住吉会 | イエロージャーナル

 私と小池隆一は旅に出た。目的地はベルギー・ブリュッセル。「最後の総会屋」は「世紀の贋作作家」と呼ばれたレアル・ルサールに会うのだ。後述するが、ルサールが描いた贋作は少なくとも1000枚とも言われる。ピカソやモディリアーニが〝実際には描かなかった絵〟を誰もが真作と信じて疑わなかった。鑑定士は無論、画家本人が「若き日の自作」と太鼓判を押してしまうケースさえあったのだ。

■―――――――――――――――――――― 【筆者】田中広美(ジャーナリスト) 【購読記事の文字数】8100字 【写真】自身の就任披露パーティーに臨んだホンダ・河島喜好新社長(左から3人目。2人目は本田宗一郎前社長 ※肩書は当時のもの、本田技研工業公式サイトより) http://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/04_newdevelopment/index.html

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 2007年1月8日、私たちはブリュッセル国際空港に降り立った。  そして私は、半ば反射的に後ろを振り返った。なぜだったのだろうか。自分の行動であるにもかかわらず、理由がはっきりしない。  EU域内に入国する入管審査ゲートの手前だった。小池も旅慣れているが、ブリュッセルの空港は初めてのはずだ。私と同じ列に並んだのか、気になったのだろうか。  私が振り返ると、小池は腰を折り、床の上で背を屈めていた。靴の紐を結んでいるのか?──瞬時、声をかけるのをためらっていると、小池は立ちあがった。指先で何かを摘まみながら、周囲にチラと目をやる。列を離れ、小走りに柱へ向かう。その先にはゴミ箱があった。戻ってきた小池が言う。 「ゴミが落ちていたものだから……」  入管ゲートの直前で床にゴミが落ちているのを見つけ、それを拾い、捨てに走ったのだ。12時間も押し込まれた、まるで棺桶のようなエコノミー席から開放された直後の振る舞いだった。

 陰徳を積む――。小池は、そんな生き方が大切だと思っている、そう話した。それが、およそ30も歳の離れた小池と、果ての見えない〝旅〟を決意した瞬間だったのかもしれない。

■小池が関心を抱いた「世紀の贋作作家」レアル・ルサール

 12時間前、私は成田空港からブリュッセルへと向かう飛行機に乗り込んだ。隣には小池が座っている。  小池は自身が座るはずだった窓際の席を譲り、いささか窮屈であろう真ん中の挟まれた席を選んだ。昭和18年生まれの小池からみれば、私は息子ぐらいの年齢に違いない。そんな同行者にも細やかな気遣いと心配りを示す。その姿勢は、小池が他人のことを考える余裕さえないだろうと思われる状況でさえ、不変であり続けた。  これまでに多くの経営者、実業家、起業家と呼ばれる人物の素顔を、少なからず見てきたつもりだった。ほとんどの者は、自身を取り巻く環境や目指す道が好調な時には他人を気遣う余裕と鷹揚さを示すが、いったん状況が一変するや、常々の紳士淑女ぶりが、いかに仮面にしか過ぎなかったのかを教えてくれた。  小池と共にブリュッセルを旅し、彼を深く知った。その後に小池は、この連載で触れたように、人生で最大の苦境に直面した。そんな時でさえ、小池は他者に優しく接した。自分自身を厳しく律していた。 「いや、それは違う。小池はそんな立派な人物ではない。企業を脅して生きてきた卑劣な総会屋なのだ」――。こんな非難の声があるかもしれない。だが私は仮にその指摘が事実だったとしても、私が信じる小池の「素顔」と矛盾するとは考えない。  小池は人間としての芯が強い。それは生まれ持っての部分がある。だが、それだけではない。おそらく侮蔑を含んだ声で世間から「総会屋」と呼ばれた前半生の経験によって、生まれながらの素質を更に強化したのだ。  いや、脱線してしまったかもしれない。旅の話に戻ろう。我々はレアル・ルサールに会うために飛び立った。  自身が絵画を愛好するだけでなく、小池はルサールの騒動を日本側から描いたノンフィクション『銀座の怪人』(七尾和晃・講談社BIZ)を読んでいた。そして六本木の麻布警察署向かいにある老舗の洋菓子店「クローバー」2階の喫茶室で、ヨーロッパを訪ねてレアル・ルサールに会ってみたいのだと小池から告げられたのだった。 「わたしはね、企業の表と裏をずっと見てきた男です。経営者の表と裏もね。真作も贋作も紙一重であること、いや本当はどっちも同じであること、そんなことをおそらく誰よりも見てきたかもしれない。人間という贋作に大変に興味があるのです。会って話をしてみたいのです。もしよろしければ、通訳をしていただけませんか」  そして私も小池と共にブリュッセルへと向かうことになった。贋作作家レアル・ルサールもまた、小池同様に渦中の人となったことがある。映画監督オーソン・ウェルズが『フェイク』としてドキュメントフィルム化するモデルとなった「ルグロ事件」の陰の主人公だった人物だ。しかも、そのルグロ事件は日本とも無縁でもなかった。今や忘れ去られて久しいが、日本でもいまだに、このルグロ事件の顚末はそのすべてが詳らかにされることなく、時間のなかで曖昧模糊に伏せられ続けているのだ。  私が小池の〝代理〟としてルサールに連絡をとると、日本からの来客を歓迎すると言い、もし来るのであれば、アフリカ大陸モロッコにある自身のアトリエにもぜひ案内したいと言ってきた。

