金子です。これは仕事ですから」と答えましたので「三桝さんと金子さんが資金を出すのであれば、支払いに間違いはないのでしょうから、お引受けしましょう」と応じて別れました。
 それから一日~二日経って、私は国際新聞社発行の「国際新聞」の直近の新しい新聞を持って山田氏を訪れ「こんな新聞でも良いのでしょうか」と尋ねたら、「二日~三日返事を待って欲しい、三桝と金子が了解するか、どうか少し時間を下さい」と言われて帰りました。
 二日~三日経過後、山田氏の方から「この新聞は実に面白い、ズバリと痛いところを遠慮なく指摘する、上手いもんですネ」「この新聞に載せて貰えますか」と言われて、指示をされた事は、金子氏直筆の原告ヴェトシン国際株式会社と被告双日株式会社の平成二十三日五月十日の裁判を東京地方裁判所四〇九号法廷で十時四十五分から傍聴に行って取材をしたという形式を取ることを指示されました
 その後、金子清志氏の方から山田氏経由で「こう書いて欲しい」という簡単ではあるが、それがポイントで、それを抜かさないで書けということなのでしょうか、一枚は金子氏直筆で、もう一枚はパソコンか何かで打ち出したもので、合計二枚の原稿も渡されて、国際新聞の平成二十三年六月三十日号ということで、六月十五日前後に三桝素生氏指示の発送先リストも渡されて、それも含めて広範囲に郵送配布致しました。
 その後、二カ月後の八月のお盆も過ぎてから山田氏の事務所を訪ねた時に、山田氏の方から「既に過日に入札は実施されたものだが、一番が双日で、二番が三菱商事であったものだが、一番札の双日の技術審査を双日の工作で四月から六月に延び、さらに七月二十七日に延びていたものを、今回は三菱商事による国際新聞誌に暴露記事掲載工作が効を奏して、双日は当局による摘発を恐れて七月末を待たずに辞退したもので、その結果三菱商事と丸紅の二社のみで再入札ということになったようです」と言いながら、金子清志氏が〇〇〇〇(※筆者の判断で匿名)宛に発信した平成二十三年八月十日付のメールのコピーを渡されました。そして感謝されました。三桝さんも金子さんもたいへんお喜びだと言われました>

 これもODAが絡んでいるが、これまでに見たオモン火力発電所2号機に関わるものではない。同じベトナムでも、北部にあるタイビン火力発電所の入札工作だった。三菱商事の三枡や山田たちはオモンとタイビンを両睨みして工作を行っていた。いや、他にも同時並行で、いくつものODAで受注工作を展開していたのだ。
 金子は中国側へ、次のようなメールを送っている。

< 2011年8月10日14:00
〇〇様
  御無沙汰しております。
  先々月お会いしてからの状況報告です。
  4月から6月に延び、7月末に再度延期されたベトナム案件は、ようやく入札が実施されました。予想された3社ではなく、2社のみの入札です。
  今後数か月(おそらく3から4カ月)の技術審査期間を経て、入札金額がオープンされ受注企業が決定されるものと思います。
  また、各種状況が変化しましたら、ご報告いたします。>

 山田はメディア工作を依頼した人物に、このメールの送信記録を見せ、それが内容証明で触れられることになった。メールの内容を見れば、両者共に思惑には成功していることが分かる。内容証明などという緊迫したやり取りに登場するはずもない。
 それが、どうして対立関係に発展してしまったのか。当然ながら小池の内容証明には「しかし」の文字が記されている。

<しかし、ここまでは私も三桝さんや金子さん、あるいは山田さんの御希望に添うことができて良かったと思っておりましたが、この国際新聞の方への支払いが現在に至るも滞っており済んではおりません>
 
 小池が山田に請求しても、全く支払われない。金子に電話しても出ない。留守電を残しても、社員に伝言を残しても、折り返しの電話はかかってこない。
 あげくの果てに山田から「金子からカネは出ない」と言われてしまう。あくまでも山田の説明ではあるのだが、金子は「山田に多額のカネが渡っているのだから、山田が支払え」と主張しているのだという。そして山田は、まるで他人事のように「もう金子に電話したり、連絡したりするのは止めてほしい」と小池に頼んだ。
 小池は「三枡や金子は山田に金を出資したが、山田が使い込んでしまったのか」とも考えてみた。それとも山田は金子から借金をしているのだろうか? となれば、金子は「借金を返しもしないくせに、なんで国際新聞にカネを払う必要がある。泥棒に負い銭じゃないか!」と怒っても不思議はない……。
 小池に判断はつかなかった。だが、少なくとも山田は小池に対し、国際新聞への掲載工作は三枡と金子が依頼してきたとし、発生する経費は2人が連帯して支払うと説明していたはずだ。小池は内容証明に、次のような嫌味を書く。

<山田氏とお二人がどのような事情に変ったのか、あるいは変らないのか、私は全く知りませんが、依頼を受けた私はきちんと引き受けた役割を果しておるわけですから、そのトバッチリを受けることははなはだ心外でございます>

 とはいっても、事態は深刻だ。冗談で済ませられる話ではない。そこで小池は次のように通告する。

<三桝氏、金子氏、〇〇氏(※筆者の判断で匿名)の三者でのメールでの遣り取りが上手く行っていたものであり、その都度私の方にも送信したメールのコピーがわざわざ私の方にも送られて来ていたものが、突然、急に、あの国際新聞暴露記事以降、全くそれまでの流れが激変して、私はつんぼ桟敷に置かれているわけですが、これでは中国側への私の信用が著しく傷つく事になりますので、私としても、何とか打開しなくてはならないと考え、いくら電話をしても会話が成り立たない状況であれば、止むを得ずお手紙を出すしか方法がありません。
 ぜひとも今後の事を話し合いたいと存じますので、三桝さん、金子さん、山田さん、皆さん打ち揃って、できれば私の方で弁護士先生に依頼致しますので、弁護士先生同席の上でお話し申し上げたいと存じます。ご連絡をお待ち致しております>

 この内容証明郵便は、同様の文面で三菱商事の三桝のほか、金子、そして当然に山田にも配達証明付きで送付されている。しかし、この郵便を送った小池隆一のもとに、連絡がくることはなかった。 

■ベトナム側弁護士が双日の代表取締役・加瀬豊宛てに送った「警告書」

 では、内容証明に登場した「国際新聞」を見てみよう。確かに2011年6月30日付紙面の1面すべてを使い、この双日の裁判を記事化している。週刊誌も裸足で逃げ出すほど、思い切った見出しだ。

<双日 円借款200億で贈収賄工作資金用裏金作り? ベトナムODAで現代版ロッキードか 奇妙な代理店との契約で裁判沙汰>

 ロッキード級の疑獄、と報じるこの新聞が、山田側から提供された「リスト」に従って送付された。送り先は、それこそ実にぬかりがない。
 リストの先頭が三菱商事の社長・小林健になっているのは失笑を禁じ得ないにしても、以下は三井物産の飯島彰己、丸紅の朝田照男、住友商事の加藤進、伊藤忠商事の岡藤正広、双日の加瀬豊、双日システムズの小幡和徳、三菱重工業の大宮英明、IHIの釜和明、日立製作所の中西宏明、東芝の佐々木則夫……といった当時の各社代表取締役の名前が並ぶ。まさに〝関係各位〟にあまねく伝えているわけだ。それに以下の送付先が加わる。

<外務省国際協力局政策課 東京都千代田区霞ヶ関2―2―1
 JICA総務部総合調整課 不正腐敗情報受付窓口 東京都千代田区二番町5―25 二番町センタービル
 東京国税局調査第一部 東京都千代田区大手町1―3―3 大手町合同庁舎3号館>

 ご覧の通り、JICAは「不正腐敗情報受付窓口」で、東京国税局は「調査第一部」だ。素人では想像さえ不可能な部署名を特定している。このあたりは手慣れた雰囲気と、用意周到な印象が強い。
 賄賂の性質が強い工作資金であり、裏の金であるエージェント手数料を巡るトラブルが、裁判という形で表沙汰になったのが異例であることは論を俟たない。更に原告が「ベトナム在住のベトナム人」でありながら、あえて訴訟費用が莫大な額になる日本国内で提起されるのも異様だった。ベトナム人原告は当然ながら、格段に負担の少ないベトナム国内で訴訟を起こすことができたはずだからだ。
 ちなみに日米企業の法的紛争を見ても、米国企業が本国から離れた日本国内で訴訟提起するケースは少ない。圧倒的に本拠地のある米国で訴訟提起する場合がほとんどだ。
 横浜地裁のケースでは、ベトナム人原告による訴訟印紙額だけでも248万円に上る。ベトナム国内の平均年収が日本円にして約20万円。これに鑑みれば、いかにこのエージェントが〝やり手〟であったとしても、およそ平均年収の10年分超に当たる額の印紙代を払ってまで日本国内で裁判を起こしたのは理解に苦しむ。〝取りっぱぐれ〟たエージェント手数料が8億円超なのだから、それぐらいの費用は当然という考えもあるだろうが、裁判なのだから勝てる保証はない。
 加えて、どちらの係争案件も、発生から5〜6年近くが経過していた。だが、2011年になるとほぼ同時に、日本国内で歩調を合わせたかのように訴訟が提起された。山田や三菱商事側の思惑など考えなくとも、ベトナム人の訴訟費用を負担する第3者が存在するのではないかという推測は、否が応にも現実味を増す。
 そして2裁判での訴訟記録をめくれば、ある弁護士の名前が登場する。第1回で触れた内野経一郎だ。両裁判は、ここでも山田=金子=三菱商事・三枡、と1本の筋でつながっていく。
 東京地裁で双日に対する訴訟が起こされて間もなく、ベトナム側弁護士である内野経一郎は、双日の代表取締役・加瀬豊宛てに1通の「警告書」を内容証明郵便で送付した。
 この「警告文」が言及した内容こそ、山田や三菱商事・三枡の狙いがあったのではないか。そこには、山田がこの間、関係者らに吹聴していた計略が、これほどないまでに直截的な表現で記されていた。

