2017年2月14日

【無料記事】フジテレビ「エビ中訃報スクープ」の問題点

ebi2017-02-14 15.27.52

 2月8日、アイドルグループ『私立恵比寿中学』、通称「エビ中」のメンバー、松野莉奈さんが突然亡くなった。致死性不整脈の疑い。18歳、あまりにも若すぎる死だった。

 この衝撃的な訃報を報じたのは、所属事務所の公式発表ではなく、フジテレビの報道番組『FNNスピーク』(月〜金曜・11時半〜11時55分)のスクープニュースだったことをご存じだろうか。

 少なくとも報道関係者にとって、スクープほど〝勝ち負け〟が明確なものはない。報じた側に絶対的な正義があり、破れた側の主張は「言い訳」「弁解」と受け取られるのが普通なのだ。

 ところが今回に限っては、フジテレビの報道姿勢に疑問の声が少なくないという。それも「負け惜しみ」ではなく、それなりの根拠があるというのだ。

 テレビ局の関係者が明かす。

「通常、芸能人の訃報は所属事務所の発表を踏まえて報じることが大多数ですが、稀に特定のメディアが独自情報を得ることもあります。その際でも、所属事務所や遺族など関係者の確認取材が必要であることは言うまでもありません」

 昔は確認が取れれば瞬時に報道できるテレビ局、共同や時事といった通信社の独壇場だったが、近年は新聞も公式サイトでのネット速報で対応できるようになった。

 そのため不謹慎な言い方だが〝競争〟も激化しているようだ。それが背景にあるのかは不明だが、フジテレビのスクープは相当に「掟破り」だったと悪評が強いという。

「信じられませんが、フジテレビは関係者の確認を取っていないと言うんです。警察関係者の情報提供だったらしく、信頼性が高いと判断したとの話なんですが、その判断はどうなんでしょうか……」(同・テレビ局関係者)
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【写真】松野莉奈さん公式ブログより
http://www.lineblog.me/tag/%E6%9D%BE%E9%87%8E%E8%8E%89%E5%A5%88?blog_name=ebichu
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 別のテレビ関係者が、詳細を明かす。

「所属事務所に何度も連絡を取ったのに、全く繋がらなかったそうです。ただ、確かな情報だったので、報じることにしたと言います」

 所属事務所さえ出し抜いた大スクープ、とふざけるわけにもいくまい。少なくともネット上では死を悼む圧倒的な声の影に、所属事務所の対応が遅いとする見方も散見されたが……。

「事務所の責任はゼロと言っていいのではないでしょうか。それこそ、ご遺族は亡くなってすぐマスコミに大きく報道され、心を痛めているそうです。所属事務所にさえ詳細を伝えていない段階で、これほどニュースが広まってしまったことに困惑しておられるのは間違いありません」(同)

 先行報道の結果、事務所も混乱してしまったようだ。正確な情報が公表される前、ネット上では死因について「ウィルス性脳症」や自殺説など様々な憶測が垂れ流しになってしまった。

 別のテレビ関係者が、警鐘を鳴らす。

「ご遺族からすると、朝に119番通報を行ってから、たった6時間で娘の訃報が全国ニュースで報じられているわけです。しかも、自分のところに一切、確認の取材がなかった。これで困惑しない方がおかしいと思います。報道に携わる者であれば、誰もがスクープを狙って当然ですが、さすがに訃報は細心の注意を払わなければ、更なるマスコミ不信を招くだけだと思います」

 事務所の対応が遅れたとする指摘も、実際のところは亡くなってすぐに発表、という方がむしろ稀だ。遺族の意向により、密葬を済ませてからマスコミ対応、というケースも決して少なくない。それぐらい神経を使う方が、むしろ社会的通念には合致するのではないだろうか。

 もちろん、事件や事故など、何よりも速報が求められるニュースが存在することは論を俟たない。報道に必要な確認作業──俗に言う「裏取り」──もケースバイケースとしか言いようがなく、どんな内容のニュースであっても、必ず関係者に取材を申し込まなければならないというわけではない。警察情報だけで報じても、それが正解という状況もありうる。

 とはいえ、18歳の女性芸能人が死亡したことを、警察情報だけで速報していいのかということになると、様々な意見が出るのではないだろうか。

 少なくとも芸能人にとっては、訃報は最後の「舞台」とも考えられる。改めて故人を輝かせる報道が理想型であるはずだが、今回の場合は、単に遺族の感情を傷つけるだけという結果に終わったのではないだろうか。社会と「マスゴミ」の乖離が、又しても浮き彫りになってしまった格好だ。

(無料記事・了)

2017年1月25日

【無料】松方弘樹「その人生と死」─『仁義なき戦い』から『元気の出るテレビ』まで

2017-01-26 15.10.56 1

「あんたは初めからわしらが担いどる神輿じゃないの。組がここまでなるのに、誰が血流しとるの。神輿が勝手に歩けるいうんなら歩いてみいや、のう!」(『仁義なき戦い』)