 まずはブリュッセルにあるルサールの自宅に向かい、その後、モロッコのアトリエを訪れる計画を立て、飛行機のチケットを手配した。かくしてルサールを訪ねる旅が始まった。

■国立西洋美術館にも激震を発生させたルサールの「本物の贋作」

 1966年、日本――。参議院文教委員会での社会党・小林武の質疑をきっかけに、東京・上野を舞台にした贋作疑惑に火が付いていた。フランス人画商・ルグロから国立西洋美術館が購入した三点の西洋画が贋作ではないかというものだった。  アンドレ・ドランの『ロンドンの橋』、ラウル・デュフィの『アンジュ湾』、アメデオ・モディリアーニの『女の顔』だ。国立美術館が購入に2600万円の国費を費やしていた。真贋の追求を免れるはずはない。  3年の月日をかけた調査は結局、「真作とするには疑わしい点が多いといわざるをえない」と、歯切れの悪い文化庁の「灰色宣言」で決着した。国立西洋美術館は1971年、コメントを発表する。 「まことに申し訳ない。責任のない、タチの悪い画商につかまったのが間違いだった。私自身、これらの作品を買うときに選定にあたったわけで、その時は『できが悪い線だな』と感じていたが、あえて発言しなかった。」(山田智三郎館長)  文化庁の出した「灰色宣言」によって騒動は終わりか、と思われた。ところが、この3点の絵画は85年に突如、「クロ」を宣告される。カナダ人画家のルサールが、画の作者であると名乗り出たのだった。  ルサールはルグロ事件の真相を自ら綴り、フランス国内でベストセラーとなった。94年には日本語版『贋作への情熱』(レアル・ルサール著・鎌田真由美訳・中央公論社)も刊行される。ルサールは67年、ルグロに国際逮捕状が執行されて以来、じっと息を潜めてきたのだ。  そうして全貌が明らかになったルサールの贋作だったが、その〝作品群〟は前・後期印象派、ブラマンク、ローランサン、モディリアーニ、マティスと、世界市場で値の張る有名画家の全てを嘗め尽くした。

 日本では国立西洋美術館のほかに、私立美術館にも贋作画商たるルグロの手によってルサールの贋作が持ち込まれていた。ルグロはルサールの特異な才能を見抜くや、60~70年代にかけ、多くの有名画家を真似た絵を、まだ青年だったルサールに「模写」や「習作」として大量に描かせていた。

<僕は自分にインスピレーションを与えてくれた画家たちの背後に、「自分らしさ」を探していた。そして毎回彼らのテクニックは僕のものとなった。画家のスタイルを試しながら彼の作品を頭に描いては自問した、「なぜ、彼はそうしたのか」と。僕はそのしぐさやテクニックを再現してみて、それが完全にできるようになると、どうしたらもっとよくなるか研究した。(『贋作への情熱』より)>