<                 警告書

1. 日本政府によるジャイカを通じての円借款によって行わる(原文ママ)事業である国営ベトナム電力傘下カントー火力発電会社が建設するオモン火力発電所2号機建設プロジェクトの入札が10月5日に行われる予定で貴社がこれに応札される予定と仄聞しております。
2. (1)当社は貴社の依頼により貴社のVTV入札のコンサルタントを引き受けました。貴社職員宇土澤秀徳氏が2004年3月15日当社への代理店手数料の支払を文書を以って約束され、一方貴社は2006年4月3日落札を公表しておられます。
   当社代表者の催促メールに対し貴社はメールを以て約束を実質上認めながらも一向に手数料の支払がなされず、
  (2)当社は貴社に対して平成22年6月22日訴を提起し東京地方裁判所平成22年(ワ)23300号として係属係争中であります>

  この警告書はここから一気に本題に切り込む。

<3.ところで円借款事業の為の調達ガイドラインによる応札資格には過去5年間の訴訟情報の申告が求められているようであります。同じベトナムの事業にかかわる同じ円借款に基づく事業にかかわる係争であります故記入もれないよう願います。
4.記入の有無については関係各機関に問い合わせし、あるいは訴訟記録を送付し円借款事業にかかわる貴社の経営姿勢への注意を喚起することがあり得ますこと警告しておきます。
  平成22年9月24日
  東京都港区赤坂六丁目1番地20号 双日株式会社代表取締役 加瀬豊様 
  東京都千代田区九段北四丁目1番5号市ヶ谷法曹ビル505号 東京第一法律事務所
                     電話03―3230―4041
                     FAX03―3230―4050
                  ヴェト・シン国際株式会社代理人
                        弁護士 内野経一郎>

 内野と山田との付き合いは古い。持ち込まれる企業のトラブルなどを、山田は積極的に内野へ斡旋紹介し、山田に東京地検特捜部の手が及べば、内野に弁護を依頼した。
 だが、ここで内野は、あくまでもヴェト・シン国際株式会社の代理人として登場している。山田の代理人として警告書を発送しているわけではない。それを踏まえた上で、次は横浜地裁で提訴された三菱重工と伊藤忠商事が被告の裁判を見て頂こう。すると、ここにもある名前が浮上する。訴状にはこうある。

<……原告は弁護士を通じて被告らに対する交渉を行うべく、韓国弁護士である金賛鎮弁護士及び本訴原告代理人に委任して交渉することとした>

「金賛鎮」は、韓国国内に事務所を構える弁護士だが、山田を知る関係者にとっては、山田の顧問弁護士の1人だ。つまり、東京地裁と横浜地裁で〝偶然〟に同じ時期に提訴されたエージェント手数料を巡る裁判には、やはり〝偶然〟に山田の知人・顧問格の弁護士が関わったわけだ。
 先に触れた、弁護士の内野が双日宛てに送った警告書を思い出して頂きたい。あの中には、わざわざ「円借款事業の為の調達ガイドラインによる応札資格には過去五年間の訴訟情報の申告が求められている」ので、記入漏れをするな、と記されていた。
 弁護士の内野にとっては、訴訟戦略の一環としての「揺さぶり工作」であったとしても、結果として、山田と三菱商事・三枡たちの「狙い」に寄与することは間違いない。「過去五年間の訴訟情報の申告が求められ」ることを考えれば、日本国内で訴訟を抱えることは一種の〝失点〟になりうることが懸念されるはずだ。
 なお、この内野の警告書に対し、被告である双日側の代理人弁護士は、次のように返答している。

<まず、双日がベトナムのオモン火力発電所2号機建設プロジェクトに入札するかどうかは、貴職が代理人をしておられるヴェト・シン国際株式会社(以下「ヴェト・シン社」といいます。)とは何ら関係のない問題であり、ヴェト・シン社が双日に対して警告書を送る趣旨が全く理解できません。(中略)
 因みに、ヴェト・シン社との係争につきましても、ヴェト・シン社からのご請求が、正当な業務にもとづくものかどうかを確認するために、業務内容のご説明をお願いしたにもかかわらず、これに応じていただけないために、やむなく訴訟に発展したものであることをご理解ください。
 なお、警告書においては、双日の業務につき、関係各機関に問い合わせをし、あるいは訴訟記録を送付するなどの行為をされることを示唆しておられますが、万一、ヴェト・シン社が双日の業務を妨害する行為に出る場合には、双日としてもしかるべき法的措置をとらざるを得ませんので、ご承知おき下さい>

 だが先に見たように、この警告書が送付されるのに先立って、既に大手新聞社の社会部や政府の関係各所などには、横浜地裁と東京地裁の2つの係争番号が記された封書が届き、山田は「どこか新聞か雑誌かに書かせてもらえませんか」と、ある人物に依頼していた。
 やはり2つの裁判は「工作」の一環として提起されたものであり、不可分なセットの関係にあったのだ。その根底に山田と三菱商事・三枡の思惑があったことは、山田自身が次のように語っている。
「横浜での裁判は、内野先生からのアドバイスもあって、日本国内では三菱重工や伊藤忠の大手に対する裁判を引受ける弁護士はいないだろうから、韓国の先生からの依頼というかたちで日本国内で引き受ける弁護士を探したほうがいいだろうということになりました。それに、ヴェト・シンの裁判は和解になりますから、和解になりましたら、お金が入りますよ」
 繰り返しになるが、山田は原告ではない。原告側弁護士は極めて山田と親しいのは事実だが、なぜ山田へカネが渡るのか……?