 それは、『仁義なき戦い』から始まった。

 10万人に1人といわれる難病「脳リンパ腫」闘病の末、先頃亡くなった映画俳優の松方弘樹。昭和のスクリーンを代表する名優として東映やくざ映画や時代劇を中心に長年に渡り大活躍、またバラエテイ番組や時代劇などでテレビでも人気者だった。高倉健、菅原文太ら往年の男性アクション・スターが年々亡くなっていく中で、またしても届いた大物人気俳優の訃報に、芸能界には激震が走っている。

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【筆者】鈴木義昭(映画ライター)
【写真】映画『沖縄やくざ戦争』(東映)DVDジャケットより
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 松方弘樹は、東映痛快娯楽時代劇の大スターだった近衛十四郎の長男で、十代から東映に所属した生粋の東映育ちである。

 少年時代は、野球選手か歌手を志していたという。孤児院育ちのサブを演じた『十七歳の逆襲・暴力をぶっ潰せ』(60年)で主演デビュー。不敵さと甘いマスクで売り出した。

 後に全盛期の東映時代劇で新進チャンバラスターとして頭角を現すが、東映時代劇が衰退して高倉健や鶴田浩二のやくざ映画が隆盛を極めると出番を失い、大映京都に移籍し時代劇に主演するなど「スター街道」では、やや遠回りが多かった。

 恩師ともいえる中島貞夫監督と組んだ『893愚連隊』(66年)や深作欣二監督の松竹作品『恐喝こそわが人生』(68年)に主演し、若々しく個性的な演技派としての魅力が注目されるが、出演作品は激減していた。

 同じく東映時代劇往年の大スター市川右太衛門の長男・北大路欣也と比較されることが多いが、二枚目でボンボン育ちの北大路に対し、松方は若い頃から撮影所内を海パン姿でのし歩き、所長に「どうしてそんなに品がないんだ!」と怒鳴られる始末だった。

 そんな松方にスポットが当たったのは、東映実録路線のきっかけとなる『仁義なき戦い』(73年)だった。俗に「集団抗争劇」といわれる映画らしく、主人公の広能昌三(菅原文太)をめぐり、シリーズ五部作を通して多くのドラマが展開するが、第一作『仁義なき戦い』で広能の心情を大きく動かしていく山守組若衆頭・坂井鉄也を強烈な個性で演じて絶賛された。

「あんたは初めからわしらが担いどる神輿じゃないの。組がここまでなるのに、誰が血流しとるの。神輿が勝手にあるけるいうんなら歩いてみいや、のう!」

 土建屋時代から山守組を束ねて来た坂井(松方)だが、ヒロポン取引の件で揉めて親分の山守(金子信雄)に向かって啖呵を切る。怒りは頂点に達して、一時的とはいえ山守を引退に追い込む。だが、老獪な山守は坂井のスキを見て、広能に「(坂井を)殺れ!」と命令する。古い仲間を殺すことに、広能は激しく躊躇する。第一作のクライマックスともいえる名場面が、菅原文太と松方弘樹によって演じられた。

 第三作『頂上作戦』でも、結核を病んでいる義西会の藤田正一役で顔を見せるが、第五作『完結篇』では、やはり広能(菅原)を相手に重要な役回りを演じている。

 広能を慕う市岡組組長・市岡輝吉が、その役だ。獄中で「手記」を書いている広能に、呉からはるばる網走刑務所まで面会に来た市岡(松方)は、一人物騒なことをまくし立てる。取り合わない広能に業を煮やしたかのように、市岡は過激な行動に出る。

「攻撃は最大の防御で。のう、これから巻き返しじゃみとれい、わしが火ぃつけたるけん……」

 暴れん坊の極道は松方のハマリ役だが、ひとつにまとまろうとする極道社会からはみ出てしまった市岡は、やがて自滅する。

 それまでの撮影所のヒエラルキーを破壊して、いわばお祭り騒ぎのように作られ、キャスティングもされたのが『仁義なき戦い』『新仁義なき戦い』などの実録路線だ。渡瀬恒彦、川谷拓三、室田日出夫、志賀勝ら多くのニュースターが誕生した実録路線だったが、その先頭に立って存在感を示したのが、本来は「東映のプリンス」だった松方弘樹であった。

 以後、松方弘樹は『実録外伝・大阪電撃作戦』『沖縄やくざ戦争』(共に76年)、『北陸代理戦争』(77年)など、実録路線に凄みのある演技とキャラクターで輝かしい足跡を残した。

 実録路線で極め付きのアウトローを演じる一方で、74年には、子母沢寛の同名小説を原作にしたNHK大河ドラマ『勝海舟』に肋膜炎に倒れ降板した渡哲也の後を受けて、急きょ第10回から勝海舟役として主演した。NHKには、好評だった『人形佐七捕物帳』(65年)以来の出演だったが、大河ドラマの主演はお茶の間にも松方弘樹のファン層を幅広く拡大、人気を決定づけた。