 ルサールは、癖や筆使いのまったく異なる画家の絵でも瞬時に真似できてしまう、特異な才能を持っていた。85年に贋作画家として名乗り出る以前には、ルサールの贋作は時に鑑定の第一人者・ウィルデンシュタインやパシッティはおろか、著名な国債競売会社・サザビーズのチェックさえ堂々とすり抜け、世界中の国公私立の美術館に流れていった。  驚くことにルサールの〝巧さ〟は、巨匠本人の目をもくらませた。生前、ヴァン・ドンゲンは自身の手で「若き日の作品」としてルサールの絵に自らのサインを描き入れ、アンドレ・ドランの未亡人は「夫の作品」として鑑定書まで発行していた。

 ところが、そうして制作された相当の数に上る画がどこに飾られているのかは、これまで大きな謎だった。日本でもその保管先の一部は分っていた。国立西洋美術館や大阪の個人収集家の手元にあった。だが、いまだにルグロ事件で世界に流れた贋作絵画の行方はそのほとんどがわからないままだった。

■小池隆一がルサールに会おうとした「理由」

 ルサールはブリュッセルのアトリエに小池を迎えた。  小池はそこに広がる光景に息を呑んだ様子だった。〝巨匠〟の絵がそこかしこに無造作に置かれている。  ピカソ、モディリアーニ、デュフィ、ドンゲン、そしてマティス、ローランサン……。不思議なことに、そのどれもが確かに模写を超え、1つの作品として生き生きと息づいているように見える。  ルサールの贋作が天才的にユニークだったのは、ルサールは同じ構図のコピーはしないことにあった。ルサールは巨匠の筆使いで、新しい構図を描いたのだ。つまり巨匠の〝新作〟が新たに流通することになる。  ルサールによれば、それは次のような作法だ。 〈巨匠の絵は何故、讃えられるのか――。独特の筆使いによって表現を試みた、いわば巨匠のエッセンスを「解釈」によって抽出し、他のキャンバスの上に未知の構図で甦らせる〉  だからこそ、それは構図を移した贋作ではなく、真作として流通できたのだろう。  実のところルサールは、日本人ジャーナリストの取材も受けている。その中でルサールは自身が書いた贋作の数を「5000枚」と答えた。更にジャーナリストと絵の在処を巡り、次のような応答があったという。 「今までに所在や行方がわかっているのはごくごく一部ですよね?」 「そう。日本では国立西洋美術館やブリヂストン美術館にあるし、その後、私が手記を出した後には世界中から何人かが、『あなたの描いたものではないか』といって手紙をくれたことがあった」 「描いた贋作の大多数が、その行方がわからないということは、今現在も流通している可能性がありますよね。鑑定書がついたまま……」 「そうだね。何枚かは分かっているけど、ほとんどはどこに行ってしまったかは、分からないね。ルグロの倉庫から気が付いたら全部なくなってしまっていたんだからね」  ルサールの描いた贋作は、米国の富豪コレクション、フォード財団やメドウズ財団にも購入・保管されていた。60年代から70年代にかけて、世界経済が戦後期から高度成長の好況期に突入しようとする時期、乾ききってひび割れた大地に焦がれた雨が浸み込むように、レアルの5000枚は貪欲に買い取られていった。  このジャーナリストが雑談に「昨日、列車でアムステルダムのゴッホ美術館に行ってきました」と話を振ると、ルサールは驚くべきことを口にした。 「ああ、あそこにも私の贋作が飾ってあったよ。4、5年前だったかな、その絵をみた瞬間、心臓が止まりそうになったよ。『あっ、ああっ』って。かつて描いた自分の絵があんなところに飾ってあったなんて。しばらく呆然と立ちつくしたんだ。あの絵を描いたときはある部分の筆使いに特徴を出したから自分でもよく覚えていたんだ」 「それ……美術館には教えたんですか?」 「いや、教えなかったよ、結局ね。今でも飾ってあると思うよ。ゴッホのレゾネ(図録)にも載っている絵だからね」  そう言って、ルサールは静かに微笑んだ──。そして世紀の贋作画家、ルサールの横に、企業と経営者の表と裏、さらに言えば「企業家という贋作」とかつて対峙してきた小池が立った。 ルサールは5000枚に及ぶ贋作を書き上げた。わずか10年にも満たない短い時間で、だ。猛烈に、狂ったように描きあげていったに違いない。そこには強烈な動機があっただろう。尋常ではない集中力に人間を導くものがあるとすれば、それは決して「金」ではなく「本能に根ざした欲求」だ。