■〝海坊主〟山田への直接取材から浮かび上がったこと

 罠にかかったケダモノの顔とは、まさにこれをいうのだろうか。山田は右目下の、ほのかに興奮からか紅潮した頬の肉をビクッと上へ引きつらせた。
 2013年2月15日午後3時半すぎ。山田を東京・銀座の大都市政策研究センターに訪ね、三菱商事の受注工作のために関与した事実と、その内容を詳細に問うた。山田は、入居する東京都中小企業会館地階のソファーでじっと目を閉じて、答えにならない答えをくり返した。
「裁判について書くのは、これは構いませんよ。でも、60億円の話と裁判はまったく関係ないのではないでしょうか。何か誤解しているのではないでしょうか」
 しかし、山田の懇意の弁護士の内野が双日の社長宛てに送った「警告書」には、オモン火力発電所2号機の入札が迫っているという、山田と三菱商事側の〝都合〟がきっちりと書き込まれていることを告げると、山田はこう繰り返した。
「本当に私は知りません。それがなぜ裁判と?」
 裁判所の訴訟記録に内野の警告書が綴じられていることを告げると、それには一瞬、驚いた表情を見せ、沈黙した。
 警告書は、法廷でのやりとりではない。担当弁護士の内野は双日の社長宛てに直接送付している。双日側弁護士も反論を書き送っている。だから裁判所の外でのやり取りが証拠書類として裁判所に提出されていることを山田は知らなかったのかもしれない。裁判はODAの60億円の分配とは関係ない、決して足は付かない……そんな確信に満ちていたのだろう。
 だが、次の言葉を投げた瞬間、山田ははっきりと顔をこわばらせた。
「そう。東京地裁と横浜地裁の2つの裁判は、たとえ起こされていたとしても誰にもわかりませんよ。しかし、トラブルが起きてからすでに何年も経っているものが、オモン火力発電所の入札を目前にした時期に、同時に日本で起こされた。そもそも、2つの裁判は日本ではなくてベトナム国内で起こされてもいいはずの裁判です。それがわざわざ日本で起こされた。そして、そこには2人の弁護士が絡んでいる。金さんと内野さんだ。2人は、山田さんが極めて親しくしている弁護士であることは、山田さんを知る者ならば、それこそ誰でも知っている。山田さん、あなたはコンサルタントだから、依頼されれば、それに応えるのが仕事でしょう。たとえその仕事を悪くいうものがあっても、それはそれでしょう。あなたはコンサルタントとしての務めを果しただけかもしれない。しかし、それを恃んだのは三菱商事でしょう。頼む者がいなければ頼まれたほうはやらないんだから。山田さん、あなたは2つの裁判は60億円の分配とは関係ないと言う……」
 山田はすでに、60億円の分配は三菱商事の三桝、元社員の金子、そして山田の3人で分配しようとしていたのではないかという問いかけにこう答えていた。
「……それは、そんな簡単じゃないんじゃないでしょうか……。あれだけの金額ですからね……」
 簡単ではない――だからこそ、彼らはわざわざ中国にまで赴き、日本への送金ルートの構築を画策していたのではなかったか。山東省の電力会社(SEPCOⅢ)に〝抱かせた〟ODAの受注額の上積み分の60億円をSEPCOⅢから自分達に還流させ、さらに還流させたものを日本国内に持ち込む……。山田はこうも言った。
「それに、あれは駄目だったんじゃないでしょうか」
 結論はそうだ。しかし、商法の特別背任には未遂罪が存在する。背任を計画した段階で、罪に問われる可能性があるのだ。
 その三菱商事の受注工作を展開した山田は、三菱商事、金子、そして山田本人の誰がその計画の首謀者なのかと詰め寄るたびに、ソファーでじっと目を閉じて、腕を組み、そして沈黙した。そして、次の問いかけるでもない言葉に、頬骨あたりの筋肉が反応した。
「あなたが60億円の分配計画とは関係がないという2つの訴訟が起きた直後、朝日新聞と読売新聞に匿名の投書が届いた。そこには関係ないはずの2つの訴訟の係属番号が記されて、ベトナムでの賄賂工作云々と取材を促すような文言が短く書かれていた。つまり、関係ないはずの2つの訴訟がリンクすることを知っていた人物が送ったんですよ、これは。それは一体誰なのか、ということですよ」
 微かな表情の変化のあと、山田はまるで涅槃のように目を閉じて身じろぎひとつしなくなった。やましさを孕んだ目がありうるとすれば、まさにこれを言うのだろう。その顔相を前に、意図的な投書の実行犯こそは、やはりこの男ではないのか、と確信めいたものが浮かんだ。
 山田はメディア工作を、三菱商事の三枡や金子から請け負っていた。自身の人脈を以て、確実なリークを実現し、取材が行われることで相手は萎縮する──しかし実際には、山田は新聞社の社会部宛てに投書を行うことで済ませていたのだ。
 国際新聞の件で、小池が山田に問い合わせを行うと、「金子から、山田さんのところにはお金がいっぱい行っているんだから、そこから出せばいいじゃないかと言われました」と答えたのは先に見た通りだ。
 だが、朝日と読売、そして国際協力事業団を含めて撒かれた封書の投函にかかる費用は、1通わずか80円である。しかも、この時期に山田は「朝日の○○を取材に行かせています」などと、知名度の高い大物記者の名前を出し、いかにも自分が動かしているかのように吹聴していたのだが、実際には匿名投書の「80円作戦」だったのだ。
 山田は取材内容の細部を出しての問いかけに、沈黙し、目を閉じ、そして再び目を開いて口を動かした。
「いろいろと誤解があるようです」
 地下の共同応接室から一階に上がるまで、山田は執拗にエレベーターに乗るように促した。しかし、階段を上がれば済むわずかな距離を、同じ箱に乗ることを勧める。関係者は山田を「海坊主」とのあだ名をつけていた。そんな男の不敵な笑みは、相当な恐怖を煽られる。
「山田には暴力装置が付いている。とにかく気をつけてくれ」
 そう告げるメディア関係者は多かった。実際、山田の前半生を振り返れば、それは当っていた。
 山田は別れ際、家族関係についても執拗に訊いてきた。そんな笑顔の〝恫喝〟に、これまでの取材人生で何度か遭遇したことがあった。
 山田と二人だけの空間に入ることは危険だ。山田がエレベーターという一つ箱のなかで逆上し、それこそ鶏の首を絞めるかのごとく首に手をかければ、ひとたまりもないだろう、そんな思いがよぎる。
 執拗なエレベーターへの誘いを断り、一階への階段を上がろうとしたとき、白いコートに身を包んだ、女性が私とすれ違い、急ぎ、階下に降りて行った。
 その女性は、やはり三菱商事に勤めていた。今は独立してコンサルタント会社を経営している。「道路に強い」との評判だった。目の細く化粧の行き届いた、そのうりざね顔の女性は、山田の好みと言われていた。
 足早に階下を駆け降りて行った女性は、おそらくたった今、3階の事務所へと上がって行った山田とすれ違ってしまうことになったであろう。
 女性の足取りにはまだ希望の気配があった。
 聞けば、山田は安倍政権のもと、カンボジアで物流の大動脈となる高速道路建設〝プロジェクト〟を推進しているという。その参加料なのか、その女性もすでに山田に金を貸していると言われていた。この女性もまた、山田という大きな筋が大きな仕事に結び付くその日を夢見て、今を生きているのかもしれない。
 雪になるかもしれないと言われたバレンタインデー翌日の銀座で、人々の足取りは早く、空気は一層冷え込んでいるように感じられた。そんななか、山田を追いかけるかのように向かう女の姿が再び甦った。彼女もまた、小池隆一のように、身ぐるみ剥がされなければいいが……。
 山田に関わった者は、気付いた瞬間には、全てを奪われ、路上にぽつねんと放り出される。山田と知りあったゆえに、後半生で地獄の苦しみを味わうことになった小池。その悲しみは当然ながら、他の者と異なるはずがない。

(第4回につづく)

2016年6月16日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第2回「陰謀─重工、商事、伊藤忠」

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 2009年9月12日、中国東方航空のビジネスクラスに、山田慶一は元三菱商事の金子清志と搭乗、北京へ飛んだ。とある国際入札のため、小池隆一が紹介した中国企業との折衝に臨むためである。小池も成り行きを見守るべく、別ルートで北京へ向かった。

■――――――――――――――――――――
【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】ベトナム火力発電所の建設を巡り、受注額の「中抜き」を画策したメモ
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 高層ビルが建ち並ぶ北京の街並みは、既に東京やニューヨークに匹敵しつつあった。

 かつての東京オリンピックは、日本を途上国から先進国へ大きく飛躍させ、国際社会に対して敗戦国との負のイメージを払拭した。同じように08年に開かれた北京オリンピックも、そんな国威発揚の証として機能したのだろう。

 オリンピックに合わせて展開された北京市内のインフラ整備は、社会主義国家らしい速効性のある統制が効いたのか、空港から道路網に至るまで、とりわけ公共施設の拡張と展開に瞠目すべきものがあった。真新しく白みの強い、耀く化粧石ばりのコンクリートが空港から市内まで太いネットワークをつなぐ。その脇を高層ビルの回廊が建ち護る。

 だが裏へ回れば、下水とも川とも見分けのつかない淀みから臭気が満ち、土埃が舞う中に小さな小屋が密集し、人々が歓声を上げていた。表通りの世界とは異なる時間を懸命に過ごしている姿がそこにはあったが、そんな場所も、やはりオリンピック以後は少なくなる一方のようだった。

 北京でも有数の高級ホテルとして知られるシャングリラホテルも、裏通りの喧騒が表へ洩れるのを封じるかのように建っていた。しかし木々が豊かな中国風庭園と、流れる水を望む、澄んだガラス張りのロビーの中には、ある不穏な時間が流れていた。程なくそこは陰謀の現場となる。

シャングリラホテルで中国側が抱いた〝小さな懸念〟

 山田慶一と金子清志は、到着した北京空港で中国側が差配した車に乗り込むと、シャングリラホテルへと向かった。

 ホテルに投宿すると、山田らは中国側が用意した宴席に招かれた。明日の朝から折衝が始まる。その前夜祭という位置づけなのか、壮麗な中国装飾に囲まれた個室の円卓を囲み、中国側企業の役員は豪華な中華料理で日本からの賓客をもてなした。

 この時点まで中国側は、金子のことを三菱商事の現役社員だと考えていた。というのも山田は小池に次のように説明し、中国側企業を紹介してくれるように頼んでいたからだ。

「三菱商事がベトナムで受注する案件で、ぜひ中国の企業と手を組みたい。ついては三菱商事の人間を連れて北京にいきたいのだが……」

 当然、小池もそう中国側へ伝えた。中国側にしてみれば、三菱商事の東京本社一行が仕事の依頼で北京にやって来ると考える。だが、その晩、早々と金子の素性を知った中国側に小さな疑念が湧く。中国側企業の担当役員は、小池にその晩、こう洩らしている。

「ちょっと話が違うようだ。三菱商事の人間が来ると聞いていたんだが、金子という人物は元社員だという。現在は三菱の人間ではないようだ。三菱ほどの企業が、大事な事業の案件を自社の人間を同席させず、山田といった外部の人間や、金子といった元社員だけに任せるのだろうか?」

 この後、三菱商事の現役社員は登場する。その国際犯罪まがいのトリックは、中国側企業の懸念をはるかにしのぐ、大胆なものであることが発覚するのだが、今は時系列を追っていこう。

 仲介者ではあるが、自身を裏方と考える小池は宴会に参加しなかった。ホテルの一室でじっと待機していると、中国側から金子の素性について知らされた。当然、小池も「おや?」と思った。

 とはいえ、もう山田も金子も投宿している。明日の朝には中国側企業の代表もホテルに到着する運びだ。今さら山田に「金子は三菱商事の人間ではないのか!?」と詰め寄ったところで、埒が明かないのは目に見えていた。

 ここはともかくも明日を待とう。小池は、そう考えた。

三菱商事と山田、金子が計画した「受注の中抜き」

 翌9月13日の朝、中国側企業の代表の前で、金子はA4のレポート用紙を広げ、自身の考える〝事業スキーム〟の解説を英語で開始した。案件はベトナム南部・メコンデルタ最大の都市であるカントー市・オモンに計画されている火力発電所の受注工作だった。

 山田も金子も三菱商事の社員ではない。にもかかわらず、三菱商事の国際入札の案件を持って歩いている──中国側の疑念をよそに、金子は突き出した腹を、両肩で小さく押さえ込むよう前屈みになりながら、ロビーに据えられた低いテーブルの上に、A4大の用紙を広げた。

 中国有数の政府系企業の代表と役員は、むろん日本との取引は初めてではない。合弁の経験も豊富で、担当役員は日本語も堪能だ。

 レポート用紙を広げた金子は、前は三菱商事に勤務していた。だが、この時は退職しており、不動産やスポーツビジネスのコンサルティングに従事している。

 そして金子の傍らには、山田慶一がどっかと腰を下ろしていた。金子より上背がある。本名は朴慶鎬。

 山田という日本国内での通名は、企業社会では知る人ぞ知る名前だ。80年代以降から今日まで、山田=朴が手掛けた数多くのロビイング活動の際どさと、その〝手腕〟は、これまでほとんど表立って知られることはなかった。