 この時、共演したのが新人女優だった仁科亜希子(当時明子)で、既に元モデルの先妻との間に一男二女のあった松方だが、仁科と不倫関係となって後に先妻と協議離婚、仁科と結婚する。

 仁科と松方の不倫劇は、週刊誌やワイドショーで大きく報じられたが、仁科の父で歌舞伎界の名優・岩井半四郎が、フジテレビ系のワイドショー『3時のあなた』に出演し、「娘を返してくれ」と涙ながらに訴えたのは衝撃的だった。その後、仁科との間にも一男一女を育てるが、やがて破局が訪れる。

 松方の女性遍歴は、奔放の一語に尽きる。

 70年代に人気歌手だった千葉マリアとは長く愛人関係にあり、やはり一男があるのは広く知られるところ。

 他にも、東映ポルノ路線の女王的存在で『女番長』シリーズなどで知られる池玲子との仲や人気女性アイドルグループで『黄色いサクランボ』などのヒット曲で知られる「ゴールデンハーフ」のメンバー・ルナ(高村ルナ)との仲は、芸能マスコミなどを大いに賑わせた。

 女優となった高村ルナは、日活ロマンポルノに出演し、『ルナの告白・私に群がった男たち』(76年)では、松方らとの性遍歴を自伝的に描いたとされる作品にも主演した。

「女を何人知ってるかっていうと、八百人ちょっと欠けるかな。だって年に三百人なんて頃もあった。オレ、丈夫なのよ」と、週刊誌のインタビューに答えることもあった。そして、最後に看取った女性は、仁科との離婚後、事実婚の関係にあった30歳年下の元女優、山本万里子さんであった。

 石原裕次郎や勝新太郎といった、昭和の戦後日本映画史を代表するスターの遊びっぷりを見習うように、豪快な飲みっぷり遊びっぷりで有名だった。

 主演した映画やテレビの打ち上げでは、大勢のスタッフ・キャストを連れて、撮影所のある京都の祇園などを何軒もはしごするのが通例だった。「持っている奴が払えばいいんだよ」と、支払いは全て松方だった。作品を通じ多くのスポンサーとも交流があった。昭和芸能史に名を残した銀幕スターたちが皆そうであったように、豪放磊落そのものという生き様だった。

 亡くなってから会見に応じた、東映映画の盟友であり、釣り仲間でもあった梅宮辰夫が、「今の時代ならきっと潰されていた」と回想するほど、その遊びっぷりは世間一般の常識を超えるスーパースターぶりだった。

 還暦を過ぎて医者に忠告されてからは、酒を止めて、クラブ通いも卒業した。

 時代劇、やくざ映画とともに、松方弘樹の代名詞ともなっていたのが「釣り」で、世界33カ国で350本のカジキマグロを釣り上げるなど、釣り師としてはプロ並みの腕前だったといわれる。闘病に入る前の一昨年5月には、沖縄県石垣島の海域で361キロの巨大マグロを釣り上げ、話題となった。

 父親の近衛十四郎も、東映時代劇にリアルな殺陣と壮絶なアクションで一時代を築いた剣戟スターだった。松方弘樹も、時代劇スターとしては、日本のチャンバラ界を背負って立つ活躍を見せた。

 テレビ時代劇では、『大江戸捜査網』(79~84年)『名奉行遠山の金さん』(88~98年)、また多くのスペシャル時代劇作品などに数多く出演、お茶の間の最後の時代劇ビッグスターでもあった。映画でも、『真田幸村の謀略』(79年・中島貞夫監督)の真田幸村役など忘れられない名演が多数ある。

 強面だったイメージを破り笑い顔が印象に残るようになったのは、バラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ』のレギュラー出演からだ。斜陽の映画界を自ら救うべく、映画プロデュースに進出したこともある。

 難病と闘い、闘病の果てに亡くなったが、行年74歳は昨今の俳優としては早過ぎるとの声も多い。想えば、『仁義なき戦い』に出演した時、菅原文太が当時39歳(1933年生まれ)、松方弘樹は当時31歳(1942年生まれ)。映画俳優として、まさに大きな坂を上っていくのに相応しい年齢であったと言えようか。

 老いてなお、松方弘樹は若い日の活力を漲らせ、今なお再び三度の青春を生きる男を感じさせた。東映時代劇のプリンスだったが、活躍のその原点には、斜陽映画界を救った実録路線『仁義なき戦い』があったように思う。

 烈しさと逞しさを演じ続けた昭和のスターが、あの世へと走り続けて行ってしまった。

 昭和のスクリーンが、また遠くなった。

 鈴木氏は『仁義なき戦いの〝真実〟-美能幸三 遺した言葉』(サイゾー)を1/25刊行。映画『仁義なき戦い』シリーズの主人公・広能昌三のモデル美能幸三に密着、その「映画や菅原文太、金子信雄ら出演俳優への思い」「極道としての半生」を追った一冊だ。

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(無料記事・了)