小池がルサールに会ってみたいと思ったのも、当然ながら単なる好事家が自慢話を増やすためではない。小池が無意識、本能的にルサールの人間性に共鳴を覚え、自分の姿と生き方にダブらせたからだった。

■総会屋として「デビュー」した小池隆一

 新潟から上京してきた小池が初めて総会に出たのは、25歳の頃だった。 「日本セメントの総会でね。それが初めて、総会に出たとき。そのときに『ぎちょー』って発言するために手を上げたら、他からも『ぎちょー』なんて聞こえてね。こっちも初めてだし、勝手がわからなくて、とにかく発言しないといけないから、『ぎちょー』って。そしたらどっかからも『ぎちょー』でね。それが、児玉だったんですよ」  児玉英三郎は、のちに関西では知らぬ者はいない総会屋としてその勇名を馳せることになるが、この日本セメントの総会で2人は初めて面識を得る。 「総会が終って挨拶したら、『私も初めてで』『いや、実はこっちもで』なんて会話になってね。それで児玉が『今後ともよろしゅうお願いしますー』なんて関西弁で言ってたことがあって、お互いに初めての総会デビューだったから、それをきっかけの付き合いになったんですよ」  後に児玉は山口組に入り、いわゆる武闘派としてもその名を轟かせる。94年の富士フィルム専務の襲撃事件では、背後関係で名前を囁かれるなど、一般社会でも畏怖される存在となった。  児玉が山口組へ入るきっかけも、実は総会にあった。 「なんの総会だったか……。児玉はある時、総会後に、その企業の与党総会屋にぼこぼこにされちゃったことがあったんですね。それで、この野郎、と悔しくて胸に期するものがあったんでしょうね。それから組に入っちゃったんですね」  児玉は関西で1、2を争う総会屋となり、西の児玉と呼ばれる。そして「西」があるのなら、東にも双璧を成す者がいるのが常だ。それは後に住吉会の本部長にまで駆けあがった五十嵐孝だった。 「西の児玉に、東の五十嵐」――。  小池は五十嵐ともひょんな事から縁が生まれ、この東西の両雄と知己を得る。東西のどちらにも顔が利く存在として、並みの総会屋から図抜ける素地を得たとも言えよう。  70年代の高度経済成長期の日本企業で、この東西両雄の総会屋から攻撃されなかった企業はなかったといってもいい。その両雄に小池は顔が利く。企業社会にとってはこれほどありがたい存在はないということになる。小池に話を通せば、それこそ、日本全国、どこでも話が通るということになるのだ。  両雄と互いを認める関係になるには、もちろんカネは関係ない。人間関係の素地が必要であることは、こうした世界でも当然だった。いや、むしろカネだけでは決着のつかない世界だからこそ、人間関係の機微が決定的に重要にもなる。  なぜ小池は裏社会からも信用を得ることができたのか。それを解き明かすため、少し長くなってしまうのだが、ちょっとした引用をさせて頂きたい。今となっては「最後の大物総会屋」と形容されることの多い小川薫の手記だ。当時、小池にとって小川は〝上司〟とでも言うべき存在だった。

 先に登場人物の註釈を書かせて頂くと、河島喜好氏は1947年に浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)を卒業し、本田技研工業の前身である本田技術研究所に入社。73年に本田宗一郎の後継者として、45歳で第2代のホンダ社長に就任、83年に退任した。2013年10月、85歳で死去している。