 本人は表に出ることを極端に恐れ、徹底して避けてきた。しかし裏を返せば、表に出ては彼の〝ビジネス〟が成立しないからでもある。

 山田も金子も、共に一般的には無名の存在だ。だが山田の場合は、これまでに度々、その名が出かかったことがあった。直近では08年、日本の大手コンサルの1つ、パシフィックコンサルタンツインターナショナルに東京地検特捜部が捜査のメスを入れた時だった。

 改めて詳述するが、この事件で山田は逮捕直前までいくのだが、寸手のところで逮捕を免れる。このことだけ触れておき、話を元に戻そう。

 金子は担当役員が日本語に堪能なことを知ると、そのスキームを日本語で解説した。その目論見は、次のようなものだ。

 ベトナム・オモン火力発電所の国際入札に当たり、三菱商事〝側〟は中国企業をかませる形で落札を成功させる。金子は「60億円」という額を円ベースで強調してみせた。

 つまり、中国企業側の受注額のうち60億円を、落札の成功報酬として関係者で山分けし、日本国内に運びたいというのだ。

 中国側企業の眼前で、金子はレポート用紙に60億円を「分配」と記す。これは受注を狙う三菱商事側にも一石二鳥だった。

 受注が成功すれば、三菱側に不満はない。単独受注に成功し、その利ザヤがダミー会社に流れたとしても、それで損益は発生しないのだ。

 山田と金子はそこに目をつけ、いわゆる、受注額の中抜きを計画する。そして、もう1人、山田と金子にこの工作を依頼した人物がいる。三菱商事の人間だ。山田と金子が北京の折衝で話を付けてから登場し、後にこの中国側企業にいくつものメールを送信している。

 先に、その一部を抜粋してみよう。

どの会社もお客や政府のトップにお金を配らねばならぬ、必要悪がありますが、日・米・欧の企業は皆尻込みして、どこか中国の一流企業でこの仕事をやってくれる処はないのかと、日本の大手メーカーなどから最近良く聞かれております。

タイやインドネシアやマレーシアでは斯かる専属の土建業者などが育成されているのですが、ベトナムは皆ドル紙幣が好きなのに、五人組的な告げ口組織も変に存在しており、なかなかこの様な業者が育っておりません。

そこででございますが、〇〇さん(※筆者の判断により匿名)がご推薦出来る中国の一流企業でこの様な事が出来る会社を内々ご紹介頂ければ大変有り難いと感じる今日この頃です。

微妙なお話なので、次回お会いした際にでもお話しできればと存じます。

引き続き宜しくお願い申し上げます。

三菱商事(株)重電機輸出ユニットアセアン・南西アジアチーム 三枡

 メールの送信者である「三枡」は、三枡素生のことだ。

 三枡の〝名代〟として山田と金子が北京に現れてから、三菱商事側は執拗に中国側との接点を保ち続けた。しかし当の中国側は、不審な思惑を感じ取り、距離を置いていた。

「中国の企業なら、カネ次第で不正に手を貸すだろう」

 メールには、そんな風に見ている節も感じられる。それが事実だとすれば、随分と我々を見くびったものだ。中国側は、そんな小さな怒りさえ感じていた。

中国側が見抜いた「三菱商事」の真の狙い

 三枡のメールからは、中国企業をかませた受注工作が失敗に終わったこと、外国政府に対する賄賂提供の斡旋依頼が伺える。日本では1998年の不正競争防止法改正により、外国の公務員に対する賄賂提供も日本の国内法規で取り締まりの対象となっている。

 このメールの送信日時は2010年6月2日。折しも同年4月には、贈収賄罪では世界でもっとも厳しいといわれる「2010年英国贈収賄防止法」が成立した直後である。アメリカの海外腐敗行為防止法と並ぶ同法の成立によって、抵触行為が発覚すれば日本など外国籍企業も英米圏の入札から排除され、営業資格を剥奪される危険性もある。法人名のアドレスでやりとりするにはあまりに大胆な内容だった。

 メールに書かれた「政府のトップにお金を配らねばならぬ、必要悪」という直截的すぎるとも思える言葉には失笑を禁じえない。とはいえ、国際入札の現場で商社マンが向き合わされている競走の現実を象徴した、素直な心境とも読める。この時、三枡は「部長代理」の名刺を持っていたのだが、当の中国側は冷ややかに見ていた。

 ことの顛末を、先に明かしてしまおう。この計画は結局、予期せぬ展開によって頓挫してしまった。

 三菱商事が組んだ中国企業の山東電力建設(SEPCOⅢ)は無事に応札したのだが、何と技術審査ではねられてしまったのだ。これは山田や三菱商事側にとっても想定外だった。

 だが三菱商事・三枡側は、その後もベトナムでのODA案件で中国側をかませようと、メールを含めた接触を続けていた。その中で、三枡側に対する不審を抱き続けていた中国側企業は、こう洩らしている。

「どうにも腑に落ちない。三菱商事の重要な案件だと言われ、実際、私が東京に行くと三菱商事の三枡は登場する。だが、どこまでやり取りを続けても、結局、三枡しか出てこないのだ。三枡はたかだか部長代理だろう。三菱商事としての重要案件なら本来、話が進展した段階で担当役員が顔を見せるはずではないのか」

 中国側企業は国内で企業集団を率いるコングロマリットだ。本音のところで、「部長代理風情が」という思いもあったのかもしれない。だが、彼の疑念は充分に首肯できる。

 なぜ三菱商事側は担当役員どころか、部長でさえ一度も顔を見せないのか。三枡しか登場しないやり取りが続く中、中国側はハタとスキームの最終目的に気づく。

「これはもしかすると、60億円の中抜きそのものは、三菱商事としての計画や方針などではなく、三枡や山田らの個人がやろうとしていることではないのか」

 これに先立ち、三枡ら三菱商事側は中国企業をかませたベトナムでの単独受注工作を成功させるため、まさにあの手この手で仕掛けていた。

「60億円中抜き」を成功させようにも、まずは受注しなければ始まらない話だ。そのために、双日、伊藤忠商事、三菱重工業といった企業を巻き込み、驚くべき工作を実行に移す。

山田を潰すと決意した小池

 今一度、彼らが北京に降り立った09年9月に遡る。

 山田と金子が降り立った北京空港の駐車場の影から、2人の男たちの姿を見つめる、もうひとつの背があった。金子は駐車場の柱の陰で、山田と接触する人間を認めた。大柄な山田に比べ、あまりに小さく見えるその背中の主が、後に三菱商事の三枡らに内容証明郵便を送る小池隆一であるとは知るよしもなかった。

 小池は、おそらく世の誰よりも自身の身の振り方をわきまえていた。

 出所後は特に気をつけてきた。かつての事件から、どれだけの時を経ても、自身に対する形容は「総会屋」だ。それを悔やみ、表に出てはならないことを誰よりも分かっていた。禊ぎを終え、なお企業社会にかかわってはならぬと、強く戒めて生きてきた。

「おかしいと思うんです。安倍譲二にしても、ほかのヤクザにしても、本を出すと皆、作家という肩書きになってしまう。私は刑期を終えて出てから20年近く経っているのに、いつまで経っても総会屋と言われ続けなければいけない。その間、なんにも悪いことはしていないのに、私だけはどうして総会屋と言われ続けなければならないんでしょうか」

 小池は、しばしばそう口にする。たとえ、自分の人間性を頼みにしてくれる企業の人間がいても、自分が顔を出せば、再び「あの総会屋が」と言われるのは誰よりもよく分かっていた。それが現実なのだ。まっとうに生きようとする精紳がたとえ本物でも、日本社会と世間は許容しないという思いも強くあった。

 それゆえ、人を紹介して欲しいと頼まれれば、断る理由がなければ応対はする。だが決して金銭のようなものを受け取ることはなかった。絶対に拒絶してきた。強く自身を律しなければ、必ず「あの総会屋が……」と後ろ指を指されてしまう。

 だから今回、山田から「三菱商事の案件で、三菱商事の人間と共に北京に行きたいのだが」と相談を受けた時、商事という〝真っ当な〟企業人の前に、自分が姿を見せるわけにはいかないと判断したのだ。

 そして小池は、金子と山田の2人が無事に中国側の迎えのクルマに乗り込んだのを駐車場の柱の陰から見届けた上で、自身もシャングリラホテルへと向かった。中国側に紹介する都合上、同じホテルでなければならなかったが、決して〝三菱商事〟側と接触するわけにはいかない。

 だが、その後、三菱商事の三枡と山田たちの不可解な行動に不審を募らせた小池は、遂に関係者を呼び集めた席に乗り込む。2010年6月25日のことだ。山田、金子、そして三菱商事の三枡の3人と、小池は対峙する。

「三桝さん、あんたは三菱商事の人間じゃないのか。あんたは三菱商事のためにこのベトナムの案件もやっているんじゃないのか。三菱商事の人間がこんなことをやって許されるのか」

 三桝は答える。

「私どもは山田組の一員ですから。山田組長のためにやってるようなもんですよ。山田さんを儲けさせるためにやっているんですよ」

 それは「語るに落ちた」返答だった。

(なるほど。当初からすべては山田とその一味が濡れ手に粟で、ODAのカネを中抜きしようとする、そういう腹だったのだな。その思惑に利用されてしまった。これは聞かされた通りに、三菱商事の仕事として仲介した中国側に恥をかかせ、とんだ迷惑をかけることになってしまった)

