原文朗読『出雲国風土記』 Ⅱ意宇郡 ㈡郡名由来



(二)意宇郡の郡名<あらすじ>
意宇郡は、八束水臣津野命が、「八雲立つ出雲の国は、幅の狭い布のような幼い国。初めての国造りで、小さく作った。」とのこと。
① 新羅の三崎に、国土に余分が有る」として、乙女の胸のような鋤で、大きなトビウオを衝くように土地を切り取り、綱を掛け、「国よ来い、国よ来い!」手繰り寄せて来て、縫い逢わせた国土は、去豆の折絶から、島根半島西端の日御埼となった。この国を繋ぎ固めるために立てた杭は、石見国と出雲国との堺にある三瓶山。引いた綱は、薗の長浜である。
②「北門の佐伎国に、土地の余りがある」として、乙女の胸のような鋤で、土地を切り離し、綱を掛け、「国よ来い、国よ来い」手繰り寄せて、縫い合わせた土地は、多久の折絶から狭田の国である。
③「北方の良波の国に国の余りがある。」として、乙女の胸のような鋤で、土地を切り取り、綱を掛け、「国よ来い、国よ来い」手繰り寄せ、縫い合わせた国は、宇波折絶から闇見国である。
④「越の津津の三埼に、土地に余りがある」として、童女の胸のような鋤で、土地を切り離し、綱を掛け、「国よ来い、国よ来い」と手繰り寄せ、縫い合わせた土地が、三穂埼である。引いた綱は夜見島、繋ぎ固めるために立てた抗は、伯耆国の火神岳である。
最後に、国引きを終わると、意宇社に杖を突き立て、「意恵(おえ)」と言ったので、、意宇という地名になった。意宇社は、郡家の東北の田の中の小さい丘で、その上に木が茂っている。
◆なんとも、スケールの大きな気宇壮大な国造りの物語です。
◆意宇の杜伝承地付近に、万葉集の門部王(かどべのおおきみ)の歌碑が有るとの由。
・・・飫宇の海の 河原の千鳥 汝が鳴けば
吾が佐保川の 念ほゆらくに
(万葉集巻三-371)
  この歌碑をぜひ、訪れてみたいと思います。

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