<四月二十四日、東京・大手町のサンケイ会館で、河島喜好社長の議長ではじまった株主総会。のちのホンダ、当時の本田技研工業は、過去最高の経常利益を上げるなど、順風満帆だった。  河島議長が、営業報告に入ろうとした瞬間、小池君が「議長」という鋭い声を出して立ち上がった。 「私、株主として、こんなことを議長さん以下役員の方々に言うのは、まことに失礼かと思いますけど、商法の第二四七条に、“著しく不公平な決議をした場合は、決議は適法に成立しない”というような条項もございます……。株主総会は、言うまでもなく、会社の最高の意思決定機関でありますので、株主総会においては、決して株主の発言を無視することなく、良心的なお答えをいただきたいということを、特にご要望申し上げて、二、三質問に入らせていただきます」  凄みのある前置きだ。総会屋の発言だと思って、甘くみるなよという恫喝だった。  質問に入って、小池君は、河島社長が二十一万株、川島副社長が四十八万株、自社株を持っていることを取り上げる。一般の取締役は株数が少ないのに、なぜ、代表権を持つ役員は株数が多いのか。そして、小池君は自分のところに投書がきているという。 「投書の話ですけど、おそらくこれ(河島氏の持ち株)は子会社あたりの株を名義書換で持っているのではないかとか、本田さん(創業者)がお人好しだから、かわいい、かわいいと言って、プレゼントしたんじゃないかとか、いろいろ書かれている……」  こうした執拗な質問に、河島社長は立ち往生しながらも 「私の個人的な問題でございますので、お答えしにくいのでございますが、いずれにしましても不正行為をもって、あるいはやましい行為を持ちましてこのようなこと(持ち株)になったのではございません」  そして、従業員持ち株制度がはじまったときに取得したこと、そのときの七百株が増資で増えたなどと説明する。しかし、そんな答えで引き下がる小池君ではなかった。 「その七百株が増えに増えて、二十何万株になったということか。増資、増資でこうなったということか」  と、畳み込んでいく。  河島社長は、銀行借り入れを「家屋敷を担保に入れて」行い、株を買い、増資に応じてきたと説明する。 小池「いつごろ、(担保に)入れてますか」 河島「ずっと、前からでございます」 小池「いまだに、入ってますか」 河島「いまだに、入ってます」  この河島氏の答えが致命的だった。そんな質問など、答える必要がないとでも言っておけばよかったのだ。  河島氏の答えは、小池君にとっては「思うツボ」だった。彼は一段と声を張り上げた。 「私、あなたをペテンにかけたわけじゃないけど、株主の皆さん、よく聞いて下さいよ。いま、社長は、家、屋敷を担保に入れてカネを借りたと言いましたよね(その通りの声あり)。私は、昨日、登記所に行って調べてきた。河島喜好、建物、所在練馬区石神井町五丁目……。木造平屋建て、十四坪八十二。宅地六十五坪四十三……。登記所に行って調べてきたけど、全然、担保に入ったことはないし、いま現在も入っていない。ウソを言ったんだ、あなたは。あなたは、私に株主総会という公然たる席で、ウソを言った! それ以上はあえて追及すると、いろいろ問題が出るから、僕は追及しない。ウソを言った。いいか、わかったか。それだけ言っておくぞ!」  小池君は勝ち誇ったように言った。  気の毒に河島議長は「私は事務的なことについてはよくわかりませんので、誤っておったと思います」元気のない声で答えていた。  しかし、小池君という男は、こんなことでは鉾を収めなかった。

 私はこのころでも小池君に、「ちょっと、やりすぎじゃないのか」と話したこともある。しかし、小池君は「社長、とことんやりましょう」と意気軒高だった>

 このとき小池は、小川企業株式会社の副社長職にあった。小池からみれば、小川はあくまでも「社長」、小川からすれば「小池君」という間柄になる。小川の回顧録の流れではしかし、小池が〝暴走〟しているかに見える。
 だが、後述するが、小池側の言を踏まえれば、状況は異なる様相を見せてくる。

(第5回につづく)