 同時に、ある条文が浮かんだ。商法第488条、特別背任未遂罪……。特別背任には未遂罪がある。

(山田のみならず、三菱商事の三桝は危険な橋を渡っている。ODAの受注というまっとうなビジネスとはかけ離れた陰謀をめぐらしているのだ。)

 これは犯罪になりうる――そう確信する。小池が山田慶一という人物の軌跡を追跡する腹を括ったのは、あるいはその瞬間であったのかもしれない。

 しばしば好んで禅を語る小池の哲学を踏まえれば、彼がついに、不退転を決意した〝慧可断譬〟の境地に達したのだった。小池は決意する。

「駄目だね。トラックにお金を積んできたって駄目だ。山田は社会悪だ。私はあの悪事のすべてを看過しない。これはお金の問題じゃない。私が人生を賭けて葬るべき社会悪の問題だ」

ベトナムODAで伊藤忠と三菱重工の「裏工作」と「三菱商事」の〝暗躍〟

 北京・シャングリラホテルでの一件に先立つ09年6月、小田急線代々木上原駅からほど近い高級住宅地、西原にある白いメゾネットタイプの一軒の住宅に一人のジャーナリストが呼ばれた。招いた人物は、その住宅を個人のコンサルティング会社「環境計画研究会」の事務所兼自宅として登記している山田慶一である。

 やたらと広いリビングには巨大な巻き貝のような音響機器が置かれ、そのさらに奥、台所に置かれたテーブルに2人の男が座っていた。元三菱商事の金子清志と三菱商事社員の三桝素生である。

 ジャーナリストは、その白い住宅を過去に何度か取材目的で訪れたことがあった。しかし、山田の自宅としてではなく、ある経済事件の関係者宅としてであった。かつてそこは、自民党の代議士、故・加藤六月の親族が所有する物件だったのだ。

 果してどのような経緯でそこが山田の持ち物となったのかは不明だったが、不動産登記を上げれば、その抵当権の経歴は凄まじく、山田が〝経営〟する「環境計画研究会」がボロボロの状態であることは明白だった。

 山田を知る関係者によれば、環境計画研究会名ではすでに法人としての信頼はまったくなきに等しく、山田が運転手に預けて乗っている自家用車のオートローンさえ、09年時点で、法人名義ではローンを組めない有様だった。
山田のようなコンサルティング会社経営者は日本には数多存在し、キヤノンの大分工場誘致、あるいはオリンパスの粉飾決算事件など、司直の手が入った折々に、その存在が知られることがある。

 いわゆるこうした経営コンサルが独立して業を営む以前の前職は元銀行マンであったり、元証券マンであったりと様々だが、いずれにしても大きな筋が縦横無尽に入り組んだ、熱帯雨林に巨大に張ったクモの巣のような壮大な人脈図を持った人間でなければ成立しない稼業であることは間違いない。

「環境計画研究会」の山田こそは、こうしたコンサル業界のなかでも、ひときわ異彩を放つ人物であり、山田を知った者が〝山田商法〟とさえ呼ぶその手腕については後述するが、あの東京地検特捜部の眼をも欺くのだ。

 金子と三桝、そして山田の3人は、ジャーナリストが席に着くなり話を切り出した。金子に促された三菱商事の三桝は、ベトナムの国際入札に関する話を始めたが、まったく同じ話が、数年後に横浜地裁で起こされたある裁判の訴状にも認められることになる。

 このとき、三菱商事の三桝は「情報提供(リーク)」しただけでなく、数年後の訴状で被告となる関係者の名前を挙げ、「取材をかけて欲しい」と頼んだのである。

 だが、この話は09年の時点で取材されることはなかった。それどころか、逆にジャーナリストは金子、三枡、山田の3人の動きは極めて怪しいと、あるルートを通じて東京地検の感触を探り、警視庁の捜査員と情報交換を行った。

 リークには必ず意図がある。むろん、それでも取材すべき案件があるのも確かだ。しかし、山田たちのリークは、意図の背景があまりに濃い霧に包まれていた。ただ利用されるだけでなく、場合によっては犯罪行為に加担させられる危険性さえ存在する。

 この時点でジャーナリストが狙ったことは、特捜部や警視庁が長年マークしても落としきれなかった山田と、山田商法の周辺を立ち回る金子の動きを掴み、当局と情報交換することにあった。

 警察当局も、山田には強い関心を持っていた。何しろ巨額の資金が流れこみながらも、国税の査察でさえ〝ブラックボックス〟が解明できず、山田の現金がどこに流れているのか不明な点が多かったからだ。

 億単位のコンサル料を企業から得ておきながら、山田は表向き、いつも金に枯渇していた。東京地検、警察庁、警視庁、国税庁、多くの〝当局〟に、山田慶一こと朴慶鎬に関心を持つ者がいた。山田が在日であることから、現金の運搬ルートにも注目が集まっていた。

 ジャーナリストは、もちろん山田たちの前では協力者を装った。そして三菱商事の三枡が「取材をかけてほしい」と名前を挙げた2人の日本人について強い興味を持った。もちろん、山田たちに対しては関心がないふりをすることも忘れなかった。

 その日は土曜で休日だったのだろう。スラックスにシャツという私服姿の三枡が口にしたのは、ODA関連入札を巡る日本からベトナムへの裏金でトラブルが発生したことについてだった。その詳細は、まさに次の訴状の文面と寸分たがわぬものだった。

 2001年3月、日本政府は、ベトナム政府に対して、ベトナム最南部・メコンデルタ地区に30万キロワットの油・ガス焚火力発電所であるオモン1号機の開発・建設(以下、「本件プロジェクト」とも言う。)について、ODA(円借款)を供与した。
2003年2月15日、事前資格審査を経た後、下記4グループが本件プロジェクトに関する入札に参加し(略)た

 4グループとは、以下の顔ぶれになる。

①裁判で被告となった三菱重工と、訴外の三菱商事
②いずれも訴外の三井物産、石川島播磨重工業、アルストム社(フランス)
③訴外の住友商事
④裁判で被告となった伊藤忠と、いずれも訴外の富士電機、三井バブコック

 この入札では「2封筒」方式が採られたのだという。まず「技術札」を提出し、発電所の仕様などについて評価を受ける。これに合格したグループだけが、設計・建設費用などを計上した「商務札」を提出する資格が与えられるわけだ。訴状に戻る。

なお、被告三菱重工は、前記フーミー1号機(※筆者注・背景については後述)の案件においても前記の通り横浜本社内の原動機事業本部が主に担当していたところ、本件においても同様に同部が担当していた。2003年4月、技術札に関する評価レポートが作成された。このレポートの中で、被告伊藤忠グループの技術札につき種々の不備が指摘され、2003年後半には、本件プロジェクトの入札について同グループの失格が実質的に確定し、次段階に進めないことが明らかとなった

 伊藤忠は2003年後半には、入札の失格を確信したのだという。そこで方針を転換し、三菱重工と協力しながらプロジェクトに関与する道を探る。

 これは三菱重工側にも悪い話ではなかったようだ。自分たちが1番手でないことは認識しており、このままでは安い額を入札したグループに落札されてしまう。ならばベトナム政府に働きかけ、自分たちの技術に対する評価を上げさせ、更に自分たちの入札価格に合致するよう予算を引きあげさせる必要があると考えたのだ。

 こうして伊藤忠と三菱重工は接近を果たす。その背景として訴状は、

被告伊藤忠の平野和也部長代理が、前記フーミー1号機発電所プロジェクト以来、被告三菱重工の矢野洋主任と懇意であり、かつ、両名共に、原告のことを知悉していたことが影響している。すなわち、平野部長代理が被告三菱重工に接近して、原告を本件プロジェクトのためのエージェントに起用しようと進言したのである。ここに、被告らが原告に対し、エージェント業務を依頼する素地が形成されたわけである

と指摘している。

 そして三菱商事の三枡が、ジャーナリストに「取材をかけて欲しい」と依頼した「2人の日本人」こそ、ここに登場した伊藤忠商事の平野和也と三菱重工の矢野洋だった。三枡は2人の家族関係や経済状況、出身大学を含めた人間関係の背景までをもジャーナリストに説明した。おそらく三桝自身が両人と親しい時期があったのだろう。

 ジャーナリストは三枡の話を聞きながら、「なぜ三菱グループでありながら、重工は伊藤忠と組んだのか」という疑問についても、訴状は明確に繙いている。そして彼らが受注に向けて頼みとしたベトナム人エージェントが、グエン・チー・タンだ。

 グエンが原告となり、伊藤忠商事と三菱重工業を訴えたのが2010年7月6日。三桝がジャーナリストに平野と矢野の名前を挙げ、「取材をかけて欲しい」と告げてから約1年後のことになる。

 原告のベトナム人であるグエン・チー・タンは、訴状では

グエン・タン・ズン首相の側近である政府関係者と緊密な関係を築いている者である

と少々、迂遠な言い回しになっているが、三枡によるとベトナム人エージェントは首相の甥っ子であるらしい。

 この時点で三枡は、首相の甥っ子であり、ベトナムでコンサルティング業を営むグエン・チー・タンから詳細な情報を得ていたのであろう。なぜならば、三枡は伊藤忠の平野と重工の矢野がトラブルを引き起こした紛れもない物証である「工作手数料」の支払い確約書を山田に提供し、各方面に流布させるからだ。

 三枡が山田にもたらした「英文のレター」は、この横浜地裁での裁判でも原告側の証拠資料として提出され、次のように説明されている。

 被告三菱重工の矢野主任及び被告伊藤忠の平野部長代理は、エージェント業務を原告に依頼すべく、原告に面会を求めてきた。両名の行為は、2004年初めから行われ、同年2月10日前後、矢野主任及び平野部長代理は、原告及び通訳(ベトナム語及び英語)と、ホーチミン市内で面会し、エージェント業務の依頼を行った。原告が矢野主任に会う場合は必ず平野部長代理も同席していた。

 会合の場所は、ソフィテル・サイゴン・ホテル、シェラトン・ホテル、タイ・バン・ルン通りの日本食レストランなどであった。

 被告三菱重工及び被告伊藤忠は、最終的に、矢野主任及び平野部長代理を通じて、2004年2月10日前後の複数回の会合の中で、被告三菱重工が本件オモン1号機プロジェクトを受注できた場合には、被告らは原告に対し、エージェント業務の手数料として、契約金額の2パーセントを支払う旨の合意を交わした。

 その上で、同年2月20日頃、今度は平野部長代理が原告に面会して、被告三菱重工が原告に対し、上記の合意内容に基づいてエージェント業務の手数料として契約金額の2パーセントを支払う旨記載し、これに矢野主任が自著した同日付の平野部長代理宛てレターを原告に示した。その上で、平野部長代理は、原告に対し、同レターの写しを交付した。

 同レター交付後は、主として平野部長代理が原告との対応を行ない、また、原告との日常の接触は、被告伊藤忠のホーチミン事務所に所属する機械・プロジェクト部のマネージャーであるグエン・クアン・タング氏(以下、「タング・マネージャー」という)が行った。なお、上記の矢野主任、平野部長代理及び原告との面談は、上記レターの作成日前後に、最低6回行われている

(※編集部註:数字の半角化、改行など、原文に一部手を加えた)

「エージェント手数料」といえば聞こえがいいが、要は受注工作のための賄賂という側面が少なくない。あるいは政界工作のための資金工作といった主旨だろう。三菱商事の三桝が中国人に宛てたメールには、ずばりその意図が明記されていたのは前に触れた通りだ。

 三菱重工と伊藤忠を相手にエージェント手数料の支払いを求めて訴えた原告のグエン・チー・タンもまた、首相の親族というまさに最適な環境を背景に、こうした日本企業相手のコンサルティング業務を行っていたのだろう。

 ちなみに、この英文レターの翻訳も原告側によって裁判所に提出されているが、それによれば、日本文内容は次のようなものだ。

2004年2月20日 平野和也殿
拝啓
EVN(ベトナム電力庁)・ベトナム・オモン火力発電プロジェクトの件
我々のグエン・チー・タン氏との共同事業の確認に関して

我々並びに我々とグエン・チー・タン(NCT)氏との間において、これ迄実施した打合わせに関連して、私、矢野洋は、ここに最初に記した日付にて、我々とNCTとの頭書プロジェクトの共同事業に関して同意すると共に、NCTの仕事を通じて当社が同プロジェクトを受注した暁には、当社は(当該プロジェクトの)契約金額の2パーセントをNCT若しくは同氏の指定する関係者、譲受人若しくは代理人に支払うべき旨を確認致します。
敬具
署名 矢野洋

 当然、右記述の通り、支払いが行われていればトラブルは発覚せずに済んだのだろうが、この約束が履行されなかったために、横浜地裁で訴訟が起きたというわけだ。

 当初、伊藤忠と三菱重工は英文レターの存在を否定していたが、裁判途中からは認めた。その上で、ベトナムの国内法規を準用した場合には、原告ベトナム人による支払い請求権そのものが時効になっている旨の主張に切り替え、裁判が進展した。

 日本のODA援助による世界各地の事業を、日本企業が受注することそのものは責められるべきはずはない。だがODAは日本国民の税金から支出されている。国民心情を汲んだ表現ならば「血税」に他ならない。

 日本の商社やメーカーが海外で受注するODA案件は、結局のところ我々の公共事業だ、との認識があってもおかしくない。ここに登場する日本企業の利潤は、日本人の税金そのものなのだ。にもかかわらず、その「2パーセント」を工作資金、ないしは報酬として現地にばら撒くという〝商慣行〟が横行していることに驚かされる。何より原告のベトナム人が支払いを求めた「2パーセント」は日本円にして、実に8億2062万8100円にも上るのだ。

 もちろん、そんなことは商社にとって常識の範疇であり、アジアやアフリカなどの途上国では日常的風景であったとしても、こうした形で訴訟が日本国内で提起され、公判を通して露わになった事態は異例中の異例と言えた。

 だが、三菱商事や山田たちは、この〝ツボ〟を逆手に取ったのである。つまり、これは仕組まれた訴訟だったのだ。

(第3回へつづく)

2016年6月9日

【無料連載】『哀しき総会屋・小池隆一』第1回「漂着」

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「小遣いをあげるお金もない」

 親として充分なことがしてやれない。そんな苦しい声を上げたのは、「最後の総会屋」小池隆一である。

■――――――――――――――――――――
【筆者】田中広美(ジャーナリスト)
【写真】1997年12月、保釈され東京拘置所を出る総会屋の小池隆一被告(撮影・産経新聞社)
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 2011年の師走だった。電話の遣り取りをしていると、言葉の端々から小池の苦しげな様子が伺えた。

「家族もね、なんとなく察するものですよ。小遣いもまともにあげられないとね。それに、それで結局は家庭もギスギスしてくるものですよ。子供にもね、伝わっちゃうんですね、そういうことが……」

 深刻な窮状が窺え、その先まで頭に浮かぶ。何も告げずに鹿児島を訪ねることにした。

 クリスマスイブの前日、羽田を発って福岡空港に降りた。ほどなく日暮れて、天神も中洲もネオンが輝く。九州随一の商都はいつにも増して活況を呈しているようだ。先を急ぐ人、高級ブランド店の紙バッグを抱える人、恋人と手をつなぐ人、そして誰かを待っている人──。

 三越でクリスマスケーキを買った。翌日、その大きさにいささかの不安を募らせながらケーキをレンタカーに積み、途中、佐賀で帰省していた友人の編集者も合流して、九州縦貫道で鹿児島を目指した。

 桜島を望める海からほど近い場所で、カーナビが目的地到着のアナウンスを流した。と、長箒で庭を掃く男性の姿が目に入った。間違いなく小池隆一、その人だった。直接顔を合わせるのは久しぶりだったが、互いの無事を認め合うと挨拶もそこそこに、招き入れられるまま小池家の敷居をまたいだ。

「ロビイスト」に身ぐるみ剥がされてしまった「最後の総会屋」

 小池から絶望感漂う電話を受けるたび、万に一つという状況を、幾度も思い浮かべた。

 家族思いの小池に限って、という思いもむろん強い。日本の敗戦を挟んで生きてきた年長者であり、強く律した内面を保っている。しかし筋の通った人間ほど、時として悲劇的な末路を辿ることもなくはない。

 実際、経済犯罪に巻き込まれた企業経営者や幹部らが、命を断った瞬間を間近で経験したことがこれまでにもあった。

 2005年、西武グループ総帥の堤義明が東京地検特捜部に逮捕されたとき、西武鉄道の小柳社長やコクドの幹部が自らの命を断った。その場面が脳裏に焼き付いている。

 小池に限ってまさか。しかし今度ばかりは……。

 そんな思いを抱かせるほど、絶望の波が繰り返し押し寄せていた。元凶は「ロビイスト」という政界と実業界を繋ぐ特殊な〝装置〟たる山田慶一だった。

 事あるごとに小池は、山田慶一から求められるまま資金を用立て、身ぐるみを剥がされていた。

 小池は土壇場で、山田の不誠実極まりない、沈黙という究極の恫喝に圧迫されていた。世間的には、小池隆一は総会屋というおどろおどろしい響きを放つ、ヤクザとも同種と見なされる世界に生きてきた。そんな人間が、窮地に陥ることなどあるのだろうか。

 小池を山田慶一につないだのは内野経一郎だ。弁護士で、山田と親しい。弁護士の内野に、小池が経済的にも心理的にも追い込まれている状況について訊ねると、唖然とする答えが返ってきた。

「そんな泣きごとをいう総会屋、聞いたことねえよ」

 小池は総会屋の世界から足を洗って長い。確かに暴力団組員が堅気になったとしても、世間は素直に受け止めない。ヤクザ者はどこまでいってもヤクザ──そんな〝世間知〟を払拭するのは難しいだろう。

 小池の師匠である小川薫も2003年、次のように書き遺してから6年後に世を去った。

現在の私は、企業から賛助金をもらっているわけでもないし、利益供与を受けているわけでもない。商法改正以来、私は賛助金とも、利益供与ともまるで無縁になった。……しかし、残念ながら、世間は私が何をしても、総会屋と呼び続ける。この先、私が商売替えをして公務員になっても(間違っても、そんなことはなさそうだが)、マスコミや世間は、小川薫を総会屋と呼び続けるに違いない。……世間やマスコミが、私にかぶせる総会屋という呼び名は、おそらく死ぬまで私について回るだろう。どんな美談になるようなことをおこなったとしても、『大物総会屋の小川薫が』と新聞や週刊誌は書くだろう。(『実録 総会屋』より)

 1997年、小池は第一勧銀・野村證券事件の商法違反で逮捕され、刑に服した。出所後は決して人前に出ず、むしろ人目を避けて生きてきた。

 だが弁護士の内野が紹介した山田慶一が、小池の財布のすべてだけでなく、心の拠り所さえも毟り取ろうとしていた。

「そんな泣きごとをいう総会屋、聞いたことねえよ」

 内野の「捨て台詞」は先に紹介した。それにしても、ならば倒れた者は去れ、とでも言うのだろうか。

 山田慶一が利用し、恃みとする弁護士は内野だけではない。やり手のマチ弁だけでなく、元東京地検特捜部あがり、高検検事長あがり……俗に言う「ヤメ検弁護士」も自身の周りに配置している。

 法律家といっても、特に弁護士は稼業であり、経営者である。

 事務所の維持には金がかかる。雇っている弁護士の人件費も稼がなければならない。経営者たる内野にとっては、山田慶一は良い顧客を引っ張ってくれる、最高の客筋なのだろう。

 依頼主と弁護士という関係を超えた「紐帯」が山田と内野の間には存在する、と小池は推測して接しなければならなかった。

 しかし、それでも小池は法律家全般に、かなりの信頼を置いていた。だから小池は、彼らの異様な関係に気づくことができなかったのだ。

 誰も信じないかもしれないが、小池は「規範意識」が相当に高い。小池は逮捕されると検事、弁護士、裁判官といった法曹家と相対し、彼らの規範意識は自分より更に高いと信じてしまった。

 素顔の小池は「総会屋」というおどろおどろしいイメージからはほど遠い。むしろ、その辺りの経済人や企業人より、よほどまっとうな他者感覚を有している。義理人情に厚く、礼儀作法をわきまえ、慎み深さと遠慮深さを備え持つ。数年来、ふとしたきっかけから付き合いを重ねてきた者の、小池隆一に対する正直な感想である。

投資格言「木の葉が沈んで石が浮かぶ」とマルグリットの絵

 小池が逮捕された当初、なぜ銀行も証券会社も、詰まるところ一流企業が総会屋に食い物にされたかということが盛んに言われたが、そんな「世間」の一方的な解釈では、彼らの関係性は容易に理解できない。

 顔の見えない「企業」「法人」が犯罪の舞台だったのではない。小池隆一と相対したのは経営者や担当者という「個人」であり、単なる利害得失という関係を超えて小池と付き合っていたのだ。

 野村証券や大和証券など、逮捕された企業関係者らは、最終的には小池を検察に売る。その保身が非難されることはなかった。小池も異議を唱えたことなど一度もない。

 小池は取り調べでは沈黙を守り、担当検事が「おい小池、あっちはこう言ったぞ。こう調書にサインしたぞ」と言われたら、「ああ、そうですか。ではそこまでは」と、付き合った企業が認めた範囲まで、自分の調書も認めることを貫いた。その結果か、当時の担当者で事件後も小池と親しく付き合っている人間さえいた。

 もちろん、彼らはすでに退職している。利害関係が完全に消滅しても、小池を友人として交際を続けた。もう共に総会屋ではなく、企業担当者でもないのに、人間関係だけが存続したのだ。

 このあたりは、山田慶一と企業関係者の交際とは決定的に異なる。

 山田の周辺では、常に人間の離合集散が繰り返される。それは彼が政界・行政と民間を繋ぐ「接続装置」、つまりインターフェイスに過ぎないからであり、そこを通過するためには通行料として多額の金が必要となるからだ。

 会社であれ、個人であれ、金がなければ山田とは付き合えない。徹頭徹尾、完全な利害得失の世界、計算の世界であるといえる。

 対して小池のもとに集まった人々は、よほどのことがない限り、各々が死を迎えるまでは離れることはない。

 もちろん、中には小池が逮捕されたことで、小池の元を離れた人間もいた。それはやはり、小池という個人ではなく、あくまでも経済力のある総会屋である小池の魅力に引き寄せられ、見込んで恃みにした連中であった。

 小池の友人が、総会屋全盛期に、小池のエピソードを話してくれた。

 その人物は止むにやまれず、当時六本木に事務所を構えていた小池を訪ねて無心した。金額を訊くと、小池は「無利子でいいよ」と、ぽんと机の上に放るようにして札束を渡したことがあったという。

 そんな態度にさえ男気を感じ、有りがたさを感じて辞去したのだが、ほどなく小池から電話がかかってきた。

「さっきは悪かったなー。あんなかたちで随分と失礼な渡し方をしちゃって。ごめん。申し訳なかった」

 金を貸してくれてありがたく思っている債務者である自分に、小池はあろうことか、詫びの電話を入れてきた、というのだ。

 それは、小池がお金を貸すとはいえ、机の上にぽんと投げ出すその作法が相手に対して非礼だったと悔やんでいる詫びの言葉だったのだ。

 これには相手のほうが恐縮してしまう。

 だからこそ、小池は山田という「無機質の装置」を前に、人間として摩耗し、消費されつくしてしまったのかもしれない。小池自身もよく言うのだが、「あの小池が」と何かと悪口の種にされてしまうのもさることながら、「あの小池が騙されるはずがない」と、かつての小池を知る者であれば思い込んでしまう。

 だが、これは次のように考えれば、納得もいく。

 小池隆一は自らを求心力とした「有機の世界」に生きているが故に、心の伴わない山田のような「無機の世界」の住人に出遭ってしまうと、摩耗してしまうのだ、と。

 いや、小池に限らず、人間同士の付き合いを優先する真っ当な人間が山田慶一に目をつけられると、身ぐるみ剥がされ、全てを奪われてしまうものなのかもしれない。

 木の葉が沈んで石が浮かぶ――。

 小池は人生の苦境に入った。逮捕された時とは異なり、嵐が訪れて去って行くような一過性の出来事ではない。禊ぎを済ませれば状況が好転するものでもない。展望のない長い隘路に入り込んでしまったことに気づいてから、しばしば小池は上の言葉を口にした。

 木の葉は有機物、つまり小池だ。当然ながら無機物の石は山田となる。

 この言葉、実は投資格言でもあるのだが、一枚の絵画が頭に浮かぶ。ルネ・マグリットの描いた『ピレネーの城』だ。

 白い雲が流れる青空と波の打ち寄せる海辺を背景に、頂上に城砦を戴く巨大な岩石が重力に逆らって宙に浮かんでいる、細密な筆致で表現された異様な光景ながら圧倒的な存在感を示す、シュールレアリスムの代表作の一つだ。

 現実とは到底かけ離れたその架空の城砦の中に住まう1人が、山田慶一であるのかもしれない。

人の悲しみに寄り添える「哀しき総会屋」

 2011年の師走、小池が涙ながらに「もう駄目だ……家族が……」と声を振り絞って苦境を伝えてきていたまさにその時、東京・西新宿にあるヒルトンホテルのエレベーターでは石川雅己・千代田区長が山田慶一に話しかけていた。

「声かけらんなかったよ。だって、山ちゃんが女連れで降りてくるんだもの」

 石が浮かぶどころか、石が空に飛び跳ねんばかりの状況があったのだ。山田慶一が際限なく吸収した小池の金、そして小池以前にも数多くの企業と人間が吐き出した資金はどこへ消えていったのか……。

「お金ある? あればすぐにできるよ」

 しかし、そんな言葉を吐く山田が、決して人間や企業を幸福にしないことは明白だった。

 それはまさに虚構のマネーゲームであり、幻想のパワーゲームとでも呼びうるものであり、そこに人々は踊らされたのだ。もちろん、小池もまたその一人ということになる。

 鹿児島の小池にクリスマスケーキを届け、通された居間で談笑となった。

 しばらくすると小池が奥さんに「お茶を」と言いながら中座して部屋を出て行ったが、それからかなりの時間が経過していく。

 ようやく部屋に戻ってくると、手にした盆の上には、お茶だけでなく菓子も載っていた。包みに記されていたのは、小池の自宅近くにある洋菓子店の名前だった。「お茶を」と言いながら、わざわざ茶菓を買いに奥さんを走らせたのだろう。

「貧乏の極みに達した」小池と、その家族にクリスマスケーキを届けたくて訪ねたにもかかわらず、その小池に財布の紐を解かせてしまった。

 さらに、ひとしきり歓談した後、お腹が空いていないかと声をかけ、小池自らの運転で、国道沿いにある名物の料理屋に案内されて昼食まで御馳走になったのだ。

 結果として、逆にとんでもない出費をさせてしまった。そう思いながらも、おそらく小池には、人を前にすると、打算抜きに歓待しなければ気が済まない「人間性」を持ち合わせているのだろうなと、あらためて感得したのだった。

 だからこそ山田慶一は、その隙に付け入って小池から金銭を搾り取ることに成功したのだった。もちろん小池だけでなく、一流と呼ばれる企業や企業人、はたまた起業家や大学などの教育機関からも同じ手口で金銭をせしめたのだが、その中には倒産や破綻に向かってしまったところも少なくない。

 しかし、山田慶一だけは生き残り続けている。

 金がないなどという、「そんな総会屋、聞いたことねえよ」と嘲笑うように言い放った、山田の後見人である弁護士の内野経一郎でさえ、自身の事務所で採用した新任の弁護士を引き連れて鹿児島を訪れ、小池に宴会の接待をさせていた。

 小池にとっては、自分の顧問弁護士ではない。内野にそこまでする義理はないのだが、内野も小池の財布に甘えていたのだろう。小池が内野に挨拶しようとアポを取ると「じゃあ、メシを食おう」と言い、場所を自ら指定するのだ。

 相手の財布で飲み食いをさせてもらう〝先生道楽〟の世界は、弁護士業界に限らずともよくある話だ。

 しかし、微々たるものとはいえ、小池の財布で飲食をくり返してきた内野がその人間関係の機微の末に、「そんな総会屋、聞いたことねえよ」と言い放つというのは、小池に限らずとも割り切れない思いが込み上げてくる。

 小池が総会屋稼業から身を引いて久しいが、おそらく現役当時からすでに「悲しき総会屋」であっただろうと思えた。

 人の悲しみを知ることのできる人間は決して多くはない。また人の悲しみに寄り添える人間はほとんどいない。家族関係でさえ他者との世界でもある。小池は人の悲しみを慮ることのできる人間だった。だから同じ悲しみを知る者は、組織や企業に属しながらも、小池が総会屋の看板を降ろしてからも、共に苦楽を分かち合って歩みを進めてきたのだろう。そこは金勘定から解放された、完全に人間の世界だった。

 小池の家を辞去するとき、翌年に成人を迎える長男が玄関前に腰かけ、いささか手持ち無沙汰に庭を眺めていた。

 どうした、と父親らしく優しい声をかける小池の背中のすぐ向こうには、桜島が煙を噴いていた。

 煮えたぎるマグマの如き怒りを悲しみで押し込めつつ、小池は子どもになおも父親らしい気遣いをみせる。小池のすべてを剥いだ山田が、仮にその姿を知ったとしても詫びることはないだろう。

77.5万株を「1円」で購入した山田慶一

 ロビイスト・山田慶一が暗躍する〝無慈悲〟な世界は、常に「今」を取り込もうと無尽蔵な欲望を膨張させ続けている。

 これはその一端にすぎないが、「ゴールデンブリッジ株式会社」もまた、山田らの不可解な手さばきを受けていた。

 日本企業がもっとも神経を尖らせる中国国内での権利保護に尽力している、著作権確保の日本での唯一の窓口を謡う企業であり、出版社をはじめ日本の著名企業も数多く取引するこの企業は、日本の大手紙にもしばしばその名を登場させる。

 2009年7月31日付の日本経済新聞には次のような記事が掲載された。

 

タカラトミーは中国でまん延する模造玩具を摘発するため、現地の政府系機関との連携を強化する。このほど日本の窓口となる企業に約1%出資した。『ベイブレード』など人気商品は、中国で販売していないものも含めて版権を登録。現地工場を細かく監視し、問題があれば生産停止などの処分をする。中国政府との密接な協力により模造品対策の実効を高める。

連携するのは中国・国家版権局の中国版権保護センター(北京市)。日本で版権登録を受け付けるゴールデンブリッジ(東京・港)の株式1%をこのほど約1500万円で取得した。同社と模造品対策で資本提携する日本企業はタカラトミーが初めて

 

 タカラトミーも出資をしたゴールデンブリッジ社の業態は記事が伝える通りだが、その素性のきわどさを物語る一通の「株式譲渡契約書」がある。

 その内容は、2010年11月1日、72万5000株が1円で譲渡されたというものだ。1株1円ではなく総額1円という、まったく不可解なものである。

 譲り受けたのは同社の代表取締役ではなく、山田慶一。そして同日付で更に5万株の株式譲渡契約書がもう1通あり、やはり総額1円で山田に譲渡されている。

 この2通の譲渡契約書に付随し、1通の確認書が手交された。

                  確認書
平成22年(2010年11月1日付)株式譲渡契約書に基くゴールデンブリッジ株式会社の株式 川口耕一 725000株  星山慶子 50000株 株式会社プラネットシンクジャパン 4021670株 の株式譲渡は正常な譲渡で以後紛争になるものではありません。                  平成22年12月3日

 そこには株式会社プラネットシンクジャパンの代表取締役である川口耕一と星山慶子の署名押印があり、さらに立会人の弁護士、内野経一郎の署名押印もある。これにともない、山田は株券の名義書換請求を行っている。

 川口と星山の両人は、大株主でもあり、ゴールデンブリッジ社の役員という立場だったとされるが、やはり署名押印のうえ、山田宛に一通の誓約書も先に提出させられていた。

                誓約書
私がゴールデンブリッジ株式会社取締役在任中あるいは業務に携わっていた間、ゴールデンブリッジ株式会社の商業帳簿に記載の無い一切の契約その他の法律関係が存せず、ゴールデンブリッジ株式会社に債務負担を負わせる事実は存しません。
万一私の故意又は過失で貴社に負担を負わしめる事が有った場合、私並びに株式会社プラネットシンクジャパンへの宥恕を撤回され、更なる責任追及されるとも止むを得ません。                        平成22年11月29日

 

「宥恕を撤回」とは、尋常ならざる切迫した表現ではないか。

 川口と星山の両者が役員であったなかで、ゴールデンブリッジ社には使途不明金が発生していたのだと、山田は関係者に明かしていた。

 流れから推察するに、「宥恕」とは、この背任行為に抵触しかねない状況を問題としないことを意味し、その代償として、両者が保有していた全ての株を1円単位で山田に放出することを迫られたのではないか。

 この結果、2010年12月20日段階で、ゴールデンブリッジ社代表取締役・森田栄光が作成した株主構成表によれば、山田慶一は380万8000株を保有。個人株主としては、454万株を保有する森田栄光に次ぐ大株主となっているのだ。ちなみに、日経で記事化されたタカラトミーの持ち株は2万株にすぎない。

 架空の城砦に住むロビイスト、山田慶一の触手は、このように周到に広く張り巡らされ、不当に巨額の金を手にしているのだろう。

断骨を以て断骨に及ぶ──小池隆一の反撃

 小池家の菩提寺は新潟県加茂市にあり、星霜を重ねてきたと知れる墓標には「小甚」と彫られている。おそらくはこれが、東京を拠点にしながらも守り抜いてきた〝臍〟である。

 1997年に発覚した野村證券・第一勧銀事件の舞台となったのは「小甚ビルディング」であり、その「小甚」とは他ならぬ古い織物問屋として栄えた小池家の屋号だったのだ。

 若くして飛び出すように故郷を離れた小池だが、たとえ波はあっても、どんな瞬間にも胸中には故郷があり、家への想いがあったのだろう。

 初めて会った瞬間に小池という人間にどこか感じた戦前の匂いは、決して小池の実際の誕生年──1943(昭和18)年──だけに由来するものではないのかもしれない。

 本人からすれば異論はあろうが、小池は代々の「家」を守り続けていた。そして、ただ家族のためだけに生きようと決めた後半生で、自身が表社会で立ち回れば家族に迷惑がかかるからと戒め、鹿児島に蟄居することを強いた。

 自身が築いた家を守らんがため、自身のもとに持ち込まれる謀議の数々を自身の足で検証することを許さず、その結果、再起不能な欺きを受けたのだとすれば、それほどの皮肉と、そして苛烈な顚末はない。

 鹿児島に生まれ育ち、戦後、田村隆一と並んで詩誌『荒地』を代表する詩人であった黒田三郎の詩句が思い出される。復員してきた彼は、詩句の通り、

 

お金がなくて煙草も吸えず
水ばかりのんで
それでも威儀を正していた

 

のだ。偶然にも、同じ鹿児島の地に生きている小池隆一もまた、威儀を正す日々を過ごしているのである。

 それを、総会屋として生きた小池の前半生の「因果応報」だと呼ぶにしても、その〝罪〟を償ってなお余りある悲劇でさえある。

「石が浮かんで木の葉が沈む」―。それは紛れもなく不条理だろう。他人の人生を食い物にして世を渡る不条理は、小池に限らずとも看過されえないものだ。

 さらには、戦前の人間であればこそ、小池は厳しい。肉を切らせて骨を断つなどという、甘いことは考えてはいない。

 自身の骨もろともを断つ気で、必ずや相手の骨を断ちにいくに違いない、小池との年月を経てきたがゆえにそんな確信を抱くのである。

 断骨を以って断骨に及ぶ――。

 おそらく小池は自身を利用し、欺いたロビイスト、山田慶一たちを一網打尽にするべく、断罪に向かうだろう。
一人の人間の涙の重みを見届けるのも巡り合わせだとすれば、それもまた受け入れるべき運命なのだ。

 小池隆一はすべてを失いつつある今、その成り行きのすべてを明かす覚悟を決めた。自身の恥を世に晒してなお、抹殺すべき社会悪があると信じ、その根を──骨を──断つ。

 小池という男が、社会からのいかなる言われように晒されようとも、今この瞬間の「義」に嘘はない。

 たとえ前科があろうとも、人生に禍根があろうとも、過去に悪評があろうとも、罵声にまみれようとも、普遍の人間性を備え、小さくもまっとうに生きようと決意した真摯な思いを踏みにじる存在こそが「巨悪」であり「社会悪」である。

 そして、そんな悪に限って、誰よりもまっとうそうな顔と振る舞いで、ときに正義さえ主張しながら、社会のあらゆる地位と場所に、つまり、すぐ隣の身近な場所で和やかに呼吸している。

 背徳のロビイストとそこに群がる者たちの営みは、だからこそ、表立ってはその暗躍を悟られることはなかったのかもしれない。

 だがそれも、これまでは、の話。小池隆一という、水のごとき普遍の触媒と交わってしまった以上、「装置」は錆びるかメッキが剥がれるか、何がしかの化学変化を伴わないわけにはいかない……。

 桁ちがいのダニである。たしかに総会屋もダニだ。間宮も一匹のダニ。錦城もダニ。貫禄や実力に大小の差はあっても、ひとしく会社の闇の血を吸って生きている。どの大企業にも、数匹、数十匹のダニがついている。用といえば、年に二回の総会ですごんだ声をかけるだけ。無職無税のひまな体で、会社の秘書課あたりにとぐろを巻き、帳簿にのらぬ金を食って生きて行く。だが、それ以上に大きなダニが悪質な顧問弁護士や公認会計士なのだ。明るい血だけで満足せず、膨大な闇の血を要求する。企業は成長し、ダニもまた成長する。銀行もデパートもメーカーも、白く輝く衣裳の内側は、そうした闇の血を吸う大小のダニにとりつかれている。
―城山三郎『総会屋錦城』より―

(第2回へつづく)